春。微生物が殖え、蛆が湧き、生命が生命を喰らう季節。
「それ」は薄汚れた建物の中から、芝生を駆け回る少年を見詰めていた。
太陽光を反射してきらきらと輝く淡い茶髪、湖面のような薄青の瞳。ふっくらとした頬は走り回ったせいで紅く火照っている。
大きな犬が少年にじゃれつき、彼の頬を舐める。「それ」は身震いした。犬が少年を食べようとしているのだと思ったのだ。しかし犬はすぐに少年から離れ、かけっこの続きを強請るため彼の周りをぐるぐると駆けた。檻越しに「それ」は安堵する。
しかし、見詰めすぎていたために少年が「それ」の視線に気付いた。彼は犬を引き連れて檻に駆け寄ってきて、丸い瞳を瞬かせた。
「こんにちは。君は誰?」
「それ」は困惑した。言葉を持たない「それ」には少年の言葉の意味がわからなかった。
やがて少年の父親がやってきて、慌てて彼を抱き上げた。
「こら、人舎には近寄るなと言っただろう」
「僕と同じくらいの子がいる。友達になりたい」
父親は表情を曇らせ、首を横に振った。
「駄目だ。こいつらは人間じゃない。あまり話しかけるな、言葉を覚えると厄介だ」
父親は言いながら「それ」を大切に抱き抱えると、自宅の方へと戻り始める。
「それ」は慌てた。
────違う。俺じゃない。俺じゃなくてあの子を連れて帰らなきゃ。
少年はいつの間にかやせ細り、檻の向こうから落窪んだ瞳で「それ」を見詰めていた。
少年のかさついた唇が微かに動いた。
「ばいばい」
「それ」は────伊妻冬吾は叫びながら目を覚ました。
「────どうした?」
ひやりとした指が汗ばむ頬を撫ぜる。顔を上げると菰野乃木の真っ暗な瞳と目が合った。
「……いや……何でも……ちょっと寝ちゃってたみたい」
書類仕事の最中に机に突っ伏してそのまま眠っていたようだ。当直室の時計は時刻二十三時を指していた。喉が乾き、僅かに頭が痛む。
「お前は働きすぎだ。だから嫌な夢を見るんだ」
言いつつも、菰野乃木はグラスに水を注いで机に置いてくれた。冷えた水で喉を潤すと、ようやく目が覚めてくる。
「だってさあ、働いてないと怖いんだよ。……ばれないか」
当直室には伊妻と菰野乃木の二人きりだったが、伊妻は声を潜めて怖々とそう告げた。
伊妻の言う「ばれる」とは即ち彼が食用人────エディブル・ヒューマンであるという隠された真実の露呈を指すのだろう。
菰野乃木は微笑し、静かに首を横に振った。
「ばれる時は働いていても働いていなくてもばれる────それでいえば、体調を崩して万が一にでも病院で裸を見られる方がまずいだろう」
エディブル・ヒューマンの背中には識別用バーコードと政府の認可マークの烙印がある。誰かに見られたら一瞬で気付かれてしまうだろう。
菰野乃木の言葉は至極正論だった。伊妻は溜息をつくと、特に急ぎでもなんでもない書類の束をまとめてデスクの端に避けた。
「……佳史はいいよね、印がないから」
八つ当たりじみた伊妻の言葉に菰野乃木は怒るでもなく目を細め、自身の首を横断する大きな傷跡に手を当てた。
「俺には印はないが、代わりにこれがある」
菰野乃木の言い方は誇らしげで、伊妻のそれが烙印ではなく聖痕であるかのような口振りだった。
────優生思想の異常殺人鬼め。
脳内で悪態をつくと、伊妻は席を立った。
「どこに行くんだ?」
「人舎の見回り」
菰野乃木を置いて当直室を出ると、伊妻は人舎の方向へと歩き始めた。また働きすぎだのなんだのと菰野乃木の声が後ろから聞こえた気がしたが無視をした。
エディブル・ヒューマンではない「人間」を初めて食べたあの日から、伊妻はほとんど週末ごとに菰野乃木と会っている。会って一緒に買い物をしたり、映画を観たり友人の真似事をして────そして夜は共に人を食べるのだ。
そんなにも人肉の味が忘れられないのか、と問われると答えに窮してしまう。確かに菰野乃木の作る料理は美味しい。しかし伊妻はそれに食事や娯楽以上の意味を見出している。
旧人類へのささやかな報復といっても過言ではないだろう。菰野乃木佳史という革命家の手によって旧人類が屠殺され、皿に盛られるのを間近で見ていたい。欲をかけば菰野乃木がもっと大量の人間を殺している姿が見たいのだが────彼は食べる分しか殺さない。伊妻には、それがもどかしかった。
人舎へ近付くにつれ、伊妻は異変を感じ始めていた。食用人たちがやけに騒がしい。マスクを着け、手袋と靴のカバーを着けてから人舎へと入る。
何人かのエディブル・ヒューマンたちが不安げに伊妻の顔を見詰めた。彼らは家畜医である伊妻に対しては従順で大人しい。伊妻は立ちすくむ彼らの間を通り、タイルの上で蹲っている雌の若い個体に近付いた。長い黒髪を持つその個体は、床に転がったまま何度も苦しげに咳き込んでいる。その手首を掴み、脈をとる。やけに早い。顔が赤く、体全体が汗ばんでいる。
「……感染症……?」
顔から血の気が引くのを感じた。本来、無菌を保っていたはずのこの人舎でパンデミックが起こるとは思えなかった。しかし、嫌な予感を裏付けるかのように人舎の別の場所でも咳き込む音が聞こえてきた。
伊妻は無線機ですぐに菰野乃木を呼んだ。菰野乃木は連絡を受けると防護服を着て人舎へと駆けつけた。
菰野乃木が人舎に入ってきた途端、エディブル・ヒューマンたちは蜘蛛の子を散らすように伊妻から離れてみな壁際へと逃げた。菰野乃木が屠殺人だと知っているからだ。しかし倒れていた雌の個体は逃げる気力もないのか、浅い呼吸を繰り返しながら地面に伏している。
「こいつを隔離するか」
「でも多分感染してるのはこの個体だけじゃない。他の個体も咳をしてた」
「ふむ……取り敢えず所長に連絡する」
「待って」
人舎を出ようとする菰野乃木の腕を掴んで止める。
「────このままだとここに居る食用人全員が殺処分になる……百人だよ、佳史。病気じゃない個体も含めて百人が殺される」
菰野乃木は不思議そうに首を傾げた。
「それはそうだろう。残念だがこいつらは助からない」
伊妻は菰野乃木の言葉に衝撃を受けた。新人類を優生種だと断言する彼が、平気で虐殺を受け入れるとは思ってもみなかったのだ。
「────冬吾。大きな革命を起こす覚悟がないのなら、あまり彼らに肩入れしすぎるな」
冷めた口調で菰野乃木は伊妻の手を振り払った。そして、事務所にある電話で所長に連絡を入れた。
所長と、そして保健所の職員たちは電話から幾許も経たないうちに人舎へとやってきた。
「いやー、大変だったね。伊妻くん、菰野乃木くん」
伊妻が青ざめた顔で俯いたままだったので、菰野乃木が代わりに状況の報告をした。
自宅待機を命じられたため、菰野乃木は自分の車に伊妻を乗せて隠れ家へと連れて帰った。
「……冬吾。何か食べるか?」
「……要らない」
伊妻はリビングにあるソファに力なく寝転がり、虚空を見つめていた。
────伊妻にとってショックだったのは、菰野乃木がエディブル・ヒューマンたちを見捨てたというただそれだけではなかった。伊妻が夢見た革命の意思が菰野乃木には微塵もないと、今回の件で気付いてしまったことが最も彼を絶望させた。
────分かっていたことじゃないか。佳史は父親の復讐など考えていないと以前明言していた。
それでももしかしたら、彼ならばいつか。そんな希望的観測で菰野乃木を英雄に祭り上げようとしていた。
そして、自分をエディブル・ヒューマンの中でも特別視してくる菰野乃木のその態度に優越感を抱いていた。菰野乃木は革命家で、彼の特別な存在は自分であると────まるで白馬の王子様を夢見る乙女のように、年甲斐もなく浮かれていた。
しかし、先刻のあの態度を見ていたら菰野乃木は伊妻のことも簡単に見捨てるかもしれない。「残念だが助けられない」なんて、冷淡にそう告げて。
シャワーを浴びてきたのか、体から湯気を立てながら菰野乃木がリビングに戻ってきた。伊妻はソファから立ち上がり、菰野乃木の正面に歩み寄った。
「……どうした?」
「俺って……お前にとって何?」
菰野乃木は困惑気味に瞬きした。
「何、とは……? 友人だ」
「ただの友達? ……特別な友達?」
青白くも筋肉の隆起した胸に触れる。自分が触れても乱れることなく一定のリズムで鼓動を刻む心臓が忌まわしい。
「特別かそうじゃないかで言えば、特別だ。他の奴らとお前は違う」
「じゃあもっと特別だって思わせてよ」
濡れた赤髪を梳き、耳の縁に指で触れる。次に青白い頬に、そして下唇に。伊妻が顔を近付けると、菰野乃木は薄く笑って彼の肩を押し、体を引き離した。
「……そんなことをしなくても、俺はお前を見捨てたりしない」
必死さを見透かされ、羞恥で顔が赤くなるのを感じた。俯いた伊妻の頭をぽんぽんと軽く叩き、菰野乃木は自分の部屋へと戻っていった。
翌朝、所長に呼ばれ二人揃って出勤した。待っていたのは所長と数人の職員、そして白衣を着た壮年の男性だった。
「昨日風邪症状のあった個体なんだが────真菌性の肺炎だった。本来人間ならばかかることのない微弱な病原菌だが、エディブル・ヒューマンは免疫力が弱いから感染したようだ」
「そうでしたか……。そちらの方は?」
「ああ、彼は政府が派遣してくれた医者だ。昨日現場に居合わせた伊妻くんと菰野乃木くんには一応医師に健康状態を診てもらってほしい」
伊妻は思わず菰野乃木の顔を見詰めた。健康診断は、今まで何かと理由をつけて誤魔化してきた。しかし職場で感染症が発生したとなっては話は別だ。
「……皆の前で脱ぐんですか?」
菰野乃木が躊躇いがちに問うと、所長は苦笑した。
「なんだ、恥ずかしいのかね? 政府の用命だから記録係が必要なんだよ。短時間で済むから我慢してくれ」
「────その、私は傷が多い……見苦しい体なので、」
菰野乃木は恐らく伊妻のために居合わせる人間がなるべく少人数で済むようにしようとしている。少人数であれば金で口止めできると考えているのかもしれない。しかし伊妻は旧人類のエディブル・ヒューマンへの偏見と差別を痛いほどに知っていた。
「君は屠殺人なんだから、傷はむしろ勲章だよ」
「しかし……」
「……佳史」
伊妻は菰野乃木の腕を掴んだ。菰野乃木は驚きに目を見開いた。
「……もう、いい」
「いい訳あるか! お前まさか……」
珍しく声を荒らげた菰野乃木を横目に、伊妻は着ていたシャツのボタンを外し始めた。
「……じゃあ伊妻くんからね。シャツを脱いで椅子に座って」
「冬吾、待て」
震える手でひとつ、またひとつとボタンを外す。心臓がドクドクと激しく脈打つ。一番下まで外してしまうと、シャツから腕を抜いてプラスチックの籠の中に放った。
伊妻の背後に立っていた職員が息を飲んだのが分かった。所長も見えてしまったのだろう、間抜けなほど口をあんぐりと開いている。
「あ、アンタ……人間じゃなかっ、」
言いかけた所長が口から血を吐いた。ひしゃげた顔から眼球が飛び出し、視神経と繋がったままタイルの床へと転がる。
菰野乃木はその両手で血と脳髄に塗れた金属製の小型金庫を抱えていた。返り血と肉片で汚れた顔を手で擦るとぎょろりと黒い瞳だけを動かし、職員たちが状況を把握するより速く壁際のスチールラックを掴んで薙ぎ倒しドアを塞いだ。その場に響いた大きな物音にようやく悲鳴が上がる。逃げようと走り出した男の職員の頭を素手で掴むと、菰野乃木はそのまま腕を振って男を放り投げた。勢いよく投げ出された男はロッカーの縁で強く頭を打ち、その場に倒れ込んで動かなくなる。次にデスクの上にあったアルミの定規を床に落として踏み割ると、菰野乃木は欠けた定規の切っ先で立ち尽くしていた医師の喉を大きく裂いた。
医師の頸動脈から噴き出した血が真っ白な壁をみるみる内に赤く塗装していく。
次に菰野乃木は内線の電話機に手をかけた女の手の甲にペンを突き刺すと、長い髪を掴んで何度もデスクに打ち付けた。ぶつかる音は一打撃ごとに濁っていき、直にトマトが潰れたようなぐちゃり、ぐちゃりという水っぽい音に変わった。ガタガタと部屋の隅で怯えていた最後の女性職員は菰野乃木が投擲したガラス製の灰皿が顔面に直撃し、折れた鼻から血を流しながらがくりと項垂れる。
伊妻はその一部始終を椅子に座ったまま呆然と眺めていた。
静かになったオフィスの中に、不意に半狂乱の笑い声が響く。それが菰野乃木のものであると、伊妻にはすぐに気付くことができなかった。その日、彼は菰野乃木が大口を開けて笑う姿を初めて目にした。
「とんだ喜劇じゃないか!」
菰野乃木は腹を抱えて笑いながら、バケツの中身を頭から被ったかのような返り血を差し置いて目に浮かぶ僅かな涙を拭った。
「『革命を起こす覚悟もなく新人類に肩入れするな』などと……この俺がよく言ったものだ!」
「……なぜこんなことを?」
伊妻が問うと、菰野乃木は椅子に座ったままの伊妻の肩を爪が食い込むほど強く掴んだ。
「……分からないか?」
「分からない、……分からないけど、あのさ、」
真っ赤に濡れた頬に触れると、濃い血の匂いが鼻腔を突いた。生暖かいのは職員たちの血液か、それとも彼の体温か。
「……キスしてもいい?」
伊妻と菰野乃木はオフィスを出ると、二人で人舎へ向かった。隔離室で虫の息のまま放置されていた女を菰野乃木が抱き抱え、伊妻は金庫から盗ったカードキーを使って新人類たちの足枷をひとつずつ順番に外した。しかし、彼らは逃げる素振りを見せなかった。
「……言葉が通じないっていうのは……難しいなあ」
伊妻は困惑気味に後ろ頭を掻いた。十代後半と思しき雄のエディブル・ヒューマンが近寄ってきて、伊妻の服の袖を引いた。
「ことば、……わかる」
「……分かるの?」
「しゃべってるを、きいておぼえた。でも、ばれる、ころされる……ので、だまってた」
「新人類は知能が高い。ここの牧場の馬鹿共が私語厳禁の規則を守らなかったから彼らは言葉を覚えたんだろう」
菰野乃木が言いながら人舎に入ってくると、新人類たちは怯えて後ずさった。伊妻は彼らを宥めつつ、声をかける。
「大丈夫、この人は君たちを殺さない。今から全員でここから逃げる。いい?」
彼らは戸惑いと共に顔を見合せていたが、最初に伊妻と話した新人類が前に出て、頷いた。彼がリーダー格なのかもしれない。
「みんな、ついていく。あなた、やさしい」
「途中で少し街を通るから、服を着せた方がいい。オフィスの方に職員用の予備の服が大量にある。足りなければタオルでもいい」
菰野乃木はそう言うと先導して歩き始めた。伊妻はリーダー格の少年に菰野乃木の後に続くように指示すると、残りのエディブル・ヒューマンたちを誘導した。
翌朝から、とあるニュースが世間を騒がせた。エディブル・ヒューマンを飼育する牧場が火事になり、出勤していたはずの職員数名と政府の派遣した医師が行方不明になったのだ。火の手は山全体に燃え渡り、救助のために山に入ることもできないまま三日三晩絶えず燃え続けている。消防職員は記者に対し、この冬の乾燥した空気の中ではまだ消火にどのくらいの時間がかかるか分からない、このままでは遺体の骨すら残らないだろうと嘆いた。
そう、冬だった。空気が渇き、生命が枯れ、炎が全てを焼き尽くす。残酷で、素晴らしい季節だ。