いただいたお題「雨宿り」より
今日はお昼から激しい雨が降るでしょう、なんてテレビで流れていた天気予報と差し出された傘を敢えて拒絶したのは、残業続きで少しばかり気が立っていたからだ。水を含んで体に纏わりついてくるシャツにうんざりしつつ、シャッターの閉まっている煙草屋の軒下へと駆け込んだ。
軒下には先客がいた。その薄青の瞳と視線がかち合った途端、都は踵を返して土砂降りの中へと走って戻ろうとする。
「ちょいちょいちょい! 待って待ってそんな逃げなくてもいいじゃん!」
肩を掴まれ、無理矢理軒下に引き戻された。チッ、と聞こえるように大きく舌打ちをするも、目の前の男────伊妻冬吾は何処吹く風でへらりと八重歯を見せて笑う。
「偶然だねぇ都ちゃん。都ちゃんも雨宿り?」
「殺されたくないなら黙っていろ」
都はアーモンド型の瞳を細め、殺意を込めて伊妻を睨んだ。都は伊妻の共犯者だが、彼のことが好きではなかった。なんなら嫌いと言っても過言ではない。女性を弄んで殺害するこの男は都にとっては本来嫌悪の対象であり、ありとあらゆる拷問を加えてから命を奪ってやりたい相手だ。それでも殺さず、あまつさえ証拠隠滅の手助けをしているのは伊妻の親友である菰野乃木のことを都が好いているからに他ならない。
物静かで品があり博識な菰野乃木がなぜこの下劣で品性のない伊妻を愛しているのかは分からないが、愛情の類を忌避している都から見ても明らかに菰野乃木と伊妻は二人だけの世界にいて、互いの存在なしには生きていけませんとそれぞれの顔に大きく書いてある。そのため、都はほとんど菰野乃木の身体の一部のような気持ちで伊妻のことを切り捨てられずにいた。
伊妻は暫く上着やジーンズのポケットをまさぐっていたが、やがてジーンズの後ろのポケットから白いハンカチを取り出し、都に差し出した。
「はい。俺はノギさんがタオル持って迎えにきてくれるから都ちゃんはこれ使いなよ」
「なァんで俺が手前の施しを受けなきゃならねえんだよ!」
エーッ?などとキャラクターめいたオーバーな反応をしつつ伊妻は眉を下げる。
「友達に施しも何もないでしょ? 見返りなんて求めてないよぉ」
ほら、と半ば無理矢理ハンカチを押し付けられ、都は渋々それを受け取った。「T」というアルファベットが空色の糸で刺繍された、やけに手触りのいいハンカチである。
「……このハンカチ、菰野乃木か?」
濡れた腕をそっと拭きつつ尋ねると、伊妻は分かりやすくその顔に喜色を滲ませた。
「んふふ、やっぱり分かる?」
「ズボラな手前が丁寧にアイロンまで掛けて大切に持ち歩くハンカチなんて菰野乃木からのプレゼント以外考えられないからな」
「さすが都ちゃん! 名探偵だねえ」
くすくすと笑う伊妻はやけに楽しそうで、見返りこそ求められていないもののハンカチを渡してきたのはただの自慢ではないかと鼻白む。
「……俺が洗って返す、って言ったらどうするんだ?」
「都ちゃんはきちんと返してくれる人だから貸したんだよ。返してくれなさそうな人に貸さないよ俺は」
そう言って伊妻は蛇のように目を細めた。
伊妻は自身が都に嫌われていることを分かっていながら、こうやって都への信頼を強調してみせることがある。────気色が悪ぃ野郎だ。
都は溜息をつき、未だバケツをひっくり返したように降り続ける雨の空を見詰めた。
「夕立だからきっとすぐに止むよ」
「……」
通りを一本挟んで向こうの道から、黒い蝙蝠傘が見えた。次いで雨の中でも血に濡れたように鮮やかな赤い髪────菰野乃木が音もなくこちらに向かってくる。
「ノギさーん、ありがと!」
「全く……傘を持っていけと言ったのに」
伊妻は軒下から飛び跳ねるように軽快な足取りで菰野乃木の傘の下へと移った。菰野乃木は手にもう一本傘を持っていたが、伊妻がそれを受け取ろうとする様子はなかった。
「その傘は都ちゃんに貸してあげて」
「そうだな。都、これを使え」
差し出された傘を、都は逡巡の後に断った。
「いい。俺もすぐに迎えが来ると思うから」
「大丈夫なの?」
都は無言で頷いた。あの男はきっと都の服か持ち物のどこかにGPSを着けているはずだ。だから数分以内にはこの場所に迎えに来るだろう。
「さっさと行け、暑苦しい」
しっしっ、と犬でも追い払うかのように都が掌を振ると、伊妻と菰野乃木は一本の傘の下で寄り添いつつ、駅の方角へと去っていった。
────伊妻の野郎が傘を受け取らなかったのは、相合傘の口実か。
計算高いのかいじらしいのかよく分からない男だ。そんなことなら菰野乃木に想いを伝えてしまえばいいものを。
しかし、同性相手に恋情を伝えることの難しさは都が一番よくわかっていた。田子谷のように恥ずかしげもなく熱烈に愛を伝えてくる相手がいるのは稀有で恵まれていることなのかもしれない────などと考えていると、タイミングよく緑の傘が視界に入った。
「優作さん!」
バスタオルを小脇に抱え、田子谷が小走りでこちらに向かってくる。
「遅えよバァカ」
都は錆びたシャッターに寄りかかったまま舌打ちをした。
「すみません! 寒かったでしょう……お体が冷たくなっていますよ」
洗いざらしの柔らかなバスタオルに包まれ、その上から冷えた体を抱きしめられる。
普段ならすげなく振り払うところだが、家を出る前に不機嫌な態度を取っていたせいか拒絶できなかった。そっと田子谷の背中に手を添えて、頭を田子谷の肩に預ける。
「……ごめん。傘要らねえとか言って」
「いいえ、優作さんは悪くありません。俺は一緒に散歩ができるからむしろ嬉しいです!」
雨の中でも曇ることのないヘーゼル色の瞳はまるで太陽のようだ。都は気恥ずかしさに目を逸らした。
「明日は駅前のケーキ屋に行っていいか? 知り合いにハンカチ借りちまったから菓子と一緒に返したくて」
「いいですね! 仲の良いお友達なんですか?」
田子谷の問いに都は露骨に眉を顰め、大きく被りを振った。
「いや、すごく嫌いな知り合いだ。……でもまァ、アイツに比べて俺は恵まれてんなって実感したから哀れみも兼ねて菓子をやろうと思って」
都がそう言って小さく笑うと、田子谷はきょとんとした顔で不思議そうに瞬きをした。
雲の切れ間からは薄橙の夕陽が差し込み始めていた。