肉と眼球




二月九日 菰野乃木こののぎ



学校から帰って玄関を開けると、途端にふわりと香ばしく甘い匂いが漂ってきた。おそらく父が食事を用意しているのだろう。

いつもより早い夕餉の支度を不思議に感じつつも、とりあえず靴を脱いで揃え、リビングへ続く扉を開けた。

「お誕生日おめでとう、佳史けいし

破裂音と共に、焦げたような臭いが広がる。煙を上げるクラッカーを手に、エプロン姿の父が微笑んでいた。

「お父さん!……ありがとう」

少年は眉を下げ、照れたようにはにかんだ。昨日まで両親はなんともない素振りをしていたので、少年自身も自らの誕生日を失念していた。父も母も、毎年この日は必ず家族揃って祝ってくれる。両親から生まれてきたことを祝福される度、少年は自分が有り難く恵まれた環境にいることを実感した。

「佳史は大きくなったら何になりたい?」

「決まってるでしょ。お父さんみたいなすごい小説家になりたい!」

毎年恒例の父親の問いに、少年は去年と同じ返答をした。父は嬉しそうに頷いた。

「お前なら絶対なれるよ。母さんも言っていた。佳史は感受性が豊かだから作家に向いているって」

「ふふっ。僕、頑張るね」

────ふと、未だに母の姿が部屋の中に見えないことに気付く。少年は室内を見回し、父に問う。

「ねえ、お母さんは?」

「お母さんはもう待っているよ。さあ座って。特別なご馳走を用意したんだ」

父は急かすように彼を食卓に着かせた。誕生日のためにわざわざ用意したのか、テーブルには白いレースのテーブルクロスがかかっている。少年は戸惑いつつも椅子に座り、父の顔を見た。

「みんなで食べないの? お母さんもすぐ来るよね」

「……ああ。すぐ持ってくるから少し待っていろ」

父はそう告げるとキッチンへと向かった。少年は行儀よく椅子に腰掛けて料理が運ばれてくるのを待っていた。

濃く甘い匂いが鼻腔を擽る。今日の食事は特別?もしかして「ケーキ」というあのお菓子を用意しているのかもしれない。

同級生が話していたのを小耳に挟んだことがある。柔らかくて甘くて美味しいのだと。それはいつも食べる食事より美味しいのだろうか。 期待で胸が高鳴る。

しかし、父が少年の前に置いたのは普段と全く同じものだった。「ケーキ」ではないことに少し落胆しつつも、美味しそうな香りに空腹を刺激される。

「…………あれ?」

少年はふとその香りの中に僅かに混じる嗅ぎなれた匂いに気付いた。母に抱きしめられた時に淡く香る特徴的なアンバーとフィグ。確か母の使うシャンプーがそんな匂いだった。

────なんでお母さんは来ないの?いつもは全員揃ってご飯を食べるのに。

得体の知れない不安が襲ってきて、彼は唇を噛んだ。父の顔を見る勇気が無く、ただ俯いて自身の膝を見つめていた。

視線を下げたことで、少年はよく見るとテーブルクロスの縁に赤い染みが付着していることに気付いた。

ドクン、と大きく心臓が跳ねる。そんなおかしなことは有り得ない。分かってはいるのに、目の前の肉がなぜか母に重なって見える。  少年は人並外れた五感により恐ろしい確信を得ていたが、それよりも愛する父親を信じたい気持ちが勝った。

「……これ、豚だよね。いつもそうだって言ってたもんね」

父は少年の質問に答えず、彼の手にナイフとフォークを握らせた。

「食べてごらん」

手にした銀色に、父の暗い瞳が反射して映る。震える手で肉にナイフを入れようとするが、脳がこれを食べてはいけないとしきりに警鐘を鳴らす。

少年は拒絶するようにカトラリーをテーブルに置いた。

「僕……お母さんが来るまで待つよ」

「先に食べなさい」

「どの部屋にいるの?僕が呼んでくるから」

少年は椅子から降りようとしたが、父は彼の肩を掴んでそれを制止した。

「佳史は誕生日なんだからいいんだよ。さあ、食べるんだ」

普段穏やかで聡明な父は、乱暴に少年を椅子に座り直させると再び食器を手に握らせようとする。その目は血走って、手は熱く汗で濡れていた。少年は怯えて父から目を逸らす。

目の前にいるのは本当に自分の父親なのだろうか?

「いいか?お前は食べなければならない。父さんも母さんも今日のために準備をしてきたのだから」

「お母さんはどこ?ねえお父さん、答えて。これって何の肉なの?」

皿の上を指差すと、父は平然とした顔で言った。

「お母さんだよ」




十四年後 二月八日 『鈴木』



菰野乃木はレム睡眠による鮮明な悪夢から覚醒した。心臓がドクドクと激しく脈打っている。

ベッドのサイドテーブルに置いた時計の針は、短針も長針もほぼ真上を差していた。眠りについてからまだ三十分しか経っていない。

「……はあ」

溜息をついても、胸につかえた大きな苦しみは肺の底に滞留したままだった。心臓の鼓動と連動するように、喉元を真一文字に走る大きな傷痕がズキン、ズキンと鋭く痛む。

再び眠るにはあまりに酷い夢を見た。菰野乃木は逡巡の後にベッドから起き上がると、部屋の書棚から適当な本を選んでリビングへと向かった。

合皮で出来た安物のソファは巨躯である菰野乃木の体を支えるに耐え兼ねるのか、腰を下ろせばミシミシと嫌な音を立てて軋んだ。

手に収まるサイズの文庫本の無機質な表紙を撫でる。深呼吸をすると紙とインクの匂いが鼻腔に流れ込んできて、少しだけ呼吸が楽になった気がした。

本はいい。文字を追いかけている間は余計なことを考えずに済む。

菰野乃木が選んだ本はハンガリーの女性作家が記した古い小説で、幼い双子の少年が戦時下で強かに生きていく物語だった。何度も読んだ本なので展開はよく知っている。彼らは同い年の少年に怪我をさせ、小児性愛者の司祭をゆすり、隣人を殺し、物を盗んで生きていくのだ。決して神に祈らず、他人の命令は聞かない。

暫くは集中して読書を続けていたが、外に人の気配を感じて顔を上げた。近付いてくる人数は二人。

ソファに本を置いて立ち上がると、キッチンの戸棚から鞘付きのフルーツナイフを取り出してセーターの袖口に隠した。



伊妻いづまくぅん、大丈夫ぅ?」

伊妻は真横から纏わりつく甘ったるい声に辟易し、内心溜息をついた。酔わせて執拗にホテルに向かおうとする砂川を自宅に呼ぶからと説得してなんとかマンションまで連れてきたが、足元がふらつくせいで半分は女性である砂川に支えられている状態だった。

「うん。なんかごめんね、砂川すなかわさん」

「全然!むしろもっと頼ってよぉ。部屋、ここで合ってる?」

ぼやける視界に『鈴木』の表札を見出し、伊妻はかろうじて頷いた。

「ああ……」

「鍵どこ?私が出すよぉ」

無遠慮にズボンのポケットをまさぐられ、思わず顔を顰める。砂川の軽薄で尻軽そうなところは伊妻にとって好ましかったが、思いの外結婚願望を露骨に押し出してきたのでかなり気分が萎えていた。カクテル一杯で足元が覚束無くなったのも、この女が何か薬でも仕込んだのだろう。

がちゃりと音がして、突然玄関のドアが開いた。高い上背を窮屈そうに丸めた男が無表情でこちらを見下ろす。黒いニットに黒いズボン、履いている靴下まで黒く、髪だけが血を浴びた狼の毛皮のように赤い。死人のような顔色のせいで際立った濃い隈が、彼の不健康を示していた。乾いた暗い瞳がギロリと動いて伊妻を捉える。

砂川は男の仏頂面に怯えたのか、慌てて数歩後ずさった。

「えっ、あ、ごめんなさい部屋間違え……」

「ただいま!」

伊妻は砂川の言葉を遮るようにして男に抱きついた。背後で砂川が顔を引き攣らせる気配がしたが、気にせず体重をかけてしがみつく。

男からは煮詰めた飴のような焦げついた甘ったるい体臭がした。肺いっぱいにその匂いを吸い込み、安堵の息を吐く。

赤毛の男────菰野乃木は伊妻の背中を支えながら、呆れたように後ろ頭を搔いた。

「伊妻、大丈夫か?なんで酔う度に俺の家に来るんだ、お前は」

「別にいいじゃ~ん」

菰野乃木は大きなため息をつくと、くるりと振り返って砂川に向かって微笑みを向けた。

「……君が送ってくれたのか。そのまま帰すのも悪いから一旦中に入って。外は寒かっただろ?」

「あ、はいっ……」

砂川は顔を赤らめ、菰野乃木に笑みを返した。

菰野乃木は砂川が部屋の中に入ったのを確認し、後ろ手でドアの鍵をかける。そして伊妻を自分のベッドに乱暴に投げた後、ソファに座っている砂川の前に温かい紅茶の入ったカップを差し出した。

「何も聞かなかったけど、紅茶は嫌いじゃなかったかな?」

「いえ、好きですっ。ありがとうございます」

細い指でティーカップを摘む砂川を、目を細めて観察する。

長くウェーブした明るい茶髪、若く軽薄そうな態度、それとやけに化粧が濃い……夜の匂いのする女。いかにも伊妻の好みそうなタイプだ。

「君は伊妻と付き合ってるの?」

菰野乃木の質問に砂川はあからさまに頬を緩ませた。

「えぇっ?そう見えますかぁ?」

「仲が良さそうだったから」

適当に選んだ言葉に砂川は喜び、勝ち誇ったように笑う。

「まあ、職場は違いますけど、私も病院で働いてますからぁ。私は医療事務ですけどぉ」

「そうか。それで君から薬の臭いがするのか」

「えっ?そんなに分かります?やだぁ、お風呂入ったのにぃ」

自分の袖口を嗅ぐ砂川に菰野乃木は笑顔を向けた。

「いや、君からはDiorのジャドールオードパルファンとミルボンのシャンプー、牛肉、トマト、パプリカ、アスパラガス、小麦粉…あとニンニクとパセリ、香辛料、それと酒…主にはスクリュードライバーとカルーアミルクか? それに加えて少しだけ、伊妻からも感じる薬物の臭いがする」

「……え?」

砂川の表情が引き攣る。対する菰野乃木は笑顔を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「酒に薬を盛ったな。大方伊妻のスペックだけ見て既成事実でも作っておこうとしたんだろう」

「な……えっ?あ、あの私、帰ります……!」

砂川は怯えたように立ち上がったが、既に間合いを詰めた菰野乃木は背後から砂川の前髪を掴んでいた。

「えっ?……待っ」

言いかけた彼女の喉に袖口から出したフルーツナイフの刃を当て、横に引く。勢いよく噴き出した動脈血が床や壁に大量に鮮やかな色を付ける。

菰野乃木が手を離すと砂川の体は糸が切れた人形のように床に倒れ込んだ。小刻みに痙攣しながら、首からだくだくと溢れ出す血液がグレーの絨毯を赤く染めていく。

菰野乃木はフルーツナイフをテーブルに放り、血の広がりを防ぐため絨毯で乱雑に砂川の体を簀巻きにした。

「しかし、既成事実を作るにしてもコイツがお前に盛った筋弛緩薬なんかは勃起不全を引き起こしたりしないのか?俺は医学に明るくないから分からないが要は筋肉が弛緩するんだろう、伊妻?」

「……もしかして俺の股間を心配してる? 量とか場合によるけど筋弛緩薬なら薬剤性EDの原因としてないこともないかなあ」

伊妻はベッドにぐったりと横たわったまま、菰野乃木に向かって詫びの意味で片手を上げる。

「てかごめん、急に押しかけて……」

「構わん。友達は助け合うものだ」

菰野乃木は少し得意気に頷いた。彼の友人は伊妻だけなので、頼られると菰野乃木はどこか嬉しそうにする。

「う~……気持ち悪い……」

「ベッドに吐いたら殺す」

「友達なんだよね!?」

軽口を叩きつつも、菰野乃木はキッチンでグラスに水を注いで伊妻に手渡した。

「────しかし、なぜ薬の臭いに気付かなかったんだ?」

「いやなぜって、人間は普通筋弛緩薬の臭いなんて感じ取れないからね。ノギさんの鼻が特別なだけだから。っていうか女の子の香水とかシャンプー当てるのやめた方がいいよ、セクハラっぽいし」

伊妻の文句に菰野乃木は眉を顰めた。

「女は面倒臭い」

「そういう男尊女卑みたいなのもよくなぁい」

「馬鹿言え。俺は平等だ」

菰野乃木は大仰に肩をすくめる。

「男も女も好き嫌いせずにちゃんと食べてる」


菰野乃木はリビングの家具を壁際に寄せると、クローゼットから大判のブルーシートを取り出して床に広げた。腕まくりをし、絨毯ごと砂川の身体をブルーシートの上に乗せる。

彼女は首を真一文字に切られていたが、まだ僅かに息をしていた。血抜きのためには血液の循環を止めないために完全には殺さない方が効率が良いのである。

工具箱から手芸用の裁ち鋏を手に取り、砂川の着ているツイードのミニスカートと揃いのジャケットを足側から頭側へと一直線に裁断する。

下着は紐で留めるタイプの薄っぺらいショーツなので脱がせやすかったが、面倒な後ろホックのブラジャーは前中心を乱雑に鋏で切って体から剥ぎ取り、適当に床に放った。

ロープで砂川の両足首を一纏めに縛ると、天井に設置しているフックへと引っ掛けて体重をかけて引き上げ、逆さに吊るし上げた。金属のバケツを砂川の頭の真下に置いて、流れ出る血の受け皿にする。

「……あ」

菰野乃木はふと思い出し、キッチンからアイスピックを持って戻った。見開いたままの砂川の瞼を指で捲り、もう片方の手に持ったピックを眼窩の縁のあたりへとゆっくり突き刺した。

そのまま力を込めて手首を返すとズルリと音を立てながら眼球が外へと露出する。葡萄と同じくらいの脆さのそれを、傷付けないように慎重に手に載せて絡みついている視神経を鋏で切り離す。

両目とも摘出し終えると、菰野乃木は食器棚からジャムの空き瓶をひとつ取って眼球をその中に入れた。

少し悩んでからシンクの下に保管してあったホルマリン液のタンクを出し、眼球が浸る程度に瓶の中へと注ぎ入れる。そして瓶の蓋を締めて、食器棚の端に置いてからリビングへと戻った。

「おい、眼球は食器棚に──」

言いながら寝室を覗くと、伊妻はすうすうと穏やかに寝息を立てていた。

菰野乃木は口を噤むと寝室の電気を消し、音を立てないようにそっと扉を閉めた。




二月九日 『鈴木』



「いやー、やっとまともに体が動くようになったよ。昨日はベッド占領してごめんね? 菰野乃木さんはどこで寝たの?」

「……台所」

大きな伸びをする伊妻の顔色は昨夜と比べてかなりいい。薬の影響はあまり残っていないようで、菰野乃木は安堵した。

「えっ、寒くない?ソファ空いてたのに」

伊妻はインスタントコーヒーに湯を注ぐ菰野乃木を不思議そうに見つめた。菰野乃木はまだベッドに座っている伊妻の元へとコーヒーの入ったカップを持っていく。

「吉本ばななの『キッチン』を読んだことがないのか?」

伊妻は首を横に振った。

「ないよ!キッチンで寝る話なの?」

「そうだ」

「キッチンで寝る話なの!?」

「うるさい」

湯気の立つコーヒーを眼前に差し出すと伊妻はまだぶつくさと文句を言いつつもそれを受け取り、口に運んだ。かと思えば「熱っ」と呟き慌てて口から離している。伊妻は猫舌だが、毎回それを忘れて火傷をする。

「あっ、そういえばあの子の目は?」

コーヒーをちびちびと啜っていた伊妻は、突然思い出したらしく顔を上げた。菰野乃木はキッチンに戻ると、食器棚からジャムの小瓶を取り出して伊妻に渡した。

「保管しておいた」

「わーっありがと!助かるよ~!」

伊妻は瓶を持ち上げ、中に詰められたふたつの眼球を愛おしそうに眺めている。その様子を見て、菰野乃木は不思議そうに首を傾げた。

「お前のように、食べもせず眺めるために臓器を集める意味がわからない」

「あのさあ、コレクションっていうか趣味っていうか、要するにこれは俺にとって心の栄養なワケ。物理的に満たされたいわけじゃないよ」

心の栄養、というものは菰野乃木には考えたこともない概念だった。肉体に送る栄養素以外に必要なものがあるのか?そしてそれは人間を殺すことによるありとあらゆるリスクに勝る歓びなのか?

「生理的欲求から離れた欲望をなぜ人を殺してまで叶えたがるのか疑問だな」

首を傾げている菰野乃木を見て、伊妻は何がおかしいのかくすくすと笑った。

「菰野乃木さんは別に趣味で殺してるわけじゃないもんね。俺は死体が好きだからあんま理由とかいらないかな」

菰野乃木は伊妻がなぜ楽しそうなのか分からなかったが、わざわざ理由を尋ねるのも癪に思い「そうか」とだけ言ってリビングへと戻った。

昨夜の内に血を抜き終わった砂川の死体は細かく解体し、バスルームへと移していた。

「俺は予定があるから一旦家に帰る。お前はもう少しここで休め。合鍵をテーブルに置いておくから今度返せよ」

「無職のくせに予定あるの?」

伊妻は怪訝そうに目を細める。菰野乃木はハンガーラックに掛けていた黒い上着を着込むと、伊妻をちらりと一瞥した。

「父親の件で出版社から取材が来る」

伊妻は父親という言葉を聞いて途端に顔を強ばらせた。

「……受けて大丈夫なの、それ」

「ああ。『小説家』としての父親の話を聞くと言っていた」

菰野乃木は平然とした表情を装いそう言った。その白々しい態度に、伊妻は苦笑しながら頷いた。

「そっか。あんまり無理はしないでよ。あっ、そうだ。夜は空いてるよね?また来てもいい?」

「構わない」

伊妻はにこりと笑い、菰野乃木に向かって手を振った。菰野乃木は無言で手を振り返すと、部屋を出た。




同日 旧菰野乃木邸



「若くして悲劇的な死を遂げた天才小説家、菰野乃木こののぎ燈一とういち!あの事件で生き残った唯一の肉親に独占インタビューで在りし日の父親の姿を聞いた!これでいきたいんですよ僕は」

安藤あんどうと名乗った編集者の男は、興奮した様子で大きく身振り手振りをしながらそう言った。

すらりと背が高く、細いフレームのメガネがインテリ然とした三十代ほどの男である。彼の顔つきも喋り方も一見して悪人には見えなかったが、マルボロの臭いと共に漂うウッディなベチバーは男物の香水によるものだろうか? やけに湿っぽいその香料は、菰野乃木にほんのり嫌悪の念を抱かせた。

「そうですか」

菰野乃木は安藤に渡された名刺を指で摘みながら無感動に相槌を打つ。安藤は目を輝かせ、ずいと菰野乃木に顔を近づけた。

「取材、させていただけますよね?」

「アポイントメントはもらっていたので……そろそろ始めていただけますか」

淡々とした口調から菰野乃木の機嫌が悪いと勘違いしたのか、安藤の隣に控えていた女性編集者の塚本つかもとが笑顔で話に割って入った。

「このお部屋も菰野乃木燈一先生の書斎だったんですよね。本に囲まれた素敵なお部屋ですね」

「はあ」

「菰野乃木先生のお写真は有名なのでよく拝見しますが、佳史さんは見れば見るほどお顔がお父様にそっくりですね。もしかして文章を書くのもお好きなのでは?」

「いいえ全く」

すげない菰野乃木の態度に塚本は当惑し、大きな丸い瞳をぱちぱちと瞬かせた。

一通り喋ると安藤はようやく落ち着いたのか、塚本の隣、ちょうど菰野乃木の向かいに座った。

本格的な取材が始まることを察した塚本はテーブルの上に開いていたノートパソコンを手元に引き寄せる。

先程とは打って変わって冷静に、安藤が菰野乃木の顔を見つめた。

「それでは────佳史さんから見たお父様の印象は?すぐに思いつく範囲で構いませんので」

「……穏やかで愛情深かった。非常に家庭的な人で、家事なども率先してやっていました」

それは事実だった。父は仕事の傍ら掃除や洗濯を母と共に分担して行っていた。幼い菰野乃木が昼寝をしている横で二人が並んで座り、洗濯物を畳みながら談笑していた姿を思い出す。

「へえ、作家先生にしては珍しいですね」

「父にとって家事も趣味だったのだと思います。楽しそうでしたから」

菰野乃木の表情が僅かに緩んだのを見て塚本はほっと胸を撫で下ろした。対する安藤は何を考えているのか、眼鏡の奥の瞳を意味深に細める。

「料理とかもよくされた?」

安藤の言葉に菰野乃木は一瞬沈黙した。脳裏に皿に盛られた生の肉がちらつき、思わず黒のハイネックの上から首にある大きな傷痕をなぞる。

「……ええ」

「……菰野乃木さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いような……」

塚本が不安そうに菰野乃木の顔を覗き込んだ。

「……問題ありません。どうぞ続けてください」

「では続けますね。お父様の得意料理は何でしたか?」

安藤はにこやかにそう問うてくる。菰野乃木は親指の爪を噛み、俯いた。

「…………得意、料理」

父に得意料理などない。正確にはあったのかもしれないが、菰野乃木はそれを知らない。

「お料理……されてたんですよね?」

貼り付いたような安藤の笑顔が不気味に映り、菰野乃木は息を飲んだ。

「……そこまでは、よく……覚えていなくて」

「安藤さん、次の話題に行きましょう」

塚本が慌てて助け舟を出した。安藤は頷き、何事も無かったかのように話題を変えた。

「では、次にお父様との思い出について教えてください……」



二時間半近い取材が終わると、塚本はパソコンを閉じて菰野乃木に微笑みかけた。

「ありがとうございました。これでいい記事が書けそうです」

「お役に立てたのなら何よりです」

先程よりは顔色の戻った菰野乃木の様子に塚本は安堵しているようだった。初対面にも関わらず気を揉むあたり、根が親切な女性なのだろう。

「菰野乃木さんは、本当にお父様のことがお好きなんですね」

「ええ。とても好きでした」

菰野乃木は皮肉も込めてそう答え、口角の端を歪めた。



帰り際、安藤はふと扉の前で立ち止まった。

「……塚本くん、僕は菰野乃木さんにちょっとお話があるから先に車に乗っててくれるかな?」

「わかりました!」

パソコンや録音機材などを腕いっぱいに抱えた塚本の後ろ姿を見送ると、菰野乃木はにこにこと笑みを浮かべている安藤に視線を向けた。

「……話、とは?」

「────お父上の死についてあなたにお伝えしたいことがあります」

思わずぎょっとして、安藤の笑顔を凝視する。不吉な予感に動悸が激しくなるのを感じ、菰野乃木は唇を噛んだ。

「私は……当時、その現場にいました。あなたが私以上に何を知っていると言うんだ?」

「それがね、僕は警察も掴んでいない重大な事実を知っているんです」

安藤は菰野乃木の耳に顔を寄せ、ひそひそ声で囁いた。

「あなたが菰野乃木燈一を殺した……ッ!?」

安藤の言葉が終わるか終わらないかのうちに菰野乃木は安藤の喉に手をかけ、勢いよく背後の本棚に押しつけた。

揺れと共に棚に並んでいた本が何冊か床へと落ちる。

「どうやって知った?」

指に力を込めると、安藤の首からミシリと大きく肉の軋む音がした。彼は必死に藻掻いて菰野乃木の手首に爪を立てているが、いくら強く引っ掻いて傷をつけようと菰野乃木の手はびくともしなかった。

菰野乃木は尚も無感情に言葉を続けた。

「言え。どうやって知った?」

安藤は窒息で赤くなった顔で何度も左右に首を振った。彼のかけていた眼鏡がその拍子に外れ、絨毯の上へと転がった。

きつく絞めすぎて声が出せないことにようやく気付き、菰野乃木はほんの少しだけ手の力を緩めた。

「っ……げほ……ッ、……ポケット……ポケットに……っ」

安藤は自身のスーツのポケットを指差した。

菰野乃木は安藤を押さえつけたまま彼の服に手を入れ、ポケットの中から一枚の写真を取り出した。

安藤が持っていた写真には、伊妻と砂川が『鈴木』の部屋に入っていく姿が写されていた。

菰野乃木が思わず手を離すと、安藤は力なく床に座り込み、解放された喉元をさすった。

「はー、苦しかった……。バレてるって気付いてから殺すムーブに移るまでの速度ヤバいね。本当に死ぬかと思ったよ」

冷や汗を額に滲ませながらも安藤は勝ち誇ったように笑みを見せた。

「君がよく使うマンションの向かいの建物から撮ったんだ。伊妻冬吾の殺人の証拠は全てデータにとって集めてる。ああ、でも僕を殺せば万事解決とか思わないでね。僕が三日以上アクセスしなかったらネットにばら撒かれる手筈になってるから」

菰野乃木は再び親指の爪を噛みながら安藤を睨んだ。手指の爪を噛むのは彼が苛ついている時の癖だった。

「伊妻は……俺とは関係ない」

「そう? 君が十八歳の頃からずっと一緒にいるんだから全くの無関係ではないでしょ」

菰野乃木は低く唸った。

「そこまで調べているのか」

「お父さんのことや君のこと、もっとゆっくり話したいんだけど……今は仕事中だからさ。今夜迎えに来るよ」

安藤はそこまで言うと、床に落ちている眼鏡を手探りで拾って掛け直した。眼鏡のフレームは落ちた時の衝撃のせいで少し歪んでいた。

「安心して、今の時点で警察に言うつもりはないから。そのかわり、君も誰にもいわないでよ。もちろん伊妻にもね」

菰野乃木が無言で頷くと、安藤は満足気に笑みを浮かべた。




同日 梔子大学医学部附属病院 給湯室



昼休憩の間にメッセージアプリを確認すると、菰野乃木から今夜は都合が悪くなったと断りの文句が来ていた。

「なんだよ、無職のくせに〜」

胸のモヤつきと共に湯切りしていた焼きそばのカップを上下に大きく振ると、手が滑ってカップの蓋が開き、焼きそばの麺が全てシンクへと落下した。

「あ!も~、サイアク……」

「大丈夫ですかー?伊妻せんせぇ」

事務員の五島ごとうが後ろから顔を出した。さりげなく手が伊妻の背中に触れている。

────この子ワンチャンありそうだけど、職場が同じだから悩むなぁ。

伊妻は笑顔のまま、少しだけ五島と距離を取った。

「やあ五島ちゃん。また焼きそばの湯切りに失敗しちゃって」

「もー、何回目ですかあ」

五島はうふふ、と口元に手を当てて笑う。事務員だからできる長く艶やかな爪は好ましい。

五島は何かと周囲の女性看護師に「女」としてのマウントを取る。看護師は派手なネイルや濃い化粧が禁止なのをいいことに、ばっちりとしたメイクでわざと男性医師に近付いて香水の匂いを振り撒き、目配せしてみせる。それで周囲に勝ったつもりでいるのだから実に愚かで、そして伊妻にとっては魅力的な女性だった。

「じゃあ伊妻せんせぇ、お昼逃したぶん晩御飯は私と美味しいお店行きません?鉄板焼きだから焼きそばもありますよ」

「えーッ?どうしようかな」

伊妻はわざと視線を逸らし、悩む素振りを見せる。今夜はフリーだし、殺さなくても味見くらいはしてもいい。

「うーん、鉄板焼きはやめとく」

「……イヤですか?」

上目遣いで服の裾に触れてくる五島の指先に手を重ね、彼女の目をじっと見つめる。

「だって歯に青のりついたらキスする時カッコつかないでしょ。お店は俺が決めるよ」

「やだ、伊妻せんせぇったら!」

彼女は顔を赤らめ、伊妻の肩を軽く叩いた。

────もっと髪が明るくて化粧が濃ければ完璧なんだけど、昼職の女の子にそこまで求めるのは無理かな。

シンクに落ちた焼きそばを片付けながら伊妻はため息をついた。




同日 旧菰野乃木邸



菰野乃木は当惑していた。

安藤という編集者の男の言う通り、警察は事件の真相を知らない。

事件の日にあの場にいたのは自分と両親だけで、発見者である叔父が家に入ってきた時には父も母も既に死んでいた。

つまりあの日何が起こったのか知っているのはこの世に自分ただ一人のはずだった。


「お母さんだよ」

皿の上に置かれた肉の正体を知った時、十四歳の菰野乃木がとった行動は至って単純だった。

ただ絶望し、泣き喚いたのだ。

しかし父親は、息子の当然とも言える反応に酷く幻滅したようだった。「失敗だ」と何度も独り言を呟き、頭を掻き毟り、挙句顔を歪めてぼろぼろと涙を流した。

「仕方がない。私もお前も死ぬしかない。一緒にお母さんのところに行こう」

そう言って、父親はキッチンから肉切り包丁を持ってきた。

頭を床に押さえつけられ、抵抗する間もなく包丁の刃で喉を掻き切られた。

激しい痛みが走り、首からも喉の内側からも血が溢れて、こみ上げてくる自分の血潮で溺れた。

手で首を押さえても血は止まらず、窒息により朦朧とする意識の中で父の名を呼んだ。すると父親は包丁を取り落とし、泣きながら菰野乃木を抱きしめた。

父のとる行動の全ての意味がわからなかった。ただ母を殺された悲しみと、自身の死が近づく足音を感じていた。

────意識が遠のき力無く床に手を垂らした時、包丁の柄が指先に触れた。

気が付くと包丁を握り、父親の胸を突いていた。奥まで深く突き刺す程に父の口から血が溢れ、菰野乃木の顔を汚した。

左胸を貫かれた父親は驚いたように目を見開くと、やがて血に濡れた息子の頬を撫でて満面の笑みを浮かべた。

「佳史……!ずっと会いたかったよ」

そう叫ぶと、彼はあっけなく絶命した。

父親のその姿を見届けると、血の海の中で菰野乃木自身も倒れ込んだ。

父の亡骸に抱きしめられたまま全身の力が抜けていき、いよいよ自分も死ぬのだと思った。

────しかし菰野乃木は生き残った。偶然アメリカから帰国した叔父が二人を見つけ、救急車を呼んだのだ。目が覚ました時には首の傷も縫合されて病院のベッドの上にいた。


「中治り現象って知ってる?」

伊妻が病院で初めて菰野乃木を精密検査した時、結果を見ながら彼はそう尋ねてきた。

「……死期の近い人間が……一時的に回復したようになる……」

「そうそれ。脳がセロトニンやドーパミンを排出して寿命を延ばそうとすることで引き起こされる現象なんだけど、ノギさんはそれをもう何年もやってることになる。……実はアンタの脳波も脈拍も血液検査も、死んだ人間とほぼ同じ数値なんだよね。本当に人間なの?」

確かに菰野乃木は通常の人間とは明らかに異なっていた。

食性は人の肉とその内臓、体液のみで、他のものは体が拒絶して吐き戻す。

異様に嗅覚が鋭く、常軌を逸した怪力を持ち合わせ、そして驚くほど体が丈夫で致命傷を負ってもすぐには死なない。

「普通の人間の赤ちゃんに血液と人肉だけ与えたらすぐ死ぬと思うよ。でも菰野乃木さんはそれでも生きられた。多分体が過剰に適応しちゃったんだ。奇跡と呼ぶには多少残酷だけど、他に言葉が見つからないかな」

「……奇跡か」

確かに奇跡の連続だった。タイミングよく帰国してきた叔父が家に来て菰野乃木を発見したのも、その叔父が救命医だった為に適切な応急処置を受けて一命を取り留めたのも。

それに、警察は強盗が入ってきて両親を殺したという菰野乃木の出任せを信じているようだった。

まるで上手くできすぎたシナリオの上で踊らされているような半生だ。

そのシナリオの何をどうやって安藤が知ったのかは分からないが、とにかく今はなんとかして伊妻の殺人の証拠を隠滅する方法を探すしかない。

なんなら、刃物でも持ち出して安藤を脅迫した方が早いかもしれない。痛みで屈服するタイプであれば手っ取り早いのだが。



程なくして、家の前に車が停まる音がした。菰野乃木はその音を聞いてすぐ玄関から出ると、安藤が降りるより先に車のドアを開けて助手席に座った。

「君ってさ、潔いって言われない?」

ハンドルにもたれたまま安藤が苦笑した。

彼は昼に会った時はスーツ姿だったが、今はカジュアルなニット帽を被りカーキのキルティングジャケットを着ていた。相変わらずマルボロとベチバーの混ざった臭いが不愉快で、菰野乃木は少し顔を顰めた。

「言われない」

「僕は君の弱みを握ってる人間なのに、怖いとか緊張するとかそういうの無いの?」

「ない」

菰野乃木の短い返答に安藤は釈然としない様子だったが、諦めたように正面に向き直りハンドルを握った。


安藤はしばらく走った後、繁華街のコインパーキングに車を停めた。てっきり自宅にでも連れていかれるかと思っていたので菰野乃木としては拍子抜けだった。

「絶対僕を暴力で脅すつもりだったでしょ」

安藤はニヤニヤと意地悪く笑った。

「だから人が多いところの方が話しやすいと思って」

「なるほど。理にかなっている」

菰野乃木は他人事のように頷いた。人目の多いところでさすがに拷問はできない。

「ここから歩くのか?」

「店を取ってるから、一緒に行こうか。あっ分かってるよ食べられないのは!君は見てるだけでいいから」

渋い表情をした菰野乃木に安藤は慌てて弁解した。

「歩きながら少し話そうか。僕は菰野乃木燈一先生の著作の大ファンでね。中学の頃、その熱が余って先生のお宅に行ってみたことがあるんだ」

安藤は話しながら歓楽街の方向へと向かっていった。菰野乃木はその少し後ろを歩く。

「窓からそっと室内を覗き見ると、先生と奥さんがキッチンで話をしていた。泣いている先生を奥さんが慰めているようだったよ」

それは菰野乃木の知らない父と母の姿だった。父が泣くのを見たのは、自分を殺そうとしたあの時だけだ。

「やがて先生が包丁で奥さんの腹を刺して殺した。奥さんは一切抵抗していなかった。むしろ事切れるまでずっと先生の手を握っていたね……大丈夫? 顔色が悪いけど」

安藤の言葉の意味がわからず、菰野乃木は呆然と立ち止まった。

────母さんは抵抗しなかった?そんな、まるで同意の上で殺されたかのような……。

「先生は奥さんを解体して、あばら辺りの肉を削いだ。それをお皿に乗せたところで、君が家に帰ってきたんだ。先生は君を出迎えて……その先はわかるよね」

菰野乃木はこめかみを指で押さえた。頭が痛み、心臓の音が酷く煩わしかった。

「ずっと見ていて……何もしなかったのか?」

「まさか!君が先生を刺した後にすぐ駆け寄ったよ。君が生きていてすごく安心した。……それに警察が強盗の話を信じたのはなぜだと思う?僕が君の指紋の付着した包丁をよく拭いて、先生の調理の痕跡も隠してあげたからだよ」

「それよりお前が早く声でも上げていれば母さんは死ななかったかもしれない!」

声を荒げた菰野乃木に通行人の視線が集まる。

「まあ落ち着きなよ、ここで言い争っても目立つだけなんだから。……目立つの嫌いでしょ?」

安藤は再び歩き始めた。菰野乃木も後を追おうとしたが、体が鉛のように重い。足が動かない。

菰野乃木は父を憎む対象にすることでずっと精神を保ってきた。

自分に人の肉を食わせ続け、挙句母を殺したと────。

しかし、母が死んだのは同意の上だった。つまり母も父と共謀していたことになる。

考えれば当然のことだった。三人で同じ食卓に着いて菰野乃木だけ赤い肉の塊を食べていたのだから。

共犯だったのだ。両親に愛されていた自分も、父に母を殺された悲劇の子どもも全て幻想だった。

────俺はずっとその事実から目を背けてきた。分かっていたのに見ないようにしてきたんだ!

「ゔ……っ」

菰野乃木はよろめいて街路樹に手をついた。こみ上げてきた吐き気に思わずしゃがみこんで、近くの排水溝に嘔吐する。

菰野乃木の吐瀉物は赤黒くどろりとしていて、突然吐血したようにしか見えず目撃した通行人がざわめく。

安藤は冷静にそれを眺めていたが、腕時計を一瞥した後、さも慌てたような素振りで菰野乃木の傍に駆け寄った。

「大丈夫?ほら、肩に掴まって。座れるところ探そう。すぐ救急車呼ぶからね」

救急車を呼ぶ、という言葉に立ち止まっていた通行人たちが再び動き始めた。

「びっくりした。生肉と血だけ摂取してるとゲロも赤いんだね」

安藤は菰野乃木の耳元で小声で囁く。菰野乃木は険しい顔で背中に添えられた安藤の手を振り払った。

「自分で……歩ける……」

「そう?ならいいけど。ほらこっち。もうすぐ着くから」

安藤の指差す先にあるのは雑居ビルの二階に入っているイタリアン料理の店だった。遠くからでも鼻腔を突く大蒜や玉葱の臭いに、再び吐き気が戻ってくるのを感じる。

「……こんな店には入りたくない」

「何度か来たけどいいお店だよ。君には臭いがキツいでしょ?だからわざとこの店にしたんだ」

安藤は白い歯を見せて笑うと、足取りが重くなった菰野乃木の手首を掴み、引っ張るようにして店の方へ誘導する。


店内は間接照明で薄暗く、半分バーのような雰囲気だった。

自分たち以外の客はカップルと思しき一組しかおらず、店員は安藤が名前を告げると通りに面した窓際の席にふたりを通した。

「何頼む?」

「食べられない」

「わかってるって。でも見せかけだけでも頼まなきゃ怪しまれるよ?ばれてもいいの、食人鬼だって」

「……そんなこと言われても、人間の食べ物は俺には分からない」

「んふふ、『人間の食べ物』……って、まるで菰野乃木くんは人間じゃないみたいでいいね」

菰野乃木は当惑気味に首を横に振った。安藤は店員を呼び止め、適当に同じものを二人前注文した。

普段から死人のような菰野乃木の顔色は更に血の気が引いていて、苦しそうに眉根が顰められていた。

安藤はテーブルに頬杖をつきながら、その様子を嬉しそうに眺める。

「大丈夫?かなり気分が悪そうだね。僕はすっごく気分がいいけどな。あの菰野乃木佳史とデートしてるなんて」

「デートとは……恋人同士でするものではないのか」

菰野乃木の問いに安藤は甲高い笑い声を上げた。

「あはは、冗談だよ!本気にしないで。……それでなんで僕が君の殺人の証拠を隠滅してあげたかというとね、あの日君が先生を殺す姿を見て、君のファンになっちゃったんだ」

「ファン?」

「そう。ファンだよ。君は菰野乃木燈一先生の最後にして最高の作品だよ。生粋の殺人鬼────人を殺さなきゃ生きていけない化け物。僕はそこに魅了された。だから、君を守らなきゃって思ったんだ」

菰野乃木は安藤の言葉を理解しようと頭の中で反芻した。

ファン……殺人鬼……魅了……守る……。

そのどれもがこの状況と繋がりを持たず、どれだけ考えても意味をなさなかった。

「簡潔に言え、お前の目的は何だ」

菰野乃木の問いに、安藤は頬杖をついたままにやにやと笑みを浮かべた。

「うーん……今風に言うと『推し活』っていうのかな……君の活動をもっと近くから見守りたいんだよ」

店員が酒のグラスを運んでくる。安藤は礼を言ってそれを受け取った。

菰野乃木は、店員が去っていくのを確認してから再び口を開いた。

「それがどうして俺を脅す理由になる」

「脅しっていうか、説得かな?……伊妻冬吾ってさ、君の人生に必要かな」

安藤の言葉の意図を汲みかね、菰野乃木は首を傾げた。

「友達に必要も不必要もない」

「ああ、ごめんねそうじゃなくて……友達に奴は相応しくないんじゃないの?君は何度もあいつを助けているけど、あいつが君を助けたことがある?いいように利用されてるだけじゃない。それに殺した人数も、殺す理由も、君と伊妻は殺人鬼としての格が違うでしょ」

苛立っているのか安藤は椅子の下でしきりに脚を揺すっていた。菰野乃木には、なぜ安藤が自分の交友関係に口を出すのか全く分からなかった。

「俺は助けてほしくて伊妻と一緒にいる訳じゃない。それに殺人鬼の『格』とはなんだ? お前の勝手な価値観で俺の友達を侮辱するな」

「なんでわかってくれないのかな、あんなのと一緒にいたら君の価値が下がるんだよ」

安藤の声は大きくはなかったが、苛立ちによりヒステリックに響いた。

厨房で調理をしていた店員が不思議そうにこちらを振り返っている。

「君には殺人鬼として完璧でいてほしいんだよ。ずっと陰から見守ってきたけどもう限界だ。あんな奴とは縁を切るべきだよ」

「なぜお前は十四年も見てきて今更……」

菰野乃木はそこまで言って、口を開けたまま黙り込んだ。彼の視線は店の入口に釘付けになっていた。

安藤は菰野乃木の視線を追い、絶句した。

ちょうど店の中に背の高い金髪の男が若い女と共に入ってきたところだった。

男の薄青の目が菰野乃木の黒い瞳とかち合って、やがて驚きに見開かれた。

「やっぱり……菰野乃木さん……」

「えっ、誰?せんせぇ、知り合い?」

腕に手を絡めてくる女を乱暴に突き放すと、男は安藤と菰野乃木の座るテーブルに大股で歩み寄った。

「こんなところで何やってるの?連絡したのに出ないから心配したよ」

「伊妻……」

菰野乃木は親指の爪を噛んだまま俯いて黙り込んだ。

伊妻は菰野乃木の背中に手を当て擦りながら安藤を睨む。

「あのー、誰だか知らないけどとりあえずこいつ連れて帰っていい?彼こういう場所苦手だし」

「伊妻お前……なぜここが分かった……!」

安藤は怒鳴りながらテーブルを強く叩いた。

伊妻は眉を顰める。

「いやマジで誰だよ、ノギさんの何なの?」

「ファンだよ!ずっと彼を見守ってきたんだよ僕は!お前は彼に相応しくない! 」

菰野乃木は伊妻の首根っこを掴み自分の方に引き寄せると、耳元で囁いた。

「こいつはお前の殺しの証拠を持っている」

「そーなの?じゃあ殺せばいいじゃん」

菰野乃木は首を横に振った。事情を察したのか、伊妻は口元に指を当てたまま納得したように頷いた。

「うーん……じゃあとりあえず連れていこう」

「ね、伊妻せんせぇ、この人たち誰?」

五島が不安そうに伊妻の腕にしがみついた。

安藤はそれを見て鬼の首を取ったように笑顔になる。

「ほら見ろ!こいつまたアバズレを連れてる!」

「はあ?誰がアバズレよ!」

憤慨する五島を指差して安藤は叫んだ。

「伊妻はお前みたいなアバズレ女を殺しては目を抉り出してる殺人鬼なんだよ!」


五島が息を飲み店内の視線が自分たちに集中した瞬間、伊妻と菰野乃木は無言で目配せをした。

伊妻の視線が言った。

────面倒臭いなあ。どうする?逃げる?

菰野乃木は僅かに眉を上げた。

────いいや、この人数なら全員殺した方が後が楽だ。

伊妻は厨房の方向に走ると、驚いて叫ぶ店員を押し退けてブレーカーを落とした。

店内が暗闇に包まれる。人々はざわめき怯えたような声を上げた。

真っ暗になっても菰野乃木は匂いで人間と物の場所がわかる。

伊妻と菰野乃木以外で店内にいるのは、従業員を含めて七人。安藤はまだ殺さないので残りは六人。


菰野乃木は席を立つと自動ドアの前に立った。ドアの人感センサーが作動しなくなったことを確認し、次に恐怖で固まっている客の間をすり抜けて厨房の勝手口の鍵を閉めると金属製のドアノブを根元から折った。ここまでの動作は約四秒以内に行われた。

暗闇の中で女性客が鞄の中を漁る音がした。菰野乃木はその客の傍まで駆けていくと、彼女の頭を掴んで横に大きく一回転させた。

女の首は骨の折れる硬い音とブチン、ブチンと血管が千切れる音を同時に奏でながら、赤黒い内出血と共に捻れた。彼女の顔が再び正面を向く頃には、頭の穴という穴から血が垂れ流しになった。

暗闇のせいで女性客の死に気付いた者はいなかったが、気付いて通報される前に安藤以外を全員殺さなくてはならない。菰野乃木はテーブルの上にあったフォークを掴み、女性客の向かいに座っていた男の喉にそれを突き刺した。男が叫ぶ前にフォークを横に引いて彼の声帯をかき切る。

ヒュー、と空気の抜けるような音を出しながら、男は血を吐いてテーブルに突っ伏した。  

菰野乃木はテーブルの上のカトラリーをあるだけ掴むと出入口の方へ走り、椅子を振り上げて自動ドアを壊そうとしている安藤の首にナイフを添えた。

「ッ……」

「お前には逃げられると困る。椅子を下ろせ」

安藤が椅子を床に下ろしたのを確認すると彼の腕を掴み、近くのテーブルの上に掌を押し付けさせた。

「ここでじっとしていろ」

菰野乃木はナイフで安藤の手をテーブルごと貫いた。叫ぼうと安藤が口を開けた瞬間に丸めた紙ナプキンを押し込んだため、悲鳴はくぐもった呻き声に変わる。

もう片方の手にはフォークで刺して両腕をテーブルに固定すると、次は厨房へ向かった。

「おい、ボケっとしてないでお前も手伝えよ」

「暗くて何も見えないんだもん」

伊妻はそう言いながら相変わらずブレーカーの前に突っ立っていた。菰野乃木が舌打ちをした時、丁度ぱっと目の前が光った。若い女の従業員が備え付けの懐中電灯をつけたのだ。

「ナイス!」

伊妻は笑みを浮かべ、従業員の手から懐中電灯を奪う。そしてカウンターに照らし出されたアイスペールから中に入っていたアイスピックを手に取り、従業員のこめかみを貫いた。

「きゃああああ!」

殺す姿が懐中電灯で照らされていたせいで目撃した五島が悲鳴を上げた。伊妻はカウンターから身を乗り出して五島の首を掴むと、彼女の口の中にアイスピックを突っ込んだ。

ゴボッ、と濁った音と共に五島の喉から血が溢れ出す。そのまま仰向けに倒れた彼女は血で溺れているのか、苦しげに首を押さえたまま床をのたうち回った。

「あーあ、同じ職場だったのに」

「刑事にアリバイ工作でもしてもらえ」

菰野乃木は厨房の流しの上にあった肉切り包丁の柄を掴み逆手に構えた。小さく鼻を鳴らし、人の臭いを辿る。

「トイレに男が一人隠れた。通報される前に殺せ」

「はーい」

伊妻は懐中電灯で周囲を照らしながら厨房から出ると、ぐったりと動かなくなった五島の喉からアイスピックを抜き取った。

冷蔵庫の陰から人の臭いを感じ、菰野乃木は厨房の奥へと進んだ。

壁と冷蔵庫の間に息を潜めていた男性従業員と目が合う。男は叫びながら菰野乃木の頭にワインの瓶を振り下ろした。

瓶は丁度頭に命中すると粉々に砕け散り、中に入っていた赤ワインが周囲に飛散する。

 

しかし、頭にガラス瓶が直撃しても菰野乃木は微動だにしなかった。酒の臭いに軽く眉を顰め、男の眉間へと包丁を突き入れる。

包丁は男の頭蓋を貫き通し、切っ先が壁に触れた。どろりと白子のような脳髄が包丁の先に付着しているのを指で掬い、少量舐める。

「……美味い」

菰野乃木は空腹を耐えるように自身の腹部を擦った。

────名残惜しいが後でゆっくり食事を摂ろう。

振り返るとちょうど伊妻が男子トイレから出てきたところだった。

「殺した!これで終わり?」

「生きてる気配が一つだから終わりだ。この量の死体を業者に頼むのは面倒だから、今回は爆弾魔に頼んで片付けてもらおう」

「爆破オチなんてサイテー!」

伊妻は軽口を叩きながらポケットからスマートフォンを取り出し、爆弾魔へと電話をし始めた。

菰野乃木はその間にブレーカーを上げると、自動ドアの前に定休日の看板を立てる。

明かりがついた店内の惨状に、安藤は貧血で青ざめた唇を震わせた。

「んんーっ!んーっ!」

「うるさいな。黙っていろ」

安藤の前髪を掴み、彼の頭を思いっ切りテーブルに叩きつけた。菰野乃木の怪力のせいで安藤はすぐに脳震盪を起こして気を失い、体から力が抜ける。

「五分で持ってくるって」

「一応刑事にも電話しておくか?」

「後でよくない?多分めちゃくちゃにキレられるよ」

「ああ、烈火のごとく怒るだろうな」

知り合いの刑事の長時間の説教を想像して菰野乃木と伊妻は二人して肩を落とした。




同日 『田中』



伊妻が安藤の赤いポロを運転し、『田中』の駐車場に車を停めた。

『田中』は駅に近い『鈴木』と違って郊外の山の中にある。平屋の一戸建てなので、多少の騒音で気付かれる心配が無いのだ。

菰野乃木は安藤を肩に担ぐように抱え家屋の中に入った。

『田中』は主に解体用なので、窓には鉄格子の上からダンボールで目隠しをしていて、リビングには四方の壁と床全面にブルーシートが貼ってある。

「椅子」

「はーい」

菰野乃木が指差したデスク用の回転椅子を伊妻が引き摺ってきて部屋の真ん中に置いた。気絶している安藤をその椅子に座らせると、ガムテープで後ろ手と両足を縛った。

伊妻が部屋の床に直置きしてある古い小型テレビの電源を付ける。ちょうどニュースが放送されており、先刻行った店が煙を上げる様子が映し出されていた。

『……現在焼け跡から人の体の一部と見られるものが多数見つかり……現場に置かれていた猫のぬいぐるみから警察は連続爆弾魔ボマー・キャットの手口とみて……』

「爆弾魔に任せてよかったねえ。これなら刑事にバレないかも」

「そもそもこいつが大声で叫ばなければこんなに殺さずに済んだものを。すまないな伊妻、巻き込んで」

菰野乃木は気落ちしたように眉を下げ、表情を曇らせる。

「エーッ?友達は助け合うものなんでしょ? それに俺はいっぱい殺すの楽しかったけどな。職場の子までやっちゃったのはマジでやばいけど」

伊妻は愉快そうにくすくすと笑いながら、テレビの電源を切った。

「さっき車で聞いた話だと、俺の殺しの証拠をネットにばら撒くって言ってるんだよね」

「こいつが死んだらな」

菰野乃木はガムテープに巻かれた安藤の脚を小突いた。

「ゔ……うーん……」

「おい、そろそろ起きろ」

呻く安藤の髪を掴み、上を向かせる。口に突っ込んでいた紙ナプキンを引っ張り出して床に放ると、ようやく安藤は目を開けた。

「……あぇ……ここ、どこ?」

「お前には関係ない」

「ゲホッ……口の中めっちゃパサパサする……あと色んなところが痛いんだけど……ホント容赦ないなあ」

テーブルに打ち付けられた頭が痛むのか、安藤は眉を顰めて首を軽く左右に振った。

「まさか僕を殺すつもりじゃないよね。殺したら……」

「俺の殺人の証拠をネットにばらまくんでしょ? お前それしか芸がないの?」

伊妻は店から持ってきたアイスピックを安藤の眼前に突きつけた。

「伊妻、待て」

「エーッ?だめ?」

「お前はそうやってすぐ大きな痛みに頼ろうとする。それに真っ先に視覚を奪ったら効率的に恐怖を与えられないだろう」

菰野乃木は伊妻の手からアイスピックを奪うと、安藤の喉元にゆっくり滑らせた。

冷たい金属が肌を這う感覚に安藤は怯え、息を飲む。

「いいか安藤、どうやったら持っている証拠を全て削除できるのか言うんだ。そうすれば五感までは奪わない」

そう囁くと菰野乃木は安藤の左肩上腕骨の上あたりをアイスピックで突き刺した。手首を捻って深く突き入れると、安藤の着ているシャツにじわじわと滲み出た血が広がった。

痛みのせいか安藤の額からは大量の汗が流れている。当然だ、 肩腱板を意図的に断裂させているのだから。

菰野乃木は一度アイスピックを引き抜いて、今度は右肩へと刺した。

「ぐっ……あぁぁ!」

「チャンスは五回。まず両耳を切り落とす。次に鼻、眼球、舌の順番に奪う。最後に頭蓋骨を切開して、頭頂葉を破壊する。そこに至る前に全て話せ」

「メスあるよ~」

伊妻が背後から菰野乃木の手に医療用のスカルペルを手渡した。

「用意がいいな。じゃあ耳から行くぞ。証拠を消す方法は?」

「……教えたら殺すでしょ……」

「まずは右耳」

安藤の耳朶を指で摘み、スカルペルの刃先を耳の付け根へと当てる。

「まっ、待ってよちょっと待って!」

暴れる安藤の耳を上から下に向かってまるでケバブでも切るように刃を前後させながら乱暴に削ぎ落とす。スカルペルの切れ味がいいせいか思ったよりも綺麗な切り口で耳が切断された。

切り口から血が垂れて耳の穴に流れ込む。耳のあった部分を押さえようとしても両腕を後ろ手に縛られているので叶わず、安藤は頭を振って悶絶した。

菰野乃木は無感動にその様子を眺めながら、切り取った耳を摘み上げて自身の口の中に入れた。

「ちょっと、やめなよこんな奴の肉」

「腹が減ってるんだよ。このくらいいいだろ」

菰野乃木が口を動かし咀嚼する度に耳の軟骨が砕けるゴリッ、ゴリッという鈍い音がする。口の端を伝う血を手で拭うと、菰野乃木は安藤の左耳を掴んだ。

「左耳」

さっきあっさりと切れてしまったので、今度はゆっくりじわじわと刃を進める。スカルペルの通った所から血が流れて伝い、菰野乃木の手を汚す。

「血で滑ってやりづらい」

「もうスパッといっちゃえば?」

「それだと味気ないだろう」

血で滑って、何度も指が耳から離れてしまう。半分ほど切れた耳は僅かな肉と皮によりぷらんと宙にぶら下がっている状態になっていた。

菰野乃木はその耳朶を人差し指と親指で摘むと、思いっ切り外側へと引っ張った。ブツンという音と共に勢いよく耳が千切れる。安藤は咆哮にも似た叫び声を上げた。

さっきと違って断面がズタズタで、周辺の皮膚と脂肪まで少し付着している。それも口の中に押し込んで、伊妻に文句を言われる前に噛み砕き、嚥下した。

「次は鼻だが────どうする、安藤」

「言う、言うよ。ちゃんと言うから!」

伊妻と菰野乃木は顔を見合せた。

「なぁんだ、あっけないね」

「耳だけで済んだのだから英断だろう。それで?」

「……ぼくのパソコンに『K』ってフォルダがあるから、パスワードを打ち込んでフォルダを開けば中身の写真や文書は削除できる……」

「パスワードは」

菰野乃木が小鼻の縁にスカルペルの刃先を当てた。安藤は青ざめ、慌てて四桁の数字を呟いた。

「ゼロニーゼロキューね。……あー、そういうこと。お前本当に気持ち悪いな」

伊妻は数字の持つ意味に気付き苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「言ったんだから解放してよ!」

「本当に削除ができるか確認するまでお前はそこにいてもらう」

菰野乃木は刃物を伊妻に返すと、安藤に背を向けた。

「お前は俺を人ではないと言ったが、俺は自分ほど人間らしい生き物はいないと思っている」

口の端に自嘲的な笑みを浮かべ、菰野乃木は部屋の電気を消した。

「人の根源的欲求────食べるために生きるのだからな」




二月十二日 『鈴木』



レストランでの一件から三日が経った。

菰野乃木は『鈴木』のマンションの安いソファに腰掛けてツルゲーネフの『父と子』を読んでいた。

パソコンにアクセスして証拠を消した後もしばらく安藤を尋問したが、結局なぜ父が母を殺したのか、なぜ自分は人の肉を食べさせられていたのかは彼も知らなかった。

部屋の外に気配を感じ、菰野乃木はソファから立ち上がった。

左足の方が少しだけ強く踏み込む癖。ゆったりとした大股な歩幅────伊妻だ。重心がいつもよりほんの少し右に寄っているので、右手に何か持っている。靴音と底のすり減り方から察するに二年前に買った、ジェイエムウエストンのローファー────子牛の革を使った白いモデルを履いているだろう。調子が外れているので曲名は分からないが、機嫌の良さそうな鼻唄まで聞こえてくる。

玄関のドアを開けると、満面の笑みで伊妻が手を上げた。

「や!来ちゃった!」

駅からここまで歩いてきたのか、伊妻の鼻と耳はかじかんで赤くなっていた。右手には小さな白いケーキ箱を持っている。匂いから察するに、中に入っているのは蝋燭だろう。

彼は薄手のニットに白いコーデュロイのパンツを履き、その上にチェスターコートを羽織っているだけだった。ハイネックのセーターの上に冬物のシャツを着込んでもまだ物足りない菰野乃木からすると耐えられないほど寒そうな格好だ。

菰野乃木は伊妻が履いているのが予想通りのジェイエムウエストンのシグニチャーローファー180、素材がホワイトソフトカーフであることを確認し、満足そうにふんと鼻を鳴らした。

「入れ」

伊妻が室内に入るとひんやりと冷たい外気が玄関から流れ込んでくる。菰野乃木は暖房が逃げないように急いでドアを閉めた。

「外は寒かったよ~。菰野乃木さんはもう晩御飯食べた?」

菰野乃木は無言で頷いた。血抜きを終えて保管していた砂川の肉を丁度食べたところだった。

「なにか飲むなら湯を沸かすが」

「今はいい。それよりさ、ここに座って。ちょっとしたプレゼントがあるから」

ソファに座っている伊妻が自分の座っている隣をぽんぽんと手で叩くので、菰野乃木は大人しくそこに腰を下ろした。

彼は悪戯っぽく笑顔を浮かべ、手に持っていたケーキ箱を菰野乃木の膝の上に置いた。

「開けて?」

箱に入れても匂いで中身はわかるというのに、伊妻は自分がプレゼントを受け取ったかのように嬉しそうだった。その様子に気恥しさを覚えながらも、そっと箱を開く。

中に入っていたのは小さなケーキの形を模したキャンドルだった。クリーム色のホールケーキの上にはパステルカラーの苺と小さな蝋燭まで繊細に象られている。匂いで蝋燭であることは分かっても、中身の形までは予想していなかったので菰野乃木は驚いていた。

「……バースデーケーキ」

「そう。ノギさんは本物のケーキは食べられないから、気分だけでも味わってもらおうと思って。最近はハンドメイド通販とか便利でさ、オーダーして作ってもらったんだよね。……まあ、色々あったから渡すのが誕生日から三日も過ぎちゃったけど」

そこまで言うと、伊妻はズボンのポケットから取り出したライターをキャンドルの中心にある芯に近づけ、火を灯した。

「電気消すよ〜」

伊妻が壁際にある電灯のスイッチを切ると、真っ暗な部屋の中に橙色の暖かな光が浮かび上がった。

再び菰野乃木の隣に座ると、伊妻は手拍子と共に小さく何か調子の外れた歌を口ずさみ始めた。

「おい、それはなんだ?」

「え!?ハッピーバースデートゥーユーをご存知ない!?」

菰野乃木は顔を顰めた。

「知ってるが、そんな歌じゃない」

「エーッ?まあいいや。願い事をして蝋燭の火を吹き消して」

伊妻はそう言って菰野乃木の顔の前にキャンドルを近付ける。

───伊妻の音痴が治りますように。

適当な願い事を唱え菰野乃木がキャンドルに息を吹きかけると、蝋燭の小さな火が消えて部屋の中が真っ暗になった。

「菰野乃木さん、誕生日おめでとう」

隣で伊妻が微笑む気配がした。

その暗闇の中のシルエットだけ、ただ横で感じる息遣いだけで、なぜか心臓が熱くなるような不思議な感覚を覚えて思わず胸を抑える。

「胸が……痛い」

「エーッ、大丈夫!?」

伊妻は慌てて部屋の電気をつけると、菰野乃木に駆け寄った。

「どんな感じ?息が苦しいとか、他の症状は?」

「いや……これは……多分嬉しいんだと思う」

「なんじゃそりゃ」

伊妻は安堵し、その場に座り込んだ。

菰野乃木は火の消えたキャンドルを眺めながら以前伊妻と交わした会話を思い出した。

「俺にもわかったぞ、『心の栄養』というやつが」

「そうなの?」

「俺の心の栄養はお前だな。友達ほど理由もなく大切な存在は無い」

恥ずかしげもなく言ってのける菰野乃木に、伊妻は照れを隠すように彼の肩をバシバシと叩いた。

「やだもー、ノギさんったら超ロマンチスト!」

「なんだ、なんで叩いた?殺すぞ」

「友達ほど大切なものはないんだよね!?」

溶けたキャンドルから柔らかな甘い香りが漂う。菰野乃木は大きく息を吸ってその香りを吸い込み、僅かに笑みを浮かべた。





某日 某病院



無機質な白いベッドの上で、顔中に包帯を巻かれた人物が横たわっている。

彼の耳と鼻は削がれ、舌は切断され、両の眼球もくり抜かれているが、まだ人工呼吸器によりかろうじて息をしている。

そのベッド脇の椅子に、女が座っていた。利発そうなショートカットに可愛らしい面立ちをしているが、その表情は能面のように無機質だった。

「菰野乃木様にあなたをけしかけたのは私ですけど……安藤さんって思ったより百倍は約立たずでびっくりしました」

鈴を転がすような声で女はそう言ってベッドの縁に頬杖をつく。

「伊妻と菰野乃木様を引き離すどころかむしろ信頼関係を深めてどうするんです?そもそも、証拠を持ってるなんて言って脅しても、こうなるに決まってるじゃないですか。本当に……愚かな人ですね」

女────塚本は眉を下げ、憂いを帯びた表情で溜息をついた。

「でもご安心ください。ルライの園はこんな状態になったあなたを糾弾いたしません。これもれうじえんのお導きでしょうし、どうか余生をゆっくりお過ごしください」

塚本は九字護身法にも似た奇妙な指の組み方をするとそっと目を閉じ、神に祈るように頭を垂れた。

「あなたの不幸がみんなの糧となりますように」

(続く)



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