人殺し逃避行




ばあちゃんは最後の最後まで面と向かっては言わなかったけど、俺のことが嫌いだったんだと思う。外国の血が混ざったせいで色素が薄い髪や目を、汚いものを見るように眉を顰めて睨んでいたから。

「おらぁあいだっきゃおっこねぇ。おどもわがんねわらしだ」

近所の人にそう話してるのも聞いたことがある。方言キツくてよく分かんなかったけど多分悪口だと思う。

本当はもっと普通の家族として愛してほしかったけど、でもばあちゃんにはすごく感謝してる。

酒に酔って俺を罵倒しないし、殴らないし、寒空の中ベランダに放置しないし、冷蔵庫の中のものを食べても怒らないし、学校にも行かせてくれるし、家の中に男を連れ込まない。ママはそれを全部やったから。

でも、ママのことだって俺は心底愛していた。

俺はママの濁った暗褐色の目に、憎しみで鋭い光が差す瞬間が好きだった。乾いて、瞳孔が開いて、とても冷たくて、まるで死んでいるみたいだった。

でも実際に死んだ時はほぼ白目を剥いていた。その時俺はすごく慌てて、思わず眼球を菜箸で抉り出したのを今でも覚えている。子ども心に綺麗な目だったから勿体ないと思った。

結局は菜箸なんかで上手く取り出せるわけがなくて、残念なことに両目とも潰れてしまった。

そういえば、どうして誰も俺のことを疑わなかったのかは今もよく分からない。俺がママのお腹の上に跨って六十五回も胸を包丁で刺してる間、横で暢気にいびきをかいて寝ていたママの恋人が犯人ということになったらしい。

そのママの恋人も、目を覚ました後に死んでるママを見て、ビビった拍子に窓から転落して死んでしまった。それで事件はおしまいということになったらしい。

警察って刑事ドラマで見るよりかなり馬鹿なんだな、とその時に思った。

話が少し本筋から逸れたけど、つまり俺はママからもばあちゃんからも愛されなかった。もちろん、この前まで名前すら知らなかったパパからも。

気にはしてたんだろうけどそれは責任とか義務感であって、俺への愛じゃない。

だから柳二りゅうじさんから初めて甥っ子の話を聞いた時は、悪いけど大袈裟な子だなあと感じた。

家族に愛されて、豊かな環境で大事にされて、それでお父さんとお母さんが死んだくらいで精神を病むなんて。

それに彼にはまだ金持ちの叔父さんがいて、他人の俺を引っ張ってきてまで回復させようとしているのに。

でも元から与えられないのと、与えられていたものを奪われてしまうのは別の苦しみだ。

大事にしていた宝物を全部奪われて外にも出してもらえない、物も食べられない生活なんて苦しくて当然だと思う。俺たちは初めから全く別の場所を歩いていて、今ようやく道が交わっただけなんだろう。

目下の俺の悩みは、公園のベンチに座って爪を噛み続けている彼に何と言葉をかけるべきか、だった。

菰野乃木こののぎさんの親指の爪は、特に噛みすぎてもはやズタズタになっていた。指から血が滲んでいたので手を掴んで止めさせると、彼は大袈裟なほどびくりと肩を跳ねさせ、叱られた子犬のようにしょぼくれた顔つきで項垂れた。

なんか下手なこと言うとわっと泣き出しそうだし、もっと酷い場合は暴れ始めそうでもある。今のところなぜか俺の言うことは素直に聞くけど、いつ何がきっかけで爆発するかなんて分からない。このどこに何を刺すべきか、みたいなハラハラ感は黒ひげ危機一髪にそっくりだなあと、どこか他人事みたいに思った。

とりあえず何か話しかけようと口を開きかけた時、電話がけたたましい音を立てて鳴り始めた。柳二さんからの着信だった。

「はーい、もしもし」

俺が突然に声を発したからか、菰野乃木さんは驚いて飛び上がったかと思うと、背を丸めて縮こまった。

安心させるように手を握り、笑顔を作って目配せする。

冬吾とうごくん! 今どこにいるんだ!』

柳二さんの声は震えていた。

「あ、柳二さん? あの子も横にいるよ」

『どこにいるか答えなさい!』

「三日以内には家に帰るよ。お金ちょっともらったけど全部は使わないから」

彼がすごく怒っているのは伝わったが、俺はなるべく暢気そうな声音で返した。実際、柳二さんが怒ったところであまり怖いとは思えなかった。

『君は自分が何をやってるか分かってるのか!?』

「わかってるよ。じゃあ警察に言えば?」

長い髪の隙間から菰野乃木さんが不安げに俺を見た。俺は口パクで彼に大丈夫、と言った。

「三日間であんたも自分が何をやったか考えた方がいいよ」

柳二さんにそう啖呵を切ってから、勝手に通話を終わらせた。

菰野乃木さんの綺麗な黒い瞳が不安そうに揺れていた。

「伊妻、警察って……?」

「大丈夫。柳二さんが警察に言うわけないじゃん。あの人だってやましい所があるんだから」

「そうかな……」

「それよりさ、美容院かどこかで髪切らない? あと柳二さんの服じゃ大きすぎるから体に合う服買わないと怪しいね。柳二さんが警察に言う前にこっちが職質で捕まるって」

俺があはは、と笑うと菰野乃木さんは不安げに顰めていた眉根を僅かに緩めたが、別の不安が浮上したのかさっきより青ざめた顔になった。

「他人に髪を触られるのは怖い、いやだ」

「じゃあ俺が切ってあげる。それならどう?」

菰野乃木さんはまだ怯えた表情をしていたが、こくりと小さく頷いた。

小さな文房具屋で安い鋏を買い、公園の多目的トイレに入って菰野乃木さんの髪を切った。

鋏の切れ味は悪いし他人の髪を切ったのは初めてだったけど、彼が大人しくしていたのでそこそこ上手く切ることができたと思う。

ただ、項のあたりは触られるとぞわぞわするからと頑なに嫌がった。動物にとっては急所だもんね、項は。

結局簡単に毛先だけを整えたけどウルフカットみたいでこれはこれでアリかもしれない。

髪が短くなった菰野乃木さんは思っていたより彫りが深く整った顔をしていて、目の下の濃い隈さえ無ければさぞ女の子にモテそうだった。俺は一重で目が細いから、くっきりした二重で目も大きい彼の顔立ちは羨ましい。

それに加工する前の黒曜石みたいな真っ黒な瞳も、多分PTSDで瞳孔が開き気味なせいもあるのか死体の眼にそっくりで本当に綺麗だ。

数秒見惚れてぼーっとしていたけど、我に返って笑顔を作った。

「……視界がさっぱりしたでしょ!」

「寒くて落ち着かない」

菰野乃木さんは首を縮こめ、ぶるりと身震いした。髪型も相まってまるで大型犬のようだ。

「すぐ慣れるよ。服は俺が適当に買ってくるからさっきのベンチに座って待っててね」

菰野乃木さんは素直に頷き、俺の方を何度も振り返りつつベンチの方に歩いていった。俺は携帯の時計を確認してから、近くの服飾量販店に入った。

適当なシャツやズボン、防寒具などを買って戻ると、さっきのベンチには菰野乃木さんではなく老夫婦が座っていた。

「……菰野乃木さん!?」

なにかに錯乱して逃げたのだろうか。車道に飛び出て車に轢かれるところを想像し青ざめる。

「ねえ、菰野乃木さん、隠れてる?おーい、俺戻ったよ!伊妻!伊妻戻った!」

大きな声で呼びながら公園内を彷徨く俺はさぞ怪しかっただろう。通報されなかったのが奇跡だ。

がやがやと賑やかな公園内を見渡すと、砂場で小さな子どもたちがダムを崩して遊んでいる。カップルが腕を組んで、池のそばの歩道を歩いている。散歩中の小型犬が茂みに向かって吠え、嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振っている────その茂みから、僅かに赤毛の頭が飛び出していた。

「菰野乃木さん!」

じゃれつこうとしているチワワと宥める飼い主を押し退けて公園の小路にある茂みに駆け寄ると、菰野乃木さんはその陰に体を縮こまらせ、両膝を抱えて座っていた。

「ベンチにいてって言ったじゃーん!」

「……おじいさんとおばあさんが座りたそうにしていた」

どうやら座って待っていたが、通りかかった老夫婦に席を譲って居場所に困ったらしい。だからといってこんな分かりにくい場所にいるとは。

「あはは、まるでかくれんぼだね」

「怒らないの」

怖々と菰野乃木さんは俺を見上げた。そんな不安げな顔されて怒れるわけがない。

「別にいいよ、すぐ見つかったし。でも心配だから次はもう少しわかりやすい場所にいてね」

菰野乃木さんは俯いて、ごめんと小さな子どものように呟いた。



服を着替えてから、俺は菰野乃木さんを連れてホームセンターに向かった。

「ブルーシート、鋸、ロープ……あとハンマーも要るかな?……ねえ、俺はアイスピックを買うつもりだけど、菰野乃木さんは何がいい?」

彼は不思議そうに首を傾げた。

「何が」

「何って、殺す道具」

殺す、という言葉に菰野乃木さんは目を見開いて、慌てて周囲を見回した。

「今周りに人いないから大丈夫だよ。ね、何がいい?チェーンソーとか殺人鬼みたいでよくない?」

菰野乃木さんは首を横に振った。

「いやだ」

「エーッ?まさか今更やめるの?俺昨日言ったじゃん、人は……」

「分かっている。人は食べないと生きられない」

菰野乃木さんは、ほんの僅かに口端を歪めた。おそらく彼なりに笑っているつもりなのだろう。

「チェーンソーはうるさいし大きすぎる。料理をするのなら包丁でいい」

そう言って、彼はキッチン用品のコーナーに歩いていった。俺は大きなカートを押しながら慌ててそれについて行く。

彼は業務用の大きな肉切り包丁を手に取って戻ってきた。

「切れ味は分からないけど……サイズがいいからこれにする」

「値段高いやつにした?」

「一番高いやつにした」

やるねえ、と俺が笑うと、彼は表情を変えず「やるさ」と呟いた。



ホームセンターを出てさっきの公園に戻った頃には、辺りは暗くなりかけていた。

俺はまた時計を確認すると、菰野乃木さんと一緒にベンチに座った。

「シンプルに行こう。適当なご飯を選んで後を尾け、挟み込んで君が金槌で後ろ頭を殴る。俺はご飯をさっき買った寝袋に入れるから、それを抱えてこの公園の多目的トイレに戻る。そして屠殺と解体。どう?」

俺の提案に対し菰野乃木さんは顎に手を当て、思案するように視線を巡らせた。

「……公衆トイレはそもそもの犯罪発生率が高いから、パトロールで頻繁に警察が来る可能性がある」

「だけど他にどこで誰にも見られずにギコギコすんの?俺たち慣れてないから多分それなりに時間要るよ。ホテルに入るにも受付や監視カメラがあるし」

話し合っている俺たちのはるか頭上を、カァカァとカラスが鳴きながら飛んでいく。公園のベンチは少し肌寒くて、俺は少し鼻をすすった。

菰野乃木さんは少しの間を置いて口を開いた。

「……ご飯の家は?」

「一人暮らしかどうかの判断つかないけど」

「それなら家の中にいる全員を殺せばいい」

俺は驚いて、思わず菰野乃木さんの顔を凝視する。

「それはちょっと…………えっ、天才?」



その後暫くは公園で雑談しながら過ごし、周囲が完全に真っ暗になってからふたりで繁華街へ向かった。

菰野乃木さんは人が多い場所を怖がるかと思ったけど、ご飯を選ぶのに夢中なのか公園の時ほど人目を気にしている様子はなかった。

「あの子は?」

「あれは……女子高生?健康そうだけど足の筋肉がかなり発達している。運動部なら逃げられる可能性が高い」

俺は菰野乃木さんの長すぎるブランクを忘れていた。こう見えて意外と持久力無いんだった。尚更早く食べさせなければならない。

「じゃあちょっと年齢上がるけどあのOLは?」

「……香水がキツい」

「エーッ?この距離でなんの臭いもしないよ」

「僕は嗅覚が他人より過敏なんだ」

ふたりで並んでヒソヒソと話していると、ほろ酔いと思しき若い女性ふたり組に声をかけられた。

「お兄さん達、相手探してる?」

「よかったら私たち暇だから一緒に飲まない?」

菰野乃木さんを横目で見ると、明らかに酒臭くていやだと顔に書いてある。

「ごめーん、俺たちナンパじゃないの。こういうのだから」

咄嗟に菰野乃木さんの肩を抱き寄せる。ふたりはきゃあと黄色い悲鳴を上げた。

「やだ、ごめんね勘違いして」

「お幸せにね!」

「……こういうの、って何?」

肩を抱き寄せられても何も感じていないのか、女性たちが去ると菰野乃木さんは不思議そうな表情で俺に尋ねた。

いや、息がかかるほどの距離感なのにまったく何も察しないのか……?

「あのね、俺たち付き合ってるから女の子いらないよ、って暗に言った」

「俺たち……付き合っている……?誰と、誰が?」

「……俺と君がさ」

「……僕たち……付き合ってるの?」

「付き合ってないよ」

「じゃあなんで付き合ってるって言ったんだ」

「そう言った方が手っ取り早いの」

「でも付き合ってないのに」

「なんなのもー、めっちゃ詰めてくるじゃん!期待してんの!?キスでもして黙らせた方がいい?」

「駄目だ。ここでは目立つ」

顔を顰めて手を振り払われた。少しショックを受けたが、逆に目立たなければしていいのか……? と若干の疑問を覚えた。いやしないけど。

「あれはどうかな。さっきのと年齢は近いけど……臭くないし、健康だけど筋力は発達しすぎていない肉」

そう言った菰野乃木さんの視線の先にいたのは、眼鏡をかけた真面目そうな若い女性だった。

「いいんじゃない。地味だけど美人だし」

「美人かどうかはどうでもいい」

「エーッ?美人の方がよくない?」

「肉になったら顔なんて分からない」

菰野乃木さんが歩き出したのでそれに続いた。


解体場所をご飯の家にしたので、俺たちは作戦を変更していた。俺が話しかけ、怯んだところを後ろから菰野乃木さんが包丁で脅して家の鍵まで開けさせる。殺すのは部屋の中に入ってから。

ご飯に選んだ女は臆病だったのか、泣いてはいたが特に大声をあげることなく俺たちに従った。ちゃんと防犯を考えてオートロックマンションの五階を選んだのに、運の悪い人だ。

一人暮らしだったようで、家の中には誰もいなかった。一家惨殺叶わずだねえ、とぼやくと菰野乃木さんは仏頂面のまま、ふんと鼻を鳴らした。これもおそらく笑ったつもりなのだろう。

菰野乃木さんが女の髪を引き摺ってリビングの床に転がす間、俺は彼女の携帯電話を壊し、人がいないか他の部屋を一応確認してからリビングに戻った。

「待ってたの?もうやってもよかったのに」

「アイスピックを買ってたからお前が先にやりたいのかと」

「うーん、俺はもうちょっと年増でケバいのが好みなんだよね。今回は譲る」

やって?と促すと、彼は迷いなく女の首元に包丁の刃を滑らせた。頸動脈を裂いたらしく、女の喉から勢いよく血が噴き出した。

「……あ」

白いラグを汚し、フローリングにまで広がっていく血を見た菰野乃木さんが恐る恐るという表情で俺に言った。

「ビニールシートを敷き忘れていた……」

ラグを退けて、フローリングの血を風呂場にあったバスタオルで拭き取ってから床一面に青いビニールシートを敷いた。

「血抜きのやり方とか全然分かんないんだけど」

「できる。昔父さんに習った……その時は猪の肉だって説明されたけど」

ふたりでレインコートを着る。俺はお父さんのことを菰野乃木さんに訊くかどうか少し悩んで、やめた。過去について俺が無闇に干渉する必要は無い。

「まずは解体、血抜きはそれから。豚一頭でも完全に血抜きするには五時間ほどかかる。普通は電気を流した後失血死させて時間を短縮する」

「だからアレ放置してるの?」

女は痙攣し、血を流しながらもまだ僅かに息をしている。

「そう。でも時間がかかりそうだから今回はもう解体して、食べる部分だけを血抜きする。夜が明ける前に」

確かに菰野乃木さんは血抜きには慣れていた。

だけどふたりとも人間を解体したことは無いのでそこで無駄に手間取って、結局肉にありつけたのは朝方になった。

「生でいいの?」

「まだ生でしか食べたことがない」

菰野乃木さんは切り分けた肉……たしか大腿筋あたりの部位を皿に盛り付けていた。

「俺は何食べよっかな~」

正直なところかなり空腹だったが、4年我慢してきた菰野乃木さんの前で自分だけ食べる気は起こらなかったのでずっと耐えていた。勝手に冷蔵庫を漁り、冷凍パスタを見つけて電子レンジで温めた。

その間菰野乃木さんはふたり分のカトラリーを用意し、ガラスのコップに水を注いでくれていた。

「さあ、食べようか」

湯気の立つパスタの皿をテーブルに置き、彼の向かいに座る。

一度はフォークを手に取ったが、菰野乃木さんがお行儀よく手を合わせたのでフォークを置いて俺も手を合わせた。

「いただきます」

「……いただきます」

今までそんな習慣がなかったので若干の気恥ずかしさと共に彼の真似をする。

菰野乃木さんが肉を口に運んだのを見て俺もパスタに手をつけた。

「おいしい?」

「……」

黙って手で制された。口に入れている時は一言も喋るなという顔をしている。

菰野乃木さんはよく咀嚼して、肉を飲み込み、口元に垂れた血を丁寧に折ったティッシュで軽く拭ってから頷いた。

「美味しい」

「よかったあ。別に俺が作ったんじゃないけど」

「いや、全部お前のおかげだ。ありがとう、伊妻」

優しい口調だった。誰かにそんな風に純粋な感謝を述べられたことがなくて、思わず赤面して俯いた。

「よ、よかったあ。あはは。なんか照れる」

「今食べて確信したけど……やはり生まれてから今までの間、僕が食べてきたのは人の肉だけだったんだと思う」

菰野乃木さんの神妙な声音に、今まではそれが何だか確信無く食べていたんだと知る。

「ショックだったりする?」

食べる手を止め菰野乃木さんの顔を見ると、彼は悩むようにううんと唸り、首を横に振った。

「正直、十四歳の誕生日になんとなく気付いたから大した衝撃は無い。……あの日、ご馳走だと言って父さんが出した肉から母の匂いがしたんだ」

菰野乃木さんはどこか遠くを見るような表情で、フォークをテーブルに置いた。

「訳も分からず恐ろしくなって泣いたら、父さんはがっかりしたように頭を抱えた。失敗だと言っていた。何が失敗だったのかはわからない」

「……それで……」

菰野乃木さんは首元に横に走る大きな傷痕に指で触れた。

「父さんは僕の喉を包丁で裂いた。痛くて苦しくて、もう死ぬんだと思った。でもその時指の先に父さんが落とした包丁が当たって────僕はそれを握って逆に父さんを刺した。父さんが動かなくなるまで何度も何度も腹を刺した。……裂かれた喉も、父親をこの手で殺した事実も……その時は辛かった」

「……今もそれは……辛いの?」

「いや?最近は梅雨の時期と真冬しか痛まなくなってきた」

俺は傷痕の話をしたわけじゃないけど、菰野乃木さんがあまり気にしていないのならいいやと納得することにした。



その後はふたりで食事を終え、皿を洗い、部屋にあったシングルベッドに横たわって仮眠をとることにした。

「あ、寝るなら僕を縛ってもいいけど」

「やだぁ、突然大胆なことを」

俺がわざとらしく体をくねらせると、菰野乃木さんは意味が分からないらしく眉を顰めた。

「……たまに悪夢で錯乱して暴れて危ないから縛っておいていい、という意味で言った。悪いけど『大胆』ってどういう意味だ?」

「……忘れて」

確かに菰野乃木さんの怪力で蹴られても困るので、お言葉に甘えることにした。

ホームセンターで買ったロープにタオルを噛ませ、彼の手首と足首だけを縛った。

後から考えると普通に別々で寝た方が早いはずなのに、その時は離れて寝る選択肢が思いつかなかった。

「……これでも引き千切るかもしれないけど、その時は諦めて死んで」

「エーッ!?」

ヤダー!と言いながら横になる。

俺は初めてのことばかりで興奮してあまり眠れそうになかった。一方の菰野乃木さんはうとうとしているのか、濃い隈に縁取られた目を瞬かせている。

「……伊妻……」

「ん?」

「お前は僕に────食べれば罪にはならないと言っただろう」

急に菰野乃木さんはそう言って、俺を見上げた。

「でもやはり僕は食べることも罪だと思う」

「今更罪の気持ちに駆られたの?」

はらりと額に流れた彼の赤髪を指で梳く。

「全く。不平等だからだ。金のために殺すのも恨みで殺すのも食べるために殺すのも犯すために殺すのも救うために殺すのも、総て平等に罪であるべきだ」

「自分だけ楽な方に逃げればいいのに、君は誠実だね」

「人を殺して食べる人間が誠実なわけないだろ」

くく、と笑うように喉の奥を鳴らすと、菰野乃木さんは俺の顎に軽く頭突きしてきた。

「顔が近い。もう少し離れて」

ごめんってえ、と顎をさすりながら少し距離をとる。

「……おやすみ、伊妻」

菰野乃木さんは目を閉じると頭を俺の肩に押し付けてきた……自分は近いって怒ったくせに。

「うん、おやすみ」

誰かと一緒に寝るのは初めてかもしれない。菰野乃木さんの体温はかなり低いけど、それでもひとりで寝るより暖かくて、俺もすぐに眠ってしまった。

俺が目を覚ましたのは午後三時頃だった。ベッドに横になってからそんなには経ってないけど、不思議と体は軽かった。

菰野乃木さんはまだすうすうと寝息を立てて眠っていた。眉間に皺が寄っていないと幼い子どもみたいなあどけなさがあった。

事件が起こる前はきっとこういう顔だったんだと思うとなぜか胸がチクリとした。

「……ね、そろそろ起きて。家を出よう」

「んん……今何時……」

「午後三時十二分」

「……二時間以上眠ったのは久しぶりだ」

寝ぼけまなこで菰野乃木さんは起き上がろうとして、手足の拘束を思い出したのか俺を見た。

「悪い、外してくれるか」

「あ、そうだね。後ろ向いて。痛くなかった?」

「いや、全然」

縄を解いた手首には薄らと赤く痕が残っていて、やましいことなど何もしていないのに妙な背徳感を覚えて気恥ずかしくなった。

その後は特に目的もなくふたりで本屋で立ち読みしたり、服を見たり、ゲームセンターで遊んだりした。

「ゲーセン、初めて行ったけど楽しかったね」

「僕も初めて行った。よく分からないうるさい空間だったな……」

「確かに大きな音がするもんねえ。キーホルダー、俺は部屋の鍵につけようかな」

一緒にやったクレーンゲームで初めて取った景品は、ねこのぬいぐるみにキーチェーンが付属したものだった。俺のは青色、菰野乃木さんのは赤色。

返答がないので顔を覗き込むと、菰野乃木さんは表情を曇らせていた。

「……帰ったらまた縛られて、口枷を着けられる生活に戻るのかもしれない」

「俺がそんなことさせない。それに柳二さんは、やったことは酷いけど……君の命を捨てさせたくなかったんだよ」

でもさ、と続けて菰野乃木さんの手を取った。

「このままどこか遠くに逃げてしまいたいなら俺も付き合うけど」

「……いや、いい。僕もきちんと現実に向き合うべきだ」

君は強いねえ、と呆れ半分感嘆半分でぼやく。俺はそこまで強くない。フラフラと、惰性と快楽で生を繋いでいる。

菰野乃木さんの返答は俺にとっては少し残念だった。ふたりで逃げるのはとても楽しかったし、少なくとも彼といる間は、自分が世界にひとりぼっちではないと感じられたから。

「俺を置いていかないでね」

自分でも驚くほどか細い声が出て、情けなくてつい俯いた。

「まさか、置いてなんか行かない」

菰野乃木さんは驚いたようにそう言って俺の肩を掴んだ。泣いてないのに、これじゃ俺が泣いてるみたいだ。

「友達でいる限り、僕たちは地獄まで一緒だから」

あんまりキザな台詞を言うので思わず声を上げて笑うと、菰野乃木さんは意図を捉えかねたのか不思議そうな顔をしていた。

夜が更けていく。行きと反対の電車に乗って、家に帰らなければならない。ものすごく怒られるだろうし、追い出されるかもしれない。

でも俺たちがふたりでいるなら、きっと何とかなるだろう。




(終)



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