天国はここにある

地獄はおそらく常夏であろうと伊妻は常々考えている。冥府の門の脇には椰子の木とハイビスカスが茂っていて、閻魔はアロハシャツで死者を裁き分けるのだ。────そうでなければ夏の暴力的な暑さと湿度に毎年人々が苦しめられていることへの説明がつかない。地球温暖化の煽りを受けて日本も亜熱帯に近付きつつあるとひしひしと感じる。

「ノギさんは……なんか余裕そうじゃん」

ソファで『死のやわらかい』と書かれたハードカバー本を捲る菰野乃木は、やけに涼しい顔をしている。彼の額には汗の粒ひとつ見当たらなかった。人間より死者に近いこの男は交感神経というものが死んでいるのだ。

眼帯で隠れていない右の眼は、彼の長い睫毛の陰の下にいてさぞかし快適なことだろう。眼球がひとつに減っても彼の瞳は静謐で、涼やかで、酷く美しい。底のない黒い虹彩は、花すら咲かない暗く翳った森の奥を思わせる。

思わずこくり、と喉が鳴った。それを単なる喉の渇きであると自身に言い聞かせるため、伊妻は寝そべっていた床から立ち上がりキッチンに向かった。冷蔵庫から冷えた麦茶のピッチャーを取り出して、グラスへと注ぐ。

菰野乃木は血と水以外を飲まないので、麦茶は伊妻のために菰野乃木が用意したものだ。菰野乃木の住まいに、彼が伊妻のためだけに常備してくれているというそれだけでただのスーパーのパック麦茶が酷く貴重で有り難いものに感じられる。

氷を入れようか悩んでいると、菰野乃木がふと顔を上げた。

「午後の四時麦茶に水を足して飲むぬるいと感じ氷を入れる」

彼の低い声で静かに紡がれたその言葉に伊妻は首を傾げる。

「何? 本の中にそんな文あるの?」

「いや、今のは牧水・短歌甲子園で高校生が詠んだ短歌だよ。日常を感じる素晴らしい一首だと思うが────」

本を閉じて菰野乃木が立ち上がる。

「麦茶はどんな味がするんだ?」

菰野乃木の声音はやけに甘い響きを含んでいた。伊妻は冷えた麦茶を少し飲んでから、濡れた唇を舐めた。

「どんな味……ね。これは二条大麦だから大麦の香ばしさや苦味よりも甘味が強い……かな?」

「少し分けてくれ」

菰野乃木の腕がするりと首に回され、唇が重ねられる。肌に密着する彼の腕はひんやりとしていて、触れ合っていると脳が茹だるような嫌な熱気が抜けていくような気がして心地良い。

麦茶で冷えた口の中を熱い舌で掻き回され、徐々に口内が温くなっていく。気怠さを押し退けせり上がってきた劣情に菰野乃木の体を抱こうと手を伸ばした途端、心を読んだかのようにそっと体を離された。

「確かに甘いな。美味しい」

くすくすと声を上げ笑う姿に、明らかに焦らされていることへの苛立ちよりもこの数年で表情が豊かになったな、という感慨が込み上げてきた。伊妻はさっきとは違うさっぱりとした気持ちで菰野乃木の体を両腕で力強く抱き締めた。

「……暑いんだが」

「そ? 俺は冷たくて気持ちいいけど」

地獄が常夏だとしたら天国はこの男の肌の上にあるだろう。伊妻は一人で面白くなって、菰野乃木のさらりとした首筋に火照った頬を埋めた。

(終)