川鵜屋奇譚




※暴力、流血、殺人、屍姦描写あり。



死人のような青白い素足の先に、温く泡立った潮水が触れる。

菰野乃木こののぎは少しだけ足を上げ、白波を弄ぶように爪先で軽く蹴った。

砂浜は熱く焼けているが、穏やかな動きで寄せて返す波打ち際は、地面に足裏を付けているだけでしっとりと心地よい。

水平線の向こうに滲む夕陽を受けて、海面の色はオレンジから青へのグラデーションになっていた。

「ねえ、見て!」

声をかけられ、顔だけ右横に向ける。その瞬間、浅瀬に膝下まで浸かっていた伊妻いづまが笑みを浮かべながら顔に向けて水を掬い掛けてくる。

菰野乃木は百八十センチメートル近い巨躯を軽々と翻してそれを避けると、すぐに身を屈めて両手いっぱいに海水を掬い、真顔で勢いよく友人の顔目掛けて投げ付けた。

「うぎゃっ!?」

彼の怪力により豪速球で飛んできた水の塊が顔面に勢いよくぶつかり、伊妻は間の抜けた悲鳴を上げる。

現実離れした馬鹿力をもってすれば、手に汲んだ水ですらひっ叩かれたかのような衝撃に変わるらしい。

いやめっちゃ痛いんだけど!生温いし塩辛いし、っていうか顔面はやめてよ、髪の毛まですげー濡れたじゃん!……などと一瞬のうちに恨み言が際限なく頭に浮かんだが、そもそも最初に自分が始めた悪戯だったのでそれらを口に出すことはせず、かろうじて乾いたままだったTシャツの裾で顔を拭った。

ぽたぽたと滴を垂らす金髪を手で後ろに掻き上げ、ふうっと息を吐く。

菰野乃木は目を細め、微かに口の端を上げている。彼なりに笑っているつもりらしい。

この笑顔が下手くそな男が目に見えて上機嫌なのは、友人歴十五年の伊妻にとってもかなりレアな光景だった。

理由は単純明白。菰野乃木は海という場所がとても好きだからだ。

内陸に位置する梔子市に海は無いので、現在伊妻と菰野乃木がいるのはかなり南下して県を三つほど跨いだ場所にある観光地の海水浴場……から少し離れた海岸である。

この砂浜は比較的ゴミもなく綺麗だったが、岩場が多いせいか田舎だからか、夏でもそこまで人が多くない。

周囲は堤防で釣りをしている男性が何人かいるくらいで、水を掛け合って子どものように遊んでいるのは伊妻と菰野乃木だけだった。

「そろそろホテルに行こうよ。チェックインしなきゃいけないし……あと早く体を洗いたいんだけど」

海水でベタついた体に砂がまとわりつくのが気持ち悪い。それに、昼からひたすら渚を歩き回っていたのでさすがに腹が減っていた。

「俺はもう少しここにいる」

菰野乃木は不服そうに唇をへの字に曲げた。その少し幼い表情は可愛いなと思いつつも、催促するように菰野乃木の手首を掴んで引っ張る。しかし、体幹が強い菰野乃木は伊妻が体重をかけて手を引いてもびくともしなかった。

「ねえ、一旦車に戻ろうよー。それにお腹も空かない?」

「む……」

菰野乃木は仏頂面のまま自身の腹部をさすった。三大欲求がすべて食に向いているだけあって、やはり空腹には勝てないらしい。

伊妻は菰野乃木の手を引っ張りながら砂の中を歩く。

砂浜から続く石段を登ると防砂林の松林があり、いたるところに大きな松ぼっくりが転がっている。

ふたりとも裸足なのでそれらを踏まないように避けながら、木陰にある駐車場へと戻った。

歩いたのは短距離ながら、伊妻は全身に汗をかいていた。七月半ばともなれば夕方でもかなり蒸し暑い。

一方の菰野乃木は汗ひとつかかずに涼しい顔をしている。人間より死人に近いこの男は、交感神経が死んでいるのだ。

ふたりが梔子からここまで乗ってきた車は殺した男から『借りた』ラングラーなので、伊妻は服でシートが濡れるのも気にせず運転席に乗り込んだ。





「申し訳ありません。ご予約がご確認できません」

「エーッ!?」

澄ました面持ちで告げたフロントスタッフの言葉に、伊妻は素っ頓狂な声を上げる。

「伊妻という名前で、大人二名のツインルームで予約したはずなんですが」

菰野乃木はスマートフォンの画面を見せて冷静に確認をしたが、受付の女性は黙って首を横に振るだけだった。

「参ったねえ。……今から新しく部屋を取りなおしたりはできませんか?」

「申し訳ありません、全室埋まっておりまして……」

「伊妻、俺は車中泊でいい」

「うーん、仕方ないけどそうしようか」

スマートフォンで調べると、どうやら先刻までいた海水浴場の駐車場なら特に料金がかからず時間制限もないようだった。

「さて、引き返そうか」

「そうだな」


「ねえ、そこのお兄さんたち!」

駐車場で若い女性に声をかけられた。髪が長く、肌は小麦色に焼けている。地元の人間だろうか。

菰野乃木は自分の目立つ外見で相手を威圧しないよう女から視線を逸らし、伊妻の後ろに隠れた。女は伊妻と菰野乃木を交互に見ながら言葉を続ける。

「宿に困ってるなら、この先に旅館が一軒あるよ。民泊みたいな小さい旅館だけど。よかったら原付で先導しよっか?」

「あ、そーなの?ありがとぉ、おねーさん」

伊妻は目を細め、にっこりと微笑んだ。

異性を陥落させることに長けた柔らかな笑みに、その女も例外なく顔を赤らめる。

「もしおねーさんさえよかったらさ、俺らの車に同乗しない?車デカいから原付も後ろに乗せられるし……せっかくだからお話しながら行きたいな」

車体に寄りかかったまま、伊妻は女の髪の先に指で触れた。

菰野乃木は呆れてため息をついたが、腹が減っていたので特に何も言わずに運転席に乗り込んだ。


勢いよく飛んできたビーチサンダルがフロントガラスに当たる。

ガラスの内側に付いた靴の跡に、菰野乃木は顔を顰めた。

「おい、ちゃんと押さえておけよ」

「ごめぇん」

「がっ……ぐ…………た……す、け……」

女の口から蛙のような潰れた声が漏れる。

伊妻は女の首を絞める手に反対の手を添えながら、強く体重を掛けた。

ミシミシと頚椎の軋む音がして、女の白目部分が徐々に赤く染まっていく。

伊妻は見開かれた女の瞳に唇を寄せると涙に覆われた眼球を舌で舐め上げた。

涙は海水と同じ塩辛い味がした。人間の血液の成分は血球や蛋白質を除けばほとんど海水と同じだが、血液から産み出される涙も似たようなものかもしれない。

意識が薄れているのだろう、じたばたと宙を蹴っていた女の足から力が抜けていく。すぐ気絶するとつまらないので、伊妻は少しだけ拘束を緩めた。女は必死で呼吸を取り込み、再び藻掻きはじめる。

今の彼女は逆さにされたカナブンだ。ひっくり返ってしまえば自力では起き上がれないのに、そんなことは知らずにじたばたと空中で細い手足を動かす。

伊妻は虫も女も好きだ。小さい頃から、自分より弱くて脆いものなら何でも好きだった。弱者が苦しみ藻掻く姿は可愛らしいし、何より官能的だ。

女の長い爪が苦し紛れに伊妻の手の甲を引っ掻く。赤い線が四本浮かび上がり、すぐに皮膚の上にぷくりと血液の球が浮かんでくる。

こんな弱々しい抵抗は捕食者を喜ばせるだけだと彼女には分からないのだろう。

弱者は総じて正しい抵抗の仕方を知らない。

組み伏せている相手が菰野乃木ならば、無意味に足掻いたりせず瞬時に目を突くか喉仏を潰そうとするはずだ。

女の首から手を離し、代わりに両手首を掴んで頭上で一纏めにする。涙に濡れた頬を撫でてから、オレンジ色のリップが塗られた唇に口付ける。

「んんぅーっ!」

女は怯えながら頭を退こうとした。構わず舌を入れると、彼女はヒッとしゃくり上げるような悲鳴を上げた。

奥で縮こまっている女の舌を掬い上げ、自身の舌と絡ませる。

女の薄く滑らかな舌を数回柔く甘噛みしてから、一呼吸置いて勢いよく噛みちぎった。

「ッ……!?んーっ!んーっ!!」

言葉にならない悲鳴を上げ、女が痛みに悶絶する。

伊妻は口の中に広がる血の味に顔を顰めると後部座席の床にぺっと舌の欠片を吐き出した。

「エッやば、菰野乃木さんじゃん」

フロントミラーに写る自分を見て手を叩いて笑う。口元には食い散らかした後のように血がべったりとついていた。

「俺はもう少し綺麗に食べる」

ミラー越しに伊妻を一瞥し、菰野乃木は無感情な声音で反論した。

女は自分の舌の切り口から溢れる血で溺れかけていた。口と鼻から血を流しながらごぼっ、ごぼっと泡立った音を立てている。

────陸で溺死するのは面白いかもね。

伊妻は女が顔の向きを変えられないように両腕で彼女の頭を挟んで固定した。顔を近づけ、見開かれて乾いた虹彩を凝視する。

女の目は伊妻を見ていなかった。その向こうにある死を見つめていた。

くっ、くっ、と女は短いスパンで引き付けに似た痙攣をする。その度に、コップに注ぎすぎた水が溢れるようにだらだら口端から血が溢れて顎へと垂れる。

「うふふ……ワイン零してるみたいだね」

女の瞳からは生命の光が消えつつあった。風に吹かれる蝋燭のように、時折瞳孔がふらりと揺れた。涙に濡れていた眼が乾き、いつの間にか痙攣も収まっている。

瞳孔散大を確認してから、伊妻は女の頭から手を離した。女のシャツを捲り、腹部の動きを見て呼吸の停止を確認すると、女の履いていたショートパンツを脱がせた。

女は失禁しており、ショートパンツもその下のショーツも尿で濡れていた。全て脱がせ、適当に放り投げる。

助手席のシートにびしょ濡れの黒いレースショーツが飛んできて、菰野乃木は不快感で低く唸った。

「投げるな、運転の邪魔だ」

「……」

返答がないのでミラーで後部座席を確認すると、伊妻は唇を噛み、額に汗を浮かばせながら自身のベルトのバックルを外していた。今は返事どころではないらしい。

運転中なのですぐに前を向き、ウインカーを出して丁字路で左折する。

視線が自分から逸れたことを確認してから、伊妻はミラー越しに菰野乃木の顔を見つめた。

青白い顔、濃い隈に縁取られた目元には長い睫毛が陰を落としている。

彼の体の表面は冷たいが、胎の中も死人のようにひんやりとしているのだろうか?それとも体の内部だけは熱を持ち、柔らかく濡れているのか。

想像して、口の中に溜まった唾液をこくりと飲み込む。

伊妻は、菰野乃木が自分に向ける友愛と信頼を裏切るつもりはない。ただ、妄想するだけなら自由なはずだ。

親友の横顔を盗み見ながら、女の陰部へと勃起したペニスを挿入する。まだ死んだ直後なので膣内は熱くぬかるんでいるが、筋肉が弛緩しているため生きた女のような締めつけはない。緩慢に腰を揺すりながら目を閉じて夢想する。

────いやだ……ッ伊妻……。

人形に似た白痴美のかんばせを苦痛に歪め、あの黒い瞳に透明な涙が浮かぶ姿を思い描く。血を流す後孔を無理矢理抉って、犯して、肋骨の奥、臓腑の底に秘められた絶望を引き出す。

────友達だと思っていたのに……!

ああ、なんて憐れなのだろう。

菰野乃木が友愛を向ける相手はこの世で伊妻しかいないというのに、たったひとりの親友にすら邪な想いで裏切られるなんて。

息を詰めながら抽挿を早める。

────あっ……駄目だ、やめろっ……!

妄想の中の菰野乃木は拒絶の言葉を吐きながらも勃起しており、伊妻のされるがままになっている。

あー、これはちょっとあまりにも俺に都合がよすぎるかな、と思った途端に何だか興ざめして、伊妻は動きを止めた。

ふーっと息を吐いて、萎えたペニスを引き抜く。

「あーあ、中折れか~」

「……ナカオレ?」

菰野乃木はその言葉自体を知らないのか不思議そうに瞬きをして、ミラー越しに伊妻を見た。




女が言っていた旅館とやらは、ホテルの駐車場から車で三十分ほどの距離にあった。

「殺しちゃったから分かんないけど、あの女の子ってどうして俺たちに声かけてきたんだろうね」

「この旅館の関係者だったんじゃないか?ホテルに泊まり損ねた人間をこっちに斡旋する係とか」

ふたりは古びた外観の日本家屋を同時に見上げた。取ってつけたような「川鵜屋かわうや」という看板がなければ本当に少し大きめの古民家にしか見えない。

さっきまでの景色は海だったのに、旅館の周囲は鬱蒼と木が生い茂っており立地的にもどちらかというと山に近かった。

「なかなか趣深いじゃないの」

「俺はもう少し清潔な方がいい」

互いに好き勝手言っていると、がらりと玄関の引き戸が開いて中年の女性が現れた。朱色の作務衣の上から割烹着を着て、手には籐でできたボトルキャリーにビール瓶を四本入れて提げている。

彼女は伊妻と菰野乃木の姿を見るとぱっと人の良い笑みを浮かべて近寄ってきた。

「あら!あなたたちね。エミちゃんから電話でお話は聞いてますよ。……エミちゃんは?」

伊妻と菰野乃木は顔を見合せた。

────まずい、多分さっき殺した女がエミちゃんだ。

────とりあえず適当に誤魔化すぞ。

目配せで会話をしてから、菰野乃木が女の方に向き直って口を開いた。

「……彼女は用事があるからあとから来ると……道だけ教えてもらってふたりで来ました」

「あら、そうなの?あの子ったらサボって遊んでるのかしら……ああ、ごめんなさいね!暑いからとりあえず中に入って」

中年の女は自らを佐野上さのうえと名乗った。よく見ると割烹着の胸元にも「さのうえ」と平仮名で刺繍がしてある。

「何泊なさるの?」

「二泊でも可能ですか」

「勿論、むしろ大歓迎よぉ」

佐野上は脚が悪いのかよたよたと左右に大きく振れる歩き方で屋内へと入っていく。

古い日本家屋となると背の高いふたりには天井も鴨居も何もかもが低く、小人の家のようだった。菰野乃木は引き戸の上枠を少し屈んで通り抜けたが、その後に通ろうとした伊妻は盛大に額を木枠にぶつけていた。

「大丈夫か」

「素直に心配されると余計恥ずかしいからいっそ笑ってよぉ」

伊妻の言葉に、菰野乃木は不思議そうに首を傾げつつも口角を大きく上げてみせた。

ふたりが通された部屋は階段を上って二階にある座敷だった。

宿泊部屋というより宴会部屋のようで、ふたりで泊まるにしては広く感じた。冷房がまだ入ってないせいか部屋全体が蒸し暑い。

「お兄さんたち体が大きいから、狭い部屋だと窮屈かと思って。ここは本当は宴会部屋なんだけど、どうせ他にお客いないからね!」

佐野上はそう言うと、あっはっはと豪快に笑った。

菰野乃木は部屋を見渡しては顔を顰めている。何らかの匂いを気にしているようだ。

「もしかしたら備え付けのものじゃ布団が小さいかもねえ。確か倉庫に大きなのもあったはずだから……ちょっと確認してくるわね」

予備の布団を取りに佐野上が部屋から出ていくと、伊妻は菰野乃木の耳元に顔を寄せた。

「……もしかしてなにか見つけた?」

菰野乃木は首を横に振り、無言で口元に指を当てた。盗聴を疑っているらしい。伊妻が掌を差し出すと、菰野乃木はその手を掴んで鋭い爪の先で文字を書く。

『血、の、に、お、い、が、す、る』

驚いて菰野乃木の顔を凝視する。彼は頷き、更に指を動かした。

『た、ぶ、ん、何、人、も、死、ん、で、る』

伊妻は菰野乃木の手を取り、その掌に同じように指で文字を書いて返事をした。

『な、に、か、あ、れ、ば、み、な、ご、ろ、し、で、い、い、じ、ゃ、ん』

菰野乃木は黙ったまま、賛同の意味で目を細めた。



ほどなくして佐野上がふたり分の浴衣を持って戻ってきた。彼女の後ろには紺の作務衣姿の若い男が布団を抱えて立っている。

中肉中背でパッと見の年齢は二十代後半程度だが、ボサボサの髪と酷いニキビ跡のせいで中学生ですと言われても納得しそうな垢抜けなさがあった。

さとし、布団はそこに置いてね。……お兄さんたちお風呂はいかが?実はもうお湯も沸いてるの」

「じゃあお言葉に甘えて。ほら、ノギさんも行こう」

「……」

風呂嫌いの菰野乃木は、精一杯の不満を示すためにつんと唇を尖らせた。しかし、海で遊んだせいで靴下の中が砂まみれなのも事実だった。

伊妻は荷物の中から持参したシャンプーやボディソープなどのボトルを取り出した。匂いがついているものは菰野乃木が嫌がるので、家から無香料のものを持ってきていた。

「愉、おふたりをご案内してあげて」

愉と呼ばれた作務衣姿の青年はぶっきらぼうに頷くと、伊妻たちを先導して歩き始めた。伊妻に半ば引き摺られるようにして菰野乃木もそれに続いた。

建物の1階の最奥に位置する浴場は、宿の小ぢんまりした外観の割に思いのほか広かった。なんなら小さな銭湯と言っても遜色がない。

「……風呂場は曾祖父が家を旅館にする時に、建物から半分突き出すような形で増築したんです」

愉が湯桶などを準備しながらそう言った。

伊妻はさっさと服を脱ぎ始めていたが、菰野乃木は傷だらけの体を見せるのが嫌で服を着たまま脱衣所に佇んでいた。

しかし、なぜか愉は菰野乃木が脱ぐのを待っているらしくじっと彼を見つめたまま動かなかった。

「……お客さん、入らないんですか?」

「…………入ります」

仕方なく黒いシャツを脱ぎかけるも、上半身に愉の視線がまとわりつくのを感じる。肩や肋に大きな傷跡がいくつもあるので、もの珍しいのだろうか。

伊妻が菰野乃木の手を掴み、服を脱ぐのを止めさせた。愉に対してにこりと愛想のいい笑顔を向ける。

「ごめん、あんまり恋人の身体見ないでくれるかな」

愉は顔を紅潮させ、慌てて俯いた。

「す、すみません……失礼します」

「……恋人?」

菰野乃木は露骨に怪訝な面持ちになる。伊妻は笑顔のまま片目を閉じてウインクをした。

そういえばかなり前にも伊妻は似たようなことを言って他人を追い払っていた気がするので、恋人と言った方が都合がいいこともあるのだろう。

愉が扉を閉めて出ていったのを確認し、菰野乃木も服を脱いだ。

「座って。髪洗ってあげる」

菰野乃木は浴場へ入ると、伊妻に言われるままに大人しく風呂椅子へと腰掛けた。

伊妻が菰野乃木の体を洗うこと自体は日常茶飯事だった。

菰野乃木は普段から入浴を嫌がって逃げ回るので、追いかけては浴室に引っ張って行って丸洗いするのである。

菰野乃木を風呂に入れるのは到底一筋縄ではいかない重労働だ。感覚としては水嫌いの大きな犬を宥め透かしながら風呂に入れるのに近い。

海がいくら好きでも菰野乃木はカナヅチなので泳げないし、なんなら水に顔をつけることすら出来ない。もしかしたらそれも風呂嫌いの原因かもしれないが。

「上向いてねえ、お湯かけるからね」

伊妻が幼児に言い聞かせるかのような口調でそう言うと、菰野乃木はきゅっと唇を結んだまま上を向いた。

湯が目にかからないように彼の額の辺りに手を当てながら、慎重に髪の毛を濡らしていく。

「ねえ、息して。絶対今止めてるでしょ」

「……っは、……気付かなかった」

菰野乃木は目を丸くして、必死で止めていた息を吐いた。

「んふふ……そんなんでさあ……俺が居なくなって生きていけるの?」

伊妻は頬を緩めながら菰野乃木の頭に持参していたシャンプーハットを被せる。

狼の毛皮のようなごわごわした赤髪にシャンプー液をつけて、泡立てていく。

「生きていけない。到底無理だ」

泡は顔に落ちてこないのに、必死で目を細めて菰野乃木が答えた。

「少なくとも風呂には一生入れなくなる」

「あは。ウケるんだけど」

菰野乃木に食肉目的以外で必要とされる人間はかなり少ない。

だから、生かされた状態で彼の隣にいるのを許されているという、それだけのことで大きな優越感を感じる。

本心では自分を信頼して無防備な姿を晒しきっているこの男をめちゃくちゃにしたいと思う。しかし同時に、手負いの獣並に五感が鋭いくせに伊妻に対してだけは警戒心がふやけ切っているのが愛おしくて、現状を維持し続けたい気持ちもあった。

「お湯掛けるよー。……ちょっと、息はしてってば」

きゅ、と目と口を閉じる菰野乃木を見て苦笑する。頭がいいくせに、こういう所はなぜか学習しない。

シャワーの湯で泡を丁寧に洗い流していく。

髪から滴る水滴を軽く絞ってからシャンプーハットを取ると、菰野乃木は急に目を見開いて伊妻の頭を自分の方に引き寄せた。

唇同士が触れそうな距離に、一瞬心臓が跳ね上がる。

菰野乃木が暗い瞳を横に向け、風呂場に反響しないほど微かな声で囁いた。

「……見られている」

────マジかあ。風呂まで覗くのね……。

伊妻は監視者側から見られていると意識して菰野乃木の首筋に指を這わせた。愉の前で恋人と言った手前、そう振る舞うのが自然だと判断したからだ。

冷たい体に背後から抱きついて、菰野乃木の耳朶へ唇を寄せる。

どの角度から見られているのか伊妻には分からないのでどこまでそれらしく演技すべきか悩むが、唇の動きまでは読まれていないと信じたい。

「ねえ、あいつらの目的が気にならない?」

胸をなぞりつつ囁くと菰野乃木は少し眉を顰め、悩むように視線を彷徨わせた。

気にはなるが、わざわざ自分から藪をつつく必要は無いと言いたいのだろう。

伊妻とて厄介事に首を突っ込む趣味はない。

だが、現状は恐らくこちらが望まずとも既に首どころか上半身全部突っ込んでいる状態なのではないだろうか。そうなればこちらも自衛が必要だ。

「……続きは後でね。体洗おうか」

伊妻はなんでもない風にそう言って菰野乃木の体を離した。



部屋に戻る途中の廊下で佐野上に鉢合わせ、声をかけられた。

「ああ、そういえばあなたたち食べられないものはある?お夕飯は山菜と魚の天ぷらにする予定だけど」

伊妻と菰野乃木は顔を見合せた。完璧に素泊まりの予定だったので、まさか佐野上が食事を用意するつもりだとは思ってもみなかった。

どっちみち菰野乃木は普通の食事は食べられないので、伊妻は外食、菰野乃木は保冷バッグに持参した肉を食べることになる。

伊妻は申し訳なさそうに眉を下げ、後ろ頭を掻く。

「あー……すみません、ちょっと外に用事があるんでご飯もそこで済ませます」

「あらそうなの」

特に残念でもなさそうに佐野上は頷いた。 しかし、二人が車で外に出ることはなかった。

伊妻が車のエンジンを掛けたものの、キュルキュルと妙な異音がする。そしてバッテリーの警告灯が赤く点灯していた。

「あれ? バッテリー切れた?」

「……車を弄られたかもしれないな」

周囲の匂いを嗅ぎながら菰野乃木が言った。

「車のボンネットからさっき風呂場に案内した男の従業員と同じ匂いがする」

「……なるほどねえ」

車の修理業者を呼ぼうとしたが、伊妻のスマートフォンは圏外と表示されていた。

「エーッ?圏外なんだけど」

「ホラー映画なら完璧にフラグだな」

冗談と言うよりは事実を淡々と述べるように菰野乃木が独りごちた。

「……ナイフを取っておく」

「俺はなんか武器になるものあったかなあ」

「スカルペルは持ってきたんじゃないか」

お互い車の座席の下に隠していた得物を手にし、菰野乃木はサバイバルナイフを直に袖の下に、伊妻はスカルペル含む医療器具をポーチに入れたままズボンのポケットへと突っ込んだ。

「全員グルで間違いなさそうだよねえ」

「どっちみち皆殺しだが、ここまでされるとさすがに理由が知りたくなってくるな」

だから言ったじゃーん、と伊妻が菰野乃木の肩を肘でつつく。菰野乃木は顔を顰めた。

「何だ?なぜつついた。殺すぞ」

「厳しすぎてウケるんだけど」

伊妻と菰野乃木はすぐに旅館内には戻らず、建物の周囲を一周して探索することにした。主には帰るための車探しが目的だった。

「従業員の車がどこかに置いてあるかもしれない」

「いざとなったらまた誰かのを借りて帰ればいいもんね」

裏手に回ると車庫のようなものがあったが、シャッターが閉まっている上に鍵がかかっており、中までは確認できなかった。

菰野乃木は錆びたシャッターに手を当てて顔を近づけると、神妙な面持ちで伊妻の方に振り返った。

「……この中に人がいる」

「……人?」

説明しがたいのか、菰野乃木は珍しく困惑気味に言い淀んだ。

「……二十人はいる……おそらく生きている。同時に不健康な血の匂いもする。おそらくは全員が病に侵されている」

伊妻は眉を顰め、数歩車庫から距離を取った。

「エーッ、ゾンビとかいたらやだなあ」

「なんだ知らないのか?ゾンビは現実には存在しないぞ」

「今日俺たちがここで新種のゾンビを発見しちゃうかもしれないじゃん」

菰野乃木は伊妻の冗談が理解できずに首を傾げた。

地面を踏みこむ音が百メートルほど先から聞こえて、菰野乃木は咄嗟に伊妻の頭を掴んで屈ませ、自身も身を低くした。

パシュッとサプレッサー付き銃の銃声に似た音がして、麻酔銃のダーツがシャッターに突き刺さる。

「わお、撃たれたねえ」

「……ああ」

菰野乃木は伊妻に屈んだままでいるよう指示しつつ、周囲を見渡す。

ダーツの飛んできた方向から、作業服の上にハンティング・ベストを着た老人が慌てて駆け寄ってくる。

「悪ぃ悪ぃ!兄ちゃんたち大丈夫か?」

「ええ、避けたので」

菰野乃木が澄ました顔で答えると、老人は歳の割に綺麗に生え揃った歯を見せて笑った。

「あっはっは!面白いこと言いなさるな。いやしかし本当に悪かった。兄ちゃんデカくて黒い服着てるから一瞬クマと見間違えてな」

「よく確認した方がいいですよ。熊用の麻酔は人に使うと心停止の可能性もある」

菰野乃木はシャッターに深々と刺さっていたダーツを引き抜くと、老人の手に握らせた。老人の足元を見下ろし、爪先のすり減り方が強い右足のスニーカーを指差す。

「撃つ時に右脚を強く踏み込む癖もやめた方がいい。重心がブレるし、あなたの腰痛の理由もそれです」

「……あ、ああ……ありがとな……」

老人は引き攣った笑みを浮かべ、そそくさとダーツをベストのポケットに仕舞った。

「そ、それじゃ俺はこれで……」

「この車庫って何があるの?」

伊妻は老人を挟み込むように菰野乃木の向かいに立ち塞がった。

「え?いや……車じゃねえかな」

「ふーん。おじさんは見たことあるの?」

「さあ、それは…」

ねえけど、と老人は言葉尻を濁らせた。

伊妻は菰野乃木に目配せをした。長い睫毛に縁取られた暗い瞳が、ゆっくりと一回瞬きをして肯定を示す。

老人は伊妻の方を向いていた。だから背後から菰野乃木が彼の禿げ上がった頭に手を伸ばしたことも、反対の手の袖口からサバイバルナイフを取り出したことにも気付かなかった。

菰野乃木は左手で老人の頭を掴むと、右手のナイフを逆手に持ち替えて背後から脳天へと突き刺した。

老人は声を上げることも出来なかった。額を流れる鮮血の生温さは自覚したものの、だからといって自分に何が起こったのかは全く理解できなかったのだ。

老人の頭に突き刺したナイフを、手首を使って掻き回し、頭蓋の中身をめちゃくちゃに混ぜる。

老人の鼻からは、さらさらと透明な液体がとめどなく伝って落ちていた。髄液が流れ出しているのだろう。

菰野乃木は、ナイフを前後に押し引きしながらこめかみへと移動させる。顔の内側からナイフが当たったらしく老人の黄色く濁った眼球がぶつりと裂けて、ゼリー状の硝子体が溢れ出る。

耳、そして顎まで、顔の表面を輪郭に沿ってぐるっと下までくり抜く。

顎下まで来て面倒臭くなった菰野乃木は、そのまま勢いよくナイフを脳天に向けて引いた。

老人の顔が真ん中でぱっくり裂けて、くり抜いていた顔の右半分が粘つく組織液を滴らせながらゆっくりずり落ち、砂利の敷かれた地面へと張り付いた。

顔の半分を失った彼は静かにその場に膝をつき、力無くうつ伏せに倒れた。

「返り血ゼロじゃん!さっすがー!」

伊妻はパチパチと雑に手を叩く。菰野乃木は仏頂面のままふんと鼻を鳴らした。褒められて喜んでいるらしい。

「倉庫の裏側にこいつを隠すか」

「……ってことは静かにひとりずつ減らす戦法?」

菰野乃木は頷き、ナイフに付着した血と脳髄を乱暴に指で拭った。

「ホラー映画を逆にこちらから味合わせてやろう」




老人の死体を車庫の裏に隠し血のついた砂利を退かして証拠を隠滅した頃、ようやく日が落ち切って僅かながら暑さが和らいできた。

代わりに周囲がほとんど真っ暗になってしまったので、菰野乃木は伊妻に自らの右手を差し出した。

「転んだら困る」

伊妻は菰野乃木のひんやりと冷たく固い掌を握った。彼は嗅覚が鋭いので暗闇にも強い。手を繋いで歩いた方が安全だ。

旅館の建物の奥の方からぱちぱちと火花が弾けるような音がする。

菰野乃木が伊妻の手を引きながら家屋の左奥まで進むと、ちょうど風呂場がある辺りに大きな金属製の薪ストーブと、薪が並んだ木製の棚があった。

周囲に人はいなかったが、ストーブには煌々と火が点っている。

菰野乃木は薪が置かれた棚の、一番上の段と二番目の段の間に手を入れる。

奥の方で冷たい金属のようなものが当たったのでそのまま手元に手繰り寄せると、予想通り古い散弾銃が姿を現した。

「変なところに隠してあるね」

「……ふむ。車を壊したのと同じ男の従業員の匂いがする。俺たちの気配に気付いて慌ててここに仕舞ったんだろう」

菰野乃木は銃の両端をそれぞれ手に持つと、勢いよく膝で蹴って銃身をひしゃげさせた。

ぐにゃりと曲がったそれを元あった場所に戻す。

武器がひとつとは限らないが、壊しておいて損は無いはずだ。

「そろそろ旅館に戻る?向こうは車が壊れたことも知ってる。あまり長く外にいて怪しまれても嫌だし」

「確かにな。一旦戻ろう」

伊妻の手を引いて旅館の入口まで戻る。玄関灯には既に明かりがついており、大きな蛾が何度もぶつかっていってはチリチリと焦げるような音を奏でていた。

引き戸を開けると、ちょうど玄関で待っていた佐野上は手を繋いだままのふたりを見て目を丸くした。

「あなたたち、仲がいいのねえ」

「ええ、仲はいいと思います」

菰野乃木は伊妻の手首を掴んだまま至って真面目な顔つきで頷いた。



「ご飯は食べてきたの?」

「それが、車が壊れちゃって。ちょっとボンネット開けたりして修理を試みたんですが、暗くなってきたし結局諦めて戻ってきました」

伊妻は適当な嘘を並べながらへらりと笑う。

佐野上はあら、といかにも心配そうに口元に手を当てた。

「困ったわね。なんでかしらね?」

当然車が壊れた原因は知っているだろうに、白々しい演技に呆れ返る。

「後で車屋さんに連絡しておくわ。……とりあえず、夕ご飯を用意するわね」

「いえ、ちょっとふたりとも疲れちゃったんでもう寝ようと思います」

伊妻の言葉に菰野乃木も頷いた。どっちみち、絶対に何らかが混入されるであろう旅館の食事を食べる気はなかった。

「ダメよそんなの、ふたりともまだ若いのにご飯抜くなんて!すぐに用意するから食べなさい」

佐野上は強引にそう言うと、返事も待たずに足早に厨房に向かってしまった。

「エーッ?どうする?」

「…………」

菰野乃木は無表情で親指の爪を噛んだ。自分たちを除いて旅館内で人間の気配は三つ。

佐野上、愉、そしてまだ姿は見ていないがあともうひとり従業員がいるのだろう。

司令塔と思しき佐野上は最後に残しておくとして、愉ともうひとりの従業員をなるべく騒がせず静かに仕留めたかった。

菰野乃木は伊妻の掌に指で文字を書いた。

『に、か、い、に、ひ、と、り、し、ず、か、に、こ、ろ、せ』

『O、K、♡』

返事の最後のハートマークに菰野乃木は怪訝な表情を浮かべたが、伊妻がにこにこと楽しそうにしているので特に言及はしなかった。




菰野乃木は忘れ物があると言って建物の奥へと向かった。おそらく風呂場にいるもうひとりを殺しに行ったのだろう。

その様子を横目に伊妻は階段を上りながらポーチの中のスカルペルを取り出し、刃にきつく巻きつけていた布を取る。

座敷では、佐野上と同じ朱色の作務衣に白い前掛けを着けた女性が布団を敷いていた。長い黒髪を引っ詰めた真面目そうな見た目は、伊妻の好みからは外れているがかなり美人である。

「あ、おかえりなさい…お布団ご用意させていただいてます」

女は布団のシワを伸ばしながらぺこりと頭を下げた。

愉が何か言ったのかそれともこの女が風呂場にいた監視者だったのか、伊妻と菰野乃木の布団はぴったりと隙間なく横並びに敷かれていた。

恋人の設定を思い出して伊妻は苦笑しつつ、座敷の出入口である襖を後ろ手で閉める。

「おねーさん、エミちゃんに顔似てるね。姉妹?」

伊妻の言葉に女は照れたように頬に手を当てた。

「やだ、姉妹なんて。あの子は娘です」

「えーマジ?親子揃ってすごい美人なんだ。ああ、布団ありがとね。もーホテル泊まれないわ車壊れるわで疲れちゃってさ……あれ?そこ、布団に何か落ちてる」

「え?どこですか?」

女は布団に這いつくばるようにして異物を探す。伊妻はポケットからハンカチを取り出すと、女の背後から覆い被さって彼女の口にハンカチを突っ込んだ。

「ッ!?んうぅ!?」

「シーッ……静かにね」

スカルペルの刃を眼前で振ってみせると、女はガタガタと震えながらも体の力を抜いた。

伊妻は女の髪を纏めていたヘアゴムを解き、優しい手つきで髪を撫でながら項を露出させる。そして剥き出しの白い項にスカルペルの刃先をそっと埋めた。

硬い頚椎骨は避けて、その間から脊髄を刃で切断する。

女は小さく声を上げたが、すぐに脱力して動かなくなった。脊髄を損傷したことで全身の感覚が消失してしまったのだろう。

今の彼女は死んではないが、五感を失ったので呼吸障害を生じて命を落とすのも時間の問題だ。

掛け布団で女の項を覆いながらゆっくりスカルペルを抜き、血が漏れ出さないように彼女の体を布団で簀巻きにする。

─────さて、菰野乃木さんの様子を見に行こっと。

伊妻は音程の外れた鼻歌を歌いながら座敷を後にした。




伊妻が二階に上がったその頃、菰野乃木は一階の奥にある浴場へと向かっていた。

脱衣所に入ると、愉が箒で床の掃除をしていた。彼は菰野乃木の顔を見るとなぜか頬を赤らめて俯いた。

「……どうか……しましたか?」

「キーケースが見当たらなくて。もしかしてここに無いかと探しに来ました」

「俺……一緒に探しますよ」

愉は箒を置き、脱衣所のロッカーを調べ始めた。 菰野乃木も適当に探すふりをしながら愉に忍び寄る。

袖口の包丁を出そうとした時、愉が急に顔を上げ菰野乃木を見た。

「あの……ここの旅館ヤバいんで早めに逃げた方がいいっすよ」

菰野乃木は驚いて動きを止めた。

「……ヤバい、とは」

「変な因習に拘ってて、特に伯母さん頭おかしいんですよ………車ないんで歩きにはなるけど、今からでも逃げれば何とかなります」

菰野乃木は盗聴を恐れて視線を周囲に巡らせた。愉はその様子を見てにやにやと笑う。

「安心してください。『聴く』のは俺の担当だから伯母さんにはばれません」

愉は菰野乃木の手を握った。そのまま手の甲をゆっくりと指先で撫でられ、菰野乃木は得体の知れない嫌悪感で眉を寄せる。

「ちょっとだけ触らせてくれたら、上手く逃げるために協力しますよ」

「……触らせる?」

「そう、こうやって触るだけ……なので」

伸びてきた手が菰野乃木の厚い胸板に触れる。愉がごくりと唾を飲む音が聞こえた。

筋肉の上に適度に贅肉を纏った、柔らかく弾力のある感触。興奮気味にさっきより強く鷲掴みにする。

「……そんなところ触って何が楽しいんだ」

「俺、男でしか勃たないんで……」

息を荒らげながらそう宣う愉は勃起しているらしく作務衣の下履きが不自然に膨らんでいる。

菰野乃木は悩んだ。この気色の悪い男を今すぐに殺しても一向に構わないが、比較的友好的な態度を利用して旅館側の目的を全て吐かせた後で殺しても遅くはないのではないだろうか。

しかし、その時ちょうど伊妻が上階の階段を踏む音が聞こえてきた。おそらく始末が終わって菰野乃木の様子を見に来るのだろう。

────まずい。

理由は分からないが、伊妻がこの現場を見たらそれはもう烈火のごとく怒る気がする。菰野乃木の鋭い第六感が警鐘を鳴らす。

咄嗟に愉の頭を抱き寄せて胸に埋めさせる。愉はなにやら喜んでいるがそれを無視して二の腕で後ろ頭をホールドし、きつく圧迫する。

「ふ、ぐっ……ゔ……っ!?」

顔が完璧に胸に埋まっているために呼吸ができず、愉は必死で菰野乃木の背中を引っ掻いた。

苦しげに藻掻きながらシャツを引っ張ったり腕で押してみたりと脱出を試みるが、当然ながら並の成人男性が腕力で菰野乃木に敵うはずがない。

赤かった愉の顔がみるみる青紫色になる。チアノーゼが始まっているのだろう。

しきりに背中を引っ掻いていた腕から力が抜け、だらりと床に垂れ下がる。

愉が意識を失ったのを確認して菰野乃木は腕を緩めた。

手を離すと、愉は崩れるように床に倒れ込む。

「ノギさんやっほー。調子どう?」

脱衣所の扉からひょこっと伊妻が顔を出した。

菰野乃木は安堵のため息をつき、頷く。

「問題ない。こっちもすぐ終わる」

菰野乃木は浴場から排水溝の蓋を持ってくると、金属製のそれを床に転がっている愉の頭の上へと置いた。更に蓋の上に自分の足を乗せて、体重を掛けて勢いよく踏み抜く。

ぐじゃっ、と濁った音を立てながら愉の頭がトマトのように潰れた。

強い圧力をかけられたせいで飛び出た眼球が、視神経と繋がったまま床をコロコロとゴルフボールのように転がる。

「うぇ、胸のところすごい汚れてるけどどしたの?」

伊妻は顔を顰めながら菰野乃木のシャツを指差した。

胸元だけが愉の汗と涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃに濡れている。

菰野乃木はシャツを脱いで乱雑に丸めると、愉の死体の上に放り投げた。

「……部屋に着替えあったよな?」




佐野上は当惑していた。

食事の支度を済ませて後は二階の座敷に運ぶだけとなったが、なぜか他の従業員がひとりも厨房に戻ってこない。

エミの母親────良子よしこは座敷へと布団を敷きにいったはずだ。

そして二階で異常があれば各部屋を盗聴している愉が気付いて報告する手筈になっている。

愉から何も連絡がないということは特に問題ないと思いたいが、佐野上はここにきてなぜかとてつもなく嫌な予感を抱いていた。

────そういえばエミもまだ帰ってこない。いつもなら街で遊ぶにしても夕飯までには戻ってくるはず……。

とりあえず一人前の食事を盆に乗せ、ヘルニアの腰を庇いながら厨房を出る。

二階に続く木製の階段を何とか上りきると、一度床に盆を置き両手で引き戸を開けた。

「失礼します──」

部屋の中は特に変わりなく静かだった。客である男二人の姿は見当たらない。ただ、座敷の真ん中に敷かれた布団の片方が大きく捲れて丸まっていた。

何の気なしに数歩近寄り、佐野上はひっと息を飲んだ。

布団の下から二本、細い足が飛び出ている。足袋を履いているところを見るに、これは良子の足だ。

「……良ちゃん?」

恐る恐る声をかけるも返答はない。わなわなと震える手で布団の端を掴んで引き剥がすと、佐野上は悲鳴を上げてその場に座り込んだ。

良子はうつ伏せのまま息絶えていた。長い黒髪が蛇のようにうねりながら布団の中に散らばっている。そして剥き出しの項は血が赤黒く固まってこびりついていた。

「……愉」

甥の存在を思い出し、這うようにして部屋を出る。盆に載った料理もそのままに、半ば転げ落ちるかのように階段を下りる。

「愉!どこなの!?銃を持ってきて!」

一階はしんと静まり返っていた。さっきも通ったはずの廊下が、まるで真っ暗な夜の森のように恐ろしく思えた。

息を潜めながらゆっくりと建物の奥にある浴場へ向かう。

古い廊下が、踏みしめる度にミシリと大きく軋む。

佐野上は額に冷たい汗が伝うのを感じながら、脱衣所の扉を開けた。

「……愉、いるんでしょ?」

壁伝いに脱衣所の電気をつける。

一歩足を踏み入れた途端に腐肉と鉄錆の混じったような強い臭気を吸い込み、噎せ込んだ。酷い悪臭だった。

吐き気が込み上げてきて、口元を掌で覆いながら浴場の方に歩いていく。

何かぬるつくものに足を取られ、佐野上は尻餅をついた。足袋を履いた足裏に、じわりと冷たい液体が広がる。

視線を落とすと、そこにあったのは髪の黒、脳の白と肌の肉色、そして血の赤、赤、赤、一面の赤色。

人型の原型はない。だから「それ」が何なのか、佐野上にはわからない。

しかし、「それ」は愉の作務衣を着た首の無い死体から広がっている。

佐野上はその場に嘔吐した。吐瀉物と「それ」は液体と個体の割合で言えば大差なかった。

胃液で焼けた喉で何度も金切り声を上げながら、縺れる足を必死で動かして脱衣所から廊下に這い出た。

「誰か助けて!誰か!」

いくら掠れた声で叫んでも、自分の声が反響するだけで旅館の中は恐ろしい程静かだった。

佐野上は掃除用のサンダルを突っかけただけの格好で玄関から外に出た。

この宿は電波が通じない。自分たちがそういう場所を選んだのだ。

唯一電話が通じるのは車に置いている衛星電話だけ。暗闇の中、佐野上はよたよたと覚束無い足取りで車庫の方向に急いだ。

よく見ると、車庫の前に懐中電灯を持った誰かが立っている。蛍光板の貼られたオレンジのハンティングジャケット────佐野上の父親だ。

「お父さん……ッ!」

佐野上は泣きながら走った。

父親は麻酔銃を持っている。きっとあの男たちを仕留めてくれたはずだ。

走っていた佐野上の足が、ふと止まった。

揺れている。父は両脚が揃ったままふらふらと左右に揺れている。

「いや……嘘よ……いや……!」

父親は車庫の排水管にロープで吊るされていた。その顔の右半分は削ぎ取られ、中の筋肉が露出している。

粘ついた血を垂れ流しながら、ギィ、ギィ、と一定のリズムで横に揺れる。

「びっくりした?」

耳元で囁かれ、恐怖でその場にへたり込む。見上げると伊妻が蛇のような意地悪な笑みを浮かべて佐野上を見下ろしていた。

反対を向くと赤毛に巨躯の男──菰野乃木が音もなく立ち塞がり、行く手を阻んでいる。

「なん……なんで……どうしてこんなこと……」

必死でそれだけ絞り出すと、伊妻は不思議そうに首を傾げた。

「なんでって……ねえ」

「理由をあげればキリがない。車を壊された」

「盗聴もされたね」

「風呂を覗かれた」

「麻酔銃で撃たれかけたし」

ふたりは指折り数えつつ交互に理由を列挙すると、同時に佐野上の顔を見た。

「どうしてぇ?」

「なぜ俺たちがこんな目に?」

佐野上は蹲ったまま両手で頭を抱える。命乞いの方法は分からないが、なぜと問われたのなら答えなければきっと殺されてしまう。

「れ、 霊餌宴 れいじえんを……行わなければいけないの……」

『霊餌宴』────聞き慣れない言葉に、伊妻と菰野乃木は再び顔を見合せた。

「レイジエン?……って……何?」

「聞いたことがないな。おい、俺たちにもわかるように説明しろ」

佐野上は顔を覆って泣き始めた。

恐怖で錯乱している彼女にまともな説明は難しそうだと判断し、菰野乃木は車庫の古いシャッターに手を掛けた。

「これを開けるか」

「エーッ、ゾンビがいるかもなのにぃ?」

「ゾンビは存在しないと言っただろう」

菰野乃木はシャッターの縁を掴むと勢いよく上に持ち上げた。

バキバキと耳障りな音を立て変形しながらも、途中でストッパーが壊れたらしく、シャッターは天井まで持ち上がった。

それは何の変哲もない車庫にしか見えなかった。内部は厚い剥き出しのコンクリート壁で囲まれており、何の変哲もない白い軽のワゴン車が一台停まっているのみだった。

「ふん、帰りの車は確保したな。……伊妻、女を連れて入れ」

片手でシャッターを抑えながら菰野乃木は佐野上を指差した。

伊妻は泣いている佐野上の首根っこを掴むと車庫の中に引き摺っていく。

菰野乃木も車庫の内側へと入ると、シャッターから手を離した。

ガシャン!とシャッターが地面にぶつかる大きな音が響き、狭く黴臭い車庫内は暗闇に包まれた。

佐野上の引きつけのような泣き声と、伊妻、菰野乃木の静かな呼吸音だけが反響する。

「ねえ、電気は?」

「待て」

壁をまさぐって電気のスイッチを探そうとする伊妻を制し、菰野乃木はその場に身を屈めた。

車庫の奥、軽乗用車が置かれているその後ろから薄らと明かりが漏れている。

「地下に部屋がある」

菰野乃木は車の後ろ側に回り、コンクリートの地面に触れた。

光源と思われる辺りの床をなぞると、金属の取っ手のようなものが手に当たる。

菰野乃木が取手に指をひっかけて持ち上げると、いとも簡単に隠し扉が開いた。

「中に梯子がある。その女を先に降りさせろ」

「はいはい」

伊妻は隠し扉の入口から佐野上を雑に突き落とした。地面に強く体を打ち受けた彼女の悲鳴を聞き流しつつ、自分は梯子を使って地下へと下りる。

その場所は小さな屠殺場のような造りだった。

各所に血の跡があり、死体を解体するのに使うのであろう大きな鉈や肉切り包丁などが壁に吊るされている。

ただ、そこから柵で区切られた向こう側には異質な光景が広がっていた。

「……病室?」

思いのほか広大な地下室は壁も床もコンクリートで固められていた。降りてきた扉以外に出入口のようなものは無い。

そして、室内いっぱいに病院のようなパイプベッドが等間隔でずらりと並んでいた。

ひとつひとつのベッドの上には、男とも女とも分からない痩せこけた人間がそれぞれ鎖で繋がれている。

彼らは皆同じ薄緑の不織布のようなものを身に纏っていた。髪はなく、肌は黄ばんで乾ききっている。皆一様に目が白濁りしており、焦点が定まっていない。

置物のように微動だにせず虚空を見つめている者もいれば、体を揺らしながら意味を成さない呻き声を上げ続ける者もいた。

「ねえ、やっぱゾンビで合ってるじゃん」

伊妻は地上に向かって呼びかけた。

菰野乃木は梯子を使わず直接地下室に降り立つと、部屋の中を見渡して苦々しく眉を顰めた。

「……全員が病に侵されている。……なるほど、食人病か?」

「……ここにいるのは皆食人鬼ってこと?」

菰野乃木の言葉に伊妻は目を丸くした。菰野乃木は床に座り込んでいる佐野上の頭を大きな掌で掴み、自分の方を向かせた。

「おい女。これの何がどうレイジエンなんだ」

「彼らは霊に取り憑かれているの……! 人の肉を捧げることで霊は満足してあの世に帰ってくれる。『霊餌宴』は私の家族たちを治すために必要な儀式なのよ」

鼻をすすり、時おりしゃくり上げながら佐野上が答えた。

佐野上が語ったあやふやな説明を要約して噛み砕いた結果、佐野上の家系はその地方に根差した古い降霊師で、彼らは人の肉を食べることで霊をその身に宿していたのだという。

ここからは伊妻と菰野乃木による推察だが、その中に血肉のみならず臓器を口にして、食人によるタンパク質異常の病気を発症する者がいた。

その病気の症状を『霊が憑いた』のだと思い込み、家族たちは供物として健康な人間の肉を彼らに捧げ続けた。その肉を捧げる儀式を『霊餌宴』と呼ぶらしい。

「俺たちって捧げられそうになってたの?」

「どうにもそうらしい」

菰野乃木は壁に掛けてあった巨大な肉切り包丁を手に取った。

「信仰は全く理解できないが、殺されそうになった理由がわかってスッキリした」

「わた、わたしに、何をする気、なの……?」

佐野上はガタガタと身体を震わせながら壁際まで後退する。

菰野乃木の後ろから伊妻が顔を覗かせて、けらけらと楽しそうに笑った。

「え?だって折角だし、ここまできたらやるでしょ?レイジエン」

菰野乃木は佐野上の腕を掴むと、コンクリートの壁をまな板代わりにして手首に包丁を振り下ろした。

錆びた肉切り包丁ではあったが、菰野乃木の規格外の腕力のおかげか切断というより捩じ潰すような切り口で手首から先が切り離される。

佐野上は血が噴き出す自身の腕をどこかテレビの中の出来事のように実感なく眺めていた。

自分の上げる甲高い悲鳴もやけに遠くに聞こえる。焼けるような熱さと体の芯が冷える感覚が同時に襲ってくるのに、全く現実感がない。

────あら?私の手、どうなってるの?なんで無いの?どうしてしまったの?

菰野乃木は叫ぶ佐野上を横目に、彼女の手を伊妻へと投げた。血を撒き散らしながら宙を舞う手首をキャッチした伊妻は、野球のピッチャーのように大きく振りかぶると『霊』たちが繋がれた病室の真ん中にそれを投げ込む。

虚空を見つめていた『霊』たちは血の匂いで覚醒したのか、興奮した様子で奇声を上げ、手の落ちた方向に一斉に駆け寄ろうとした。

皆足首を鎖で繋がれているため、手首が落ちた場所の間近にいたひとりだけが肉にありつくことになった。

指の骨までボリボリと音を立てながら噛み砕き、口の周りを赤く染めながら佐野上の手に食らいつく。

「あは、鯉の餌やりしてる気分」

その様子を遠目に見ながら伊妻が笑う。

ちょうど菰野乃木は佐野上の反対の手も切り落としたところだった。同じように伊妻に投げ渡し、それを伊妻が『霊』に与える。

両の手を切り落とされた佐野上はぐったりと壁にもたれかかっていた。顔からは一切の血の気が消え失せている。紙のように白く乾いた唇がひっきりなしにぶるぶる震える。

失血で意識が遠のいていたため、菰野乃木が首に冷たい刃を押し当てても佐野上は虚ろに宙を見つめるだけだった。

菰野乃木は佐野上の髪を掴みながら、その喉に慎重に包丁の刃先を押し当ててゆっくりと肉の中に沈めていく。

あっという間に頚椎が砕け、血で濡れた包丁の刃先が壁まで当たってカツンと音を立てた。

佐野上の髪を掴んだまま菰野乃木は立ち上がると、切断した頭を『霊』たちの方向へと放り投げた。猿の鳴き声のような歓声を上げ、『霊』たちが肉に手を伸ばす。

「どうせならもっと可愛い動物に餌をあげたかった」

菰野乃木は顔についた血をシャツの裾で拭いながらぼやいた。



ふたりが地下室から出ると、車庫の外は既に日が登り明るくなっていた。

木々が爽やかな風に揺れ、遠くでチュンチュンと雀の鳴く実に平和な朝である。

地面に生える草花には朝露のように血の玉が光っていた。それらを踏みしめながら、伊妻と菰野乃木は旅館まで戻った。

「とりあえず風呂に入らない?」

血のこびりついた自身の手を見て伊妻は渋い顔をした。佐野上の四肢でキャッチボール紛いのことをしたせいで、ふたりとも全身に血を浴びていた。

菰野乃木は眉間に皺を寄せ、犬の威嚇のように喉の奥でぐるる……と唸る。

「また風呂か」

「またって……風呂なんて別に何回入ってもいいんだよ」

伊妻は渋る菰野乃木を湯を張った浴槽へと放り込んでから、自分はゆっくり丁寧に体を洗った。

菰野乃木は終始湯船に肩まで浸かった状態で「乱暴者」だの「横暴」だのと悪態をついていたが、風呂から上がってから持参していた肉を食べさせたことで機嫌を直したようだった。

「伊妻、もう一回昨日の海に行こう」

「うーん……午後からね……。ちょっとだけ仮眠取らせて……」

布団に巻いたままの良子の死体を部屋の隅に追いやり、残ったもう一組の布団の上に横になる。

目を閉じてうつらうつらとしていると、なぜか菰野乃木が同じ布団の中に潜り込んできた。

「ねえー、狭いんだけどぉ……」

「暇だから俺も寝る」

狭いから別のところで寝てよとぼやくも、密着する菰野乃木の体温は死人のように冷たくて心地いい。

飴を煮詰めたような甘ったるい死臭に包まれるとさっきより強烈な睡魔を感じて、伊妻は菰野乃木を抱き枕の代わりにしながら眠りに落ちた。



そして、気がつくと雪原の中にいた。真夏だと言うのに不思議な話だ。

そういえばもう何日も歩き続けていたような気になって、重い足を一歩踏み出す。

ザクリ、降り積った硬い雪が音を立てて大きく沈む。

ザクリ、ザクリと、深い雪の中をひたすら歩いていく。

どこからか、風の音にも似た細い狼の遠吠えが聞こえてきた。

そうだ、ここは危険だった。早く離れなければ。

ふと空を見上げると、遠くに赤い光が輝いている。あれは太陽?違う。真っ赤で、冷たくて、暗い。

その光を見上げたまま、歩く速度を上げる。歩を進めれば進めるほど光は遠くに逃げていく。雪を蹴散らしながら手を伸ばし、空に向かって叫ぶ。

待ってよ。置いていかないで。

躓いて地面に倒れ込む。雪がクッションになり痛くはないが、寒さで全身が悴んで手足に力が入らない。

雪原の真ん中に倒れたまま、青ざめた唇でもう一度小さく呟く。

置いていかないで。

────まさか、置いてなんかいかない。

嘘だ。俺のことなんて本当はどうでもいい癖に。

────友達でいる限り、僕たちは地獄まで一緒だから。

友達、友達、友達。アンタは二言目にはいつもそうだ。

でも友達じゃなくなったら?友達じゃなければ平気でどこかにいくんでしょ?

誰も答えない。赤い光は消えて、暗くなった空から雪が降り始める。

置いていかれるくらいならいっそ殺してしまった方がいい。死体は逃げたりしない。ずっと傍に居てくれる。

薄らと瞼を開くと、目の前に青白い喉がある。真一文字に走った傷痕にそっと手を伸ばす。

しかし、伊妻は触れる前にその手を下ろした。

(続く)



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