人形のような美しい貌の女は、青白い肌を晒しながらローテーブルの上に横たわっている。
女の腹は大きく縦に裂かれ、魚を三枚におろした時のように左右に開かれている。内臓は洗浄されて一口大に切り分けられ、薔薇を模した形に美しく盛りつけられていた。その体の各所には色とりどりのエディブル・フラワーが惜しみなく飾り付けられている。
────食用人とはよく言ったものだ、と伊妻は女の髪に飾られたオレンジのナスタチウムを指で弄びながら思う。
西暦21××年、アメリカでヴィーガン団体のリーダーが政権をとったことで世界的に動物愛護の風潮が高まり、欧米諸国を皮切りにして食用家畜の屠殺が全面的に禁止された。アメリカと近しい関係を保ちたい日本も屠殺禁止を余儀なくされ────しかし食に対しては貪欲な日本人が肉を諦めきれず代替案として提示したのがこれだ。
牛や豚や鶏は可哀想なのに人を殺して食べるのはOKだなんて本末転倒だろうと伊妻は思う。無論最初は各所から反発が起こったが、肉の誘惑には敵わなかったのかエディブル・ヒューマン制度が法で可決された途端にその批判も沈静化した。
所詮はポーズなのだ。私たちは人を食べることには一応反対しましたよ、という素振りを義務的にでも見せておけば共喰いの免罪符になると皆思いこんでいる。そして人を食べるなんて悍ましい、と激しく罵ったその舌で今頃人の内臓に舌鼓を打っているのだろう。
「伊妻くん、どこ食べたい? 私取り分けるよぉ」
鼻にかかる声音でそう言って、横に座っていた坂元が微笑む。ふわりと坂元のつけた甘ったるい香水が鼻腔をついて、伊妻は坂元に見えないように小さく顔を顰めた。
「坂元ちゃん、ありがとねえ。でも自分で食べる分もちゃんと取りなよ?坂元ちゃん細いんだからさ」
そう言って彼女の二の腕をカーディガンの上からさすってやれば、機嫌を良くした坂元は伊妻の肩に頭を乗せてきた。
「おっ、伊妻先生も隅に置けないねえ」
右隣に座っていた所長がにやにやと笑いながら伊妻の脇腹を肘でつついてくる。
「坂元さん、俺の分もよそってよ」
「えー?所長は自分でやってくださいよぉ」
坂元は眉を顰めつつも取り箸を手にし、女の心臓の辺りの肉を小皿に取り分ける。
「ありがと〜!俺がハツ好きだって覚えててくれたんだ?」
「毎回取り分けさせられてたらいやでも覚えますって」
呆れたような坂元に手渡された小皿を受け取り、所長は早速肉に箸をつけた。
「うん、やっぱり若い女は臭みがなくて歯ごたえがいいね」
真横でくちゃくちゃと音を立てながら赤黒い心臓を咀嚼する姿を見ていると、食欲が消え失せる。
伊妻が溜息をつきながら顔を正面に向けると、ふと向かいに座っている同僚と目が合った。
────菰野乃木さん、だっけ……。
男の仄暗い瞳は伊妻を数秒無感情に眺め、やがて興味が無いのかすげなく逸らされた。
屠殺担当の菰野乃木は、掴みどころのない男だ。屠殺の腕はピカイチらしく同僚たちから一目置かれているが、寡黙で人付き合いを嫌い、この職業の特権とも言える新鮮なエディブル・ヒューマンの味見すらしない。首を横切るように大きく走る傷跡も、彼をより一層取っ付きづらくさせていた。そういえばこういう飲み会の席で菰野乃木を見かけるのは初めてだ。
「菰野乃木さんさあ」
伊妻が声をかけると、菰野乃木は長い睫毛の下の真っ黒な瞳を再び伊妻に向けた。
「……何」
「飲み会来るの珍しくない?あ、俺の事わかる?家畜医の伊妻だけど」
「ああ」
こくりと頷くと、菰野乃木はジョッキに注がれたハイボールを一口だけ口にして、それきり黙り込んでしまった。
「今日はなんで来てくれたの?」
めげずに話しかけると、菰野乃木はまたハイボールを一口飲み、ぽそりと小さな声で答える。
「……所長に無理矢理連れてこられた」
「おいおい、無理矢理だなんてそんな言い方ないだろ菰野乃木くん」
所長が冗談めかして言うと、周囲の社員がどっと笑う。所長と坂元に挟まれて窮屈さを感じていた伊妻は掘りごたつの席から立ち上がった。
「ねえ、俺横に行っていい?」
坂元が行かないでだの何だのとぼやいていたが、菰野乃木に断られる前に強引に彼の右隣に座り直す。彼の取り皿はまだ何も食べていないのか綺麗なままだった。
「食べないの? なんか取ってあげよっか?」
「いい」
菰野乃木は緩く首を左右に振った。間近で見ると思いのほか美しい男だ。すっと通った鼻筋と憂いを帯びた目元、形のいい唇も、どこか屠殺人とは思えない優雅さを感じる。伊妻は不躾に彼の横顔を凝視した。
「菰野乃木さんってよく見るとキレーな顔してるね」
「……お前も顔は整っているんじゃないか」
黒い瞳は伊妻を映したかと思うとゆったりと三日月型に細められる。
「────まるでエディブル・ヒューマンみたいだ」
ぞくりと背筋が冷えるのを感じ、伊妻は息を飲んだ。
「……あはは、冗談上手いね」
確かに、エディブル・ヒューマンは基本的にビスクドールのように見目麗しく作られている。不細工だと食べる気がしないからだそうだ。
────まずいな、一瞬バレたのかと思った。
背にじっとりと汗をかくのを感じつつも、恐ろしさより菰野乃木という未知の男に対する興味は尽きなかった。
「ねえ、よかったら連絡先交換しようよ。LINEやってる?」
「……お前みたいなのが俺に構っても何も面白くないと思うぞ」
菰野乃木は呆れたようにそう言いつつもメッセージアプリの連絡先を教えてくれた。アイコンの画像は未設定で、名前は『菰野乃木佳史』とフルネームで記載されている。
「下の名前って、なんて読むの?よしふみ?」
「けいし。変わった読み方だからよく間違われる」
佳史って呼んでいい?と聞くと菰野乃木はさすがにその表情に困惑を滲ませた。
「距離を詰めるのが早いな、お前は。……別に好きにしていい」
菰野乃木は意外と押しに弱く、甘い男だった。伊妻は調子に乗って菰野乃木に酒を飲ませ、自身も大いに酒を飲み、ついでに二次会に行かずに二人で飲み直すことにした。
選んだのは適当に入った場末の大衆居酒屋だった。店内の奥の中でも更に隅の方テーブルに二人で向かい合って座る。
酒が二人分テーブルに運ばれてくると、伊妻は口を開いた。
「ねー、やっぱ屠殺してると肉食べづらくなるもんなの?」
菰野乃木はアルコールで薄らと朱の差した目尻を緩めた。
「ううん。俺は人の肉は大好きだよ」
「でもさっきの飲み会で佳史は一口も食べてなかったじゃん」
伊妻はお通しで運ばれてきた冷奴の上の茗荷を箸の先でつついた。
「肉嫌いなのかと思った」
「あれは不味いから食べない」
「あれって……でもあれ、そこそこいいランクの雌のエディブル・ヒューマンだよ? あれでも不味いなら何なら食べるのさ」
菰野乃木は丁寧な箸捌きで冷奴を一口大に切り、口に運ぶ。
「エディブル・ヒューマンが普段何を食べているか知らないのか」
「飼料は臭みを消すために野菜でしょ。あとは肥らせるための薬と味をよくするためのサプリメント……それくらい家畜医だから知ってるよ」
「野菜と薬で育つ肉が美味いわけがない」
醤油で濡れた口元を赤い舌で舐め、菰野乃木は薄らと笑みを浮かべた。
「肉を喰らった強い肉こそが至上だ」
「肉を喰らう肉って、普通の人間じゃん。人殺しは違法だよ」
伊妻は追加のビールを飲みつつも現在進行形でみるみる内に酔いが醒めていくのを感じた。菰野乃木は何がおかしいのかくすくすと笑い声を上げ、身を乗り出して伊妻の耳元に唇を寄せた。
「エディブル・ヒューマンが人として生きるのも違法だぞ」
一瞬、呼吸が止まる。硬直している伊妻の耳朶を舌で舐めると、菰野乃木は渋い顔をした。
「ああ、やはり不味いな、食用人は」
伊妻はエディブル・ヒューマンとして牧場で生を受けた。しかし生まれつき体が弱く食用に適さなかったため、牧場主の家にペットとして置かれた。本来なら基準値に満たないエディブル・ヒューマンは殺処分するのが常識なので、牧場主はかなり特異な人物であると言えるだろう。
彼は伊妻に読み書きを教えた。食事の作り方も洗濯の仕方も人の屠殺のやり方も同様に伝授した。伊妻はなぜ彼がそんなことをするのか分からなかった。自分以外のエディブル・ヒューマンは躊躇いなく屠殺するのに、彼は伊妻のことだけをまるで人のように扱った。
そんな中、牧場主に彼の妻を紹介されたことでその理由を知ることになった。彼の妻は幼い息子を亡くし、心を病んでいた。伊妻はその死んだ息子────冬吾の代替品として彼の妻にプレゼントされたのだった。
牧場主は息子の死を役場に届け出ていなかった。だから伊妻はそっくりそのまま彼の息子に成り代わることができた。
「……今までバレたことなかったんだけど」
「俺は匂いで分かる。鼻がいいんだ」
少し得意気にそう言うと、菰野乃木はグラスに残っていたウイスキーを飲み干し、席を立った。
「お前にいいものを食わせてやろう」
「……いいもの?」
「腹が減っているだろう」
菰野乃木は椅子に掛けていた黒いレザーのジャケットを羽織ると、同じく黒いキャップを被る。伊妻はまだ席から立ち上がらなかった。
「だって冬吾もさっきのエディブル・ヒューマンを一口も食べなかっただろう」
彼は黒い瞳を細め、僅かに口角を上げた。
「────俺が食べられるわけないじゃないか」
弾かれるように席から立ち上がると、ガタンと椅子が音を立てたせいか周囲の客の視線が伊妻に集まる。
菰野乃木は笑みを浮かべたまま、伊妻に掌を差し出した。
「行こう。ここは賑やかすぎる」
伊妻は震える手でその掌を握った。菰野乃木の手は死人のようにひんやりとしていた。
菰野乃木に手を引かれるままに外の繁華街を抜け、向かったのは閑静な住宅街だった。人通りが少なく、街灯もまばらにしかない。
「こんな所に店があるの?」
伊妻の問いに菰野乃木は答えなかった。伊妻は彼に殺されるのではないかという不安を覚えていた。
仕事帰りのOLらしき女が疲れた顔で二人の横を通り過ぎる。菰野乃木は足を止めた。
「────見ていろ」
そう言うか言わないかの内に菰野乃木は伊妻の手を離し、音もなく女に忍び寄った。そしてズボンのポケットから取り出したハンカチを丸めて片手に持つと、背後から女の細い頸に腕を掛けた。
悲鳴を上げようと大きく開けられた女の口に手早くハンカチを突っ込むと、そのまま力を込めてサイドヘッドロックをする。ミシミシと女の骨が軋む音がして、やがて数秒で女の手脚からだらりと力が抜けた。
「────殺した?」
「いや、気絶させただけだ」
菰野乃木は女を横抱きにすると平然と歩き始めた。
「人が来たらどうするの?」
「来ない。こいつがこの道を同じ時間に退勤し、他に誰も通らないのはリサーチ済みだ」
彼の言うとおり、そこから彼の用意した黒いバンに着くまで誰一人伊妻たちとすれ違うことはなかった。
菰野乃木は伊妻にバンの助手席に乗るように促すと、自身は女を寝袋に入れてトランクに押し込み、運転席に乗り込んだ。
「ねえ、あれ起きたら困るんじゃないの」
「お前は面白いな」
菰野乃木は伊妻の質問を無視して鼻で笑った。
「人が死ぬであろう恐怖より逮捕される心配か?」
「別に、心配してる訳じゃない」
意地になって伊妻はそう返したが、実際先刻から不安なのは女が目を覚まして警察に電話をかけないかだった。何もしていないとはいえ、このままでは伊妻も間違いなく共犯者だ。
「安心しろ、すぐに着く」
どこへ、と聞くと菰野乃木はただ一言「家」と答えた。菰野乃木の自宅に向かうのだろうか。
数分走らせると菰野乃木は古い日本家屋の前に車を停めて、トランクから女の入った寝袋を取り出した。
「佳史の家なの?」
「いいや。家主は鈴木か田中か……それとも佐藤だったかな。表札を見ればわかる」
────つまりはこの家の家主も殺したのか。
呆れつつも、不思議と恐怖はなかった。菰野乃木が女を襲った瞬間から、伊妻の中で自身が殺されるのではないかという怯えはなぜか消え失せていた。
家屋の中は伽藍堂で、床にも壁にも隙間なくブルーシートが敷き詰められていた。その各所にインクをぶちまけたような赤黒い汚れが散らばっている。壁には錆びた包丁や鋏が何本も吊るされていた。
菰野乃木はキャップと上着を脱ぎ、次いで着ていた黒いTシャツも脱ぎ捨てて床に放り投げた。彼の肌は病的に青白い反面筋肉が大きく隆起しており、いたる所に古い傷跡があった。裸の菰野乃木は赤い髪も相俟って、まるで手負いの狼のように見える。
「お前も脱げ」
「……え?」
ぼうっと眺めていた伊妻が素っ頓狂な声を上げると、菰野乃木は眉を顰めた。
「服を汚したくないなら脱いでおけ」
言うだけ言うと菰野乃木はジーンズと下着まで脱ぎ去ってしまった。伊妻も慌てて服に手をかけ、脱ぎ始める。
菰野乃木はそのまま平然と壁にかかった大きな裁ち鋏を手に取り、床に転がしていた寝袋を開けた。
女はまだ意識を取り戻していないようだった。菰野乃木は女の着ていたスカートとブラウスを鋏で裁ち切ると、背中側から剥ぎ取って脱がせた。地味な綿のショーツと色の揃っていないベージュのブラジャーも雑に鋏で切り、体から抜き取る。
狭い部屋の中に裸の男女が三人。滑稽かつ奇妙な状況だ。これから行われることを考えれば尚更。
やがて女が呻いて、その瞼が開いた。彼女は裸になった自分の体を見て短く悲鳴を上げ、剥き出しの胸部を手で覆った。
その刹那。菰野乃木は女の喉笛を真一文字に牛刀で掻き切った。ああ、胸じゃなくて喉を押さえれば数秒長く生きられたのに、と伊妻は半ば他人事のようにその様子を眺めていた。
女の鼻と口から噴水のようにごぽごぽと血が溢れて、飛沫が菰野乃木の白い顔と胸へと飛んだ。伊妻は菰野乃木と自分の服が血に汚れないように部屋の隅にそれらを避けて、あとは近くに座り込んで菰野乃木の屠殺を観察していた。
菰野乃木は牛刀一本で実に器用に女の四肢を解体した。腕と脚は関節ごとに切り分けて、頭と胴も切り離し、腹を縦に裂いて臓物を全て取り出してブルーシートの上に綺麗に整列させた。全裸で女を解体しているという事実を忘れるほど美しい手捌きだった。安全圏で野生の狼の狩りを目にしているような奇妙な気分に陥り、伊妻は首を傾げた。
「慣れてるね」
「まあな。────本来は殺さずに天井から吊るして半日置くんだが、今回は客人を待たせているから短時間で済むように部位ごとに血抜きをする。どの部位がいい?俺のおすすめはここ、大腿部の辺りか────所長の好物である心臓も美味い。冬吾は初めてだろうからしっかり加熱してから出してやる」
伊妻はううん、と顎に手を当てたまま暫く悩んで、「シェフに任せるよ」とからかい混じりに言った。家畜医としてエディブル・ヒューマンの構造は理解しているが、人肉食については初心者過ぎるので菰野乃木に従いたかった。
菰野乃木は悪戯っぽく口角の端を歪め、頷いた。
「お任せあれ」
彼は結局女の右大腿部の中間辺りを二切れ分カットすると、血のついた裸足のままぺたぺたと部屋の奥に消えていった。
伊妻は暫くその場に座っていたが、手持ち無沙汰になり菰野乃木の様子を見に行こうと立ち上がった。部屋を出ていく間際に女の死体をちらりと一瞥したが、エディブル・ヒューマンの死体を見るといつも気分が悪くなるのにただの人間が死んでも何も感じない。寧ろ菰野乃木の美しい屠殺を見た後だと愉快にすら思えた。
菰野乃木は奥のキッチンにいた。彼は大きなガラスボウルの中に女の大腿部の肉をまとめて入れ、その上から業務用のヨーグルトを注ぎ入れている最中だった。
「ヨーグルト入れるの?」
「血抜きと臭み抜きに最適だから」
彼はヨーグルトの容器に蓋をして冷蔵庫にしまうと、次に戸棚からハーブの入った瓶を取り出し、その中から数本の茎に付いた葉状のハーブをヨーグルトの中に埋め込んだ。
「それは?」
「ローズマリー。臭み消しに使う」
菰野乃木は少し肉にヨーグルトを揉みこんでから流水で手を洗うと、食品包装用のラップフィルムでボウルに蓋をした。
「一時間ほどかかる。シャワーを浴びて服を着てこい」
「わかった」
指で差された方に進むと廊下の奥に浴室があった。意外と念入りに掃除された清潔なそこでシャワーを浴びてから、さっき脱いだ服を再び着込む。
伊妻と入れ違いで菰野乃木は浴室に入ると、「部屋で待っていろ」とだけ言ってドアを閉めてしまった。伊妻は部屋がどの部屋を指すのか聞こうとしたが、シャワーのコックを捻る音に続いて湯を浴びる音が聞こえて来たので諦めた。
元きた廊下を戻っていると、小綺麗なドアがあったので開けてみる。ソファとローテーブル、本棚だけがある簡素な部屋だ。菰野乃木が休憩するのに使うのかもしれない。
伊妻は何気なく本棚の前に立った。屠殺に関する資格の本、ジビエの料理本、伊妻が読むような医学書から動物図鑑、古い日本の文学小説まで様々な種類の本が所狭しと並んでいる。
『エディブル・ヒューマンの歴史』を手に取って開く。ぱらぱらと捲ると至る所に色つきのペンで書き込みがされていた。菰野乃木が勉強熱心なのか、本に書き込むのが前の持ち主の癖なのかは分からない。どちらかというと後者な気がする。伊妻の目から見て、なんとなく菰野乃木は本に書き込みをするタイプには見えなかった。
本を閉じて棚に戻そうとして、戸棚の奥に一葉の写真が挟まっていることに気付いた。本をずらし、古ぼけたそれを引っ張り出す。
写真にはまだ十代らしき若い菰野乃木と、彼の父親だろうか、菰野乃木とよく似た男性が笑顔で映っていた。
「────おい」
背後から伸びてきた手に写真を奪われた。振り返ると、菰野乃木が音もなく背後に立っていた。赤い髪はまだしっとりと湿って水滴を垂らしていた。
「勝手に俺の物を漁るな」
「────ねえ、それって家族?」
菰野乃木は写真を眺め、少し気まずそうな顔をした。
「……俺の親父だ。屠殺とは縁のない文化人だった。エディブル・ヒューマンの制度が可決されてからも彼らの権利を主張して人肉食に強く反対していた」
菰野乃木は写真を本棚の奥の壁に戻した。どうやらあそこが定位置らしい。
「────そして、激しく活動をしすぎて国に消された。皮肉なことに俺は親父の死後エディブル・ヒューマンの屠殺人に引き取られて、ガキの頃から殺しだけをやって育った。だが二十代の時にこの首の傷を受けた」
自身の喉元を走る大きな傷を菰野乃木は指で差した。
「それって……」
「ああ、エディブル・ヒューマンに反撃を受けた。屠殺人が片付け忘れた鋏を隠し持っていて、切りつけられたんだ」
伊妻は言葉を失った。高い知能を持つエディブル・ヒューマンを屠殺するのは常に危険と隣り合わせだと言うが、まさか鋏で喉を裂かれるなんて。
「俺は奇跡的に死ななかったが、それから疑問を抱くことになった。食用に造られた家畜に鋏を隠し持って処刑人の喉を刺すほどの知能があるんだぞ。果たしてその家畜は────家畜というのも人間のエゴでしかない、エディブル・ヒューマンはただの人間じゃないか、と」
そこまで言うと菰野乃木は伊妻の頬にそっと掌を当てた。
「冬吾、今日お前と話して確信に変わった。お前たちはやはり人間だ。食用人など肉食のための詭弁でしかない。エディブル・ヒューマンは等しく人権を約束されるべき存在なんだ────親父は正しかった」
「で、でも」
伊妻は頬に添えられた菰野乃木の手を掴んだ。しかし、払い除けたくても払い除けることができない。決して物理的にではない。伊妻の気持ちの問題だ。
「佳史は……エディブル・ヒューマンじゃない人間を殺して食べてるじゃん」
「そうだ。さっきも言ったが、肉を喰った肉の方が美味いからだ」
菰野乃木はにやりと歯を見せて笑った。彼の歯は鮫のように一本一本が尖って鋭利だった。
「肉は不味いがエディブル・ヒューマンは遺伝子操作がされていて知能が高い────言わば優生種だ。だから言葉も分からないのにナイフを隠して襲う知恵があったんだ。高等な人間を残して下等な人間を喰うべきだろう、そうは思わないか」
ぞくりと背筋が総毛立つ。恐ろしいほど歪んだ優生思想だ。だが、やはり伊妻は菰野乃木の手を振り払うことができなかった。それはおそらく菰野乃木の理論なら────ありのままの自分でも、人権を得られるからだ。
「────そろそろ一時間経つな。さあ、食事の用意をしよう」
菰野乃木は微笑むと、伊妻の頬から手を離した。菰野乃木の触れていた場所だけがひんやりと冷たい。伊妻は恐ろしさと共に妙な心地良さを感じながら、その背中を追った。
菰野乃木はキッチンに入ると綿のエプロンを身につけ、シンクの上に寝かせていたボウルからビニールのラップフィルムを剥がした。
ヨーグルトの入ったボウルは血を吸ってピンク色に変色していた。菰野乃木はボウルから血抜きした肉を二切れとも取り出し、不織布タイプのキッチンペーパーでそれぞれよく水気を拭き取った。そして鉄製のフライパンをコンロに置くと、火を強火に調節した。
「焼き加減のお好みは」
勿体ぶった調子で菰野乃木がそう言うので、伊妻は思わず破顔する。
「ええっと、シェフのおすすめは?」
「ミディアム・レアかな。肉の柔らかさと旨味を引き出すにはこれが最適解だ」
「じゃあそれで」
菰野乃木は冷蔵庫を開けると何やら小さなタッパーを持って戻った。中には白っぽく四角い物体が綺麗に詰められている。
「それは?」
「『人脂』だ。昔は牛の体脂肪を整形して作っていたらしい。エディブル・ヒューマンのステーキを作る時も彼らの脂肪を油の代わりに使うが、俺が使うのは勿論肉食の人間の脂だ」
鉄のフライパンに人脂をひとつ落とすと、それは熱でじゅわっと音を立てて溶け出し、流れてフライパン全体に広がった。どこか甘く香ばしい匂いが鼻腔を擽る。
キッチンペーパーの上で休ませていた肉にミルで塩胡椒を振ると、菰野乃木は肉をフライパンの上に置いた。勢いよく油の弾ける音を立てながら肉が鉄板の上を滑る。
「冬吾、戸棚にワインがあるから出してくれ。マルベックのカテナ・アラモスを」
伊妻は菰野乃木の指さした硝子棚を開け、「ALAMOS」と大きく書かれたボトルを手に取った。
「これ?」
「そう、それ。横にオープナーもあるから開けておいてくれ。タンニンが強いから早めに抜栓する────本当はもう三十分でも早く開けておけばよかったんだが」
手際よく肉をトングで裏返しながら菰野乃木はつらつらと言葉を続ける。
「ワイングラスはその向かいに伏せてあるボルドーグラスにしてくれ」
「ボルドー?これで合ってる?」
「それはブルゴーニュ。そのふたつ左にある縦長の方だ」
言いながら菰野乃木は火を弱火に変えた。料理をしながら指示を出すなど器用な男である。本当にシェフに適性があるのかもしれない。
伊妻はグラスをふたつ手に取るとテーブルの向かいにそれぞれひとつずつ置いた。さっき開けたワインのボトルから芳醇な葡萄の香りが漂う。空腹を感じて思わず腹をさすった。
いつの間にか菰野乃木は火を止め、肉をアルミホイルで包んで皿の上に置いていた。
「数分寝かせる。その間に俺の分も焼く」
「いい匂いだね。……肉の焼ける匂いで美味しそうだなんて、初めて思った」
伊妻の言葉に菰野乃木は眉尻を下げ、少し表情を緩めた。
「同情していたのか?他のエディブル・ヒューマンに」
「そうだね。……いや、そうなのかな?違うかもしれない。俺はただ、彼らが食べられている姿を見るのが怖かった。自分が皿に盛られて食べられているのを想像してしまって」
「そうか」
菰野乃木はそれ以上深掘りして質問したり、伊妻の内心を慮ろうとはしなかった。伊妻にとっては菰野乃木の無関心さは心地よく感じた。伊妻がエディブル・ヒューマンだとしても菰野乃木にとって彼は父の正しさの証明でしかなく、伊妻がどう感じているか、どんな人生を生きてきたかに興味はないのだろう。
菰野乃木は伊妻の前に湯気の立つステーキの皿を置いた。向かいに自分の分の皿を置くと、フォークとナイフを綺麗に並べ、席に着く。ふたり分のグラスに血液のような赤黒いワインを注ぐと、ひょいとグラスを持ち上げてみせた。
「乾杯」
「……乾杯」
見様見真似でグラスを手に持ち、菰野乃木のそれと微かに触れ合わせる。カチン、と小さな音を立てグラス同士がぶつかった。
少量口に含んだワインは思ったより渋味が強くなく滑らかだった。果実感は強いが甘くはない。僅かな酸味が爽やかだ。
菰野乃木の顔を覗き見ると、彼は早速肉に手を付けていた。品のある所作で肉にナイフを入れ、一口大に切ったそれをフォークで口に運ぶ。口の中にじわりと唾が溜まって、伊妻も慌ててナイフで肉を切った。大腿部の肉は柔らかく、簡単に刃が通る。フォークを突き刺し、肉汁が溢れ落ちるのに気をつけながらそっと口へと入れる。塩胡椒は掛かっているので勿論塩味も感じるが、それよりも肉が蕩けるように甘い。歯で噛み切らなくても口の中で崩れてしまう。美味しい。
菰野乃木は食事中一切喋らなかった。そういうマイルールなのか、それとも単に料理に集中しているのかは分からない。肉を口に入れてはよく咀嚼し、ワインを飲んでまた肉に向かう。伊妻も皿が空になるまで黙々と目の前のそれを食べ続けた。
「────親父の復讐なんぞ考えていないが」
食後、口元を紙ナプキンで丁寧に拭いながら菰野乃木は口を開いた。
「ゆくゆくは旧人類が破滅して、エディブル・ヒューマン────新人類が覇権を取ればいいと思っているよ」
「お前だって旧人類じゃないの?」
伊妻が問うと、菰野乃木はゆっくりと首を左右に振った。
「俺は間の子だ。親父はエディブル・ヒューマンの女と番って俺を産ませた。俺と親父とその女以外、誰もそれは知らないが────」
その夜、伊妻は夢を見た。エディブル・ヒューマンが革命を起こし、旧人類の街を火の海に変える。彼らに読み書きを教えたのは伊妻だ。
そして新人類を率いるのは燃えるような赤毛の男。首元に真一文字の傷があり、暗い瞳をした処刑人。彼が手を掲げれば跪いた旧人類たちの首が跳び、皆一様にステーキになって皿の上に盛られる。テーブルに着いたエディブル・ヒューマンたちが、彼に拍手喝采をする。それが地獄か天国かはともかくとして、実に素晴らしいことだと伊妻は思った。
────人間は皆、彼の皿の上。
(終)