これを見つけてくれたのがどなたかは存じ上げませんが、どうか人助けだと思って、この手帳を下記の人物へと送ってください。
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takemichi Kaburada
あなたが担当してくださった兄夫婦の事件について、私がまだ話していないことがあります。
どうかこのことについて、私の甥を咎めたり、罪に問うたりはしないでください。これらすべての責任は、彼ではなく私にあります。
私の兄である菰野乃木燈一は幼い頃から頭が良く大人びていましたが、同時に人付き合いを酷く嫌う性格でした。
両親は私にあまり詳しい話をしたがりませんでしたが、兄は私が物心着く前に頭のおかしい男に誘拐されたらしく、その影響で徐々に暗い性格になっていった……とだけ聞いていました。
兄を誘拐した男は巷で有名な連続殺人鬼だったと自分で調べて知りました。
そう、あなたもよくご存知のあの食人鬼、笹倉です。
笹倉が具体的にどんな陰惨な殺人事件を起こしたのかは、私も高校生になってインターネットで過去の新聞記事を読み、初めて知ることになりました。
幼い兄は笹倉に気に入られて、なぜか食べられずに生きたまま何か月も手元に置かれたそうです。理由は知りませんし、兄は笹倉についてあまり話したがりませんでした。
そもそも、折角殺人鬼の魔の手から生還した相手に対して「なぜ兄さんだけ食べられずに済んだの?」なんて、さすがに聞けるわけないじゃありませんか。
今私は海外に居るので日本の最新の報道は分かりませんが、ネットのニュースなどを見るに笹倉は今も見つかっていないようですね。笹倉が死んだのか逃げたのかは分かりません。いっそ死んでいてくれれば嬉しいですが……。
とにかく警察が道端に座り込む裸足の兄を見つけ、保護するまでの数ヶ月間。食人鬼の膝下に置かれた兄が何を口にして生き延びたのかは想像に難くありませんでした。
私は愚かにも中学生の頃、兄本人に尋ねたことがあります。誘拐犯に人肉を無理矢理食べさせられたんじゃないかと。
過去に何度も同じことを聞かれたのでしょうか、兄は苦笑して瞼を伏せ、ゆっくりと首を横に振りました。
「いいや」
その静かな一言で途端に頭の中が冷えて、それ以上何も言えませんでした。兄の否定が『人肉を食べた』部分にかかっているのか、はたまた『無理に食べさせられた』の部分にかかっているのか考えてしまい恐ろしくなったのです。
さらに言えば、心配を装いながら下卑た好奇心を満たそうとしたのを見透かされた気になり、とても恥ずかしく感じました。
だから私はただ一言「ごめん」と兄に謝り、二度とその話題を出しませんでした。
兄は常に人を寄せつけない男でしたが、ある日突然若い女性を連れてきて両親に会わせ、この人と結婚すると言いました。
その場に私もいましたが、その女性は東京に出てきたばかりの無知な少女といった風体で、反対はしないにしろ酷く急でしたので皆戸惑いました。
結局は籍だけいれて式なども行いませんでしたが、次の年には兄夫婦に元気な男の子が産まれました。
私にとっても初めての甥ですので、何度も兄の家まで会いに行きました。子どもの見た目はあまり兄には似ず、成長するほど顕著に義姉の純子さんに似ていきました。恥ずかしながら私は内心安堵したものです。兄に似て気難しい子になったら少し扱いに困りそうだったので。
甥は性格も純子さんに似て明るく、とても優しい子でした。私にもよく懐いてくれて、いつも天使のように可愛らしい笑顔で私の後をよちよち歩きでついて回りました。人嫌いの兄といえど妻にそっくりな息子は可愛かったのでしょうか、兄を知る人が見ると驚くほど甘やかして過保護に育てていたように思います。
甥が三歳になった頃に私は海外に仕事が決まり、日本を離れてアメリカで暮らすことになりました。
医師としてかなり忙しなく働いていたので、その間日本に帰ったのはたった一度だけです。
海外に渡ってから数年が過ぎたある日、両親が自動車事故で命を落としたと兄からの知らせが届いて、急遽日本に帰国しました。
葬儀の際、初孫として可愛がられていた甥はかなり泣いていた覚えがあります。義姉もその様子につられて涙ぐんでいましたが、当の兄は無表情で……悪くいうと冷淡に見えました。
と言っても私も泣いていなかったので、その時は兄も自分と同じでまだ両親の急死という現実を受け入れられていないんだろうと思っていました。今考えると、それも兄の仕業だったのでしょうか。両親の死体の一部が見つからなかったのも、兄が持ち帰ったのなら納得がいきます。
ただ、それらは私の憶測の域を出ません。その真相を知るはずの兄も、両親の死の四年後に亡くなってしまいましたから。
兄の死の第一発見者は私でした。
私はイリノイ州にある病院のERで働いていましたが、一月に事故で腕を骨折したのを機に職を辞すことにしたのです。事故も離職も喜ばしいことではありませんが、とはいえER医は過酷な仕事でしたのでこれが日本に戻るいい機会だと思い二月の初旬に帰国しました。
ちょうど帰国日が甥の十四歳の誕生日に当たるので、事前にプレゼントも買い、箱にグリーティングカードを添えて用意していました。
日本に着いたのは二月九日、甥の誕生日当日の昼過ぎでした。私は空港で手続きを済ませて荷物を受け取り、昼食もとらずにタクシーを飛ばして直接兄の家へと向かいました。その時急いだのは早く成長した甥に会いたいという一心でしたが、今思えば虫の知らせだったのかもしれません。
それでも、帰国した空港からは県を跨ぐほど遠かったので兄の邸宅に到着したのは十七時を過ぎた頃でした。
この辺については事件の聴取で鏑田さんにお話した通りです。
兄の家は一見いつも通りに見えましたが、インターホンを何度か押しても誰も応答しませんでした。外出中かと思い兄に電話をしても、義姉に電話をしても、どちらも留守電に繋がりました。
その時ようやく嫌な予感がして、私は玄関のドアのドアノブに手を掛けてみました。
────玄関の鍵が空いていました。恐る恐るドアを開け、兄の名を呼びましたが返事はありません。
「兄さん?義姉さん?佳史……?誰かいないのか?」
大きめの声で呼びかけながら家の中に入りました。玄関のタイルには学校から帰ったのであろう甥のローファーが綺麗に揃えて置いてありました。
その時、室内の異臭が鼻をつき、思わず咳き込みました。病院でよく嗅いだことがあるのですぐに分かりました。それは濃い血の匂いでした。
口元を右手の袖口で押さえながら、玄関から入って左にあるリビングへと足を踏み入れました。
そこには地獄のような光景が広がっていました。
絨毯が敷かれた床の上に血塗れの兄と甥がいました。兄は甥の体を抱きしめるような形で力無く床に倒れ込んでいました。絨毯に染みている血は乾きかけており、瞳は大きく見開かれたまま瞳孔が開ききっていました。それでも私は兄の傍にしゃがんでその肩に手で触れました。
「……兄さん、兄さん!嘘だろ……どうか返事をしてくれ!なあ、兄さん!」
何度肩を揺すっても、兄の黒い瞳は瞬きもせず大きく見開かれたままで、その顔に表情の変化はありませんでした。
顔に触れると既に下顎の死後硬直が始まっており、死んでから二時間近く経っていることが分かりました。
「佳史……!」
私は兄の腕の中で眠るように倒れていた甥に呼びかけました。彼の喉には大きな刺傷があり、まだ血が流れて床へ伝ってました。体が青白くひんやりとしていたので一瞬手遅れかと思いましたが、私が指先で頬に触れると僅かに彼が瞼を開けました。真っ黒な瞳が鈍く揺れて、やがて私の姿を写しました。
「ぉ……い……ぁ……?」
彼は何かを言おうと口を動かしていましたが、喉の傷のせいでその度に甥の口からごぼごぼと泡立った血が溢れて顎を汚しました。私は慌てて甥の口に掌を当てました。
「喋っちゃダメだ!黙ったままゆっくり鼻で呼吸をしなさい。そう、上手だ。すぐに救急車を呼ぶから、そのまま目を開けて絶対眠らないように耐えるんだよ」
彼が意識を失わないようになるべく途切れることなく声をかけ続けながら、鞄に入れていたハンカチを佳史の喉にそっと当てました。
甥の喉はおそらく鋭利な刃物で、深く掻き切られているように見えました。ギプスをつけた腕で何とかして止血のハンカチを押さえながら、反対の手で電話をして救急車を呼びました。
甥の瞳には光がなく、意識が遠のいているのか何度も瞼が閉じかけては必死に目を開けて耐えていました。
傷口をすぐに縫合しなければ、救急車が来る前に死んでしまうかもしれない。私は鞄からER時代ずっと肌身離さず持ち歩いていた応急処置用のセットを取り出し、急遽傷の縫合を行いました。
その時ほど自分の医師という職業に感謝したことはありません。骨折した利き手と逆の左手は、ぶるぶると大きく震えながらも確実に佳史の首の傷を縫い合わせました。
その後救急車と、ほぼ同時にパトカーが到着しました。結果的には、警察官が同乗する形で甥と共に救急車で病院に向かいました。
甥の首の縫い跡と縫合針を握ったまま血塗れで泣く私を見て、警察官ふたりは呆気に取られた様子で顔を見合せていました。
甥が緊急手術を受けている間に鏑田さん、当時殺人課の刑事だったあなたが私の元へやって来ました。
「菰野乃木さん、甥っ子さんが心配だとは思いますが、少しお話をお聞きしてもよろしいでしょうか」
あなたは憔悴しきっていた私の様子と服についたままの赤黒い血を見て、本当に申し訳なさそうな顔をしていました。私はふと、義姉のことを思い出しました。
「……そういえば義姉さんは……菰野乃木純子さんはどこにいるんですか?彼女は無事ですか」
あなたは私の言葉に息を飲み、沈痛な面持ちのまま目を伏せました。
「……残念ながら。てっきり、既にご覧になっているかと……」
兄も義姉も、ふたりとも殺されてしまったというのか。ショックで私はその場にへたりこみました。
「一体……何が……兄家族に何が起きたんですか……」
鏑田さん、あなたは私に何から伝えるべきか悩みながら慎重に言葉を選んで事件のあらましを話してくれましたね。
「菰野乃木柳二さん。あなたからの通報を受けて、警察が燈一さんのお宅に入った時、あなたは佳史さんの応急処置を行っていました。そして燈一さんのご遺体はリビングの中央あたり、絨毯の上に、佳史さんを抱きしめたまま横向きに倒れていた。間違いないですね」
私は頷きました。あなたは何かメモを取りながら話を続けました。
「あなたと佳史さんが救急車で病院へと向かった後、事件性が高いということで我々殺人課が捜査に当たりました。その時、キッチンで妻の純子さんのご遺体の一部と思われる……」
「一部、ですって?」
思わず遮って聞き返しました。あなたは頷き、こう言いました。
「ええ、一部です。純子さんの方は損傷が激しく、まだ見つかっていない部位がありますので……。かなり凄惨な部分もお伝えしなければならないのでお気を強く持ってください。純子さんの体は血抜きされ、切り分けられて皿に乗せられていました」
その後のことはあまり覚えていません。気がつくとあなたはもういなくなっていて、私は暗い病室で甥の青白い手を握っていました。
佳史は人工呼吸器と輸血で何とか命を繋いでいました。その手は死人のように冷たくて、あまりにも頼りなくて……。でもそれより私の胸を押し潰したのは、義姉の死に方でした。
義姉を皿に盛ったのは兄でしょう。おそらく、その手にかけたのも。両親の体の一部も、同じように皿に盛り付けたのでしょうか?しかしそれらを食べたのは兄なのか、それとも……。
死んだように眠る甥を見て、私はようやく思い出しました。兄を誘拐した男の名前を。
男の名前は笹倉佳史。読み方こそ違うものの、甥の名前と字が全く同じです。
兄は、自分の子どもで食人鬼を作ろうとしていたのです。
私は唯一の肉親となった甥の傍にいるために、再び日本で暮らすことにしました。幸い前の仕事先が戻ってこいと言ってくれたので、生計を立てるには困りませんでした。
警察の聴取を受けながら役所手続きに追われる日々が続きましたが、事件から一週間後に甥が目を覚ましたと連絡を受け、すぐ病院に急ぎました。
息を切らしながら病室の扉を開けると、甥の傍には担当医師とあなたがいました。
甥は虚ろな目を私に向け、小さく「おじさん」と呟きました。喉を刺されたせいか、声はほとんど潰れ、嗄れていました。
「佳史……!意識が戻って本当によかった、私が分かるか?」
佳史は黙ってこくりと頷きました。以前の明朗な甥とはまるで別人のようでした。
「佳史くんから事情を聞いていたんですが……」
あなたは困惑したように後ろ頭を手で掻きながら私の方を向きました。
「菰野乃木さん、少しふたりでお話できますか?」
私は甥の傍に居たかったのですが、あなたが意味ありげに目配せをするので渋々ふたりで外に出ました。促されて喫煙室に入ると、あなたは内側から鍵をかけました。
「佳史くんの話では知らない男が窓から入ってきて包丁で純子さんを刺し、その後橙一さんを刺して、最後に佳史くんを刺したと。でも色々と辻褄が合わないんです……純子さん、橙一さん、佳史くんが短時間のうちに三人とも刺されたにしては、最初の純子さんと橙一さんの死亡推定時刻にタイムラグがありすぎる。しかも入ってきたという窓はキッチンと真反対にあるんです。橙一さんと佳史くんを無視してキッチンにあった包丁で純子さんを刺し、戻って他の二人も刺したことになる」
私は口の中が酷く乾く感覚を覚えて少し咳き込みました。私の頭の中は、大事な甥を警察に奪われないようにすることでいっぱいでした。だから、おそらく佳史がついたであろう嘘になるべく同調することにしました。
「人殺しの考えることなんて見当もつきませんよ。力が弱いと思って純子さんから殺したのでは?」
「しかし純子さんを最初に殺して血抜きして皿に盛り付けている間、橙一さんと佳史くんは何をしていたんですかね?縛られていた痕跡は無いし、かといって共犯だとは到底思えない」
「ええ、そんなことをする人じゃありません。兄も、甥も」
私はあなたの言葉に被せるようにしてそう言いました。本当は兄がやったと分かっていましたが、残された甥が「知らない男」がやったと言うのならば、あるいはそう望むのなら私は何とか叶えようと思っていました。
「甥はきっと事件のショックで細かい状況が思い出せずにいるんです。あの子はまだ十四歳ですよ。それに、両親が殺されてしまったのですから混乱して当然でしょう」
あなたは何か言い淀むように口を開いたまま視線を彷徨わせ、やがて意を決したように背筋を伸ばして私を見ました。
「菰野乃木さんは、笹倉佳史の事件をご存知ですよね」
その名前が出た瞬間ドキリとしました。さすがに知らないとも言えず、私はあなたから目を逸らすようにして俯きました。
「私の勝手な推測なんですが、笹倉の最後の被害者で、なおかつ唯一の生き残りである橙一さんが模倣犯に狙われたのでは? 強盗の仕業にしては計画的で手が込みすぎています」
あなたの推理は明らかに間違っていました。しかしそれは同時に私にとって光明でもありました。
縋るように私は何度も頷きました。
「ええ、その可能性は確かにあるかもしれません。兄は常に何かに怯えているようでした。電話で何者かへの不安を訴えることもありました」
全くの嘘です。兄との電話はいつも互いの軽い近況報告だけで、兄が何かに怯えていた事実はありませんでした。しかし私の出任せで、あなたはより自分の推理への確信を強めたように見えました。
「もしかしたら周辺人物に怪しい人間がいるかもしれません。菰野乃木さん、ありがとうございます」
あなたはまだ若く、正義感が強い刑事でした。目は意志の強さを現すように鋭く輝いていました。
私は俯いたまま、どうか犯人を捕まえてくださいと心にもないことを言いました。
あなたとふたりで病院の廊下を戻っていると、佳史のいる病室から騒がしい物音や悲鳴が聞こえてきました。私とあなたは顔を見合せ、走って病室に戻りました。
半狂乱の甥が男性看護師ふたりに羽交い締めにされながら狂ったように何度も叫んでいました。お父さん、お父さん、と。
甥の首の包帯が取れたタイミングで、自宅治療に切り替えることにしました。
私の職歴を知っている病院側は、難色を示すことなくあっさり甥を退院させました。あるいは毎夜悪夢で錯乱しては暴れる患者を、一刻も早く手放したかったのかもしれません。
両親の遺した家を甥のためにリフォームして、専用の病室へと彼を移しました。
甥のいる部屋は、窓ははめ殺しでドアの鍵も外からのみ開閉できるようにし、私が管理しました。その頃には骨折した私の腕もかなり治っていましたが、佳史は不安定な状態だったので数人の男性看護師を雇って常駐させ、私も交代で甥の面倒を見ました。
甥は普段は大人しくまるで人形のように虚空を見つめていましたが、時たま何のきっかけなのか劈くような悲鳴を上げては自分の首の傷痕を血が出るまで掻き毟り、頭を何度も壁に打ち付けました。
やむ無く拘束衣を着け、舌を噛み切らないように口枷を噛ませてベッドから起き上がれないようにしました。その頃から話しかけても一切の応答が無くなりました。無理もありません、精神病院に監禁されているような生活を身内から強いられているのですから。
しかし私は甥の身体を殺さないことに必死で、彼の心まで気にする余裕がありませんでした。
食事は何度も与えようと試みました。粥も流動食も一度は口に入れ飲み込むのですが、消化する前に直ぐに吐き戻しました。
出るものが胃液だけになっても苦しそうに涙を流し嘔吐き続ける甥を見て、私はある恐ろしい仮定に行き着いていました。
おそらく甥は兄に、人肉しか与えられていなかったのです。甥が食べられるものは、きっと人の肉しかないのでしょう。
さすがに私に法を犯して人の肉を用意する度胸はありませんでした。誤魔化すように点滴と輸血で僅かな栄養を摂取させました。
驚くべきことに、すぐ終わると思っていたその生活は三年以上続きました。佳史は血と点滴だけで、同年代の平均を少し下回る程度の体重と身長をキープし続けていました。
それだけでなく、狂乱の最中にいる際は革製の拘束帯を引きちぎるほどの腕力がありました。人肉食との因果関係は分かりませんが、甥は通常の人間とはかなり体の構造が違うようでした。
それを察したのか、いくら賃金を上げても看護師たちは口を揃えて怖い辞めたいと訴えてきて、私は困り果てていました。
佳史と暮らし始めて三年目の年の暮れ、ERで働いていた頃の同僚で親友でもあるカールセンという男から手紙が届きました。
彼は病に侵されて余命二ヶ月を診断されたらしく、手紙には最低限の別れの言葉が綴られていました。ただ、続けてこうも書いてありました。
『日本に私の息子がいる。会ったことは無いがそれだけが心残りだ。どうか面倒を見てやってほしい。君を信頼している』
私は病気の甥を抱えながら友人の息子の面倒まで見るほどお人好しではありません。しかし、私の中に良くない考えが過りました。
甥の面倒をひとりで見続けるのは限界がある。他に身寄りのない友人の息子であれば、上手く言えば甥の世話を手伝ってもらえるのではないか。
邪なことなど企むものではありません。私は自分のこの判断を、今も後悔し続けています。
数日後、手紙を頼りに東北の片田舎へと足を運びました。カールセンの息子はその田舎のさらに山奥の村外れに住む祖母に育てられているとのことでした。
その日は晴れていましたが、前日に降雪したらしく辺りは一面の雪景色でした。真っ白な風景の中に、ぽつんと簡素な木造の平屋がありました。古びた木板の表札の文字を確認し、戸を叩きました。
「はーい!」
パタパタと軽快な足音がした後、勢いよく玄関の引き戸を開けたのは金髪に学ラン姿の青年でした。
切れ長の青い瞳、すっと通った鼻筋が父親であるカールセンを思わせる、整った顔立ちをしていました。
「君が伊妻冬吾くん? 電話でもお話をした菰野乃木柳二です」
「ああ、東京の!取り敢えず中にどうぞ。マジ寒かったっしょ、この辺」
冬吾はそう言うと相好を崩しました。笑うと少しだけ歯並びが悪く、犬歯のように発達した八重歯が特徴的でした。
古い畳の敷かれた和室へと通され、冬吾に促されて錆びた石油ストーブの前に座りました。
部屋の中はい草と灯油の匂いがして、家具と呼べるものは仏壇と炬燵とストーブくらいしかないのに不思議と室内はそれでいっぱいいっぱいでした。
湯呑みに入った温かい緑茶を私に差し出すと、冬吾も座布団の上に座りました。
「生まれてからずっとここで暮らしていたのかい?」
「いや、小さい時はママと東京にいたんだけど、六歳の時にママが死んでからばあちゃんに引き取られて……そっからはずっとこの家。でもばあちゃんも去年死んじゃってさあ……九十……九十一歳?だったからまあまあ大往生だけどね」
「じゃあ今はひとりなんだ。生活も大変なんじゃないか」
私の言葉に、冬吾はまあね、と素っ気ない返事をしました。
「バイトを掛け持ちしてるから。田舎って物価低いし……貧乏でも何とかなると思うよ」
「将来の夢は?」
「なにも。本当は医者になりたいけど進学する金は流石に無いし、いっそススキノにでも行ってホストになろうかなと思ってる」
ホストは確かに似合いそうな風貌でしたが、彼が医者志望であることは私にとって好都合でした。
「突然の話で困惑するかもしれないけど、東京の医大に進んでくれるなら学費と衣食住に必要なお金は私が出そう」
「え?いや冗談でしょ、何で?」
「君は親友の……優秀な外科医の息子だ。私は親友に義理があるし、私自身も医者だから勉強は教えられると思う。伝手もあるから医師免許さえ取れば就職先に困ることはないよ」
私が半ば畳み掛けるように捲し立てると、冬吾は警戒するかのように蛇に似た目をすっと細めました。彼はちゃぶ台の上に肘を置くと、気怠げに頬杖をつきながら私の顔を見上げました。
「……それで、そのご支援の目的は何?」
まるで先走る心を読まれたようで、私は気まずさを覚えて俯きました。目の前の青年を侮りすぎていた自分を恥じる気持ちもありました。
「……実は私には心に傷を抱えた甥がいるんだ」
「甥?何歳?」
「今年で十八だ」
「じゃあ俺のひとつ上か」
「学校にも行けていない。……もちろん、友達もいない」
「で、その甥っ子さんの友達にでもなれって?それだけ?」
「うますぎる話だと思うかい?」
意気消沈した私の声音に、冬吾は気が抜けたように眉を下げて笑いました。
「まあ、そりゃそうだけど……どうせ他に道なんて無いし。縋れる藁なら縋らせてもらおっかな」
こうして冬吾は東京の私の自宅に居候することになりました。
各々の手続きを済ませ彼が東京に来た夜、私は最寄りの駅まで車で迎えに行きました。電車から降りた彼は財布以外の荷物を何一つ持っていませんでした。
「そんな軽装で来たのかい?」
あまりの荷物の無さに私が驚き声をかけると、冬吾は学校指定らしきコートのポケットに手を突っ込みながら、かじかんで赤くなった鼻を小さく啜りました。
「確かに、東京も案外寒いねえ」
そういう意味で言った訳ではなかったのですが、冬吾はどうやら少し他人とは感性が異なる部分があるようでした。
とりあえず駅の近くのスーパーマーケットで温かい缶のココアを買って冬吾に渡し、ついでに夕飯や彼の下着や着替えも適当に見繕ってから家に戻りました。
家の中は静かだったので、私が留守の間に甥が発作を起こした様子もなく安堵しました。 隣の部屋のマジックミラー越しに甥を監視していた看護師に交代を告げ、冬吾をその部屋に入れました。
「マジックミラー?気合い入ってるね。あれが例の甥っ子さん?なんで縛られてるの?暴れるの? 」
矢継ぎ早に質問を浴びせてくる冬吾に静かに、と指を口に当てるジェスチャーをして、私は小声で話しました。
「同じ部屋に人が何人もいると佳史が怖がるから、世話の時以外は隣の部屋から見守っているんだよ。拘束しているのは彼が錯乱して自傷するから止むを得ずだ。他人を傷つけたことはない」
「あの首の傷は?」
冬吾の観察眼は鋭く、すぐに核心を突かれて私は一瞬黙ってしまいました。世話をしてもらうのであれば、冬吾に説明できることはするべきです。
しかし、甥は人肉しか食べられないかもしれないと言えば怖がり逃げ出す可能性がありました。そこでかいつまんで、兄の過去や甥の体質以外のことを彼に説明しました。
「ふーん。甥っ子さん、ハードな人生歩んでるんだね」
冬吾は特にショックを受けた様子もなく薄青色の瞳を佳史に向けました。
「そうだ。だから他人に心を閉ざしてしまっていてね。歳の近い人間と会わせたことはないから、もしかしたら冬吾くんなら佳史を助けられるかもしれない」
「うーん、どうかなあ。アレは別要因だと思うけど」
冬吾は無表情でそう呟きました。
「別要因?」
「いや、なんでもない。柳二さん、明日あの子と会ってみてもいい?」
「もちろんだよ。あ、部屋は二階を使ってくれ。これからずっと君の部屋だから。これは部屋の鍵。寝る前は必ず鍵をかけて、常に持ち歩いてくれ。」
手に渡された銀色の鍵を、冬吾は不思議そうに眺めました。
「えっ、もしかして俺のプライバシーに配慮してる?都会の人ってみんなそうなの?先進的だね」
なんと返していいか分からず、私は曖昧に微笑みました。
次の日、朝起きてきた冬吾に、サラダとスクランブルエッグとバターを塗ったトースト、それにオレンジジュースを朝食に出しました。
食卓を見て彼は眠たげだった目を驚いたように見開き、私の顔を見ました。
「……何か嫌いなものがあったかな?」
「いや、朝起きたら朝ごはん出てくるなんて初めてだからビビっただけ」
私にとって普通のことをしただけでしたが、冬吾には珍しかったようで喜んで朝食を食べてくれました。
私も向かいに座ってトーストを齧り、「そういえば」と切り出しました。
「今日は甥に会ってもらうけど、その後は自由だから君の部屋の家具とか勉強に必要なもの……あとは洋服も買いに行こう。携帯電話も必要だね」
「ケータイかあ。友達が皆持っててうらやましかったんだよね。俺も持てるんだ」
指についたバターを舐めながら冬吾はにやりと笑いました。
「持てるよ。他に欲しいものがあれば言うといい。学校についてだが、家の近辺で一番偏差値の高い高校の編入試験を受けてもらう。前の学校での成績はチェックさせてもらったけど、君なら余裕だろうから」
「オッケー。勉強だけはやってたから、俺」
第一印象では奔放そうに見えましたが、調べてみると冬吾の学校での成績は非常に優秀でした。休み時間も机に齧り付いてずっと勉強していたと担任の教諭から聞いていたので、本当に医者になりたかったのでしょう。
私には彼の軽薄な態度は根の真面目さを悟られないための自己防衛にも見えました。
朝食を食べ終わり部屋着から仕事着へと身支度をして、ふたりで佳史のいる部屋へ行きました。
隣の部屋から見ると落ち着いているようだったので、扉をノックしてから鍵を開け、中に入りました。
ベッドに拘束されている佳史は黒い虚ろな目を一瞬私たちに向けましたが、すぐに目を逸らしました。私は佳史の顔を覗き込み、刺激しないように小さな声で話しかけました。
「おはよう、佳史。外はいい天気だぞ。今日は新しい人を連れてきた。お前と歳がひとつしか違わない男の子だから、きっと仲良くなれるよ」
佳史は微動だにしませんでした。私は振り返って冬吾に目配せすると、後ろに下がりました。
冬吾はベッドに近付き、その縁に無遠慮に腰掛けました。佳史に顔を近づけて、にこりと笑いました。
「菰野乃木佳史さん。下の名前で呼ぶ派か分かんないからしばらくは菰野乃木さんね。口についてるそれ鬱陶しくない?外しちゃダメなのかな。俺が勝手にやると怒られそうだから今日は俺が喋るだけで我慢してね。あ、俺は伊妻ね。伊妻冬吾。俺のことは好きなように呼んでね」
佳史は反応しませんでした。今回もどうせだめだろうと私は既に諦めていましたが、冬吾は気にせず話し続けました。
「君は何が好き?俺は目……っていうか眼球かな。人によって大きさも色も全く違う、天然の宝石だと思ってる。あ、医者目指してるけど眼科じゃないよ。なんか変態くさいじゃん、目が好きだから眼科って。俺は脳神経外科志望だから。菰野乃木さんは将来の夢とかある?今度聞かせてね」
佳史の瞳が僅かに揺れて、冬吾を捉えたように見えました。
「そうだなあ……じゃ、今日は君の目を見せて。きっと少しはお互いのことがわかると思う。君もほら、俺の目を見てどんな人間か当ててみて。例えば……俺の目、少し色素薄いのわかる?青っぽいでしょ。俺のパパは北欧の人なんだって。パパには会ったことないけど、目は多分パパの色を受け継いでる。目を見ただけでなんとなく外国の血を引いてるのかなってわかるの、すごくない?」
佳史は目を細めました。まるで冬吾と会話するかのように。
「でしょ?そう思うよね。さて、君の目は……すごく黒目が大きいね。瞳孔も大きいけど、虹彩がかなり黒に近い色をしているんだね。珍しくて綺麗だよ、天然石のオブシディアンみたい。でも少しドライアイ気味かな……もしかしたら本とか読むの好き?」
こくり、と佳史が小さく頷いたのをみて、思わず歓声を上げそうになりました。他人の言葉に返答する佳史を見るのはいつ以来だったでしょう。
「やった、当たった。本は何が好きなのかな。俺理系目指してるから国語は最低限しか知らないんだよね。枕草子とか読む? あれ、違う?そうか古すぎるか。芥川龍之介は王道すぎ?あ、目が笑った。菰野乃木さんは感情が豊かだね。話すのが楽しみだな」
冬吾は佳史と実際に会話しているかのようにスムーズに意思の疎通を行いました。
これが彼の才能なのでしょう。あっという間に三十分経ったので、私は冬吾の肩を叩きました。
「そろそろ戻ろうか。ふたりとも楽しそうでよかった」
「もう終わり?明日も来ていい?」
「ああ。佳史もまた会いたいよな」
佳史は私の言葉には反応しませんでした。初対面の冬吾の言葉には嬉しそうに頷いたのに。
それだけ私が酷いことをしたということなのでしょう。胸が痛みましたが、冬吾に心を開いただけでも大きな前進と言えました。
冬吾はまた佳史に顔を近づけ、見つめ合いながら笑顔を向けました。すると佳史の目元が緩み、肯定を示すかのように細まりました。
部屋を出た後で、私は冬吾に尋ねました。
「最後に佳史が少し笑ってたように見えたけど、あれは何を言っていたんだい?」
「また来るね、って言ったら待ってるって言ってたよ。ねえ、約束通りケータイ見に行こ」
「ああ。そうだね」
諸々の必要なものをショッピングモールで買い、昼食は冬吾の希望でチェーン店のハンバーガーを食べました。
「ずっと食べてみたかったんだ。美味いね、ハンバーガー」
「住んでた場所にはお店が無かったの?」
「学校の近くにはあったけど、一度も行ったことなくて。お金無かったから」
「お母さんと住んでいた時も?」
お母さん、という単語を聞いて冬吾はジュースのストローを口に咥えたまま一瞬時が止まったかのように凍りつきましたが、すぐに取り繕うように口角を上げました。
「あー、ママは……忙しかったから。飯も作ってもらったことないし……でもママのことはすごく好きだよ。産んでくれて感謝してる」
冬吾にしては歯切れの悪い返答でした。あまり深くは聞かない方がいいと思い、私はそういえば、と話題を変えました。
「明日佳史の気分が落ち着いているようなら彼の口に着けた枷を短時間だが外してみる。君がいれば舌を噛み切ったりはしないだろうし、数分になると思うが実際に喋ってみるといい」
「えっ、短時間……?あの子食事とかはどうしてるの?」
また痛いところを突かれて私は息を飲みました。
「まさか摂ってないの? いつから?」
「……輸血と点滴はしているよ。水分も口枷の隙間から……」
「いや、それだけじゃ死ぬでしょフツーは」
「彼は何も食べても吐き出すんだ」
私は観念し、白状しました。冬吾は驚くどころか納得したように頷きました。
「なるほどね……それで…………のか……」
騒がしい団体客が店内に入ってきて、冬吾の言葉は途中から聞こえませんでした。
「ごめん、聞こえなかった」
「帰ったらパソコン借りてもいい?って言った。調べものしたくて」
「私に借りなくてもこの後君専用のものを買いに行こう。勉強にも必要だろう」
「そっか、ありがとう」
その後の冬吾はどこか上の空で、あんなに喜んでいたバーガーやポテトを事務的に口に運んでは咀嚼していました。
次の日の朝、私は佳史の叫び声で目を覚ましました。寝室を出ると冬吾も二階から降りてきたところでした。
「これが発作?」
「そうだ。君は自室に鍵をかけてしばらくは出ない方がいい」
「いや、俺も行くよ」
「危険だよ」
「他人は襲わないんでしょ?」
冬吾が引かないので、仕方なく彼を連れて佳史のいる部屋に入りました。
佳史は口枷のせいで言葉にならない悲鳴を上げながら拘束帯を外そうと藻掻いていました。
私が看護師に鎮静剤を持ってこさせ投与しようとすると、冬吾に手で制されました。
「毎回薬で無理に落ち着かせてたの?」
咎めるように私を睨み、冬吾はまたベッドに腰かけて佳史の耳元へと顔を近づけました。
「……た……るなら……つ……になら……いよ」
小声で冬吾が何かを囁くと、佳史は拒絶するように呻きながら激しく首を横に振りました。
「……なか……いて……でしょ……」
佳史は暴れるのをやめて冬吾をじっと見つめました。真っ黒な目の縁に涙がいっぱい溜まっていました。
「人間は…………ないと……き……れない……」
佳史は大きく目を見開いたかと思うと、体の力を抜いて静かになりました。
「また来るよ」
冬吾はそう言って佳史の額にかかった髪をそっと撫でました。佳史は力なく頷きました。
「佳史に何を話したんだい?」
後から聞くと、冬吾は平然とした顔で「内緒」とだけ言いました。
「内緒じゃ困るよ。あの状態の佳史が声かけだけで落ち着いたのは初めてなんだ」
「柳二さんだって笹倉佳史のこと俺に内緒にしてたでしょ」
まさか冬吾の口からその名前が出るとは思わず、私は絶句しました。
「あの子は多分人間の食べ物は食べられないよ。何なら食べられるのか、柳二さんだって薄々勘づいてるんじゃないの?」
「でも……それは」
「人として許されない?じゃあずっと絶食させるの?死ぬまで?……もしかしてそれを待ってる?」
大切な甥だ。死ぬのを待ってるわけがない。そう答えればいいだけの話でした。
でも私は何も言えませんでした。冬吾に告げられて初めて、無意識下で自分が佳史の死を待っていたことに気付いたからです。
「…………大人って残酷だねえ」
呆れたように吐き捨てると、冬吾は自室へと戻っていきました。
私はその夜、兄の家から持ってきたアルバムを見返しました。写真は佳史のものばかりで、兄も義姉も全く写っていませんでした。思い出を残しているというよりは、まるで佳史についての記録を付けているようでした。
私はいつ、何を間違ったのでしょう。どうするのが正解だったのでしょう。
途方に暮れて、アルバムを抱きしめながら声を殺して泣きました。
次の日、私は書斎のデスクに突っ伏した状態で目を覚ましました。いつの間にか眠っていたようです。
壁にかけた時計は午前の十一時を刻んでいました。
自慢ではありませんが生まれてこの方寝坊なんて一度もしたことがなかったので、寝ぼけた頭で驚きながら部屋を出ました。
家の中はやけに静かでした。よく考えれば看護師たちや冬吾が私に声を掛けなかったのもおかしなことで、私は徐々にこの状況の不穏さを感じとっていました。
「冬吾くん?」
二階に続く階段に声をかけましたが、返答はありませんでした。
もしやと思い佳史のいる病室へと走っていくと、内側からは開けられないはずのドアが開いていました。
「……どういうことだ」
ポケットをまさぐると、いつもチェーンに繋いで入れていたはずの鍵がありません。さっと体から血の気が引いていくのが自分でも分かりました。
「佳史?冬吾くん?」
ふたりの名を呼びながら恐る恐る室内に入りました。
ベッドはもぬけの殻で、拘束帯や拘束衣はハサミのようなもので切り裂かれていました。
慌てて隣の部屋を覗くと、監視に当たっていたはずの看護師たちは座ったまま眠っていました。床にコーヒーのカップが転がって中身がぶちまけられていたので、おそらく私も彼らも薬を盛られたのでしょう。
こんなことができるのは状況的に冬吾しかいません。刑事のあなたに連絡しようと携帯電話を取り出しましたが、すぐにその手を下ろしました。
────戻ってこないならそれでもいいじゃないか。これで私も自由に生きられる。
悪魔がそう囁いたような気がしました。
首を振って嫌な考えを打ち払い、冬吾の番号に電話をかけました。彼は存外すぐに電話に出ました。
「冬吾くん!今どこにいるんだ!」
『あ、柳二さん?あの子も横にいるよ』
「どこにいるか答えなさい!」
『三日以内には家に帰るよ。お金ちょっともらったけど全部は使わないから』
「君は自分が何をやってるか分かってるのか!?」
『わかってるよ。じゃあ警察に言えば?』
あっけらかんとした口調につい黙り込みました。
『三日間であんたも自分が何をやったか考えた方がいいよ』
そう言うと冬吾は電話を切りました。
私が何をやったかくらい、よく分かっているつもりでした。しかし佳史がいなくなって私が覚えた感情は大きな安堵でした。
私が思っているよりずっと、私の性根は腐っていました。
佳史や兄を疑っていたことすら恥ずかしく、今すぐこの場を逃げ出したいとさえ思いました。
三日後の朝、約束通りふたりは家に帰ってきました。
佳史は黒いシャツとジーンズを履いて、長かった髪は短く切り揃えられていました。
目の下の隈は相変わらずでしたが顔の血色も良く、むしろ以前より落ち着いて堂々としているように見えました。
「佳史」
「おじさん。ただいま」
数年ぶりに聞く佳史の声は大人びていて、兄を思い出す低い声に変わっていました。
私はその場にへたり込みそうになる足を動かし、佳史を抱き締めました。上背は私の方が大きいものの、彼は十四歳の頃に比べてかなり体も大きくなっていました。
「……おかえり、佳史」
その後の言葉は涙で詰まって出てきませんでした。
甥が自分の足で立って、私を見て、話してくれている。それだけで十分でした。
後ろにいた冬吾は気まずそうに頬を掻き、目を逸らしました。
「柳二さん、……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。全部私が悪かったんだ……冬吾くんが居てくれてよかった」
「……俺、ここにいていいの?」
私は鼻をすすりながら何度も頷きました。
「勿論だよ……これからも佳史の傍にいてやってくれ」
「やったー!」
「……伊妻」
佳史は、はしゃぐ冬吾を窘めるようにじろりと睨みました。冬吾は数度瞬きして、頷きました。
「おじさん。お父さんのことだけど」
佳史は泣いている私を近くにあった椅子に座らせ、自分も座りました。
「……お父さんは誰も殺していない。僕たちはみんな被害者なんだ。おじさんが心配するようなことは何もないから」
「そうか、よかった……。じゃあ、人の肉を誰かに無理に食べさせられたりもしていないんだね」
私の言葉に佳史は目を丸くして……やがて苦笑し、 ゆっくりと首を横に振りました。
「いいや」
佳史の暗い瞳も、顰めた眉も、作ったような笑みも、何もかもが兄に瓜二つで、私にはそれ以上何も言うことなどできませんでした。
私はその後、冬吾が大学に合格したタイミングで中東の紛争地帯へ医師として向かうことに決めました。
そうです。逃げることにしたのです。あんなに大切だった甥をひとり残して。
でもあの澱んだ黒い瞳が私の姿を捉える度に、兄の死に顔を思い出すのです。
夜中に冬吾と佳史が私に黙ってどこかへ行っているのも、近所で若者の失踪事件が多発していることも、もう何も考えたくなかった。
そういえば私が日本を離れる前に、あなたは家に訪ねてきてくれましたね。
「お久しぶりです。菰野乃木さんが日本を離れられると風の噂で聞きまして、ご挨拶に参りました。佳史さんの体調もかなりいいと聞いております。残念ながらこちらにはお伝えできるような大きな進展はありませんが……。あ、お庭で写真も撮られたんですね。いい写真だ。この一緒に写っている金髪の子は?」
あなたは私のデスクに置いてある写真立てを手に取りました。
写真は冬吾に言われて三人で撮ったものでした。
「佳史の友人です。伊妻冬吾くん」
「……伊妻冬吾?」
あなたは表情を曇らせました。
「どうかしましたか?」
「いえ……実は十年以上前なのですが、風俗業の女性が変死した事件があったんです。両目を潰されていて、かなりショッキングな事件だったのでよく覚えてるんですが……その被害者女性の息子さんと同じ名前だなあと。偶然でしょうけどね、資料にあった写真と顔立ちも少し似ていたので……」
冬吾が眼球に強く執着していたことを思い出しました。
「実はこの梔子市でも最近ちょっと似た事件が起きているんです。若い女性が目をくり抜かれて死ぬ凄惨な事件が……まあ、他人の空似でしょう。本当に突然変なことを言ってすみません、忘れてください」
あなたの言う通り、私は忘れることにしました。
今更冬吾を問い詰めたところで私にメリットはありませんし、何よりも佳史から冬吾を奪うのが怖かった。
そう、怖かったのです。佳史は私より冬吾に心を開いていて、ふたりは目配せだけで意思の疎通が取れている。
次に殺されるのは私ではないかと思う時もありました。これも憶測です。勝手な妄想の域を出ません。
あの子のことを文章に残したのは、私がひとりで心の内で抱え込むのが辛かったからです。
そしてなぜ事件の担当刑事だったあなたにこの手帳を渡すのか……お解りになってくださると思います。
あなたは私の嘘のせいで存在しない殺人犯を何年も追い続けることになり、事件が風化してからも刑事を辞めるまで単独で捜査を続けていたと都くんから聞きました。
だから、この手帳は私からあなたへの償いの証です。私の証言は事件の決定的な証拠にはならないとしても、あなたの日常に僅かにでも安寧をもたらすことはできるはずです。
どうか私を許してください。
そしてどうか、甥を許してください。
あの子は兄の狂気が生み出した化け物ですが、同時に被害者でもあるのです。あなたの心に哀れみの情があるのなら、佳史と冬吾のことを見逃してください。
そして、ここまで全て読んだら手帳を跡形もなく燃やしてください。
それが真実を知る私とあなたにできる、唯一の正しい行いなのですから。
菰野乃木 柳二
※手帳は菰野乃木柳二が自らの手で燃やしたため、現在は存在しない。
(終)