いただいたお題「天の川」、「汗だく」より
兄のアトリエのエアコンが壊れたのは、七月も半ばのことだった。
幸いなことに、その時の私は半ば禊の邸宅に居候する形で彼の家から大学に通勤していた。私が気付かなければ禊は四十度を超えるサウナのような室内で絵を描き続けていたかと思うと怖気が走る。
問題はエアコンの修理だった。アトリエに私と末の弟である祓以外を入れたくない禊は、盛大に駄々を捏ねた。
「エアコンなんてなくても窓を開ければ大丈夫だよ!」
「あなた老人ですか……。令和の夏は猛暑を通り越して酷暑なんですよ。あんな部屋で過ごしていたら兄さんみたいな貧弱な人間は五秒で死にますよ」
兄はぶんぶんと首を横に振った。私は溜息をつき、小さな子供に言い聞かせるようにゆっくり禊に語りかけた。
「いいですか、エアコンは絶対に修理します。私が立ち会いますから、修理業者の人が絵に触れたり勝手に道具を触ることはありません。それなら大丈夫でしょう?」
「その間僕はどこにいればいいのさ……」
つん、と唇を尖らせてむくれる禊に思わず表情が緩みそうになるのを必死で堪える。兄をほとんど監禁に近い形で寝室に閉じ込めていた一年を経て、私は罪悪感と愛おしさのせいか酷く禊に甘くなっていた。
「……兄さん、もしよかったらどこかに泊まるのはどうです? 最近アトリエに篭りきりですし」
「え!? 旅行ってこと!?」
禊はさっきまでの不機嫌が嘘のように笑顔になり、切れ長の目を輝かせた。
「じゃあ皆で立里にあるペンションに泊まろうよ! 前から三人で行ってみたかったんだ!」
「……私と祓も行くんですか?」
私は兄の言っていることの意味がわからず眉を顰めた。普段私か祓が常に一緒にいるため、息抜きも兼ねて一人で行かせるつもりだったのだが。
「当たり前じゃないか。家族水入らずで行こう!」
「エアコンの修理は誰が見ておくんです」
「深山くんにでも頼めばいいんじゃない?」
────深山くん……まああの子は断らないだろうけど……。
私は相変わらず兄にいいように使われる深山に同情した。しかしあの男ならば間違っても誰かに禊の絵を触らせるようなことはしないだろう。兄の家の留守を任せるには適任である。
「兄さんが深山くんに連絡してくださいね。多分私が連絡するよりは喜ぶと思うので」
丁度私の勤める大学も夏休みで、授業はない。検視については予測がつかないので分からないが、一泊二日くらいならば梔子から離れてもいいだろう。
私が電話をすると、三男の祓は二つ返事で了承した。
『三人だけで旅行って何気に初めてじゃない?』
電話越しの祓の声が思いのほか浮ついていて私は驚いた。彼は面倒なこともイベントもあまり好きではないので、旅行に積極的なのは意外だった。
「まあ、場所は立里だからそんなに遠出ではありませんが……」
『ノリくんってば、場所は問題じゃないんだよ。三人で行くことに意味があるんじゃないの』
「……三人で行くことに?」
私は祓の言葉の意味を噛み砕こうと首を傾げて考えたが、答えに行き着く前に祓が言葉を続けた。
『前日の夜にみーさんの家に行くねえ。俺、朝だと寝坊しそう』
「わかりました。禊に伝えておきます」
電話を切りつつ禊の方を振り返ると、兄もちょうど深山への電話を終えたのか私の方を向いて笑顔で親指をぐっと上げてみせた。どうやら深山くんの快諾が得られたらしい。
それからエアコンの修理日兼旅行日まで、私は兄を灼熱のアトリエに入れないようにあの手この手で必死で阻止し続けた。幸いなことに禊は私に甘いので、少し甘えたように「兄さんと街に出かけたいな」などと宣えば満面の笑みで外出に応じた。
そして旅行当日の朝。私たちは訪ねてきた深山くんに鍵を預け、兄の愛車であるヴェゼルで立里まで向かった。
その日は快晴だった。夏らしい濃度の高い青を押し上げる入道雲を見て運転席の兄は嬉しそうに目を細めた。
「いい天気だね。嬉しいなあ」
「その分日差しは強いですけどね……」
祓は後部座席にだらしなくもたれ掛かり、途中のコンビニで買ったスナック菓子を口にしていた。祓がさくさくと菓子を咀嚼する音をBGMに、私と兄は目的地に着くまで他愛もない話をした。
私たちが泊まる予定のペンションは山の中にあった。砂利の敷かれた駐車場にヴェゼルを停め車から降りると、まるで神楽鈴を四方八方で鳴らしているかのような蝉の大合唱に出迎えられた。梔子にいる時は蝉の声など耳障りに感じていたが、山の上のひんやりした木陰の中で聴くと不思議と不快な音ではない。なんという蝉なのだろうか、などと耳を傾けていると、祓が「ノリくん早く」と急かしてきた。私が惚けている間に、祓と禊はいつの間にかペンションへと続く階段まで上っていた。私は慌てて二人の背中を追った。
そして階段を登った丘の上、フランスアンティークのドールハウスにも似た可愛らしい外装のペンションを前に、私は思わず感嘆の息を漏らした。禊が嬉しそうにこちらを見ている。サプライズ大成功、とでも言いたげな顔だ。
「……いいペンションですね」
「ねー、なんか外国っぽくて可愛いね」
祓も笑顔で同意した。禊を先頭に屋内へと入ると、オーナーである老年の男性が笑顔で迎えてくれた。白い髭を蓄えているからか、どこか懇意にしているギャラリーのオーナーである大槻さんを彷彿とさせた。
「ようこそいらっしゃいました。お部屋は二階になっております」
私はぐるりと家の中を見回した。プロヴァンス風の暖かみのある造りだ。白くコテむらのある漆喰の壁をそっと指でなぞる。床は素焼きのタイルで、テラコッタカラーが目に優しい。老後は禊と祓と三人でこんな家に住めたら────などと何十年先の暮らしさえ妄想してしまう。
「ノリくん、嬉しそーだねえ」
祓がにやにやと笑いながら脇腹をつついてくる。私は気恥ずかしくなってわざと真面目な顔つきを装った。
「ええ、とても好みの内装なので」
「若い頃はゴッホに憧れてアルルにいたんです。それで、その時住んでいた家を日本でも再現したんですよ。気に入っていただけて嬉しいです」
オーナーは目を細めて穏やかに笑った。
「ゴッホに憧れて────ということは、もしかして絵を描かれるんですか」
「もう随分と昔の話ですけどね」
彼は照れを隠すように顎髭をしきりに触った。
「もしよかったらお部屋も見てください。私が若い頃に描いたアルルの風景画を飾らせていただいております」
部屋の鍵を受け取り、荷物を抱えて二階へと上がる。階段の途中の窓から巨大な天体望遠鏡が遠目に見えた。天文台か何かがこの近くにあるのかもしれない。
禊が予約した部屋はトリプルなので、室内は広々としていた。ラベンダーと白を基調とした室内に、繊細な彫刻の入ったフレンチアンティークのベッドが三つ並んでいる。オーナーが描いたであろう絵はそのベッドの頭側の壁に飾ってあった。油彩だろう、大胆かつ迷いのない筆致でアルルの旧市街の奥にローヌ川が描かれている。
「いい絵だねえ」
禊はオーナーの絵を興味深そうに眺めた。
「この川はローヌ川かな」
「そうですね。……兄さんはまだプロヴァンス地方には行ったことがないんでしたっけ?」
兄は視線を絵に向けたまま少し困ったように笑った。
「僕はそもそも日本から一度も出たことがないよ」
私は目を丸くした。両親に可愛がられていた兄が海外旅行に行ったことがないのは意外だった。
しかし、よく考えると禊は子供の頃から旅行の前日に熱を出したりして家族旅行がキャンセルになることも多かった。私は大人になってからはどんなに忙しくても年に一度はフランスに行くが、アトリエに篭もりきりだった禊はあまり遠出をする気も起きなかったのかもしれない。
「────来年は一緒に行きましょう」
深く考える前にそう口走り、後から恥ずかしくなって私は眼鏡のテンプルを指で押し上げた。
「……ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し……って時代でもありませんし」
返答がないのでちらりと禊の顔を見ると、彼は顔を赤らめて俯いていた。
「……兄さん?」
「……いや、ごめん……ちょっとあまりに嬉しくて……」
照れる禊を見ていると私まで顔が熱くなってきて、私は慌てて荷解きをするふりをして兄に背を向けた。
「えっ、二人とも真っ赤じゃ〜ん」
末弟の揶揄いの言葉はあえて無視した。
三人とも荷解きを終えると、禊は窓の外を指さし「あそこの望遠鏡がある場所に歩いて行ってみようよ」と提案した。そもそも禊のための小旅行なので私と祓は特に異論もなく、オーナーに声をかけてから三人でペンションを出た。
どうやら目的地はペンションのある丘を下り、また別の丘の上にあるようだった。折角避暑に訪れたというのに、令和の情け容赦のない日光を浴びながら三人で汗を流しつつ向かった。忘れがちになるが禊は齢四十二、私も既に三十代を終えようとしている年齢である。なぜか一番若い祓が最も息を切らしていたが、おそらく日頃の運動不足が祟っているのだろう。
大きな天体望遠鏡がようやく近くに見えてくると不思議と足取りが軽くなり、私たちは言葉少なに建物へと歩みを進めた。
「立里科学館」────古ぼけた看板にはそう記されている。暗いので閉館しているのかと思ったが、恐る恐るガラス戸を開けるとひんやりと冷房の風が押し寄せてきた。私たちは三人で顔を見合わせて、屋内へと足を踏み入れた。
受付には中年の女性が座っていた。退屈そうに遠くを見ていた彼女は、私たちを見るとぱっと笑顔を浮かべ椅子から立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。あの、三人なんですが」
「入館は無料なのでご自由に見て回ってください。二階に上がるとプラネタリウムがありますよ。丁度あと五分後に投影が始まります」
禊が興味を示したので、三人で階段を上り二階のプラネタリウムへと向かった。
科学館自体は年季が入っていたが、プラネタリウムの設備は思いのほか新しかった。薄暗い室内にあるリクライニングのシートに三人で並んで座ると、待っていたかのように部屋の電気が落とされた。
────この度は立里科学館にお越しいただき誠にありがとうございます。投影時間は十分間です。ごゆっくりとお楽しみください────。
アナウンスの後、スクリーンに満天の星空が映し出された。立里の夜空だろうか。天の川がくっきりと浮かんでいる。
私たちの住む梔子市はそれなりに都会なので、こんなに鮮明に天の川を見ることはできない。
やがて夏の星座の説明が始まる。夏の大三角、ベガにアルタイル、デネブ────。
アナウンスに聴き入っていると、右隣に座る兄がそっと私の手に触れた。私はそれに応え、彼の手を握る。左隣の祓は眠そうに薄目でスクリーンを見上げていた。
「綺麗だね」
小声で兄が言った。私は無言で頷いた。暫くは手を握り合ったまま静かにスクリーンの夜空を眺めていたが、左隣から祓の大きないびきが聞こえてきたので思わず左手で祓の肩を叩いた。
「……やべ、寝てたぁ」
あ祓は眠たそうに瞼を指で擦ると、私たちの握った手を見て目を丸くした。「ノリくん俺とも手繋いでぇ」
私は祓の嬉しそうな声音に呆れたが、兄と手を繋いでいたことを揶揄わない彼の優しさに感謝もしていた。左手を差し出すと、祓は私の手をそっと握った。
その後投影が終わるまでの間、私たちはなぜか三人仲良く手を繋いだまま夏の星座を眺め続けていた。
一階に下りてアポロ十一号の月面着陸船であるイーグル号の実物大模型や真空落下実験装置などのいかにも科学館らしい展示物を一通り見て回ると、夕食の時刻が近づいていることに気付いて慌てて科学館を後にした。時刻は六時を回っていたが、外はまだ昼間のように明るかった。田舎の夏らしい日の長さだ。
行きと同じように汗だくになりながらペンションに戻ると、エプロン姿のオーナーが丁度キッチンから顔を出した。
「おかえりなさいませ。あと三十分ほどでご夕食が出来ますので、ご用事がお済みになりましたら一階の食堂にお越しください」
「やったぁ。お腹ペコペコ」
祓は汗を拭いつつも食事と聞いて嬉しそうに頬を緩めた。
「先にシャワー浴びたいな」
禊の言葉に私も頷いた。汗で服が肌に張りついている。シャワーを浴びて着替えてから夕食にしたい。
バスルームは一階の共用の浴室と、部屋に備え付けられたユニットバスの二種類があった。私たち以外の客は居ない上に祓はユニットバスでいいと言ったので、私と禊は共用の浴室に着替えを持って向かった。
脱衣所で禊が結っていた髪を解くのを見て、私はその長い黒髪を掻き分けて項へと触れた。
「……ノリくん、今は駄目だよ」
「……少しだけ」
兄の火照った体を後ろから抱きしめ、いつもより血色のいい肌に唇をつける。汗と、薄らと漂うベルガモットの香りに悪戯に劣情を煽られる。
「……ねえ、本当に駄目だよ。すぐ夕食だし……」
窘めつつも、禊の声にはどこか甘さが含まれていた。
「……キスだけ……駄目ですか?」
細い腰を抱き締めながら耳元で囁くと、兄は戸惑い混じりに頷いた。しっとりと汗ばむ髪を指で撫で、兄の頬に手を添えて薄く開いた唇に口付ける。炎天下の外を歩いたせいかいつもより触れ合う部分が熱い気がする。しかし舌を入れようとすると肩を押され、体を引き離された。
「もう、駄目って言ってるじゃないか。旅行中はそういうのは無し!」
呆れ混じりにそう言って兄が足早にバスルームに入って行ってしまったので、私も諦めざるを得なくなった。
行水に近い入浴を終え、部屋着に着替えて二階に戻るとちょうど祓もシャワーを浴び終えたところだった。
「ねえ、早く夕飯食べに行こう」
「ふふ、お腹空いたねえ」
歓談しつつ三人で一階の食堂へと向かう。白いクロスの敷かれたテーブルの上には三人分のカトラリーが綺麗に並べてあった。
食事はコース制で、オーナー自らが作ったプロヴァンス地方の料理が前菜から順に提供された。
夏野菜のタプナードから始まり、冷製のラタトゥイユにカサゴのブイヤベース、たまねぎとアンチョビがたっぷり載ったピサラディエール……オーナーの料理の手腕は勿論のこと、空腹も手伝って私たちはあっという間にデザートの林檎のタルトまで平らげてしまった。ちなみに私がブイヤベースを特に気に入ったと言うと禊はすかさずオーナーにレシピを聞きに行っていた。私がフランス好きなせいで禊の作る料理のレパートリーは軒並みフレンチである。
夕食後は部屋にあったソファに座り、三人で寛いだ。棚に置かれていた古い音楽雑誌を雑に捲りながら、祓がふと口を開いた。
「みーさんの家のエアコンが壊れてよかったぁ」
「まあ、よくはないですけどね……」
私はサウナのようなアトリエで一心不乱に絵を描く禊を思い出し、溜息をついた。祓はそんな私を見てなぜか愉快そうにくすくすと笑い声を零した。
「いいや、よかったよ!三人で旅行に来れたんだもん」
「そうだね。よかったかもね」
禊も祓の言葉に大きく頷いた。
「だって初めてだよ、三人でこんな風に泊まるの」
「……確かに……禊の家に泊まることはありましたが、外泊は一度も無かったですね」
「なんかさあ、三兄弟!って感じでよくない?こういうの」
祓は雑誌を閉じ、私と兄の顔を交互に見た。
私と禊は顔を見合せた。私たち長兄がただならぬ関係であるせいで、祓が疎外感を感じていたことには気付いていた。だが人間関係に器用な末弟はそれも気楽に受け流しているのだと、勝手に思い込んでいたのだ。
祓がきちんと寂しさを感じていて、そして今回三人での旅行にはしゃいでいるのは兄としては申し訳なくもありつつ、嬉しかった。
「────来年の五月なんですが」
私は壁に飾られたオーナーの絵に目を向けた。
「三人で行ってみませんか。フランスのプロヴァンス地方に」
「……俺も行っていいの?」
怖々と祓は尋ね返した。禊は祓の明るい茶色の髪の毛を優しく撫でた。
「勿論、三人で行こうよ」
「祓くん、それと兄さんも、パスポートの申請は私が手伝いますから近いうちにしておきましょう」
兄と私の言葉に、祓は表情を綻ばせた。弟のいつになく幼い無邪気な笑顔に、私もつられて笑みを浮かべた。
私たち三人は疎遠だった期間の穴埋めをするように、ベッドに入ってからも寝付くまで互いに喋り続けた。
────来年はアルルでこうして三人並んで眠るのだろう。
先に寝落ちてしまった兄と弟に目を向けて、私はそっと間接照明を消した。
おまけ
朝日の眩しさに目を覚ますと、鉛筆を走らせる音が聴こえてきた。ベッドサイドチェストに置いていた眼鏡を掛け、寝ぼけ眼を瞬かせる。兄はスケッチブックに鉛筆で絵を描いていた。部屋の窓から見える木々と、少し遠くにある科学館の天体望遠鏡が兄らしい繊細な筆致で描かれている。
「おはよう祈」
私に気付くと兄は手を止め、微笑んだ。私は好き勝手に跳ねる自分の髪の毛を手で撫で付けつつ、ベッドから立ち上がった。
「それは旅行の記念ですか?」
「ああ、それもあるけど……深山くんにお土産を買ってなかったと思ってね。旅の思い出を描いて渡そうと思って」
なるほど、深山ならばどんな土産物よりも禊の絵を渡した方が喜ぶだろう……最も、兄がそこまで計算しているとは思えないが。
「いいですね。もう少し深山くんを労ってあげてくださいね……」
「……祈が深山くんに優しいの珍しいね?」
────あなたがあまりに彼をこき使うから恋敵と言えど流石に同情してるんですよ。
……などという本音は言わず、私は怪訝な表情を浮かべる兄に向かって曖昧に微笑んでみせた。