サタデーナイトキラー




【Saturday-1】



崖原がけはらが目を覚ますと、そこは闇の中だった。後ろ頭がズキズキと激しく痛み、酷い目眩もあって気分が悪い。

姿勢を変えようと身動ぎするが、体が上手く動かない。恐怖に震える吐息の音さえ木霊するということは、かなり狭い部屋の中かもしれない。

大きく息を吸った途端、肺に流れ込んできた黴の饐えた臭いに思わず咳き込んだ。口元を掌で覆おうとして、手首が硬い金属に覆われていることに気が付く。

────どうやら、椅子か何かに座った姿勢で手足を拘束されている。着ていた衣服も全て脱がされているらしく、剥き出しの肌は金属であろう冷たく硬いもので固定されていた。

真っ暗闇の中で崖原は大声で叫び、助けを求めた。しかし声は闇の中で虚しく反響するのみで、周囲に人の気配は無い。八月の気温は暑すぎるくらいのはずなのに、恐怖で鳥肌が立ちガタガタと体が震える。

崖原は自分の記憶を辿ろうとした。行きつけのバーで美人を見つけたから口説いて、共に店の外に出てからの記憶が無い。あの女はどこに行ったんだ?

バチンと音がして、部屋の明かりがついた。どうやらここは狭いガレージの中のようで、乗用車一台が入る程度のスペースの四方と床に、隙間なく青いビニールシートが敷き詰められている。

その真ん中にある頼りない蛍光灯に照らされ、崖原は金属製の椅子に四肢を拘束されていた。

鈍色の椅子は所々が錆びて赤黒く変色している。手すりに固定された手と枷が填められた足元は全ての指がそれぞれ一本ずつ万力のような器具に挟まれていて、まさに指一本動かせない状況だった。

「よお、性犯罪者」

顔を上げると、男がシャッターに寄りかかって意地の悪い笑顔を浮かべていた。

薄暗くて顔立ちはよく分からないが、男は雨でもないのに黒いスーツの上にビニールのレインコートを着ていて、その姿はアメリカン・サイコの殺人鬼を彷彿とさせた。

────美人局か!?クソッ、騙された!

かっと頭に血が登り、崖原は彼に向かって怒鳴った。

「何の真似だ!今すぐこれを解け!」

「うるせえなあ、そう喚くなクソ野郎。自分の立場分かってんのか?」

男は露骨にチッと大きく舌打ちをした。その不遜な態度を前にすると恐怖より憤慨が勝り、崖原は唾を飛ばしながら尚も喚いた。

「こんなことをしてどうするつもりだ! 目的は金か?」

「なんで端金稼ぐためにお前みてえなオッサンに色仕掛けまでしてこんな遠くに連れてこなきゃならねえんだよ。趣味だよバァカ」

「……趣味だと?」

崖原は男の言葉の意図が汲めずに顔を顰めた。わざわざ男を拉致して縛り上げる趣味とは一体何なのだろうか。

「ああ、趣味さ。俺は土曜日の夜は趣味に費やすって決めてんだよ。仕事柄、俺はお前みてえなイカれた性犯罪者を見つけるのが上手くてさあ」

男は黒いゴム手袋に覆われた指で崖原の顎に手を添えた。男の袖から、バーで口説いた女と同じ甘い匂いが漂う。

「今までお前は何人の女に暴行を加えたか覚えているか?崖原がけはら祥夫さちお五十二歳事務用品メーカー営業部部長サンよ」

崖原は驚愕のあまり思わず男の顔を凝視する。

「……なぜそれを知ってる!?」

────俺の名前や経歴のみならず『趣味』までばれている。

崖原の顔面から血の気が失せる。

「お、俺は悪くない!どいつもこいつもクズ女だった!最初から援交目当てで金を要求してきた女もいたし、ちょっと痛い目にあわせたくらいでこんなこと……まさか復讐のつもりか!?」

崖原が必死で喚いている間、男はつまらなさそうに突っ立ったまま彼が黙るのを待っていた。

そして崖原が口を閉じるのとほぼ同時に話し始めた。

「俺は『今まで何人の女に暴行したか』と聞いたはずだが、お前は質問に質問で返したな。営業部長のくせに会話もまともに出来ねえとは呆れるぜ」

男は崖原の指を固定している万力のようなものに触れた。指の左右を挟む横向きのクランプの先には、回転式の小さなハンドルがついている。

その中でも左手小指のハンドルに手をかけると、男は力をこめてゆっくりとそれを回した。

ハンドルが回転した分だけ万力が締まり、左右から指を圧迫されてギチギチと骨が軋む。圧迫を受けた小指はみるみるうちに紫色に鬱血し、崖原は激しい痛みに呻き声を上げた。

「ペナルティだ。まあ左の小指なんて日常で使わねえだろ?無くても問題ねえよなあ」

男の薄い唇がゆったりと弧を描く。崖原が悶絶し泣き喚いても、男は一切手を止めることなく無慈悲にハンドルを回した。

一回転する頃にはポキュ、パキッと木の枝が折れるような子気味良い音がして小指の骨が粉砕し、小指の皮の下から弾けた赤い肉が露出した。

崖原は猛烈な痛みによるショック症状で自身の膝の上に嘔吐した。ガレージ内に広がる酸っぱい悪臭に男が眉根を寄せる。

「あーあ、汚ねえなクソが。小指一本で大袈裟じゃねえか?手の指だけであと九本も残ってるのにさあ」

男の手が左手薬指のハンドルにかかる。

「じゃあもう一度聞いてやる。自分がホテルに連れ込んで顔の形が変わるまで殴ってから陵辱した女は何人だ?ほら、言ってみろ」

「お、覚えてない!もう許してくれ!」

薬指からパキッと音がして、指関節の骨が砕けた。

「ぎぃっ、ごめんなさいっ、ゆ、許してくださいっ!本当に覚えてないんです!」

左右から圧迫された指は熱しすぎたソーセージのようにブツリと縦に裂けて、血と筋繊維の混ざった肉がそこから露出する。

「な、七人っ?七人です!もうやめて!」

半分裏返った声で叫ぶと、男が薄暗がりの中で微笑む気配がした。彼は崖原の耳元に唇を寄せそっと囁いた。

「不正解」

男は次に中指に繋がるハンドルを握った。

「九人だ。お前は九人の女の人生をめちゃくちゃにした。被害者を二人も忘れるなんて酷いよなあ?」

中指の骨がミシミシと軋んで嫌な音を立てる。

「もうやめて!やめてください、ごめんなさい……ッ」

懇願する崖原の顔は涙と鼻水と吐瀉物とでぐちゃぐちゃに汚れていた。

男はその姿を鼻で笑うと、ハンドルから手を離す。

「ふーん。本気で反省してんのか?」

「してます!してます……!ごめんなさい、もうしません……!」

崖原はガタガタと全身を震わせながら男を見つめた。男はにやりと白い歯を見せて頷く。

「わかった。指はもう止してやる」

彼は崖原に背を向け、ガレージの隅に置いてあった工具箱から何らかの機械を取りだした。

その機械は、工具と言うより電動の調理器具か何かに見えた。

プラスチックの持ち手の先には細い金属の棒が付いていて、その先端は更にカップ状の金属の半球になっている。

「これ、なんだか分かるか?手動のミキサーとかプロセッサーみたいなものだ。コードレスハンドブレンダー……スムージーとか離乳食を作るのに使うらしい」

そう言って微笑む男の視線は崖原の下半身に向けられていた。

意図を察した崖原はみるみる内に顔面蒼白になる。

「無理だっ、やめてください!本当に無理です!何でもしますからそれだけは許してください、お願いしますっ!」

「なんでもするって言われてもなあ。俺は最初からお前みたいな人間のクズに何も期待してねえよ」

男はゴム手袋越しに崖原の萎えたペニスに触れた。

左手の指でそれを摘んで持ち上げると、右手に持ったハンドブレンダーのスイッチを入れる。

ハンドブレンダーの先端、カップの中には中心の鉄の棒を軸として手裏剣状の四枚刃が付属しており、その刃が高速で回転することで対象物を潰したり切り刻んだりする仕組みとなっている。

男は甲高く唸りながら回転する刃を崖原のペニスの先端にゆっくりと押し当てた。グチャグチャグチャという粘ついた音と共に赤と白の混じった肉片が周囲に飛散する。

崖原は背中を仰け反らせ絶叫した。白目を剥き、口からは吐瀉物混じりの濁った泡を吹いている。

ものの数秒で崖原のペニスは根元まで潰されて、ブルーシートの床にその成れ果ての挽肉が散乱した。

本来男性器がついていたはずの部分には丸く切断面が残り、そこから尿と血がだらだらと力無く垂れてビニールの床を汚す。

「萎えてるとずっと手で支えてなきゃいけないから面倒臭えな。……次からは尿道に竹串でも刺しておくか」

男は物騒な独り言を言うと、白目を剥いたまま意識を失っている崖原の腹を靴裏で軽く蹴った。

「おい、何寝てんだよ。……チッ、張り合いねえなあ。これだから性犯罪者ゴミカスは……脳ミソとチンポが直結してるからチンポ壊されただけで死ぬのか?おい起きろクソ野郎が!まだ遊べる部位がいっぱい残ってるぞ!」

苛立ちに顔を歪めながら、男は崖原の腹を何度も強く蹴る。

────と、その時電話の着信音がガレージ内に響き渡った。

男は舌打ちをするとゴム手袋を外して床に放り、スマートフォンの通話ボタンをタップした。

「はい…………はい、わかりました。ええ、すぐに向かいます」

通話を切ると、男は憂鬱そうに吐息をついた。

「楽しい土曜日はもう終わりか……」




【Sunday】



「……ふおっ!?」

首筋にヒヤリとしたものが押し当てられ、田子谷たごやは椅子に座ったまま飛び上がった。

振り向くと、相棒であるみやこがアイスカフェオレの缶を手に微笑んでいた。

「今寝てただろ」

「す、すみません都警部!」

「いや、無理もない。昨夜呼び出されて昼になっても一睡も出来てないんだ。……これ飲んでもう少しだけ頑張れ」

都の言葉に田子谷はぱっと表情を明るくして、渡されたカフェオレの缶を受け取った。

「ありがとうございます!……警部はずっとシャキッとしていてすごいですね……自分は元気だけが取り柄のはずが、まったく情けない!」

弱音の割にはハキハキと告げる田子谷に都は苦笑した。自分の分のブラックコーヒーの缶を開けて、中身を一口飲む。自販機のコーヒーは苦味と酸味が強く風味も何もあったものでは無いが、意識を覚醒に導くという最低限の役割は果たしてくれる。

「趣味を持つといい」

「趣味、ですか?」

田子谷は不思議そうに小首を傾げる。都は頷いた。

「打ち込める趣味があると、仕事にもハリが出るよ」

「なるほど、セルフメンタルケアも欠かさないということですか!ちなみに警部は何のご趣味を?」

色素の薄いヘーゼル色の瞳を輝かせながら田子谷が問う。都は目を細めると口元に指を当てた。

「ふふ、内緒」

「内緒ですか!」

がっくりと大袈裟に項垂れる田子谷に対し、都は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「冗談だよ。大した趣味じゃないけど、最近は日曜大工にハマってる。……ああ、若い子にはDIY?って言った方が伝わるかな」

「それはクリエイティブでいいですね!素敵なご趣味です!ああ、実は自分もひとつ趣味があるんですよ!というのも……」

「都、いるか!」

田子谷の話を遮るようにオフィスのドアが勢いよく開くと、課長の蓮田はすだがズカズカと歩み寄ってきた。

蓮田は上背が百六十八センチしかない都よりも更に一回りほど背が低いが、顔が岩のように厳ついので歩いてくるだけで迫力がある。

「おお、田子谷くんもいたか。二人とも現場に向かえ。口兄くちあに川に死体が出た」

蓮田の命令に都と田子谷は思わず顔を見合わせた。

「日曜日なのに休めそうにないな」

「まったくですね!」



現場は口兄川の河川敷にある高架線下だった。既に到着していた鑑識課の里木さときは、都たちの姿を見るとその場にしゃがんだまま片手を上げた。

「よっ、お疲れさん」

「状況は?」

里木はへらりと笑いながら、太い黒縁眼鏡のフレームを指で押し上げる。

「ま、説明の前にとりあえず死体ホトケを見てくれ」

里木がブルーシートを外すと、全裸の男性と思しき亡骸が露わになった。川に足を向ける形で仰向けに寝そべっているその体は、男性器と左手の指二本を欠損していた。眉は大きく跳ね、眉間には深い皺が刻まれ、口許は山なりに歪んでいる────苦悶の形相である。

「犯行時刻は昨夜二十三時から二十四時の間。左手小指、薬指と性器はおそらく生きてるうちに損傷を受けている。だが直接の死因は胸部を鋭利な刃物——おそらく包丁なんかで胸を刺されたことによる失血死だな。周辺から凶器は見つからずだが」

「……少なくとも事故ではなさそうだな」

「この死体、妙な格好ですね!この変な手の組み方には意味があるんでしょうか?」

田子谷は首を傾げ、死体の胸元で組まれた手を指差した。死体は九字護身法の手印にも似た奇妙な形に指を組んでいた。

「あー、おそらくルライ式の祈祷ポーズだ。指が欠けてるから定かじゃないが」

里木が口を挟んだ。都は驚き、死体の手元を注視する。

「ルライってルライの園のことか? あの新興宗教カルト団体の?」

「となると、犯人ホシは信者でしょうか!困りましたね、もし組織絡みなら家宅捜索ガサ入れしづらくなる……」

田子谷も渋面を作る。都は困惑気味に頭を搔き、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「課長に報告する。……今回の事件ヤマ、なんだか厄介な臭いがするな」

都が蓮田に連絡をしている間に、田子谷は里木に近寄ってしゃがみ、視線を合わせた。

「そういえば里木さんはなぜあのポーズがルライ式だとすぐ分かったんです?」

「……テレビなんかでいくらでも映るだろ。ああ、高貴なる田子谷警部補殿は庶民の見るような低俗なニュース番組なんて見ないのか?」

里木の露骨な嫌味に、田子谷は屈託のない笑みを浮かべた。

「あはは!毎朝見てますが全く知りませんでした!」

二人の間に剣呑な空気が流れる。電話を終えた都が振り返り、不思議そうに両者を見比べた。

「……どうした?何の話をしていたんだ?」

「世間話です!蓮田課長はなんと?」

都は癖のある黒髪を掻きながら不満そうに唇を歪めた。

「ルライの園に関わるのは極力後回しにして、怨恨から捜査しろと」

「あのデコッパチ、逃げやがったな」

里木が吐き捨てるように言った。都は嫌悪の感情を隠しもしない里木の様子に苦笑する。

「うちの課長殿はノミの心臓だから面倒は極端に避けたがるんだよ。田子谷、一旦署に戻って被害者ガイシャの身元を探ろう」

「はい!」

田子谷は元気よく返事をして、パトカーに戻る都の背中を追った。



【Monday】



「歯の治療痕から被害者の身元が判明した。崖原祥夫五十二歳独身、中小事務用品メーカーであるノビタキ文具に所属、役職は営業部部長」

蓮田が告げた被害者の名前に、狭い会議室内がざわめいた。

「ノビタキの崖原祥夫ってあの連続レイプ犯の?」

女性刑事の新田にったが驚いたように声を上げると、蓮田は頷いて捜査資料の映し出されたプロジェクターを指差した。

「被害者は過去九件の婦女暴行の重要参考人でありながら、証拠不十分で不起訴となった男だ。怨恨の線が強いだろう」

「あのっ、被害者がルライの園の祈祷と見られるポーズで亡くなっていた点については言及しないんですか!」

田子谷は挙手をしながら勢いよく椅子から立ち上がった。蓮田は焦ったように首を左右に振る。

「いやあの、田子谷くん……それはそんなに重要じゃないから、まあ後で時間があったら……」

「重要じゃないだぁ?」

今まで黙って話を聞いていた年長の田坂たさかが乱暴に長机を叩いた。

「困りますねえ課長。ルライっつったら何かと怪しい噂の多い宗教団体カルトでしょう?組織が絡めば動機も管轄も変わってきやがるんだ。そういう情報はしっかり共有してくれねえと」

「あ、あとで言おうと思っていたんだ!」

蓮田は岩のようにごつごつした顔を真っ赤にして怒鳴った。

「都!後はお前が進行しろ!」

突然蓮田に指名された都は、読んでいた書類から顔を上げるとスーツの襟元を整えながら席から立ち上がった。

「……鑑識によれば被害者は左手の小指と薬指が欠損しており、左中指第二関節の骨も砕けていました。また、性器を何か刃物のようなもので切断されています。男性器に損傷を与えた点から被害者が起こしたとされる過去の性的暴行事件の怨恨による線も考えられますが、一方で遺体が死後取らされていた手のポーズは新興宗教団体『ルライの園』の祈祷の際に取られるポーズで、通称『ルライ式』と呼ばれる指の組み方に酷似しています。よってルライの園の信者と関係者も捜査線上に上がってきます」

「……厄介だな」

田坂はふうと息を吐き、顎の無精髭を手で擦った。

「捜査の割り振りは?」

「怨恨とルライ関連の二手に分かれます。田坂と町川まちかわは被害者の交友関係を洗ってください。新田、田中たなかは被害者が起こした婦女暴行についての資料を集めて……私と田子谷はルライの園の教祖である大井出おおいで朔也さくやを聴取します。それでは各自捜査にあたってください」

都の言葉を合図に皆席を立ってオフィスへと戻っていく。 田坂は会議室を一回出た後にぴたりと立ち止まると、急に振り返って都の側まで歩いて戻った。

「警部殿、アンタのデスクのところに里木の女房が来てる」

田坂の耳打ちに、都は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「わかりました。すぐに対応します」

「……里木さんの奥さんがなぜ都警部に?」

首を傾げる田子谷に、都は自嘲気味に眉を下げて笑ってみせた。

「……さあ、当てつけじゃないかな」



「あっ、優作ゆうさくくん」

里木の妻────芽美めぐみは、都の姿を目に留めるとどこか含みのある笑顔を浮かべて手を振った。色白で黒髪のショートカットが良く似合う美人だが、何となく常に物足りない印象を受ける。それが里木芽美だった。

同じく肌の色が白く黒い髪をした都と並ぶと、その謎の欠落は一際強く感じられた。

「ねえ、元気にしてた?」

「ご用件は?」

都の口調は妙に冷ややかだった。彼の視線は芽美をわざと避け、その向こうにある窓の外へと向けられていた。その態度を意にも介さず、芽美は都に弁当箱の包みを差し出した。

「相変わらずね、ちゃんと用事くらいあるわ。敏成としみちがお弁当忘れてたから持ってきたの。ねえ、優作くんから渡しておいてくれる?」

「……」

都は無言で青いチェックのランチクロスに包まれたそれを受け取った。包みを手に持つとまだ少し温かく、その感触に眉を顰める。

「優作くんはお昼は?」

「……食堂で済ませます」

芽美は目を細め、ニヤニヤと笑った。

「君も早くお弁当作ってくれる奥さん見つけたら?折角女の子にモテるんだからさ。高校の時も────」

「……石川いしかわさん、用が済んだならもういいですか」

都が言葉を遮るようにそう言うと、芽美は急に表情を歪めた。頬を真っ赤に染め、ギロリと彼を睨み上げる。

「今は私の苗字〝里木〟だから!わざとらしく旧姓で呼ばないでよね!」

ヒステリックにそう吐き捨てると芽美は踵を返し、足早に刑事課のオフィスを出て行った。

芽美のせいで署員全員の視線が自分に集中している。都は刺すような強い頭痛を誤魔化すように、眉間を指で揉んだ。

「全く……」

「都警部、これを!」

後ろで控えていた田子谷が、都の眼前にペンギンのイラストが彫られた金属のピルケースを差し出した。

「……これは?」

「イブクイックハイパーです!」

「イブクイックハイパー……」

「頭痛にはこれ一択です!」

「頭痛にはこれ一択」

予想外の反応に、思わず田子谷の言葉を鸚鵡返しにしてしまう。都の戸惑いを察して彼は丸い瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「あれっ、頭が痛い訳ではありませんでしたか!?」

「いや、その通りだ。ありがとう」

田子谷の不器用な気遣いに都は眉を下げ、僅かに表情を緩めた。

「君には隠し事が出来ないな」

「任せてください!自分、都警部検定があれば百点満点中百二十点を取る自信があります!」

ドン、と自身の胸を叩いて田子谷は得意げな表情をした。手渡された薬のフィルムを手に取り、中の錠剤を口に入れる。すかさず田子谷は未開封のミネラルウォーターのボトルを差し出してきた。

「お薬を飲んだら大井出の聴取に行きましょう!自分が張り切って運転しますので!」

「そんなに張り切りすぎなくていいよ、田子谷」

警官のくせにいつもスピードを出しすぎる田子谷の運転を思い出し、都は相好を崩した。




広い講堂の客席は、白い服を着た老若男女で構成された集団で埋め尽くされていた。室内はかなり広く、コンサートホールを思わせる作りになっている。

客席に座る人々は皆一様に手をルライ式に組んでおり、その視線の先、ぐるりと集団に囲まれる形となる壇上には真っ白な法衣を着た痩せぎすの男が立っている。

「強い者は得て、弱い者は常に失うのみです。世界はなぜこんなに理不尽なのでしょうか?」

男はよく通る低い声で朗々と唄うように説法を行う。

「それは大半の人々がこの宇宙の心理に気付いていないからです。神は仰っています。誰かが犠牲になり、その犠牲によって他の誰かが幸福となる。世界は幸福と不幸のバランスによって保たれているのです」

男が喋りながら大仰な身振り手振りを挟む度に、彼の長い紫色の髪が揺れた。

「汝、不幸を愛せよ。されば何一つ苦痛ではありません。あなたの不幸が皆の幸福の糧となるのです」

男がそう告げてルライ式に手を組むと、人々は大きな歓声を上げた。

「言ってることめちゃくちゃですね」

講堂の後ろの席に座っていた田子谷は、同じく隣で話を聞いていた都にこそこそと耳打ちした。

「でもあの男がルライの園をここまでの規模の組織にしたんだ。侮らずに聴取に挑もう」

スーツのポケットに手を突っ込んだまま、都が席を立つ。田子谷もすぐそれに続いた。

大井出の演説を聞いていた信者たちは、蟻のように縦一列に並んでぞろぞろと講堂から出て行った。その表情は誰もが晴れ晴れとして幸福そうだった。


大井出はまだ壇上にいて、ペットボトルの水で喉を潤していた。都はステージの側まで歩み寄ると大井出に警察手帳を見せた。

「梔子署の都と申します。大井出さん、少しお話をお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?」

大井出は頷き、ゆっくりと客席まで降りてきた。

「ええ、ええ。勿論ですとも。ここで立ち話も何ですので、私の部屋にご案内しても?」

都は田子谷と一瞬目配せをしてから大井出に向き直り、こくりと頷いた。



大井出の自室は、教団本部の最上階である五階にあった。

中は思ったより狭く質素な作りで、室内には花瓶に活けられた竜胆の花を除けば華美な装飾は何一つない。オフィスワークで使われるような無機質なデスクと椅子、それから簡易的なパーテーションを挟んで来客用のシンプルなカウチ、ローテーブルが置いてあるのみだった。

慎ましく飾り気のない室内と、大井出の着ている金糸で縁取りされた豪奢な法衣は酷く不釣り合いでちぐはぐに見えた。

大井出は都と田子谷にカウチに座るように勧めると、自身はデスク横の戸棚を開け、緑茶のパックと湯呑みセットを取り出そうとした。

「お気遣いは結構です。大井出さん、どうかお座りください」

都が断ると大井出は大人しく湯呑みセットを元の位置に戻し、法衣の裾が皺にならないように丁寧に手で押さえながら都たちの向かいに腰を下ろした。

「それで……お話と仰いますのは?」

「とある事件についてお話を聞かせていただきたい。この人物に見覚えはありますか?」

都は崖原の顔写真を大井出に差し出した。大井出は灰色の目を細め、写真に顔を近づける。

「……見覚えはございません。見たところ我が教団の信徒ではなさそうですが」

「彼は今日の午前、死体で発見されました。我々警察はこの人物の死にあなたの教団が何らかの形で関わっていると考えています」

「なるほど……」

疑われていることに特に憤る様子もなく、大井出は冷静に相槌を打った。

「私としては信徒たちを疑いたくはありませんが、警察への協力を惜しむつもりもございません。教団にできることがございましたら遠慮なく仰ってください」

彼はそこまで言うとルライ式に手を組んで深々と頭を垂れる。

田子谷は不思議そうにそのポーズを観察し、大井出に尋ねた。

「その手の組み方────『ルライ式』にはなにか特別な意味が込められているんですか?例えば健康祈願とか、悪霊を退けるとか」

大井出は顔を上げると田子谷に微笑みかけた。

「これは我々の祈りの形です。自分たちが世界の不幸を肩代わりし、死後ルライの園へと行けるように神であるれうじえんへと願うのです」

「不幸を肩代わり……」

────崖原の遺体がルライ式の祈祷ポーズをとっていたのは、もしや崖原に何らかの『不幸を肩代わり』させるためか?

都は状況を整理しようとメモ帳を開いてペンで書き込み始めた。

田子谷はその横で大井出の手の形を真似ようと懸命に左右の手を絡ませている。

「手の形、実際にやろうと思うと難しいですね!講堂にいた皆さんはさらっとされてましたけど」

「我々にとっては祈りの第一段階ですからね。信徒なら皆できますよ」

大井出はそこまで言うと、黙々とメモを取っていた都の方に向き直った。

「────ところで都さん。これは捜査とは無関係のお話になってしまうのですが……よろしければ当教団の本部を見学していかれませんか」

「……私、ですか?」

都は面食らって大井出の顔を二度見した。

「そう、あなたです。あなたにはとても────神の手助けが必要に見えるので」

「自分はどうです?」

田子谷が自身を指差すと大井出はゆっくりと首を横に振った。

「あなたは大丈夫です。だってあなたには悩みがないでしょう?」

田子谷は首を傾げ、「あるけどなあ恋の悩みとか」などとぼやいている。

都は大井出に事務的な作り笑いを返した。

「……折角ですが、私は特に信仰を持つつもりは無いので」

「そうですか。気が変わったらいつでも我々をお訪ねください。ルライの園は悩める人々を常に歓迎します」

そう言うと、大井出は痩けた頬に穏やかな笑みを浮かべた。




【Tuesday】



朝、人々は労働の志無くとも皆一様に重い足を引き摺り、ゾンビのごとく会社を目指して出勤する。

屍のような目をしたサラリーマンの群れの中に混じり、都もまた通勤電車に揺られていた。過密状態の車内は特有の熱気と饐えた臭いがして、都は軽い頭痛を感じながら渋い顔で吊革を掴んでいた。

都の目の前にはサラリーマンらしき小太りの中年男が、その隣には近隣の中学校の制服を着た少女が座っていた。皆が皆自分のことで手一杯なのをよいことに、男は過度に少女に近付き、体を擦り寄せていた。内気そうな少女は青ざめた顔で俯き、唇を噛んで耐えている。

これを痴漢扱いで騒ぐには証拠として弱いのだろうが、都からすれば法に触れないラインを保ちつつ性的な意図を持って体に触れるのはあからさまな痴漢と同等に悪質であると感じられた。

都は吊革を掴んだまま上体を屈め、目の前の中年男と目線を合わせた。男は気まずそうに目を泳がせて、少しだけ少女から距離をとる。

「おはようございます。朝の電車は大変ですね」

都はにこやかに男に話しかけた。男は落ち着かない様子で体を揺らしながら頷いた。

「え……ええ、そうですね。この人の多さには困ったものですな」

「うふふ、本当に。警察官はパトカーで出勤できる法律でもあればいいのですが」

都の言葉に男の表情が強ばった。

「け、警察の方……ですか」

「ええ。……でも存外電車も悪くないかもしれませんね。市民の皆さんの様子を見守りながら出勤できるのですから」

男は青ざめつつも額には脂汗を浮かべていた。都はまだ怯えた様子の少女へと目線を向け、安心させるように微笑んだ。

「そこのあなたも、何か困ったことがあればいつでもお声かけくださいね」

少女は都の言葉に僅かに表情を和らげて、小さく頷いた。

後ろめたさのせいか、次の駅に着くと男はそそくさと電車を後にした。

都は少女に警察の相談窓口のダイアル番号が書かれたカードを手渡すと、男を追って自分も電車から降りた。


都は、男が改札を出たのを見計らって彼を呼び止めた。

「少しいいですか?」

「な、何ですか!?ち、痴漢まではしてないでしょ!」

 男のふてぶてしい態度に対し、都はあくまで穏やかに警察手帳を掲げてみせた。

「ただの職務質問です。いくつかお尋ねしたいので身分証明書を出してくださいますか?」

都は笑顔のまま男に向かって手を出した。男は震える手で財布から免許証を取り出し、都の掌の上に置いた。

「──── 添木そえぎ正一しょういちさん、四十七歳男性……ふむ……お仕事は?」

「……しょ、職場には言わないで」

「特に問題がなければ何も言いませんよ。それで、ご職業は何を?」

「あの……梔子西高校で数学を教えていて……」

「……教員?高校の?」

さすがに不快感が顔に出そうになり、メモを取りながら都は少し俯いた。

「分かりました。今回は大事にはしませんが……次は分かっていますね?」

添木は怯えながら何度も首を縦に振った。

その時ズボンのポケットの中のスマートフォンが震え始めた。都は添木を解放すると、スマホを取り出して耳に当てた。

「はい、都です」

「はいじゃない!今何時だと思ってる!朝一番に会議だと言っとろうが!」

蓮田の嗄れた怒鳴り声に顔を顰め、都はスマートフォンを操作して音量を最低まで下げた。

「おいっ、都!聞いているのか!」

「ああ、失礼いたしました。電波が悪いのかお声が途切れ途切れに…」

「こんな都会で携帯の電波が悪いことがあるか!」

「課長、あまりお怒りになられますとお体に響きますよ。高血圧でしょう」

「貴様っ、誰のせいで怒ってると思っているんだ!毎回当然のように遅刻しおって!」

「何をおっしゃいます、三回に一回は定刻前に出勤していますよ。梔子署の勤務形態がブラックすぎるんです。それに満員電車も大変なんですからね」

「車を使えーッ!まったく、お前はいつもそうやって────」

蓮田はまだ何か喚き散らしていたが、都はそれを無視して電話を切った。



 

「おはようございます」

都がオフィスに入った時には既に会議は終わったのか、ちょうど署員たちが会議室から出てきたところだった。

「遅かったですね都さん。今日も自主パトロール出勤ですか?」

新田は言いながら自身のデスクの椅子へと腰を下ろす。その後ろから田坂も顔を出した。

「課長がカンカンに怒ってたぜ、警部殿。また痴漢を逮捕してたんだろ」

「今回は未遂でしたので逮捕まではしていません。会議はいかがでしたか」

都は鞄を自分のデスクに置き、スーツのジャケットを脱いだ。蓮田が声高に節電を謳うせいで署内は空調が効いておらず、オフィス内は蒸し暑かった。

「進展ナシだ。被害者の周りはどうやら敵だらけだったらしい。職場でもパワハラとセクハラで随分恨まれてたみたいだし、過去の事件の被害者も多いし……こりゃ犯人を絞るのに時間がかかるな」

「結局ルライの園は関係あるんですかね」

新田の言葉に都は首を横に振った。

「まだ何とも。ですが教祖の大井出は胡散臭さの塊みたいな男でしたし、何かしらの形で関わっていても不思議ではありません。……そういえば田子谷は?」

いつもは自分が出勤すると犬のように駆けつけてくる相棒が今日はまだ見当たらず、都は周囲を見渡した。

「ああ、田子谷はまだ会議室の中だと思います。里木さんと何か話してましたよ」

新田はそう言って会議室のドアを指差した。

「わかりました、ありがとう」

都は新田に礼を言うと会議室へと向かった。



「そういえば、都さんと里木さんの奥さんってどういう関係なんですか?結構険悪そうに見えましたけど」

都の後ろ姿を見送りながら新田は田坂に尋ねた。

田坂は気まずそうに目を逸らし、しきりに無精髭を触る。

「あー……高校の同級生らしい。ただの噂だが、都警部と里木鑑識官の女房が元々付き合ってて、別れた後に里木鑑識官と結婚したとか」

「えっ、めちゃくちゃ修羅場じゃないスか」

驚き声を上げた新田を田坂は手で制する。

「こら、大声出すな。……あんま都警部にこの話題振るなよ」

「振りませんけど……あの都警部でも恋愛とかするんですねえ」

新田は腕を組み、感慨深そうにうんうんと頷いた。



都が会議室の扉のドアノブに手をかけた時、中から田子谷の怒っているような声が聞こえてきて思わず動きを止めた。

「あなたの奥さんの行動で都警部が困ってるんですよ!」

「芽美のせいで優が?馬鹿言うなよ。優のせいで俺が困るなら分かるけどな」

里木の言葉に都はドキリとして、ドアノブを握る手に力を篭める。

「なぜ警部のせいなんですか?あなたの奥さんが情緒不安定なのはあなたのせいでしょう」

「……なんだと?警視総監の息子だからって調子に乗るなよ」

「父は今関係ありません!」

田子谷の怒鳴り声の後ガタンと大きな音がしたので、都は慌ててドアを開けた。

「やめろ、二人とも!」

田子谷の胸ぐらを里木が掴んでいるのを見て、ふたりに駆け寄って引き離す。

「何を署内で喧嘩してるんだ!里木は鑑識課に戻れ!田子谷、お前は話があるからここに残りなさい」

間に入って引き離しても、両者はまだ黙ったまま睨み合っていた。

都は剣呑な空気にため息をつくと、里木の背中を押しながら共に会議室の外に出た。

「敏成。田子谷はまだ若いし自制が効かない。多少の無礼は許してやれ」

里木は眉根を寄せ、都の腕を掴んで引き寄せた。

「優、あの若造の肩を持つのか?まさかお前、あいつと……」

「お前が想像しているようなことは何もない」

都はぴしゃりとそう言って、里木の手を振り払った。

「それに俺が誰と何をしようがお前には関係ない。……忘れるなよ、お前は妻帯者なんだ」

言い捨てると、都は会議室の中に戻った。



会議室に入ると、田子谷は叱られた子犬のようにしょんぼりと肩を落としてパイプ椅子に座っていた。

「田子谷」

「あっ、都警部……!申し訳ありませんでした!自分、勝手な真似を!」

「本当にな」

苦笑しつつ、田子谷の隣の椅子に腰掛ける。

「もしかして……私と里木についての噂を君も聞いたのか?」

「……いえ、その……」

視線を泳がせさらに縮こまる田子谷の肩へと触れる。

「その噂はデマだよ。高校の同級生なのは確かだが、私と里木の細君は恋仲になったことはない」

「しかし……あの女性が警部に執着しているのは明らかです!いつか都警部が危険な目に遭うかも」

「……そんなこと君は心配しなくていい。彼女のことはもう放っておけ」

田子谷は苦しげな顔つきできゅっと唇を噛んだ。肩に触れていた都の手に自身の掌を重ね、そっと握る。

「……どうすればあなたは心を許してくれるんですか」

田子谷の手の熱に怯み、都は慌ててそれを振りほどいた。心臓が早鐘を打っている。

目の前の男が自分に向ける視線には嫌という程覚えがあった。

「……感情を履き違えているよ。君は……まだ若い」

「若くても自分の気持ちくらいは判断がつきます!」

田子谷は悲しそうに眉を下げた。ヘーゼル色の瞳は輝きを失うことなく真っ直ぐに都を見つめている。

「自分、頑張りますから!」

「……君には期待している。勿論、警察官としてね」

あえて突き放す言葉を告げて、都は椅子から立ち上がった。

「さて、仕事に戻ろう。大井出から受け取った信者の膨大なリストに目を通さなければ」



大井出は本人の言葉通り捜査に協力的で、信徒の名簿のコピーと教義についての著書、教団のパンフレットまで快く渡してきた。

本とパンフレットに関しては明らかに都に向けたものだったが────都は捜査資料としてそれを受け取った。

「思っていたより信徒の数が多いな……」

小さい字で紙いっぱいにびっしりと書かれた信徒の名簿を眺め、都は目を細めた。

「警察が把握しているよりルライの園の規模は大きいのかもしれませんね」

田子谷もうんざりしたように名簿のページを捲っていたが、ふと手を止めた。

「……大井出朔也が名簿を簡単に渡してきたのは何故なんでしょうか?普通に考えて機密事項ですよね。もしかしてダミーを渡されたか……それとも、このリストの中に犯人はいなくて……」

「……いなくて?」

都は怪訝な表情をした。田子谷は神妙な顔つきで頷く。

「大井出朔也が真犯人!」

「いや、それはないよ」

都に即刻否定され、田子谷はがっくりと項垂れた。

「ですよね!」

「しかしあっさり渡してきたのは確かに気にかかる。まるで何か誘導されているような……」

都は名簿の名前を上から下へと指でなぞった。

────青木、浅井、芦原、井浦、石川……。

「石川芽美……?」

都は目を見開いた。田子谷も慌てて名簿を凝視する。

「石川って確か、里木さんの奥さんの旧姓ですよね。名前も同じ……」

「……待て待て待て、状況が掴めない」

都は顔を手のひらで覆い、椅子に力なく沈み込んだ。

「……里木芽美が事件に関わっているとは思えない」

「確かに今の時点では何とも言えませんが、完璧に無関係とは限らないのでは?」

「……田子谷、まずは里木に確かめてみたい。この件はまだ誰にも共有しないでくれないか」

都はそう言うとデスクの下で田子谷の手に指を絡め、上目遣いでじっと見つめた。

田子谷は中学生のようにみるみる顔を真っ赤にして、照れたように都から目を逸らす。

「わ、わかりました……!あなたがそう言うなら……!」




【Wednesday】



「珍しいな、お前から誘ってくるなんて」

里木は手にしたビールのジョッキを軽く持ち上げた。

「まだ水曜日だけど、乾杯」

「……ん」

都は極度の下戸なので、その日の飲み物はオレンジジュースだった。グラスを傾けて里木のジョッキと軽くぶつける。

仕事終わり、ふたりは里木の行きつけである居酒屋に来ていた。個室の座敷があったのでその席を取り、和風のローテーブルを挟んで向かい合う形で座っていた。

「で、何が聞きたいんだ?」

「友達としてただ食事に誘うのは駄目なのか?」

都の咎めるような視線に対し、里木はしたり顔で笑ってみせる。

「嘘つけ。お前が何の魂胆もなく俺を誘うわけがない」

「信用がないな」

都は苦笑しながらオレンジジュースを一口飲んだ。

「……いくつか聴きたいことがあるんだ。結婚生活はどうなんだ」

「どう……って、まあ普通だよ。家庭を持つってこういうことなんだなーって感じ」

里木はつまらなさそうに小鉢に盛られた小松菜の胡麻和えを箸でつつく。

「じゃあ特に問題はないんだな?」

「……何か問題があって欲しいのか?」

自分に向けられるじっとりとした視線を振り払うように都は首を横に振って否定する。

「まさか、そんなんじゃないさ。ただ俺は捜査のために……」

「優はさ、未練とかないのかよ」

遮るように発した里木の言葉には熱が籠っていた。

────ああ、これは田子谷の視線と同じだ。

辟易して、都はため息をつく。

「ない。あったらお前の女房に失礼だろう」

「……芽美は俺を愛してくれてると思う。でも、俺は彼女のことが好きじゃない」

都は里木の発言が理解できず、困惑に顔を顰めた。

「な、何を言っているんだ?好きだから結婚したんだろう?」

「……高校の頃から今まで一度として彼女を愛した試しはない。そう思おうと努力した時期はあったけどな」

里木は席から立ち上がると、ローテーブルの向かいにいた都の真隣へと座り直した。

「わかるだろ、優。俺はただお前に妬いてほしかった」

ごくりと唾を飲む自分の喉の音がやけに大きく響く。都はいたたまれずに目を伏せた。

「……結婚には責任が伴う。そんな理由で彼女と籍を入れたなんて……」

「正論は聞きたくない。お前の気持ちが知りたい」

里木の手が都の両肩を掴む。強く抱き寄せられて、細い体は容易に彼の腕の中に収まった。

「……敏成」

都は里木の体を押し返し、顔を背けた。

「ただの友達でいる気がないならこんな風に二人で会うのは止めよう」

「……お前だってまだ俺が好きだろ」

頬を掌で包まれて、筋張った指が唇に触れてくる。明らかに性的な意図を伴う動きに胸の奥が冷える。

「やめろ、離せ」

「優、俺を拒まないでくれ」

肩を押され、畳の上に倒れ込む。そのまま覆い被さるように抱きすくめられ、都は慌てて里木を引き剥がそうとした。

「本当にやめろ!こんなところで……!」

「場所を移せばいいのか?」

「ふざけるな!お前は既婚者なんだぞ」

手で胸を押しても里木は微動だにしない。

────体格差ではこいつに敵わない。

自覚した途端に激しい恐怖に襲われ、都は無意識に体を強ばらせる。視界がぐにゃりと歪み、高い所から落下するような錯覚に息を詰める。

────気持ち悪い。触られたくない。

「お、お客様!?」

料理を運んできた店員が慌てて駆け寄ってくる。里木の気が一瞬逸れた隙に、彼の体を跳ね除けて席を立った。

都は財布から万札を一枚取り出してテーブルの上に投げると、荷物を抱え振り返らずに店を出た。



幸い、里木は後を追いかけてこなかった。人の少ない駅の方面に行くのはまだ恐ろしく感じ、都は賑やかな繁華街の中をあてもなく歩いていた。

────タクシーでも拾うか……いや……今は誰とも話したくない……。

酷い頭痛に視界が眩み、その場に蹲った。幸か不幸か、道の真ん中で座り込んでいても周囲は酔っ払いだらけで誰も気に留めない。

結局、里木に芽美のことを伝えそびれてしまった。しかし里木が言ったことが本当ならば、現在の芽美はあまり幸福とは言えないのかもしれない。

都と里木は高校時代親友だった。真面目で優等生だった都と奔放な不良生徒だった里木がどうしてそうなったのかは覚えていないが、学校でもそれ以外でも常にふたりで行動していた。都にとって友人と呼べるのは後にも先にも里木だけだった。

先に友情の一線を越えてきたのは里木の方だが、断りきれずに告白を受け入れてしまったのは都の責任だと思っている。

結局、都が体の関係を拒み続けたせいで里木は芽美と浮気をした。いつのまにか里木の隣には芽美がいて、自然消滅するように二人は友達に戻った。

────そう思っていたのに。あいつがあんなに無責任だったなんて。

目眩でしゃがんでいるのも辛くなり、遂に地面に手をついた。頭が割れるように痛い。吐き気がする。

不意に、霞む視界に革靴の先が映った。そのやけに高そうなキャメルの革靴には覚えがある。

「……都警部、これを」

僅かに顔を上げると目の前にペンギンの絵が彫られた銀色のピルケースが差し出されていた。

「頭痛にはこれ一択です」





【Thursday】



鳴り響くアラームの音を止めようと腕を伸ばし、枕元に置かれているスマートフォンを手に取る。

アラームを止め時刻を確認しようとして、それが自分のものではないことに気付いた。

「……え?」

微睡みから一気に現実に引き戻され、都は汗で素肌に張り付くベッドシーツを剥がした。

見慣れぬ広い部屋の、キングサイズのベッドの上で頭を抱える。大きなガラス窓から差し込む清々しいはずの朝日が憎かった。

「……うーん……」

隣でシーツがもぞもぞと動く。シーツの塊がのそりと起き上がり、視界に都を捉えた途端丸いヘーゼル色の瞳が輝いた。

「あ、おはようございます!お体は大丈夫ですか?優作さんっ」

寝起きとは思えない爽やかさで田子谷が微笑んだ。

「……ス、ごほ、こほっ、ストップ……少し、頭を……整理させてくれ」

掠れた声で何とかそう言うと、都は両手で顔を覆ったままベッドに倒れこんだ。

────無い。全く記憶が無い。そういえば体が痛い……特に下半身に違和感がすごい。おい嘘だろ?昨日あんなに里木を怖がってたのに、田子谷とは行きずりでセックスしたのか?

「……」

指の隙間からちらりと横目で田子谷を見ると、彼は主人の言葉を待つ忠犬のように都をじっと見つめている。

「……田子谷」

「はいっ!」

名を呼ばれ、田子谷は目を輝かせて前のめりに返事をした。

「……昨夜のことは忘れ」

「無理です!」

満面の笑みのまま田子谷は手でバツ印を作る。

「……君はまだ若いし」

「十歳差なんて誤差ですよ!」

「……気の迷い」

「梔子署に配属された初日から好きでした!」

警視総監お父上が何と言うか」

「自分六男坊なので人生好きに楽しめと言われています!」

────まずい、完璧に外堀を埋められている。

昨日とはまた違った逃れられない状況に都は天を仰いだ。

「……なぜ私なんだ」

都が問うと、田子谷は面接でも受けるかのように膝に手を置き姿勢を正した。

「最初は一目惚れでした!すごく綺麗な人だなって……気付いたらあなたをずっと目で追ってしまって。でも相棒として過ごしていくうちに、見た目よりもあなたの優しさや正義感に惹かれていきました。……あなたの全てが好きです。何があっても俺は優作さんのことを絶対に裏切りません。……どうか、傍にいさせてください」

力強い言葉とは裏腹に、震える手で田子谷は都の髪へと触れた。拒否されないことを確かめるためだけの穏やかな手付きは、都にとって初めて経験するものだった。

都は数秒間たっぷり何と断るか考えたが、体の怠さと腰の痛さのせいで上手い言葉が思いつかなかった。

この一見無害に見える若者の背後にいる警視総監という存在を考えると、彼を袖にした後に与えられる仕打ちはあまり良いものとは言えないだろう。

何より、よく考えなくても田子谷は若い。都が暫く適当にあしらっておけば、自分のような十も年の離れた男に懸想していたことなどすぐに恥じるべき黒歴史に変わるはずだ。

「……わかった、年長者として責任は取ろう。……ただ、職場では今までと変わらず役職で呼ぶように」

都がつっけんどんにそれだけ言うと、田子谷は嬉しそうに顔を輝かせて何度も頷いた。



朝は田子谷の車に乗り、彼の運転で出勤した。都にとって、満員電車に揉まれない朝は久々だった。

「そういえば、もう少し里木芽美のことをつついてみた方がいいかもしれない」

都は助手席から窓の外を眺め、そう言った。

「何か気になることが?」

「大したことじゃないが、里木芽美はどうやら結婚生活が上手くいっていないらしい。ルライの園に関係がありそうなのも引っかかる」

「そういえば自分、大井出朔也の著書を読んでみたんですが……ルライ式の手印はふたつの意味があるようです」

田子谷は本の内容を思い出そうと眉根を寄せる。

「もちろん祈祷としての意味もあるのですが、あのポーズはルライ式の葬儀の際に遺体にも取らせるそうです」

「……遺体に不幸を被らせるため?」

田子谷は被りを振った。

「いえ、ルライの園的に遺体には既に魂が無いので、不幸を被る必要性はありません。故人の死因が病気ならその病原体に、事故や殺しならその加害者に不幸を肩代わりさせる意味があるようですね」

「……なるほど」

都は口元に手を当て、思考を巡らせた。

────となると、やはり犯人は里木芽美の可能性が高い。しかしどうやってそれを説明するべきか……。

「……田子谷、土曜の夜は空いているか?」

「はいっ!空いてます!」

食い気味に田子谷は返事をした。都は微笑み、目を細めた。

「じゃあその日は一緒に帰ろうか」

「はいっ!」

デートの誘いと受け取ったのか、田子谷は上機嫌で鼻歌を歌い始めた。やはり若いな、と都は苦笑する。

その若さで、きっとすぐに後悔することになるだろう。




「おはようございます!」

普段より数倍元気よく挨拶をすると、田子谷は自身のデスクに着いた。

「お、おはよう……上機嫌ね」

田子谷のテンションの高さに新田が笑顔を引き攣らせる。

「なんだあ?彼女でもできたか?」

低血圧の田坂は眠そうに目を擦りながら言った。

「内緒です!」

「そ、そうか……」

田坂は田子谷の大声と圧迫感のある笑顔に目が覚めたらしく、引き気味で頷いた。

「おはようございます」

都もワンテンポ遅れてオフィスに入った。

気怠げにネクタイを直す都を見て新田は思わず彼の顔を二度見する。

「お、おはようございます……警部。今日は随分と早いですね」

「ああ……偶然です」

「都!今日も遅刻……じゃないな……」

蓮田は都の姿を見て怒鳴りかけたが、時計の針がまだ定刻前を差していることに気付いて声のトーンを落とした。

「……そういえば都、お前鑑識の里木と仲が良かっただろう。あいつと昨夜から連絡がつかないらしいんだが、お前からも電話してみてくれないか」

蓮田の言葉に都は表情を曇らせた。

「……わかりました」

────まさか俺が逃げたから?いや、そんなことで仕事の電話を無視する奴じゃないはず。

都は電話帳から里木の名前を選んでタップした。しかし数回のコール音の後、留守を知らせる無機質なアナウンスが流れただけだった。

「……繋がりません」

署内に緊張感が走った。都はもう一度里木に電話を掛けたが、やはり応答はなかった。

嫌な予感がした。スマートフォンを握る掌にじわりと汗が広がる。

「……里木の自宅に行ってきます」

都は蓮田が何か言う前に車の鍵を手にし、踵を返した。

「あっ、自分も行きます!」

オフィスを出ていこうとする相棒の背中を田子谷は慌てて追いかける。

「ち、遅刻の次は無断出動……ッ!」

蓮田はキリキリと痛む胃をしきりに手で擦った。




里木の自宅は、梔子署から車で十分ほどのオートロックマンションの五階にある。

パトカーをマンションの入口前に停めると、都は裏手にある駐車場を覗いた。

「里木の車はあるな」

「じゃあ中にいる可能性が高いですね」

都はマンションのロビーに入るとインターホンを押したが、応答は無かった。

彼は一拍置いて素早く暗証番号を入力すると、開いたドアの内部へと入った。

「……なぜ里木さんのマンションの暗証番号を?」

「よく遊びに来てたんだ、友達として」

都がそう言って軽く睨むと、田子谷は不満そうではあったが口を噤んだ。

エレベーターで五階まで上がり、里木の部屋の前まで来て都は動きを止める。

玄関のドアが僅かに開いており、ドアノブが水で濡れている。

都は腰の拳銃に手で触れながら田子谷に目配せをした。田子谷も頷き、銃を手に取る。

都が一から三までカウントしてドアを開けると、田子谷は銃を構えたままゆっくり玄関へと入った。

家の中に人の気配は無かった。洗濯機がガラガラと回る音だけがやけに大きく響いている。

テーブルの上にはコーヒーの入ったマグカップが放置されている。電気もエアコンのスイッチがついたままになっていることを鑑みても、ほんの少し前まで人がいたと考えるのが自然だった。

「……里木さんはいないんでしょうか?」

田子谷は室内を見回しながら呟いた。

都は腰の銃に手をかけたまま、洗濯機の音がする脱衣所の引き戸を静かに開けた。

「……ッ!」

背後から聞こえたドタンと倒れるような音に、田子谷は慌てて振り返った。

脱衣所のドアを開けたまま、都が呆然と座り込んでいた。

「優作さん!」

田子谷は都に駆け寄り、その視線の先にあるものを見た。

洗面台から床まで、黒く固まった大量の血がこびり付いている。そして耳障りな音を立て続けるドラム洗濯機に寄りかかるようにして、里木がそこに居た。

「……これは……」

遠目から見ても血は乾燥していて、かなりの時間が経過していることは明らかだった。腹部を中心として里木のワイシャツには赤黒い大きな染みができており、力無くだらりと投げ出された手足と見開かれたままの瞳が彼の命が既に無いことを明白に突きつけてくる。

「……本部に連絡します」

田子谷は都の背を労わるように擦りながら、スマートフォンを手に持った。

「こちら田子谷、里木鑑識官の自宅にて里木本人と思われる死体を発見しました。至急応援を……」

田子谷の声がどこか遠くに聞こえる。都は一言も発さないまま、ただ息苦しさに胸を押さえた。

────俺のせいで敏成が死んだ。

冷たい汗が額を伝う。頭が痛くて堪らない。

────俺が昨日もっときちんと説明していれば。あいつと話し合っていれば死ななかったかもしれない。俺さえ逃げなければ……!

「都警部!」

パンッと乾いた音と共に頬が熱くなる。それが痛みであると気付いて反射的に手でその部分を押さえた。

「……すみません、呼び掛けに全く応答されなかったので!お気を強く持ってください!」

田子谷はこちらを殴っておきながら自分が殴られたかのように顔を歪めている。

「……私こそすまない、動揺していた」

痛む頬が里木の死を強く実感させるも、不思議とどこか冷静になっていくのも感じる。

「他の部屋に異常が無いか確認を。彼の妻が見当たらない」

田子谷は頷き、立ち上がった。

「お手を。立てますか?」

差し出された手を掴み、都も体を起こした。

二人で手分けをして屋内を見て回ったが、どの部屋にも芽美の姿はなかった。

「逃げたにしてもそう遠くには行ってないはずだ」

「検問を敷くように要請しましょう。……田坂さんたちも到着したようですね」

近付いてくるパトカーのサイレンに、田子谷はベランダのカーテンを少し開けて外を確認した。

「……ん?都警部、ここ……カーテンのこの部分だけ水で濡れています」

田子谷の指す部分を観察し、都は風呂場を再び覗いた。風呂場のタイルはまだ湿っており、ほのかに熱気も漂ってくる。

「……おそらく血を流すためにシャワーを浴びていたんだろう。そして私たちが来たことに気付き、濡れたままの手でカーテンを開けてパトカーを確認した。ほら、よく見ると脱衣所からベランダの窓まで水滴の跡がある」

「本当ですね。では我々が来る直前まで里木芽美はこの場にいた……?」

ふたりは洗濯機の音だけが響く室内へと同時に目をやった。



すぐに田坂たちが現場に到着し、都と田子谷は一度部屋から出た。

「……貴様、今日は家に帰れ」

遅れて到着した蓮田は、都と顔を合わせるなりそう告げた。

「……なぜです?」

「なぜもハゼもあるか!勝手なことばかりしおって!里木は────お前の高校からの友人だろう!……何日か休暇をやるからその腑抜けた面を何とかしてこい!」

剣呑な口調の割に労わるように都の背中を叩くと、蓮田は田子谷に都を送るように命令した。

「パトカーで事故でも起こされたらたまったもんじゃないからな」

「都警部、ここはお言葉に甘えましょう」

「しかし私も捜査に参加を……」

「……田子谷くん、追加命令だ。その馬鹿が家から出ないようにしばらく傍で見張っておいてくれ」

ぴしゃりと言い切った蓮田に田子谷は姿勢を正し、敬礼をした。

都はなおも文句を言おうとしたが、田子谷に引きずられるようにしてパトカーに乗せられた。


都は不貞腐れた表情でパトカーの助手席に座った。

「……酷いと思わないか?」

「蓮田課長なりに優作さんのこと考えてくださってるんですよ」

「……でも、君は私の味方でいてくれるよな?」

わざと甘えるような声を出して田子谷の太腿に触れると、その手を笑顔で自分の膝の上に戻された。

「もうその手には乗りません!大人しく休みましょう!はいっ、シートベルトつけて!」

都は顔を顰めると小さく舌打ちをした。

「クソが……」

「……?」

吐き捨てた悪態はちょうど入った無線の声で聞き取れず、田子谷は不思議そうに目を瞬かせた。



蓮田の命令通り、都が自宅に着いても田子谷は帰ろうとしなかった。

「……別にもう大丈夫だから帰ってもらってもいいよ」

「いえ!自分、ここで見守ってます!」

都はため息をつき、田子谷にソファに座るように促した。

「ずっとそこに立たれていても困る」

「ありがとうございます!優作さんの家、いい匂いがしますね!」

田子谷はソファに腰を下ろし室内を見回した。

都の部屋の中は最低限の家具を除けば引っ越してきたばかりかと勘違いしそうなほど物が無く、その余白を無理矢理埋めるかのように大量の観葉植物が置かれていた。

「コーヒー飲むけど、君の分も作ろうか?」

「自分やります!優作さんは座っていてください!」

立ち上がりかけた都を半ば無理矢理ソファに座らせると、田子谷はキッチンへ向かった。

「コーヒーはどこですか?」

「やはり私が……」

「いえ、自分できます!やらせてください!」

田子谷は大仰に敬礼をすると、都が指差した戸棚からインスタントコーヒーのパックを取り出す。

「あっ!このコーヒー、祖父が好きなメーカーです」

「安物だよ?」

「祖父は変わり者で、議員になってからも高いコーヒーは口に合わないとか言ってインスタントばかり飲んでました」

────議員?こいつの家系、どうなってやがるんだよ。

都はつい渋い顔をする。

「君は家族仲がいいんだな」

「確かに恵まれている方だと思います!祖父母も両親も理解があって……自分は六人兄弟の末っ子ですが、割と可愛がられてきました!」

田子谷がケトルの湯をカップに注ぐと、ふわりとコーヒーの香ばしい匂いが部屋に漂う。

「兄弟は全員男だからか、子どものうちはかなり喧嘩もしましたけどね」

田子谷に湯気の立つカップを渡され、礼を言って受け取った。一口それを飲むと溜まっていた疲れが一気に出たのか急に強い眠気を感じ、瞬きをした。

「私にも……妹がいた」

「妹さんが?優作さんに似てますか?」

「いや……私には似ていなかった……明るくて、無垢で、前向きで……」

都の長い睫毛が震えて、やがて瞼が完全に閉じる。手からカップが落ちる前に田子谷が横から取り上げる。

「それで?」

「……そう……俺に似てねえいい子だったんだ……だから……殺され……」

田子谷はカップをテーブルの上に置くと、静かに寝息を立て始めた都の髪を指で梳く。少し癖のある柔らかな黒髪をそっと撫でてから、額に触れるだけの口付けをした。

「おやすみなさい。いい夢を」




【Friday】



目が覚めると都は自室のベッドの中にいて、田子谷の姿はなかった。

帰宅してからの記憶が曖昧だが、どうやら長い時間眠っていたらしい。壁に掛かった時計を見ると、既に日付が変わり時刻は午前十時を回っていた。

リビングのテーブルの上には書き置きがあった。破ったメモ帳の切れ端に「休んでください!」という殴り書きと、何の生き物かも分からない下手くそな絵が描かれていた。いかにも田子谷らしい書き置きだ。

都は無表情でそのメモをゴミ箱に捨てた。

クローゼットに掛かっているスーツのポケットから黒い革表紙の手帳を取り出すと、パラパラとそれを捲った。

途中のページで指を止め、手帳を開いたまま片手でスマートフォンをタップして耳に当てる。

「……都です。鷺原さぎはらさん、少し調べ物をお願いしても?添木という男について調べてほしいのですが。ええ、すぐデータを送ります……今日中にお願いします。……はあ?当日中は割増料金だと?おいクソ悪徳業者、個人情報保護法違反か犯人蔵匿ぞうとく、しょっぴかれるなら罪状はどっちがいい? ……ええ、はい、助かります。ではそのように」

電話を切ると、都はため息をついてソファに横たわった。

都が垂らす釣り針に里木芽美は引っ掛かるだろうか────きっと引っ掛かるはずだ。里木が死んだ今、彼女を突き動かすとすれば都への怒りや憎しみだけだろう。

都は薄い唇を歪め、嘲るような笑みを浮かべた。

「待ってろよ、クソ女……」




田子谷が梔子署のデスクで捜査資料を見ていると、携帯電話が鳴り始めた。

非通知からの着信画面に眉を顰める。恐る恐る通話ボタンを押して耳に当てた。

「はい」

『梔子署の田子谷様でいらっしゃいますか?私はルライの園の鉾良ほこらと申します』

それは聞き慣れぬ男の声だった。

「ええと……どのようなご用件でしょうか」

『大井出より伝言でございます。〝誤って数年前の名簿をお渡ししてしまった〟と』

鉾良は平然とそう告げた。里木芽美が旧姓で信者名簿に載っていたのは過去のリストだったからだ。田子谷は納得して大きく頷いた。

「……なるほど!つかぬことをお伺いしますが、大井出さんは今回の件をどこまでご存知なんですか?」

『……どういう意味でしょうか、私は存じ上げません。……しかし大井出は我が教団の名が悪用されることを憂いております。警察の皆様におかれましては、一刻も早い事件解決をお願いいたしたく……』

────教団のイメージを下げる元信徒は邪魔だからさっさと逮捕してくれってことかな。

田子谷は鉾良の遠回りな言い口に閉口した。

「ご安心ください。梔子署は鋭意を尽くして捜査にあたらせていただきます」

『それは頼もしい限りです。どうかあなたにれうじえんの御加護がありますように』

慇懃な口調で鉾良がそう言うと、電話が切れた。

────大井出といいさっきの鉾良という男性といい……ルライの人達と話すのってなんか疲れるなあ。優作さんとならずーっと話していられるのに。

田子谷は昨夜抱き抱えてベッドに移した時の都の寝顔を思い出し、思わず口元を緩めた。

「なんだぁ?彼女からメールでも来たのかよ?仕事中だぜ警部補殿」

電話を握りしめたままニヤつく田子谷を見て、通りすがりの田坂が呆れたような顔をした。




 

────どうして!なんで私がこんな目に!

芽美は泣きながら車を女石めせき方面へと走らせていた。

生乾きの髪が不快だったがドライヤーを使っている余裕はなかったので、クローゼットから慌てて掴んだ適当なワンピースを着て家を出てきた。

昨夜、残業しているはずの夫の鞄に忍ばせているGPSが居酒屋を示していたので急いで向かうと、彼は高校の同級生である男に愛を囁いていた。芽美のことなど好きではないと、好きだった瞬間などないという言葉に足元が音を立てて崩れ、奈落に転落するような絶望を覚えた。

────あいつに勝ったと思ってたのに。

芽美は高校一年で同じクラスになってからずっと夫である里木敏成が好きだった。

親が新興宗教にハマり、ネグレクト気味で育てられたせいで当時の芽美はスレていた。しかし、夫の敏成に恋をしてからは世界が鮮やかに色付いた。彼こそが運命の人だと思った。

だが夫の眼中にはいつも隣にいる男しか映っていなかった。都優作は、容姿に自信のあった芽美があっけなく霞んでしまうほどの美貌を持っていた。

十代の美しさなど花が咲いて萎むのと同じくらいに一瞬で、芽美の肌艶は歳を取るごとに目に見えて衰えた。

でも、あの男は色褪せない陶器の人形のように美しかった。齢三十を超えてもアーモンド型の瞳には長い睫毛が影を落とし、対照的に白い肌はいつも眩く艶めいていた。薄い唇や耳朶に僅かに差す赤みすら、まるで人を堕落に導くためだけに創られたかのような魔性の造詣をしていた。

そんな相手がずっと敏成と同じ職場にいて、優しく夫に微笑みかけるのだ。嫉妬に狂わないわけがない。

あの時───放課後の教室で夫と初めてキスをした時、あの男に見せつけるように夫とふたりで手を繋いで帰った時、そして結婚式で、あの男が新郎の友人代表としてスピーチをした時。

どの瞬間にも芽美は間違いなく『勝った』と確信していた。まさかそれが全てあの男の気を引くためだなんて、思ってもみなかった。

昨夜帰宅した夫を問い詰めると、彼はあろうことか芽美に離婚を切り出してきた。それも都が既婚であることを理由に関係を拒んできたという、それだけの理由で。

頭に血が上り、衝動のままに包丁で夫を刺していた。

人を刺すのは初めてではなかったが、刃をはらわたの深くまで刺してもさくりとしか手応えのないそれが夫だと気付くとぞっとした。

敏成は腹を押さえながら芽美に手を伸ばし、朦朧としながら僅かに笑った。

「優……すまない……」

夫が死んだことよりも、最後に呼んだ名前すらあの男であることが恨めしかった。

夜が明けて昇ってきた朝日が眼を刺すまで、芽美は包丁を握ったまま呆然と床に座り込んでいた。

芽美はとある山の中に車を停めた。ここから暫く歩いた場所に、都が使う古いガレージがある。

今日は土曜日だから、夜になればきっとあの男が来るはずだ。

待ち伏せて、また奪わなければならない。あの男を不幸にするための糧を。

芽美は目を閉じるとルライ式に手を組んで、神であるれうじえんへと祈った。




【Saturday-2】



田子谷が仕事を終え駐車場までたどり着いた時には夜の二十一時を回っていた。捜査の進展の無さを考えるとむしろ帰宅できることが奇跡だったし、この時間ならまだ都の様子を見に行くことができるのでありがたかった。


しかし、田子谷の車の前には一人の女性が待ち構えるように佇んでいた。

ゆるくカールした長い黒髪と、タイトなワンピースのラインでわかる細い腰。薄い唇に引かれたヌーディなリップだけが白い肌の中で浮き上がり、幼さと色気を同時に醸し出していた。

「あの……どうかしましたか?」

田子谷が恐る恐る近付くと、彼女は露骨に眉を顰めた。

「遅かったな。行くぞ」

聞き覚えのある澄んだ低い声に田子谷は目を丸くした。

「ゆ……優作さんッ!?」

「黙れ。いいから車を出せ」

都は田子谷を急かすと、自身は助手席に座った。

金它かなへび通りの『マウンテンピジョン』というバーに向かってくれ」

「……分かりました」

真横から女物の甘い香水の香りがして、田子谷は妙な緊張と共に車を発進させた。



 

バーに着くと、田子谷は都の指示通りに壁際のテーブル席に座った。

適当なノンアルコールを注文して待っていると、カウンター席に座る都の横に小太りの中年男が近寄り、明らかに劣情を込めた目でじろじろと都を眺め回した。

都は男の視線に気付かないふりをして、バージンマンハッタンを舐めるように飲んでいた。

男は躊躇いながらもやがて都の隣に座ると、何やら懸命に彼に話しかけている。席が遠いのではっきりとは聞こえないが、「成人しているのか」だの「もっといい店があるから一緒に行こう」だの、要はナンパをしているようだ。

都は男に天使のような微笑を向けると、太い腕に手を絡ませて共に店を出た。


田子谷は二人を追って、慌てて店から出た。しかし、店の前には都と男の姿は既になかった。周囲を見渡すと、裏手の路地から白い腕が片手で手招きするのが見えた。

走って都の元まで行くと、中年男は白目を剥き、泡を吹いて地べたに倒れていた。

「何をしたんですか!?」

「うるせえな、ちょっと薬を嗅がせただけだっつーの。おい、早くそれを車に乗せやがれ」

いつもより乱暴な口調でそう言うと、都はさっさとひとりで車に向かい、助手席に座った。

田子谷は困惑しつつも、肥えた男を引き摺るようにして後部座席に押し込み、運転席へと戻る。

「……この男は今回の事件の参考人ですか?」

「あ?違ぇよダボが!……いいか、大人しく今から言う場所に向かえ。お前がやりたがってたデートと洒落こもうじゃねえか」

都は剣呑な口調でそう吐き捨てると、田子谷の首筋にガーターベルトから抜き取った細い折り畳みナイフの刃を押し付けた。

「この国道を女石方面に四十分走って、山が見えてきたらそこを上れ。車を止める場所は俺が指示する。……少しでも怪しい動きをしたらすぐに喉笛を掻き切ってやるから覚悟しろよ」

「わ、わかりました」

首筋に冷たい金属の感触を感じながら、田子谷は恐る恐る頷いた。


 

山の中にある倉庫のような建物の前で田子谷は車を停めた。都は古いガレージのシャッターを持っていた鍵で開けると、中年男をガレージ内に運ぶように田子谷に命令した。

田子谷が男を室内に張られたブルーシートの上に横たえると、都は眠ったままの中年男の服をナイフで切って全て脱がせた。

赤錆びた金属の台の上に全裸にした男をうつ伏せに寝かせ、両手足を鉄の錠で固定する。田子谷は背後からそれを眺めていた。

「あー、クソ暑っつ……」

都は額の汗を拭うと付けていたウィッグを外し、ヒールを蹴りたくるように脱ぎ捨てる。

そのまま堂々とワンピースまで脱ぎ始めた都に田子谷は思わず赤面し、顔を逸らした。

「あぁ?何赤くなってんだ。サカってんじゃねえよバーカ」

「す、すみません……!」

都は意地悪く笑うと、脱いだワンピースを田子谷の顔に投げつけた。

服に残った肌の温もりと、都の汗と香水の混じった匂いに心臓が跳ね上がる。

田子谷は慌ててそれを顔から剥がすと、綺麗に畳んでブルーシートの上に置いた。

都は下着一枚の格好になってしまうと、今度は持ってきた大きな鞄の中から普段着ている黒いスーツ一式と革靴、レインコートを取り出した。

ワイシャツ、ネクタイ、スーツを丁寧に身につけて、靴下と靴を履いた後透明なレインコートを被る。

「よし」

スーツの裾を整えると、もう一着同じレインコートを取り出して田子谷へと放った。

「着ろ。オーダーメイドのお高いスーツが汚れるのが嫌ならな」

「は、はいっ」

田子谷は素直に頷くとビニールのレインコートを頭から被って袖を通した。


「うう……ぐげっ……」

目を覚ましたのか、中年男がヒキガエルのような呻き声を上げた。

都の薄い唇がゆったりと弧を描き、この上なく愉しそうに目を細める。

「……よお、性犯罪者」

甘ったるい声音で都が囁くと、男は恐怖に目を見開き大声で叫んだ。

「誰か助けてくれっ!クソッ、今すぐこれを外せ!」

「あーもーうるせえなあ。俺だよ、ほら。この前職質しただろ、添木正一サン?」

中年男────添木は都をまじまじと見つめ、今度はその脂ぎった顔を怒りで歪めた。

「アンタ、あの時の刑事か!?なんのつもりだ!痴漢はしてなかっただろ!」

「確かにあの時は未遂だったな。だがお前は自身の働く高校で女生徒を狙っては薬を盛ってレイプし、その様子を動画に収めて脅迫していただろう。ヤりたい時に呼び出して犯し、そのくせ妊娠した生徒には自費で中絶を強要。女生徒の精神を壊しひとりを自殺に追い込んだ──教師の所業とは思えねえよなあ」

添木はガタガタと体を震わせながら必死でもがいた。

「悪かった!俺が悪かったからこれを外してくれ!一体こんなことをして何のつもりなんだ!」

都は舌打ちをして、ガレージ内にあるロッカーから錆びた鉄パイプを取り出した。

鉄パイプの表面には大きな太い釘が何本も飛び出ていた。釘バットにも似たそれを振り被ると、添木の背中を思い切り殴る。

「ぐあああっ!」

飛び出た釘のせいでぱっくりと裂けた皮膚から血飛沫が飛び散る。呆然とそれを眺めていた田子谷のレインコートに返り血が掛かった。

「まだ未成年なら処女もいただろうな。可哀想に、一生のトラウマだ。お前も味わってみるか?破瓜の痛みを」

都は添木の臀部へと鉄パイプの先端を押し付けた。

「いやだっ、助けて!お願いっ、やめてください!」

「自殺した生徒もそう懇願しただろうな」

低くそう呟くと、都は釘の飛び出た鉄パイプを勢いよく添木の肛門へと突っ込んだ。

添木は人間らしからぬ濁った絶叫と共に、勢いよく血の混じった吐瀉物を吐く。

肛門に捩じ込んだ鉄パイプの隙間から絶え間なく鮮血が噴き出して、金属の台を汚していく。

「田子谷、あの釘のついた鉄パイプは俺が改造したんだよ。前に言っただろ?DIYが好きだって」

都はそう言って幼い子どものようにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。レインコートに付着していた返り血の滴が、都がジャンプする度にパタパタと雨粒のような音を立ててブルーシートの床に散る。

田子谷はその場に立ったまま、白目を剥きぶるぶると震えている添木を見下ろした。

「これがあなたの趣味……」

「そう!いい趣味だろ?俺の妹はさあ、実の親父に犯されて殺されたんだよ。俺は痛くても苦しくてもなんとか耐えられたけど、まだ小さい妹は一度犯されただけで簡単に死んじまった」

そう言うと、都は添木の尻に刺さったままの鉄パイプの先に脚を掛け、体重を掛けておもいっきり蹴り入れた。

「ごぶぁっ」

胃まで鉄パイプが達したのか、添木は激しく痙攣しながらさっきよりも大量の血を口から吐き出した。

「まったく理不尽だよなあ。 妹は────陽葵ひまりは生きて幸せになるべきだった。なのにこいつみたいな性犯罪者ゴミカスに呆気なく殺された。……俺は陽葵を差し置いてのうのうと生きてる人間がみんな憎い」

田子谷は何も言わなかった。都は田子谷にゆっくりと歩み寄り、彼の頬を血に濡れた両手で包んだ。吐息がかかる距離で、田子谷に微笑んでみせる。

「お前のこともさあ、初めて会った時からずーっと大嫌いだったんだよ」

くすくすと都は笑って田子谷に頬を寄せた。耳朶に唇をつけて猫なで声で囁く。

「うるさいしウザいし、馬鹿真面目のいい子ちゃんで……そのくせ何の苦労もしてねえ幸せそうなところが本っ当にキショいんだよ。……なあ、お坊ちゃん。冷水浴びせられて目が覚めたかい?」

「自分は……」

田子谷が口を開きかけた時、ガタンとガレージの奥から物音がした。

都はぱっと振り返り、笑みを浮かべたまま音のした方向に視線をやった。

「やっぱり来やがった。ほら、犯人サマのご登場だぜ」

都は飛び跳ねながら田子谷の首に抱きついた。

ガレージに置かれたロッカーの陰から、ふらふらと女が現れる。

ボサボサの髪に般若の如き形相をしたその女は、しかし確かに見覚えがあった。

「……里木芽美!」

「そうだ。今日はあの女を誘き出すためにこのデブ親父を用意したのさ」

芽美はガタガタと震える手で包丁を構える。都は刑事の時にそうするように、人好きのする笑みを浮かべた。

「よお、クソ女。『前回』もこっそり隠れていたのか?」

「……前はアンタのこと殺すつもりで尾けたの……まさかアンタの方が人を殺してるとは思わなかった」

芽美は目を血走らせ、ぎりぎりと歯を食いしばる。

「私は不幸を愛せなかったから、ルライの園には行けない。だから私がアンタを殺して不幸になるより、アンタ自身に不幸になってもらうことにしたの」

────優作さんに「不幸を肩代わり」させるために崖原の死体を持ち去り、河川敷で手をルライ式に組ませたのか。

田子谷はホラー小説などに出てくる、ヒトガタを用いた呪詛返しを思い出した。

しかし仮にも信じていた宗教を呪いに利用するとは……。

「あの日は署から呼び出しがあって、途中で切り上げざるを得なくなった。まだ後で処理するつもりで崖原を放置し、俺は署へ向かった。……そしたら河川敷に崖原の死体が出やがった」

「優作さんは最初から自分の周辺人物に目星を付けていたんですか?」

「付けてたけど、最初はお前か敏成だと思っていたな。まさかこのクソ女だとは」

都は呆れ顔で肩をすくめると、芽美との距離をまた一歩詰める。

芽美は包丁を構えてはいるが、顔は青ざめ、竦んだ足もぶるぶると大きく震えていた。怯えを孕んだ瞳で都を睨みながら、及び腰で一歩後退する。

一方の都は自分に向いている得物に臆することなく芽美との距離を更に詰めた。

「さて、どう殺してやるか……俺を出し抜こうとしやがった分はたっぷり償ってもらうぞ」

「いやよ、来ないで!」

芽美は滅多矢鱈に包丁を振り回した。

「できないと思ってるんでしょ!?本当に刺すから!」

「できないなんて思わねえよ。お前は二回やり遂げたもんな。崖原祥夫と、お前の夫を」

都はそう言いながら右手の人差し指と中指を上げて見せた。

田子谷は芽美と都を交互に見比べる。

「崖原を殺したのは里木芽美?」

「俺はあんなに楽な死に方はさせない。トドメを刺したのはこの女だっての」

都はけらけらと笑って芽美を指差した。芽美は大きく被りを振って、甲高い声で叫んだ。

「違う、違う!アンタのせいよ!ふたりともアンタのせいで死んだの!」

芽美は両目いっぱいに涙を浮かべていた。そのくしゃくしゃに歪んだ顔は老婆のようにも、幼い子どものようにも見えた。

彼女は大粒の涙を流しながら包丁を逆手に持ち替えると、自身の喉元へと刃先を当てた。

「そして私もアンタのせいで死ぬのよ!」

芽美は、そう言うと包丁を自身の首に突き立てた。

 

白い喉が破けて、傷ついた動脈から噴水のように血が噴き出した。

口から勢いよく血を吐きながら、芽美の体がふらりと前のめりになる。

都は倒れてきた芽美の体を片腕で抱き留めた。口からも喉からも赤黒い血を滴らせる彼女を引き寄せると、その耳元に唇を寄せる。

「お前が死ぬのはお前のせいだ。せめてそうだな……汝、不幸を愛せよ」

芽美の瞳孔が絶望に大きく見開かれた。

都はだらりと力の抜けた芽美の体から手を離すと、床に転がったそれをつまらなさそうに見下ろした。

「残念だ。あっさり死にやがって」

「……崖原と違って里木さんの遺体はルライ式に手を組んでいませんでしたが、なぜなんでしょう」

「それはこの女が敏成の死に責任を感じていたからだ。ルライ式のポーズなんて取らせたら不幸は自分に降りかかると思ったんだろ」

都は怠そうに伸びをして、田子谷に向き直った。

「……それで?お前はいつまでそのいい子ちゃんのフリを続けるつもりだ?」

「フリ、ですか?」

田子谷はきょとんとした表情で首を傾ける。都は田子谷の胸倉を掴み、彼の体をブルーシートを貼った壁へと押し付けた。

「せっかく全部見せてやったのに、何平然としてんだって聞いてんだよ」

怒りのままに田子谷の首へナイフを押し当てる。

都は苛立っていた。自分が人を殺す所を見れば、この若者は怯えて命乞いをするか、あるいは騙されたと憤慨し始めると思っていた。しかし、彼は始終冷静だった。

田子谷はヘーゼル色の瞳を柔らかく細め、笑みを浮かべた。

それはいつもの屈託のない笑みではない、どこか恍惚にも似た表情だった。ぞわりと背筋を寒気が走る感覚に息を飲む。

「平然とだなんてとんでもない!俺、すっごく嬉しいんですよ。やっとあなたが心を許してくれた」

都は咄嗟に田子谷から離れようとしたが、すかさず手首を掴まれて引き寄せられて逆に体が密着する形になった。

レインコート同士が擦れて耳障りな音を立てる。

都は手からナイフを取り落とした。キン、と乾いた音と共に、ブルーシートの上に銀色の刃が転がる。

「そういえば俺の趣味の話をまだしていなかったですね!俺、好きな人のことは全部知りたいタイプなので……あなたの趣味もいつどこで何をしているかも何を食べたのかも何時に寝るのかも全部全部把握するのが趣味なんです。ああ、それにあなたの過去についても詳しく調べました!だから優作さんが自分からご家族の話をしてくれた時本当に嬉しかったんですよ。少しずつあなたが俺に心を開くのが可愛くて愛おしくて……今日ここに連れてきてくれたのも俺のこと正式に恋人として認めてくれたってことで合ってますよね?」

都は否定の言葉を口にしようとしたが、脳の理解がこの状況に追いつかずただ浅い呼吸を繰り返すことしか出来ない。

田子谷はあくまで優しく、壊れ物のようにそっと都の体を抱きしめた。

「刑事のあなたも人殺しのあなたも全部全部大好きです……!自分は絶対に優作さんのこと裏切りませんから……」

「な、何が……望みなんだ……?」

都は掠れた声でようやくその言葉を絞り出した。田子谷は不思議そうに目を瞬かせる。

「望み……?……それじゃあ、ふたりの時は俺のこと『光司こうじ』って下の名前で呼んでほしいです!」

「……光、司……」

震える唇で名を呼ぶと、田子谷は嬉しそうに大きく頷いた。

────冷水を浴びせられたのは俺の方だ。

熱を持った掌が頬に触れ、優しく顎を掬われる。そのままそっと唇が重ねられた。

ガレージの時計は二十三時を刻んでいる。

土曜日の夜は、まだ明けない。








薄暗いマンションの一室────1LDKのその部屋を構成する家具はシンプルなソファにローテーブル、ベッドのみで、室内の寂寞を誤魔化すかのように多種多様な観葉植物の鉢が所狭しと並べられている。

ウンベラータ、モンステラ、ベンジャミンバロック……育てるのが難しいとされるアジアンタムやアロカシヤも、皆茎や葉にしっかりと張りがあり、生命力に溢れている。温度管理や水やりに常に細心の注意を払っているからだ。

職業柄家を空けやすいため、水が欠かせない植物にはひとつひとつのポットに高額な電動の自動給水器を設置している。

日曜の早朝など、植物のためにはなるべくカーテンを開けて陽の光を取り込む時間のはずだった。しかしその日の彼は遮光カーテンを閉め切ったまま、ベッドの上で静かに目を閉じていた。とっくに覚醒はしていたが、明け方まで続いた情交の気怠さが抜けず、無理に体を起こす気にはなれなかった。

「優作さん」

筋張った指が、白く華奢な背を撫でる。反射的にびくりと肩を跳ねさせ、都は怯えた顔つきで唇を噛んだ。田子谷はその様子を見て愛おしそうに微笑む。

「里木芽美は、明日の朝に口兄市の廃ビルで見つかって被疑者死亡で処理されるように父に頼みました」

「……うん」

「俺たちの管轄外で起こりますから、捜査権は口兄署に移るでしょう」

「わかった」

ベッドの縁に腰掛けると、田子谷はそのままシーツの中に潜り込んで都の体を背後から抱きしめる。少し癖のある黒髪を指で梳いて、昨晩の痕がいくつも残る項へと口付けを落とした。

「ご褒美をくれませんか」

田子谷の言葉に都はもぞもぞとシーツの中で向きを変えて、短い茶髪の頭をそっと撫でた。意外と柔らかく軽やかな髪質だけ見れば、毛艶のいい大きな犬を撫でているかのようだった。

しかし彼は都が思っていたよりもよっぽど人間らしい。狡猾で計算高く、欲望のためなら平然と他者を踏み付けられる。

多分、もう二度と離してもらえないという確信があった。髪を撫でられて幼い子どものようにはにかむこの若者は、都がどんなに遠くに逃げても軽々と掬い上げて手の中へと捕えてしまうのだろう。

そう、あくまでこの男は優しいのだ。真綿で首を絞めすらしない。両の掌でそっと包んで、ただ退路を塞ぐだけ。

それは都にとっては激しい嫌悪であり、未知への恐怖であり、そして僅かに────ほんの僅かに、心地よい諦念でもあった。




(終)



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