────ここは地獄だ。
バリケードテープを潜って現場に足を踏み入れた瞬間、刑事はそう確信した。
ただでさえ手狭な四畳半は、空いたビール瓶やコンビニ弁当のゴミでほとんど床が見えない。辛うじて足の踏み場となっている畳の一部分も、謎の汚れでぎとついて真っ黒に変色していた。
歩を進める度に靴の裏が床に張り付くような、脂っぽい粘着感がある。そして部屋全体に篭もる饐えた悪臭。
思わず立ち尽くした彼の眼前を大きな黒い蝿が我が物顔で通り過ぎていく。
刑事とてそれなりに醜悪な現場を掻い潜ってきたつもりでいたが、ここまでの惨状は見たことがない。
無論孤独死などの現場を含めれば経験がない不衛生さではないが、この場所が『幼い子どもが監禁され陵辱を受けていた』空間であると思うとおぞましさが一際強く感じられてしまう。
「家主の夏川健介は現在も行方が分かっていません。保護された十二歳の息子の証言から、犯人は夏川で間違いないかと」
部下は言い終わってから、呆然と立ち尽くしたままの刑事の肩を軽く揺すった。
「……都さん、大丈夫ですか?」
「……ああ……流石に精神が参る……年端もいかない兄妹が、こんな環境で何年も父親に……」
「……夏川の息子を保護した巡査がとった調書の内容も、にわかには信じ難いものでした……とても同じ親とは思えません」
最近第一子が生まれた部下は兄妹に強く感情移入しているのだろう、穏やかな彼にしては珍しく、その瞳に憎悪が籠っていた。
「……少年には悪いが、父親の行方について少しだけ話を聞けないかな」
「その件なのですが、ちょうどその少年が何か話があるらしく……保護した鏑田巡査と一緒にパトカーで表まで来ています」
「……わかった、すぐに向かおう」
刑事は部下と共に、現場となったアパートから外へと出た。道路の端に停められたパトカーの後部座席に小さな人影があった。
窓ガラスを軽くノックしてから、車のドアを開ける。
そこには薄汚れた小さな子どもが大人しく座っていた。
保護された少年────夏川優作は、刑事の目から見て到底十二歳の男児には見えなかった。
妹は六歳だったと聞いていたが、彼も大して変わらない年齢に見える。擦り切れた衣服から覗く手足は栄養失調で不健康に痩せており、上背も歳の割には小さすぎる。
長い黒髪には艶がなく、雀の巣のようにもつれて所々フケで白く固まっていた。
優作は刑事の顔を見上げ、ぱちぱちと大きな黒い瞳を瞬きさせた。壮絶な生い立ち故なのか、それともまだ状況が飲み込めていないのか。彼の面持ちは驚くほど無感情だった。
「あなたはえらい人ですか」
か細い見た目の割に意志の強そうな声音で、彼はそう尋ねた。刑事はその場にしゃがみ、少年と視線を合わせる。
「はじめまして、優作くん。私は警察官の都と言います。えらい人ではありませんが、困ったことがあれば何でも私に話してください」
なるべくゆっくりと、わかりやすい言葉を選んで喋る。しかし優作は頷くでもなく、緩慢に瞬きを繰り返した。彼はしばらく黙っていたが、やがて薄い唇をそっと開いた。
「困ったことはありませんが、どうしてもひとつ知りたいことがあるのです」
淡々とした口調でそう言うと、少年は不意に瞬きをやめ、黒い瞳を大きく見開いた。
「……あいつ……もし捕まったら何年で刑務所から出てきますか」
────彼が無感情?とんでもない勘違いだ。
刑事は息を飲んだ。少年の開ききった瞳孔に浮かぶのは、煮詰めすぎて黒く焦げ付いた強い殺意ただ一色だった。
刑事は咄嗟に彼の小さな体を胸に抱き寄せた。彼にとって、それはほとんど無意識の行動だった。
後ろ頭に手を添えて、冷えきった小さな体を腕で包み込む。
少年の全身が一瞬硬直したかと思うと、やがてぶるぶると震え始めた。
彼は拳を握り、刑事の体を殴った。痛くもなんともない、平均を遥かに下回る力で何度も殴り続けた。
「ぼくに触るな!みんな嫌いだ、みんな死ねばいい、嫌いだ嫌いだ嫌いだ、みんな死んでしまえ!」
「ごめん。君たちをもっと早く見つけられなくて本当にごめん……」
刑事────後に彼の養父となる都智輝は、腕の中で呪詛を吐き続ける子どもをただひたすら抱き締めることしかできなかった。
街を歩けばクリスマス、クリスマス、クリスマス。
輝くイルミネーションに埋め尽くされた夜の繁華街を、都優作は不機嫌を隠しもせずに乱暴な足取りで歩いていた。
彼は美しいものも楽しいとされる行事も大嫌いだ。物理的にも精神的にもその嫌悪は適用される。
眩い電飾を巻かれた街路樹の並木も、腕を組んで歩く仲睦まじい大学生カップルも、全て憎らしくてたまらない。クリスマスムードが色濃くなる十二月中旬以降は、都にとっては最悪の時期といえる。
都の妹である陽葵は、この世に存在するありとあらゆる美しい輝きを何ひとつ目に映すことなく、実父の手によってその短い生を終えた。
だから都はキラキラした美しいものを忌避している。
陽葵はクリスマスのイルミネーションなんて一度も見ることができなかったのに、何の苦労もなく平然と生きている大多数の人間は、輝く光の前で立ち止まることもせずにただ平然と通り過ぎていく。それがいかに稀有で有難いことなのか、彼らは全く考えない。
当然だ。世界は数え切れないほどに美しいもので溢れている。ただの電飾の寄せ集めなど、大多数の人間にとっては平凡でありふれているのだ。
都が険しい顔で街路樹を睨みつけていると、突然背後から体を抱きすくめられて大きな掌に視界を覆われた。
高い体温と嗅ぎなれたオーデコロンの匂い、つい今朝まで裸で抱き合っていた厚い胸板が背中に触れる。
「だーれだ!」
耳元で、悪戯っぽい口調で囁かれる。都はわざと大仰にため息をついてみせた。
「……外では抱きつくなと何度も言ったはずだ」
冷たくそう吐き捨てると、顔の上半分を覆う掌を振り払う。
振り返ると、スーツの上にコートとマフラーを着込んだ田子谷が子犬のようにしおらしく肩を落としていた。
「すみません。後ろ姿が見えたので嬉しくてつい……」
「……別に怒ってない。寒いから早く家に帰るぞ」
都はそっと田子谷の掌に触れ、指同士を絡ませて手を繋ぐ。すると、しょぼくれていた顔が一瞬で満面の笑みに変わった。
笑うと優しく緩む目尻が、ヘーゼルナッツのような甘い瞳が、イルミネーションの光を映す明るい茶色の髪が────何もかもが眩しくてキラキラしていて、心の底から憎らしい。今すぐに死んでしまえ、と心の中で吐き捨てる。
都は田子谷の手を握ったまま歩き始めた。子ども体温である田子谷の手は、湯たんぽのように温かい。
その温もりの心地良さをなるべく意識しないように、都は黙って俯くと帰路へ着く足を早めた。
青年はその一部始終を少し離れた場所で眺めていた。その表情は強ばり、口元は驚愕に引き攣っている。
駆け寄ってきた友人が青年に声をかけた。
「おい都。いきなり走ってどうした?……えっ、あれお前の兄貴じゃね?男と手繋いでる!?」
「あ……いや……」
都と呼ばれた青年は困惑気味に頬を掻いた。
「あれってやっぱり兄さん……だよね……?」
城崎 は薄汚れた廃工場の中を、脇目も振らずに走っていた。
彼はその身に何ひとつ衣服を纏っていなかった。彼自身の意思ではない。目を覚ましたら全裸でこの廃墟の床に倒れていたのだ。
さっきからどのくらいの時間ひたすら走っていただろうか。そして、今からどれだけ走り続けなければならないのだろうか。
粉々に割れたガラスや崩れたコンクリートの破片を踏み続けた素足は皮が全て剥けてしまい、痛みどころかもはや触覚が失われている。しかし、足を止めれば確実に命が無いことだけは解る。
助けを求めて叫ぶのはかなり前にやめた。体力を無駄に浪費するだけであると気付いたからだ。
胸の真ん中に大きく描かれた気味の悪いバツ印も、本来なら今すぐに擦り落としたいところだがそれも無駄な行動に思えた。
ふと、城崎はずっと自分を追ってきていた悪鬼の足音が消えたことに気付いた。
恐る恐る速度を落としながら背後を振り返るが、来た道には誰の気配もない。
薄汚れたコンクリートの地面に、足の形のスタンプを押したように自分の血の跡が続いているだけだ。
─────撒いた、のか……?
城崎がほっと安堵の息をついたその時、右脚の脛がカッと熱くなった。
自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
体が大きく傾き、ぐらりと前に倒れる。床に体が着いた途端鋭く走った痛みに、涎を垂らしながら呻く。
「うああああっ…!」
下を向けば、城崎の右の足は脛の辺りで切断されていた。完璧に一刀両断されているわけではなく、薄皮一枚でかろうじて繋がったままの断面から粘ついた血と筋繊維が糸を引いている。
砕き折られて露出した骨が僅かにコンクリートに擦れ、脳を掻き毟りたくなるほどの激痛で城崎は嘔吐した。
「助け……誰か!助けてッ……!!」
胃液の混じった酸っぱい唾を撒き散らし、虚空に向かって何度も叫ぶ。
しかしその声はだだっ広い工場の中で無慈悲に反響するだけで、誰の返答もない。
のたうち回る城崎の眼前すれすれに斧が振り下ろされた。
間一髪で顔を逸らしたものの、飛び散った細かいコンクリートの欠片が眼球に刺さる。
悲鳴と共に顔を上げた城崎の視界に飛び込んできたのは、黒い服を着た青年が自分に向かって斧を振り上げる姿だった。
次の瞬間、ごしゃっとスイカが砕けたような音を立てて城崎の頭が叩き潰された。
青年は血の付いた斧を肩に担ぐと、大きく頭部が損傷した城崎の死体を見下ろす。
斧で割れば桃太郎の入っていた桃のように綺麗に真っ二つに割れるものかと思っていたが、実際は腐った果実のように汚らしく潰れ、その合間から白っぽい脳がやたらめったらに飛び散っている。
青年は斧の刃先で城崎の胸の真ん中につけた赤いバツ印をなぞった。今持っている手斧を使ったら、きっと青年にとって目当てのものまでぐちゃぐちゃになってしまう。
彼は背負っていたリュックから医療用の開胸器とサバイバルナイフを取り出すと、城崎の胸元へとナイフの刃を滑らせた。
「クリスマスイブは少し遠出してデートに行きませんか」
田子谷の明るく弾んだ声が、湯気で白く煙ったバスルームの中に反響する。都は彼の胸に背中を預けたまま、黙って頷いた。
「ふふ、よかった。嫌って言われたらどうしようかと心配だったんです」
────嫌も何も、俺に拒否権なんてねえだろボケ。
心の中だけで悪態をつく。
田子谷の腕が背後から都の体を抱くと、ちゃぷんと小さく乳白色の湯船が揺れて入浴剤の甘い香りが立ち上る。
「初めて一緒に過ごすクリスマスですね」
「……ああ」
都は田子谷の肩に後ろ頭を乗せ、長い睫毛をそっと伏せた。
あの朝────田子谷の部屋のベッドの上で告白を受けた時、若気の至りとしてすぐに飽きてくれるだろうと軽い気持ちで了承の返事をした。
しかし、里木芽美の一件があってからはその楽観的ともいえる認識を改めている。
田子谷が都に向ける愛情はもはや狂気じみていた。何が彼をそこまで盲目にしたのかはわからないが、田子谷は都の一挙一動を全て肯定し、賛美する。
それは都の密やかな『趣味』においても同じだった。性犯罪者を口汚く罵りながら拷問を加え、ありとあらゆる苦痛を与えて惨殺する姿を見ても彼の愛情は一片も揺らがないらしい。
むしろこの男は目を輝かせながら、殺している時のあなたは特に美しいなどと訳のわからない口説き文句を囁いてくる始末だった。
「……どこに行くかはもう決まってんの」
都が尋ねると、田子谷はヘーゼル色の瞳を細めて含みのある笑みを浮かべた。
「決まっていますが、当日までは内緒です。あなたなら絶対に喜んでくれるはず」
都は別にどこに行くかが楽しみで教えてほしかったわけではないし、仮にどんな場所だろうと田子谷と共に行く時点で嬉しくない。
遠出はなおさら面倒が加算されるのでせめて目的地を把握したかっただけだ。
しかしそんな本音を口に出せるはずもなく、腹いせに田子谷の首筋に噛み付いて緩く歯を立てた。
「ふふ、拗ねてます?」
「……別に」
背けた顔に掌が添えられて、上から覆い被さるようにして口付けが降ってきた。
上半身に回されていたはずの腕でいつの間にか内腿をそろりとなぞられて、擽ったさに身動ぎをする。
「あっ……待て、ばか……!」
「だめですか?」
「ここでは……っ……」
言葉を遮るようにキスをされ、背後から硬くなったものが腰に押し付けられる。都は激しくなる心音を誤魔化すように身を捩った。
「だめ……だって……」
振り返って向かい合うような姿勢になると、田子谷の短く柔らかな髪を指で撫でる。
「長湯するとのぼせるだろ……」
「上がってからならいいんですか?」
返事の代わりに額に口付けると、田子谷は心底幸せそうに微笑んだ。
翌朝、都と田子谷が連れ立ってオフィスに入ると、惚けた顔でデスクに頬杖をついていた新田は慌てて姿勢を正した。
「おはようございます都警部!……と、田子谷」
「おはようございます……田坂さんは?」
普段は朝早くオフィスに到着する田坂の姿が見当たらず、都は目を瞬かせる。
「ああ、なんか犬笛にある工場跡に死体が出たとかで昨日の夜中から課長と一緒に現場に出てます」
「殺人課が駆り出されたということは事件性が高いんですね」
田子谷の言葉に新田は頷くと、スマートフォンを操作してその画面をふたりに向けた。液晶に映るのはSNSに掲載されているネットニュースの記事だった。
「……動画生配信中に惨殺死体を発見……なるほど、既にネット上に出回っているんですか」
「心霊スポットの探索を専門としている配信者が生配信を行っている最中に発見したようです。視聴者からの通報を受け、死体の状態から明らかに殺人だろうってことで課長たちが現場検証に」
記事の端に写っている建物は、画像が小さすぎてよく分からないがどこかの廃工場のようだった。
「……その工場も心霊スポットなんですか」
「ええ。昔工場内で火災が起きて、複数の死者が出たとかなんとか。それで地元じゃ有名な曰く付きの場所になってますね。犬笛の廃工場って言ったら田子谷は分かるんじゃない?私たちが高校生くらいの頃にちょうどここで肝試しするのが流行ったでしょ」
新田と田子谷は高校は違うが同い年の二十五歳だった。田子谷は記憶を辿るように目を細めながら工場の画像を眺める。
「肝試しに行ったことはありませんが、確かに犬笛にある廃墟で幽霊が出るとか噂になっていた気がします」
「どうも、肝試しから帰りましたのです」
突然真後ろから声をかけられ、思わず三人同時に飛び上がる。
スマホを囲んでいた都たちの背後に、いつの間にか鑑識の田原が立っていた。
里木の後任である彼は真面目で有能だが、何を考えているのかよく分からない不思議な人物だった。
「……ああ、田原。お疲れ様」
「アンタ、急に後ろに立たないでよね……」
すぐに冷静さを取り戻して挨拶をする都の横で、新田の表情は僅かに青ざめている。心霊スポットの話題の直後に驚かされるのは確かに心臓に悪い。
「おかえりなさい!どうでしたか、現場の方は!」
田子谷がにこやかに尋ねると、田原は分厚い眼鏡の奥の瞳をぐりぐりと動かし、しきりに首を左右へ傾けた。
「コロシ、ほぼ確実です。頭割られた後に胸を開けられて、ホトケさんの心臓はホトケさんの体の中に無かったのです。凶器も周囲からは見つからずです」
「……心臓が無い?それって、抜き取られてたってこと?」
新田は胸を開けて心臓を抜く場面を想像したらしく露骨に渋面を作る。
「ホトケさんの心臓と思しきものは現場近くにはないですね。これから迎崎先生に司法解剖してもらいますですが、ホシによる持ち去りの可能性が高いです」
解剖しなくとも胸がこじ開けられてそこに心臓が無いならほぼ持ち去りで確定だろう。また厄介な事件の臭いを感じ、都はため息をつく。
────しかし、犯人が心臓だけを摘出して持ち去った目的は何だ?
臓器移植が目的なら、胸を開けて心臓を取り出してから殺すはずだ。しかし田原の話を聞く限りだと、被害者は頭を割られて殺された後にわざわざ開胸されて心臓を奪われている。
────医療目的でなければ犯行記念のトロフィーか、それとも何らかの呪術的価値が?心臓と言えばエジプト神話での死者の審判……あるいは古代アステカ文明の生贄の儀……。
都が口元に手を当てて思案していると、会計課の女性職員が小包を持ってオフィスに入ってきた。彼女は都の姿を見つけると笑顔を浮かべ、ぺこりと頭を下げる。
「お疲れ様です。都警部宛に宅配が届いていました……『城崎』という方からですが、何か頼まれました?」
「……いえ、心当たりがありませんが……」
職員は都のデスクの上に箱を置いた。
「ダンボール箱で届いたので職員が開封したのですが、中には緩衝材に包まれてこの箱ひとつだけが入っていました」
その箱は、艶のある赤地に金のラインでストライプが入ったクリスマスらしい包装紙で包まれていた。 正方形で、サイズは十五センチメートル四方程度の小さな箱である。
受け取った宛名の控えには、差出人「城崎 高雄」と書かれている。
都は綿の手袋をつけると、丁寧に包装紙を剥がし、中から現れた正方形の白い小箱を取り出す。
「何が入っているか分からないので、一応少し離れていてください」
田子谷たちに呼びかけつつ、ゆっくりと蓋を開ける。
箱の中には更にジップロックの袋が入っていた。
袋の端を指で摘んで慎重に持ち上げると、その中身が姿を現す。
それは酸化して黒変した血に浸されていた。
ビニールを高く持ち上げると紫がかった肉色の塊が血の中でちゃぷんと音を立てて揺れる。同時に、密閉された袋越しでも強く血と腐った肉の匂いを感じて都は顔を顰めた。
「……心臓」
「おや、ここにありましたですか」
いつの間にか真後ろに立っていた田原が、ジップロックの中身を眺めながら眼鏡のフレームを指で押し上げた。
都は心臓を袋ごと鑑識に渡し、DNA鑑定へと回した。蓮田と田坂も報告を受けて現場から急帰し、殺人課のオフィスにバリケードテープが張られる大事へと発展した。
居合わせた殺人課の三名と鑑識の田原は、一応全員が参考人ということでオフィスの外に追いやられていた。
「ボクは完璧に巻き込まれなのです」
不満そうに唇を尖らせると、田原はずず、と缶のミルクティーを啜った。湯気で彼の瓶底のような眼鏡が白く曇っている。
「しかし……なぜ犯人はわざわざ都さん宛に送ってきたんでしょう」
新田はコーヒーのカップを手に持ったまま、険しい面持ちで都の顔を一瞥する。
彼女は都を疑うというよりはその身を案じている様子だった。
自販機の横にある固いベンチに腰掛けると、都は大きなため息をついた。
「私にもよく分かりません。もしかしたら相手の名前はは何でもよくて、ただ殺人課宛に送りたかったのかも」
「うーん、城崎高雄という送り主に心当たりは?」
田子谷はカフェオレの缶を開封せずに手に握ったまま、どこか神妙な顔つきでそう尋ねる。
都は脳内の記憶を辿るが、それらしき名前の人物に思い当たらず首を横に振った。
「少なくとも私的な知り合いではないと思う」
「都、ちょっといいか」
課長の蓮田がオフィスの出入口に張り巡らされたテープを潜り、都たちの待つ廊下まで出てきた。
「確認したいことがある。来い」
促されるままオフィスに入ろうとする都に、田子谷も慌てて続こうとする。
しかし、蓮田は田子谷を手で制した。
「すまない田子谷くん、今は都だけでいい」
都はちらりと背後を振り返った。田子谷は眉を下げ、心配そうにこちらを見つめていた。
大丈夫、と声には出さず唇を動かすと、彼は戸惑いながらも頷いた。
都は蓮田の後に続き、殺人課のオフィスを通り抜けた先にある資料室に入室した。
埃っぽい室内には他の部屋から引っ張ってきたのか長机とパイプ椅子がいくつか置かれていた。
部屋の中には、椅子に座って待っている田坂ひとりしかいなかった。
田坂は都と目が合うと困惑気味に俯いて度入りのサングラスをかけ直す素振りをした。
「ま……とりあえず座ってください、警部」
「……はあ」
気まずそうな態度に怪訝さを感じながら、言われるがままにパイプ椅子に腰掛ける。
少しの沈黙の後、蓮田が口を開いた。
「……被害者の身元が割れた。城崎高雄五十六歳、緋善コーポレーションの派遣社員。バツイチ、現在独身。……婿入りだったから離婚前の姓は『白原』……白原高雄」
都は目を見開き、パイプ椅子から跳ねるように立ち上がった。
込み上がってくる吐き気を、震える手で口元を押さえて耐える。
「……白原……?それは、元教師の……」
田坂はばつがわるそうに小さく咳払いをした。
「あー……そうです。体と心臓のDNAも一致。城崎は何者かに殺され、犯人は警部宛にその心臓を送り付けてきた」
都は俯いて青ざめた唇を噛んだ。おぞましい過去の記憶が急激に脳裏に蘇る。
真っ赤な縄で縛られた手足。暗い保健室の中で何度も焚かれるフラッシュ。
突然の閃光に白んだ視界が徐々に晴れると、下卑た笑みを浮かべた男の顔が代わりに浮かんでくる。
最初に叫んだ時に殴られたせいで、ただ震えながら耐えることしかできない。恐怖の中で必死で自分に言い聞かせる。
絶対に涙を流すな。耐えろ、目を逸らすな、怯えた顔を晒すな、こいつが喜ぶことは一切するな。
「……、警……、都警部!」
突然肩を掴まれ、恐怖で尻餅を着く。浅い呼吸を繰り返しながら都は顔を上げた。
田坂が心配そうに都の顔を覗き込んでいた。
まだ呆然としたまま、薄暗い部屋の中を見渡す。怯えるな、ここは梔子署の資料室だ。この場にいるのは同じ梔子署の刑事だけ。何も恐怖することはない。
「だ、いじょうぶです」
乾いて詰まる喉でなんとかそう言って都はぎこちなく笑みを作った。
都は中学一年生の時に性被害にあっている。
担任の教師である白原高雄に放課後に呼び出され、保健室で性的な暴行を受けた。
偶然忘れ物を取りに戻った養護教諭に発見されて保護されたものの、学校中の噂になったために都は転校を余儀なくされた。
「……しかし、犯人はなぜ城崎の心臓を……?」
掠れた声でそう呟く。蓮田は厳つい顔を掌で擦ると、大きく被りを振った。
「わからん。だが、犯人の狙いがお前であることは確かだ」
そう告げると、蓮田は証拠品用のビニール袋に入れられた小さなメッセージカードを都に手渡した。ふたつ折りの白いカードに、赤黒く滲んだインクで手書きの文字が記されている。
「……『あなたのためなら何でもします』……」
「箱の底にこれが入っていた。単なる憶測だが……犯人はお前に恋愛感情を抱き、お前が恨んでいそうな人間を殺してその心臓を『なんでもする』証拠として見せたんじゃないか?」
「……要は自分を好きになってくれたらこんなにいい特典がありますよ、って悪趣味な売り込みをしてやがるワケか」
蓮田の言葉に続き、田坂は不愉快そうにそうぼやいた。
「都、お前はしばらく自宅待機だ」
「……自宅待機!?冗談ですよね?」
蓮田の命令に思わず声を荒げる。蓮田と田坂は顔を見合せた。
「逆に聞くが、明らかに犯人のターゲットである人間を捜査に参加させられると思うか?」
「しかし課長、だからこそ私が主導して事件解決を……」
蓮田に詰め寄ろうとした都の肩に田坂がそっと手を置いた。諌めるように静かに首を横に振られ、言葉を失う。
「警部、アンタは今回の事件に関わるべきじゃありません。俺たちが必ず犯人を上げてみせますから、少しの間辛抱してください」
「……何日か実家に戻れ。都元警視正が心配していらっしゃったぞ」
蓮田に養父の名前を出され、都は苦い顔をする。
「養父に言ったのですか」
「そう睨むな。今のお前をひとりにすると勝手な行動をしかねんからだ。聞くと、ただでさえ長らく実家に帰っていないらしいじゃないか」
いい機会だ、と蓮田は続けた。
「久々にご両親に顔を見せてこい」
都が自宅に帰りつくのとほぼ同時に、養母から電話がかかってきた。
「……お久しぶりです」
『優作、大丈夫? 大変だったわね。ひとりでいるのも危ないから、なるべく早く実家に帰っていらっしゃい。あの人もすごく心配してたわ』
あの人、というのは元警視正であった養父のことだろう。都の実父が起こした事件の捜査を指揮し、その後児童養護施設に入る予定だった都を養子として引き取った人物である。
「……ちょうどお休みをいただきましたので、明日には伺います」
『よかった、待ってるわね。ああ、そういえば、晴輝も明日から大学の冬休みで帰ってくるの。久々に家族が全員揃うわね』
養母の声は電話越しでも分かるほどに弾んでいた。
そのせいで、「自分は遠慮するので実子の晴輝と水入らずで過ごしてください」という言葉は喉につかえてしまい、口に出すことが叶わなかった。
「……また連絡します。それでは」
挨拶もそこそこに電話を切ると、都はスーツ姿のままベッドの上に倒れ込んだ。どうせ明日から休みなのだから、多少皺になろうがどうだっていい。
正直、養父母のいる実家にはあまり帰りたくなかった。彼らに引き取られてから都が大学に入って一人暮らしを始めるまでの間、どれだけの迷惑をかけたかは数知れない。都は養父母に強い負い目を感じていた。
幼い頃に実父に陵辱を受けていたせいなのか、それとも女のようなこの顔のせいなのかは分からない。
ただ、都は幼い頃からとにかく頭のおかしい男に気に入られやすかった。
幾度となく知らない男から路地裏に連れ込まれそうになり、電車に乗れば痴漢され、学校では同級生に襲われ……。夜ベッドで眠っていたら、自室にストーカーが侵入してきたこともある。
都は、城崎から受けた暴行以外にも幾度となく不愉快な目に遭ってきた。
養父母に頭を下げ、警察を介さずに示談で片付けてもらったこともある。
彼らは外聞など気にするなと何度も言ってくれたが、養子とはいえ警察官の長男がトラブルメーカーだなんて体裁が悪すぎる。
学生時代の都は『都優作』であり続けるために必死だった。
都は養父に保護されてからというもの、彼と同じ警察官になることを切望していた。
実父の夏川健介は自分たちに性的虐待を加えて妹を殺害した鬼畜であり、彼は現在も梔子市内の刑務所に服役している。
『夏川優作』が警察官として採用されることは間違いなく有り得ない。
一方で、都元警視正は怪我でリタイアしたとはいえ学歴も家柄も申し分なく、優秀で非の打ち所のない人物である。
しかも都夫妻は最初から長男が警察官になることを望んでいた。
────自分が『都優作』でさえいれば、警察に入っても誰も文句を言わない。
むしろ刑事としての資質があると捉えられるだろう。
加えて、自分が都家の養子になってたった二年で実子の晴輝が生まれたことも当時の都を強く焦らせていた。
夫妻は血の繋がった晴輝の方を警察官にしたがるのではないか?実子が生まれれば都はもう用済みなのではないか。今更養子縁組を解消すると言われたらどうしよう……などと、言ってしまえば子どもらしく必要以上の心配をして、性被害をひた隠すようになった。
インターホンの音で我に返る。こんな時間に都の自宅に来る相手はひとりしかいない。
案の定、来訪者は田子谷だった。
自宅に帰らず仕事終わりにそのまま来たのか、スーツに薄いコート、ネックウォーマーという格好で、手にはデパ地下の袋を提げていた。
「ご飯、まだ食べていないと思って。適当なものを買ってきました」
「……ありがとう」
受け取った袋をテーブルに置く。
田子谷が上着を脱ぎ手を洗いに行っている間に、都は袋の中からキッシュが入った箱を取り出し、中身を皿へと移す。
出来たてなのか、キッシュの入った箱はまだ温かかった。たまねぎときのこのキッシュだ。サラダとローストチキンも、それぞれ別のパックに入れられている。何軒か店を回って買ってきたらしい。
サラダは以前も田子谷が買ってきたのと同じもので、都が気に入っていたアボカドと島豆腐を和えた和風サラダだった。
キッシュもローストチキンも、またいつか食べたいと思っていた店の商品だ。
それらが好きであると一言も口に出したことは無いが、田子谷はなぜか都の嗜好を隅から隅まで知り尽くしている。
自分を把握されるのは気持ち悪いと思う反面、こちらから何も与えなくとも無条件に甘やかされるのは心地いいと感じてしまうことがある。
田子谷のことが大嫌いなはずなのに、自分は彼への恐怖を言い訳にしながら与えられる愛情という蜜だけ当然のように嚥下している。
「お酒も買ってきたんですが」
いつの間にか戻ってきた田子谷が後ろから抱きついてきた。捲ったシャツの袖から覗く逞しい腕が目に入り、顔が熱くなる。
酒に弱い都に対して田子谷が飲酒を勧めてくる日は、大抵情事もセットでついてくる。しかも次の日が休みとなると、ぐずぐずになるまで執拗に甘やかされるのが常だった。
嫌悪、恐怖、そしてわずかな期待で心臓が早鐘を打つ。
「……明日は用事が……」
「しかし、ご両親のお宅に行くのはお昼からでは?」
田子谷はくすりと笑うと、未開封のワインのボトルをテーブルの上に置いた。
瓶の中の美しい琥珀色は、白ワインにしてはとろりとして色が濃い気がする。まるでウイスキーのようだ。
酒に弱いので善し悪しはよく分からないが、この男のことなのでどうせ馬鹿のような値段の代物なのだろう。
「トカイ産の貴腐ワインです。甘くて度数も低いので優作さんの好みかなと思って」
「キフ……?これは白ワインなのか?……違う、待て、スルーしかけたがお前なぜ実家に帰ることを知ってる」
都は振り返り、咎めるように田子谷の頬を抓る。
いてて、と眉を寄せつつも田子谷はやけに嬉しそうで、張合いがないのですぐに手を離した。
「だって、俺も一緒に行きますから」
「え……は?お前……冗談だろ?」
本日二回目の「冗談だろ」が出てしまい、都は気が遠くなるのを感じた。
相手が田子谷以外なら万に一つは冗談の可能性があるが、彼がそんな嘘を言うはずはないのでつまりは百パーセント本気なのだろう。
「……親にどう説明すればいいんだ」
「普通に『恋人』じゃダメなんですか?」
甘えるような口調でそう宣う目の前の男を今すぐ殴り殺したい衝動に駆られるも、ぐっと拳を握ってそれを耐える。
都はため息をつくと、半ば諦念と共にダイニングチェアに腰を下ろした。
「駄目じゃない。……駄目じゃないが、今でもないだろう? 第一、今回は遊びに行くわけじゃないんだ」
「もちろん、名目は警護兼監視です。……課長からそう仰せつかりました!」
田子谷はそう言うと、悪戯っぽく笑みを深める。
────このっ……クソガキ……!
揶揄われたことにようやく気付き、かっと顔が熱くなる。
咄嗟に手近に置かれたワインのボトルで顔面を殴りつけてやろうと瓶に手を掛けたが、もし値段が高かったらあとで自分が落ち込む気がしてすんでのところで我慢した。
「……今日はセックス無し」
意趣返しのつもりでぼそりと呟くと田子谷は一瞬目を丸くしたが、すぐに心配そうな表情に変わり慌てて都の額に掌を当てる。
「まさか……お体の具合が悪いんですか?体温が心なしか高いような……それとも心労!?ああ、俺の考えが及びませんでした……おかしな事件に巻き込まれたら疲れて当然ですよね…!どうか座って安静にしていてください!食事の用意は俺が全部やりますから」
体を軽々抱き上げられたかと思うとソファに下ろされる。流れるような素早さで、赤ん坊のおくるみのようにブランケットでふんわりと体を包まれてしまった。
さすがに怒る気力も無くなり、芋虫のような状態のままソファに寝転がる。
「ああ、お酒も体に障るとよくないのでまた今度にしましょう」
おくるみに手を突っ込まれ、都が持ったままだったワインの瓶も没収された。
こいつ、実は全部分かっていてわざと言っているんじゃないかと都は目を細めて田子谷を睨んだ。
翌日、都が目を覚ますとベッドサイドの時計は既に午前十時半を刻んでいた。
「……寝すぎたか……。おい、九時には起こせって言っただろ」
悪態と共に寝返りを打つと、昨日の夜は隣に寝ていたはずの田子谷はベッドの上にいなかった。
ベッドシーツは田子谷が横たわっていた部分だけ熱を失いひんやりとしている。かなり前に起きたのだろうか。
「……光司?」
リビングにもその姿はなかった。なぜか不安に駆られ、キッチンやバスルームを順番に覗いていく。
────どこにもいない。
自分の心臓の鼓動がやけにうるさく耳障りに感じて、唇を噛む。
玄関のインターホンが鳴った。
都は安堵の息をつくと、寝巻きのスウェット姿のまま急いでドアを開ける。
「光司……!」
「わっ!?……あの……都優作さん宛にお届け物です」
立っていたのは宅配業者の制服を着た若い青年だった。
拍子抜けしつつも、ダンボール箱を受け取ってからドアを閉める。
「…………待てよ」
このマンションはオートロックだ。合鍵を持っている田子谷ならともかく、なぜ宅配業者が当然のように玄関前まで来ていたんだ?
都は再びドアを開けたが、既に周辺に宅配業者の姿はなかった。
「……クソッ……やられた」
ということは、ダンボールの中身も何となく予想がついてしまう。
本来ならは無闇に開けずに蓮田に連絡するべきだろう。
だが、拭えない不安が都の胸中で徐々に膨らんでいく。
────光司はどこにいったんだ?
脳裏を過った最悪の想像に、一気に顔から血の気が引いていく。まさか、そんなはずはない。そんなはずはないが、箱の中身は……。
都はその場に座り込むとダンボール箱を廊下のフローリングへと置き、手でガムテープを引き裂いてから箱を開いた。
大量に詰められた発砲素材の緩衝材に埋もれ、クリーム色の背景に銀色の雪の結晶が箔押しされた包装紙が姿を現す。
それは梔子署に送られてきたものと同じサイズ、同程度の重みの小箱だった。
無闇に恐れるな。早く開けて中身を確かめろ。いやだ、怖い、開けたくない。中を見たくない。
胸を引き裂かれるような葛藤と共に、じわりと視界が滲む。
怖がるな。泣くな。そんなことしても犯人が喜ぶだけだ。
自分に言い聞かせながら、冷たい指先を震わせて包装紙を破き、箱の蓋を外す。
赤い水面が小さく揺れる。
ジップロックに入れられた心臓は警察署に送られてきたものと比べてまだ真新しく酸化していないのか、鮮やかな赤色をしていた。
そう、真新しい。まるで今朝取ったばかりのように。
ほらな、と頭の奥から笑い声が聞こえた。それは父親の声にも自身の声にも似ていた。
お前の愛した人間は全員殺されちまう運命なんだよ。
「ただいま戻りましたー!あっ、もう起きてましたか…………」
陽気な大声と共にドアを開けた田子谷は、廊下に座り込んで俯いている恋人を見て言葉を失った。
「……優作さん?どうしましたか?」
「……どこに行っていた」
微かな声だったが、強い怒気を孕んだ口調だった。リビングの方向を向いて座っているので、その表情は見えない。
田子谷は手に提げていたドラッグストアのビニール袋を床に置き、か細い背中を後ろから抱きしめた。外にいた自分よりも遥かに冷たい。ひっきりなしに引きつけのような苦しげな呼吸を繰り返しながら、背中がぶるぶると小刻みに震えている。
「昨日体調が悪そうだったので……薬局に買い出しに行っていました。ごめんなさい、ひとりにして」
「うるさい。あっちにいけ」
都は低くそう言って田子谷の腕を振り払った。ずび、と鼻を啜る音が聞こえる。その手にはまたあの悪趣味な『贈り物』が握られていた。
田子谷は静かに目を細めた。腹の底から蛇のように首をもたげる強い悪意。それはおそらく都が望まないものだ。
目の前の男に怒りを気取られないように、なるべくいつも通りに微笑んでみせる。
「優作さん、俺は大丈夫ですから。……心配をかけてごめんなさい」
「俺に触るな」
伸ばした腕は再び振り払われてしまった。
心配ゆえに不機嫌な態度をとってくる彼は本当に愛おしいが、できれば早く腕に抱いて慰めさせてほしい。
めげずにもう一度後ろから抱きつくと今度は振り払われなかったが、都は黙ったまま涙で濡れた頬を隠すように両手で覆った。
場面変わって、雪の降り積もった自然公園。時刻は都が二つ目の心臓を受け取った日の早朝、日の出の時刻まで遡る。
青年は目を覚ました。狭い車のシートで眠っていたせいで、身体中が強ばって痛い。
小さく伸びをすると、ポケットに入れていた写真を取り出した。頬を緩めて、そこに写る愛おしい相手の輪郭をなぞる。
写真を胸に抱きしめてから再びポケットにしまうと、彼は車の運転席から降りた。
青年は黒いトレーナーとコート、同じく黒いカーゴパンツを履いていた。その上ブーツに革手袋まで真っ黒で、早朝の雪原においては逆に目立つ服装である。
彼は助手席に立てかけてあった手斧を手に車から降りた。
外の樹木の幹にロープで縛りつけておいた男は、相変わらずみっともなく震えながら泣き続けていた。
気温の低い森の中に一晩全裸で放置したため、その体は青を通り越して紫色になり、垂れた鼻水が氷柱のように凍りついている。
青年が眠っている間にまた降雪があったのだろうか、男のボサボサの髪と掛けている眼鏡にまで薄らと雪が積もっていた。
その胸には油性マーカーで大きく赤いバツ印が描かれている。
「たふ、たふけへ」
寒さで頬が悴み、呂律の回っていない口調で男が懇願する。
青年は背負っていたナイロンリュックを下ろすと、中から手芸用の裁ち鋏を取り出した。
開いた状態の鋏を、わざと男の眼前でチョキチョキと動かしてみせる。男は泣きながら首を横に振り、命乞いの言葉を繰り返した。
青年は鋏の刃を男の胸に押し当てた。怯える男の肌を刃の先でなぞりながら、鋏をそのまま下へと滑らせていく。
男のへその少し下あたりに到着すると、青年はぴたりと手を止めた。
一呼吸置いてから、力を込めて鋏の刃を男の腹へ突き刺す。
「ごっ……が、あああ!」
男が言葉にならない叫び声を上げる。青年はしばらく鋏の先端でぐりぐりと腹の肉を抉っていたが、やがてくるりと鋏の向きを回転させ、今度は胸のバツ印に向かって上へと鋏を泳がせていく。
鋏に切断され破けた腹の断面からは、赤い血と黄味がかった脂肪が溶け合うように滴り真っ白な雪を汚していた。
七匹の子ヤギの狼さながらに腹を大きく縦に裂いてしまうと、青年は用は済んだとばかりに鋏を地面に放り投げた。
そして、弾けた柘榴のような腹の裂け目へと両手を掛ける。
「ま、で、……やめ、くらひゃ……」
男はまだ生きていた。風にかき消されそうなほど小さな哀願の声を無視し、手に力を込めて大きく左右に腹を押し開く。
ぶち、ぶちっと筋繊維が裂ける不快な音がしたかと思うと、肉色の小腸が土砂崩れのように勢いよく外へと溢れ出て、だらりと力無く地面へ垂れ下がった。
生気を失った腸は無機物に似ていて、まるで太いホースか何かのようだった。
男はがくりと項垂れ、口端から血で濁った泡を吹いたまま絶命していた。いつの間にか失禁しており、壊れた蛇口のごとく雪の上へと赤っぽい尿を垂れ流している。
青年は満足そうに鼻で笑うと、ぽっかりと開いた穴の中に躊躇なくその手を突っ込む。
彼は鼓動の止まってしまった握り拳大の肉塊を手に掴むと、力一杯それを引きちぎった。
田子谷が連絡し、その十分後には蓮田と田坂が都の部屋を訪れた。
初めて都の自宅に入ったふたりはまず家中を埋め尽くすように置かれた大量の観葉植物に驚き、次にダイニングテーブルの前に寝巻きのまま座ってべそをかいている都を見て、更に唖然とした。
都は普段は平然とした表情を崩さず、周囲に本音を見せない男である。それが、明らかに泣き腫らした目を隠しもせず、小さい子どものように不貞腐れて唇を尖らせている。
「……お、おい……一体何があったんだ」
「課長、田坂さん、こちらです」
妙に冷静な様子の田子谷に促され、蓮田と田坂はリビングにあるダイニングテーブルを囲んで座った。
テーブルの中央には乱雑に包装が破かれた小箱が置いてある。
中から赤黒い臓器が覗いているのを見て、蓮田は顔を顰めた。
「……またか」
「ええ。時刻は十時半頃、ですよね?」
都は仏頂面のまま無言で頷いた。
田子谷は蓮田と田坂、そして都の前にコーヒーの入ったマグカップを置く。
「どうぞ」
「どうも、ありがとうございます…………あの、なぜ田子谷警部補殿は都警部の部屋の勝手知ったるご様子なんですか?」
放った問いに田子谷と都は目を逸らし、蓮田は咳払いをしただけで結局誰からも答えは返ってこなかった。
田坂は気まずさを誤魔化すように肩を竦めると、湯気の立つコーヒーを一口啜った。
「……まだそれらしき報告は来ていないが、心臓が見つかったのだからその分心臓の無い死体もどこかにあるはずだ。これの他には何も入っていなかったか?」
「箱の底にまたカードが」
田子谷はキッチンのジップロックに保管していたふたつ折りのメッセージカードをふたりに見せた。
「……『どうか私を選んでください』……また気色の悪い口説き文句か」
蓮田はそう言うと厳つい額に皺を寄せて小箱を睨み、慎重に両手で持ち上げた。
「……これは署に持ち帰ってDNA鑑定にかける」
「……我々も同行を……」
言いかけた都を手で制すと蓮田は首を横に振った。
「いや、お前は一刻も早くご両親の自宅に向かえ。勿論、監視として田子谷くんに同行してもらう」
蓮田はダンボール箱を抱えて席を立つ。
田坂はカップに残っていたコーヒーを飲み切ると蓮田に続いて立ち上がった。
玄関から出て行く間際、蓮田は念押しのように振り返って都に声をかけた。
「おい都、言っておくがくれぐれも独断で無謀な行動をするなよ。馬鹿な真似したら減給と、あと謹慎延長だからな」
「……これって謹慎だったんですか……?」
「……貴様の普段の行いが悪すぎるせいで間違えた。貴様が悪い、猛省しろ」
呆れ半分の都に対し、蓮田は岩のような顔をくしゃりと顰めてみせた。
都の養父母の住む家は、梔子市から北上してギリギリ関東圏内にある。
梔子市に比べればそれなりに郊外ではあるが、決して片田舎という訳でもない。養父は現役時代に負った怪我で脚が悪いので、車を出さないとどこにもいけないような地域では生活困難なのである。
田子谷の愛車であるブロンコはわざわざカーキベージュに塗り直した特別なものだ。車高も高く、いささかミリタリーチックすぎて実家のある閑静な住宅街では目立ってしまう。
できれば都は自分のプラドで向かいたかったのだが、未だに都の体調が悪いと思い込んでいる田子谷はどうしても運転を譲らなかった。
結局田子谷の気遣いの圧に押し負け、都は彼の車の助手席に乗り込んだ。
ちなみに都は休暇らしく上は厚手のニット、下も冬物のコーデュロイパンツを履いていた。足元も珍しくスニーカーという出で立ちである。
一方の田子谷は名目的には仕事だからといつものスーツ姿で行こうとしていた。悪目立ちするからと都が説得し、似たような私服に変えさせた────本当は畏まったスーツで両親に会われるのが結婚の挨拶のようで恥ずかしかっただけなのだが。
「ご実家に帰るのはいつぶりですか?」
田子谷の問いに、都は無言のまま指を三本立ててみせる。「三ヶ月?」
「三年」
なるほど、と田子谷は頷いた。
都は血の繋がった妹や憎んでいる実父の話をすることは稀にあるが、養子縁組先の家族については全く話題に上がったことがない。
田子谷の調べさせた限りだと養父母とは別段不仲というわけでもなさそうだが、何か都の中では折り合いのつかない部分があるのだろう。
「どんな人たちなんですか、都家のご家族は」
「別に……スーパーの特売日に卵とトイレットペーパーを買い、火曜日と金曜日に可燃ごみを出すような……普通の人達だ」
「それにしてはお顔が暗いですよ」
都は頬杖をついて窓の外を見つめながら、自嘲気味に鼻で笑った。
「当然だろ?俺は人殺しのクズ野郎の血を引いていて、自分も同じ人殺しのクズだ。まともな家族として愛そうと努力されると逆に惨めな気分になって……気分が悪いんだよ」
「あなたは父親とは違います」
田子谷は前を向いたまま、当然のようにそう告げた。
彼の口振りは都を責めるでも諭すでもなく、ただそれが周知の事実であるかのように述べているだけだった。
「性犯罪者を誰より憎むあなたが、卑劣な性犯罪者と同列なわけがない」
「……そうかよ」
じわりと、心の奥が柔く解けるような感覚に顔を顰める。
田子谷は都に執着する異常者だが、適当な慰めの言葉は言わない。気を遣うでもなく、平然と都の欲しい言葉を与えてくる。
田子谷の隣にいるのは気分が楽で心地よくて、自分が自分では無くなるようで怖くなる。
────俺はこの異常者に洗脳されかけているんだ。
都はそう思い込むことにした。
田子谷はその無邪気そうな見た目からは想像もつかないほど狡猾な男だ。
だから殊勝な態度に騙されて、一緒にいると気分がいいと、嫌いじゃないと錯覚させられているだけだ。
それから目的地に到着するまで、都は終始黙りこくったまま曇った窓ガラスを眺め続けていた。
地方都市の喧騒から少しだけ離れた郊外にある、二階建ての一軒家が都の現在の実家である。
都が働き始めて数年経ち実子の晴輝が高校に進学するタイミングで両親がこの場所に居を構えたので、都自身はこの家に住んでいたことはない。
インターホンを鳴らすと、養母の 英恵 がドアを開けた。彼女は都の姿を見た途端ぱっと表情を輝かせた。
「おかえりなさい!久しぶりね」
都はぎこちなく口角を上げ、小声でおじゃまします、と言った。
田子谷は都の後ろから彼の母親に深く頭を下げた。
「自分、梔子署の田子谷光司と申します!警護のために自分もお邪魔させていただきます」
「光司くんね。優作のためにわざわざありがとう。ふたりとも寒いでしょう、早く中に入って」
玄関に入ると、廊下の奥から杖をつきながら養父の 智輝 がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「おかえり優作」
「あなた、座っていてと言ったでしょう」
英恵は慌てて智輝に駆け寄り、その背中を支える。都は養父の姿を見てその場で姿勢を正した。
「ご無沙汰しております」
「よく来たね。元気にしてたかい?梔子署のみんなは変わりないかな」
智輝は大きな掌で都の肩を優しく叩いた。
都には、前に会った時よりも智輝が少し痩せて皺が増えたように感じられた。それでもさすが元警察官と言うべきか、背筋もしゃんとしていて胸板が厚く、杖が無ければ足が不自由には見えない。
養母の英恵も現職の高校教師なのでやはり年齢よりかなり若く見えた。顔に刻まれた皺も、彼女の聡明な顔立ちをむしろ華やかに際立たせている。
「梔子署は皆相変わらずです。……お父さんこそ、脚の具合はいかがですか」
「うん、最近は悪くないよ。毎朝母さんと一緒に公園でウォーキングをしているからね」
隣にいる田子谷の目からは、智輝と英恵が都に変な気遣いをしているようには見えなかった。ただ都本人が酷く緊張し続けているだけで。
「君は田子谷くんの息子さんらしいね」
「はい!田子谷光司と申します!」
田子谷が威勢よく挨拶をすると、智輝は懐かしむように相好を崩した。
「ふふ、若い頃のお父上にそっくりだ」
「彼は私と同じ梔子署の殺人課でバディを組んでいます」
都の言葉に智輝は目を丸くした。
「そうなのか。私と田子谷くん……光司くんのお父さんも一時期組んでいたんだよ。いやあ、嬉しい偶然だね」
智輝の優しい顔つきは、都が笑う時の表情にどこか似ていると田子谷は思った。
血の繋がりが無くとも、共に何年も過ごせば習慣で似るものなのかもしれない。
いつまでも立ち話では悪いと智輝に促され、田子谷と都は並んでリビングのソファに座った。
「素敵なお部屋ですね」
壁にかけられたパッチワークキルトのタペストリーや棚に飾られた草花の刺繍を田子谷は感嘆とともに眺めていた。
「自分の祖母も刺繍が好きなんです」
「あらそうなの?嬉しいわ。私は古典の教師だけど、高校では手芸部の顧問もしているの」
英恵は田子谷と都の前にそれぞれ温かいココアの入ったマグカップを置いた。
「……あっ、ごめんなさい。癖でつい……光司くん甘いの平気だった?」
「むしろ大好きです!ありがとうございます、いただきます!」
癖で、ということは英恵はいつも都が来るとココアを容れていたのだろうか。
嬉しくなって、マグカップからちびちびと熱いココアを飲んでいる都の横顔を見つめる。
「……なんだ、にやにやして」
「なんでもありません!」
「ただいまー」
玄関から聞こえた声に英恵は持っていたカップを置いて立ち上がった。
「おかえり晴輝。優作もう帰ってきてるよ」
「え?マジ!?」
ばたばたと廊下を早足で駆ける音がして、勢いよくリビングのドアが開いた。
茶髪にピアスという風貌の若い青年が都の姿を見て満面の笑みを浮かべる。
「おかえり兄さん!久しぶり!」
「……ああ。久しぶり」
晴輝は都の隣に座る田子谷の姿を見て一瞬驚いた様子だったが、すぐににっこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「あっ、兄さんの恋人の…!こんにちは!」
都はごほごほと噎せながら、慌ててマグカップをテーブルに置いた。
「なっ……何言ってるんだ?」
「いや知ってるって。この前駅前で手繋いで歩いてたじゃん……え、それで挨拶に来たんじゃないの?まさか言っちゃダメな感じだった?」
晴輝の顔がさっと青ざめる。都は文字通り頭を抱えた。
恐らく、両親は晴輝に兄が事件に巻き込まれているとは言っていなかったのだろう。
そのせいで晴輝は、付き合っていてわざわざふたりで来たのなら当然両親に恋人を紹介に来たものだと勘違いしたらしい。
英恵と智輝はきょとんとして顔を見合せた。
「……恋人……とは?」
「どういうこと?」
「いや、その……」
都は助けを求めて隣に座る田子谷の顔を見たが、彼は思考を放棄したらしく若干遠い目をしている。
────俺に決めろってか畜生。
否定をした場合、街中で手を繋いでいたことの説明がつかなくなる。罰ゲームや見間違いで済ませてもいいが晴輝は納得しないだろう。
だから街中でくっつくなと言ったのに、という田子谷への怒りと、しかし手を繋いだのはまぎれもなく自分の方であるという後悔と羞恥が同時に襲ってくる。
肯定をした場合、恋人がいることに加えて更にゲイであることまで家族全員にカミングアウトする羽目になる。
長男を警官にしたがっていたくらいなのだから、当然都の両親は結婚と孫の誕生も望んでいただろう。
カミングアウトにより今度こそ養子縁組を切られるか、そうでなくても強い失望を抱かれるかもしれない。
ただ、今嘘をついたとしても結局のところ都の性的指向は今後も変わらない。
どっちみち女性と結婚をする気は無いし、そうなれば子どもも望めない。否定はただの無闇な引き伸ばしに過ぎなかった。
都は横に座る田子谷の手を握った。隣で小さく息を飲む音がする。
「隠していて申し訳ありません。彼と……恋人としてお付き合いをしています」
「……それは、いつから?」
英恵は怒るでもなく静かに問うた。
都が言い淀んでいると、田子谷が代わりに口を開いた。
「今年の夏から……自分の方からご好意を伝え、付き合っていただけるようにお願いしました」
「そうか……」
智輝は深く息をついて、隣にいる妻を抱きしめた。彼はくしゃりと顔を歪めながらも口元には笑みを浮かべている。どうやら養父は泣くのを耐えているらしかった。
「お前が誰かを好きになって交際までできるようになるなんて……とても嬉しいよ」
智輝の言葉に英恵も大きく頷いた。彼女は既に涙ぐんでいた。
「小さい頃からすべての人間を憎んでいるようで、私も母さんも心配していたんだ」
「そんな……そんなことは、」
都は戸惑いと共に二人の顔を見比べる。
なぜ両親が怒らないのか、なぜ嫌悪や失望を示されないのか、なぜ泣きながら祝福されているのか、都には何ひとつ分からなかった。
都以外の全員が大いに盛り上がってしまい、夕食時も絶え間なく質問が飛んできた。
都のどこを好きになったのかなどと英恵に聞かれた田子谷が恥ずかしげもなく歯の浮くような台詞を並べているのを、真隣で聞いている都は赤面したまま黙殺することしか出来なかった。
「この前見かけた時はびっくりしたんだけど、光司さんも兄さんも幸せそうだったからいっか、って思ったんだ」
晴輝は満面の笑みでそう言ってフォークに刺したハンバーグを頬張った。
「幸せそう……?」
「うん。ふたりとも今みたいにすげー笑顔だったから」
今みたいに、という言葉に驚いて、自分の頬に思わず手で触れる。気付かないうちに口角が上がっていた。羞恥で急激に顔が火照る。
────まさか光司の前でもずっと笑顔だったのか?笑っているつもりなんて少しもなかったのに。
「優作さん、顔が熱いですよ。やはりまだ体調がよくないのでは……」
心配そうに都の額に手を当てる田子谷を横目に見て、智輝が苦笑した。
「君も存外鈍感だな」
「鈍感……?確かに、自分昔からよく言われます!」
田子谷は鈍感と言われ何故か嬉しそうに頷いている。鈍感でよかった、と都は内心ほっとしていた。
────しかし、家族にバレた上に交際にもあんな大賛成されたらいよいよ逃げられねえじゃんかよ……。
ふと、田子谷があまりに順調に外堀を埋めていくのが全てあの男の計算の内なのではないかと恐ろしくなる。
まさか、二十四日はクリスマスデートと銘打って田子谷の実家へ連行されるのではないかと都の脳内に一抹の不安が過ぎった。
食事の後、田子谷と都は英恵に二階の部屋へと案内された。新居にも都の部屋を用意しているとは以前から言われていたが、いつも挨拶だけしてすぐに帰っていたので入ったことはなかった。
「お布団を持ってくるわね」
部屋にはシングルのベッドがひとつしかないので、英恵は予備の布団を取りに一階に下りた。
「自分運びます……!」
田子谷は英恵を追い掛けようとしたが、すぐに足を止めて都の方に振り返った。
「あっ、優作さんをおひとりにするのは……しかしお義母さんに運ばせるのも……」
わたわたと慌てる姿に苦笑する。忙しない大型犬のようだ。
「母さんを手伝ってくれないか。今は家の中だし、ひとりでも平気だよ」
行ってこい、と促すと田子谷はようやく部屋を出ていった。
しかし、都が部屋にひとりになったのとほぼ同時に、ガシャンとけたたましい音を立ててべランダの窓ガラスが勢いよく割れた。
都は咄嗟に服の袖で顔を覆い、ガラスが顔に飛散するのを防ぐ。
恐る恐る腕を退けて床に目を向ける。
フローリングに散らばるガラスに紛れて、大きめの石礫が落ちている。
おそらく外からこれを投げ込んで窓ガラスを割ったのだろう。
「優作さん!」
間髪入れずに田子谷が慌てて部屋に駆け込んできた。
都はガラスが散乱しているので動かないように指示すると、慎重に床のガラス片を避けながら田子谷の居る部屋の入口まで移動した。
「急に音がして窓が……」
「お怪我はありませんか!?」
都が頷くと田子谷は安堵した様子で胸を撫で下ろした。
晴輝も音を聞き付けて部屋の前まで来ていた。
「すごい音したけど大丈夫?父さんがめちゃくちゃ心配して……階段登ってこようとするのを母さんが今止めてる」
「窓ガラスが割れただけだから怪我はないよ。晴輝、父さんたちに危ないから全員同じ部屋で待機するように言ってくれるか?」
「わかった」
都はポケットから綿の手袋を取り出した。休暇とはいえ事件のこともあったので持ち歩いていたのである。
「窓の外、ベランダに何か落ちてる」
「待ってください、そのままだと足が……」
「チッ、じゃあどうしろっつーんだよダボが」
都は悪態をつきつつ、部屋の中を見渡した。ベッドの下に英恵が用意していたであろうスリッパがあったので、取り出して田子谷に見せる。
「これでいいか?」
「貸してください。俺が外を見ます」
過保護め、と二度目の舌打ちをしつつスリッパを渡す。
田子谷は手渡されたそれを履くと割れた窓の側まで移動した。
「……外には特に人の姿は見えません」
「そりゃ逃げるだろ犯人も……また何か飛んでくるかもしれねえから気をつけろよ」
田子谷は頷くと、ポケットからハンカチを取り出し、素手で触れないようにベランダの鍵を開けた。
彼が窓を開けると、びゅうびゅうと鋭い風の音と共に冷たい空気が室内に流れ込んでくる。田子谷はその場に屈むと、ベランダに手を伸ばしてそこに落ちていた物を手に取った。
「十五センチ四方の小箱……今までと同じパターンですね。……ん? でも何か……中から音が」
田子谷は箱に耳を近づけた。一定のリズムで小さく機械音がする。
「何か……タイマーが鳴る時のような」
都は目を見開いた。数秒で機械音は少し離れた都にも聞こえるほど大きくなっていた。田子谷との距離は三歩半。今走れば間に合う。
割れたガラス片の散らばるフローリングを躊躇無く踏み越え、田子谷の手から箱を奪う。
「優作さん、足が……っ」
「言ってる場合か馬鹿がッ!」
ベランダに出ると、人のいない遠くの薮の方へと箱を全力で投げる。
都の手から離れた箱は空中で一瞬激しく光ったかと思うと火花を散らしながら四散した。
パラパラと空から落ちていく箱の残骸を田子谷は呆然と眺めていた。
「……爆弾」
「……規模的に死にはしなかったかもしれないが……その綺麗な面は吹き飛んでたかもな。精々俺に感謝を……」
都はそこまで言いかけ、ふと口を噤んだ。
田子谷は見たこともないような冷ややかな目でベランダの外を睨んでいた。
里木芽美の一件でみた顔とはまた違う、背筋が凍りつくような悪意に息を飲む。
「……光司、」
「兄さん、今の音何!?」
晴輝がドタドタと階段を勢いよく駆け上がる音が聞こえてくるが、都は田子谷から目を離すことが出来なかった。
晴輝が部屋に入ってくると田子谷は瞬時にいつもの人懐っこい顔つきに戻り、「危ないから入っちゃダメだよ!」と慌てて彼を止めた。
「優作さん、失礼しますね」
田子谷はそう言うと都の背中と膝裏を腕で掬い上げて横抱きにした。
「晴輝くん、お兄さんが怪我をしたから病院に連れていくね。お義父さんとお義母さんにそう伝えてくれる?」
「えっ……!?わ、わかった!」
晴輝が先に一階に戻るのを見届けると、田子谷は都を抱きかかえたまま慎重に階段を下りる。
「……光司、怒ってる?」
「……怒っていません」
田子谷は珍しく不機嫌な顔つきをしていた。都と目も合わせようとしない。不安になり、わざと甘えるように田子谷の胸に頭を擦り寄せる。
「……なあ、そんな顔すんなよ。さっきはあの選択肢しか無かったじゃん……」
「勿論、あなたは常に最善の行いをしています。優作さんには一切非はありません。ただ……」
階下まで下りると、暗い廊下で田子谷は都を抱き上げる腕に強く力を込めた。
「今はその行動を選ばせてしまった自分を到底許せません」
田子谷の手は小さく震えていた。
都は苦笑して、彼の髪を犬でも撫でるかのように乱暴に掻き回してやった。
「降ろせっ!おい、今すぐ俺を離せクソ野郎!」
「危ないですからちゃんと掴まっていてください」
田子谷は顔を真っ赤にしてじたばたと暴れる都を平然と抱きかかえたまま病院の廊下を進む。
夜間救急外来の看護師たちは、皆惚けた顔でふたりを凝視していた。
「足の裏を怪我しているのに歩かせる訳にはいきません」
「だったら車椅子とか、あるだろ他に!」
至極真っ当な意見は無視された。
ちなみに、田子谷は診察室に入っても都を下ろさなかった。自分が椅子に座り、その上に都を抱いて医師と対面した。老年の男性医師は何度も不思議そうな顔でふたりの顔を見比べていた。
幸い大きなガラス片は数個しか刺さっておらず、あとは細かい切傷ばかりだった。刺さったガラスを除去して消毒した後、両足にそれぞれ包帯を巻かれた。
「……大袈裟ではないですか?」
「うーん、でもガーゼだけだとズレちゃうからねえ。上から包帯も巻かせてねえ」
眼鏡をかけた男性医師は包帯をきつく巻きつけながらそう言った。ああ、と彼は眼鏡の位置を直し、「この子、傷塞がるまで歩かせちゃダメ」と都ではなく田子谷の顔を見ながら指示した。
「なんか彼は無茶しそうだから君が気をつけてあげて」
「お任せ下さい、一歩も歩かせません」
田子谷は自信たっぷりに胸を張った。
────医者も別にずっと抱き上げてろって言ってるわけじゃねえだろ。
診察室を出る時にもまた丁寧に横抱きにされ、都は半ば諦めを滲ませていた。
しかし、診察室を出た途端廊下のベンチに座る蓮田、田坂と目が合ってしまい諦めは絶望に変わった。
「元警視正に連絡を受けてすぐ駆けつけたんだが……」
「……いやあ、お姫様だなあ警部殿」
田坂はツッコむことを放棄したらしく生暖かい視線を寄越してくる。
「田坂、ふざけないでください」
都が一喝すると彼は「おお怖い」と大仰に肩を竦めて見せた。
蓮田はファイルに入れた写真を都に見せた。
ボサボサの黒髪に無精髭、眼鏡をかけた陰気な雰囲気の男性が写っている。
「ちょうどさっき、ふたつ目の心臓の持ち主が見つかった。梔子市の自然公園で木に磔にされて、腹を大きく裂かれていた。身元も既に割れている。坂間太一三十七歳────名前に何か覚えはないか」
坂間太一は都と同じ高校に通っていたふたつ上の先輩である。
都と同じ読書好きで、よく図書館で一緒になり共に並んで本の感想を語り合ったりしていた。
しかし都が里木と付き合い始めたことで付きまといや嫌がらせをするようになった。
都が二年生の時、自室で眠っている時に二階の窓から部屋に入ってきて刃物で脅され、暴行を受けそうになった。
幸い物音を聞き付けた両親がすぐに駆けつけたおかげで、事件は未遂で終わった。
「同じ高校の生徒で……一時期は坂間にストーカーをされていました。夜間に自宅に侵入されて襲われたことがあります」
「坂間に前科は無かったが、それは警察には言ってないのか?」
「未遂でしたし、坂間の両親を通じて示談で済ませたので……このことを知っているのは双方の家族だけです。……もしかしたら同じ高校の関係者ならば噂として知り得たかもしれませんが」
蓮田は都の言葉を受け、数秒沈黙した。そして躊躇いがちに口を開いた。
「こんなこと言いたくないが……お前の家族は安全か?」
「……どうでしょう」
智輝や英恵を疑ってはいない。この事件でなんとなく怪しいと思っていたのは晴輝だった。
そもそも今回の『贈り物』が始まったのは、時期的に考えて晴輝に駅前で目撃されてからだ。都には分からないが、晴輝が何か歪んだ感情を抱えていないとは断言できない。
ただ、窓ガラスが割れた際にどうやら晴輝は家の中で英恵たちと共にいたようだった。複数犯の可能性も無くはないが、それにしては何か引っかかるような……。
「────最初に届いた荷物を受け取ったのは会計課の戸田。二回目は自宅で私が宅配員から受け取りました。その際、顔はあまり見ていませんが二十代前半の若い男性であったことは覚えています」
「戸田も二十代くらいの若い宅配業者から受け取ったと言ってました」
田坂が事件の資料を見返しながら言った。 都は口元に手を当て、思案する。
「三回目はベランダに投げ込まれています。てっきり中身が爆弾だったからだと思っていたのですが……もしも、犯人が今回に限り配達員のフリが通じないからだったとしたら?」
「元警視正、奥さん、晴輝くんの誰かと面識がある人物ということか?」
都は頷いた。特に、二十代前半の若い男であれば最も考えうるのは晴輝の知人だろう。
晴輝は梔子市の駅前で都と田子谷を見かけたと言っていた。その時、彼が一人だったとは限らない。
「それでは、自分たちは一度お義父さんのお宅に帰ります!心配していらっしゃると思いますので!」
田子谷は椅子に座っていた都を再び抱き上げると元来た廊下を戻り始めた。
「だからてめえ、離せっつってんだろダボが!」
「すみません、離しません!」
顔を真っ赤にしながら涙目で田子谷を殴っている都を見て蓮田と田坂は謎の感慨に浸っていた。
「警部殿ってあんな面白い顔もできたんだなあ……」
「ふん。普段がスカしすぎなんだ、アレは」
蓮田は、課長は素直じゃないですねえなどと言いながらにやつく田坂の頭を強めに叩いた。
都の実家へと戻ると、事前に電話を入れていたせいもあり三人とも玄関の前で待機していた。
「危ないんだから家の中で待っていてくださいよ」
都は呆れた様子だったが、智輝は彼の足に巻かれた包帯を見て心配そうに顔を歪めた。
「痛かっただろうに……とりあえずふたりとも、寒いから中に入りなさい」
「今何か温かいコーヒーでも淹れるわね」
英恵はぱたぱたと小走りでキッチンへと急いだ。
「晴輝は待ってくれ」
都は英恵を手伝おうとキッチンに向かう晴輝を呼び止めた。
「どうした?何か俺に手伝えることある?」
晴輝は労わるように都と田子谷の顔を交互に見る。都は頷き、ソファを指差した。
「とりあえず座って話を聞いてもいいかな」
英恵は三人分のコーヒーをローテーブルに置くと、「私とお父さんは別の部屋に下がっているわね」とふたりでリビングから出た。なんとなく仕事としての空気を察したのだろう。
「……晴輝は梔子市に行った時に駅前で私と光司を見たんだよね」
「そうそう。俺友達のやってるバンドのライブを見に行く途中で……皆で駅前を通ったら偶然兄さんを見つけたんだ」
「その時、晴輝は友達と一緒にいた?」
晴輝は頷き、スマホを操作してカメラロールの写真をふたりに見せた。居酒屋のテーブル席を囲んで六人の男女がカメラに笑顔を向けている。一番右の手前にいるのが晴輝だ。
「これはそのライブの後に飯食った時の写真なんだけど…駅前にいたメンバーと一緒。あー、兄さんこいつなら知ってるんじゃないかな? 俺の向かいに座ってるこの黒い服の奴。中学生の時に兄さんに助けられたからすげー兄さんのこと慕ってて……」
晴輝が指差したのは髪を短く刈り上げた、体育会系らしい筋肉質な青年だった。
配達員の青年と背格好はかなり似ているが、顔つきまではあの時もよく見ていなかったので同じか分からない。
「いや……あまり覚えていないが……」
「まあ、コイツ昔はモヤシだったからなー。筋トレしまくって、今は運送会社でバイトもしてるらしいよ」
『運送会社』という単語に都は田子谷と顔を見合わせる。
「この男について、もう少し詳しく聞かせてくれるか」
『私の弟────都晴輝の話から容疑者として浮かんだ男は井下龍真二十一歳、梔子市立大学三年生、英文学科所属。土鳩運送で二年前からアルバイト……私が自宅で見た男も土鳩運送の制服を着ていました』
「……戸田も土鳩運送の配達員から受け取ったと言っていたな……。ところで、井下がお前を狙った理由に心当たりはあるか?」
蓮田の言葉に、都は電話越しにうーん、と面倒くさそうに唸った。
『自分で言うのも何なのですが、どうやら長年慕われていた……らしいです』
「……面識は無かったんだよな?」
『晴輝に聞いたところによれば井下が中学生の時に数回会ったことがあるようです。確かにいつも晴輝について回っている友達がいて、上級生に恐喝を受けていたところを一度助けて病院まで連れて行った覚えはあります』
「なるほど、調べてみよう。……お前、怪我が治るまでしばらくは家から出るなよ。引き続き周囲を警戒しろ」
都が反論する前に一方的に話を終わらせると、蓮田は電話を切った。
「田坂、お前は新田とふたりで井下龍真が働いている土鳩運送へ行け」
「あの」
「田中、横田は井下の通う大学。私は町川と共に井下の自宅へ向かう」
「蓮田課長」
「それでは各自……」
「蓮田課長!」
突如として響き渡った大声に蓮田は驚き、声のした方を向いた。
鑑識の田原が顔を真っ赤にし、息を切らしながら会議室の前に立っていた。
田原は走ってきたという訳ではなく、単に慣れない大声を出したことにより息切れを起こしていた。
「……どうした、大丈夫か田原」
「ホシが……井下龍真と名乗る人物がたった今自首してきたのです」
蓮田は困惑と共に椅子から立ち上がった。
「どういうことだ……?」
井下龍真の自首により、長引くかのように思えたこの事件は唐突に幕を下ろすことになる。
あまりにあっさりと、まるで誰かに筋書きを操られているかのように。
空中で爆発と同時に散ってしまった『贈り物』を双眼鏡で眺め、青年────井下龍真は小さく舌打ちをした。そもそも都を狙ったのに、田子谷が代わりに箱を取ったことも不服だった。
「間男が……」
小さく悪態をつき、双眼鏡を下ろす。
彼はヘルメットを被ると、跨っていたスティードのエンジンをかけた。アクセルのグリップを握り込んで強く回す。
マフラーから唸るような音を上げ、スティードがコンクリートを滑るように走り始める。
警察はすぐには来ないはずだ。すぐにでも間男を殺して、都は気絶させてから連れていけばいい。
愛する人を傷つけるのは心苦しいが、今度こそ誰を選ぶのが正しいのか身をもって分からせねばならない。
走り出して数分の所で井下はスティードを停めた。
狭い峠道の真ん中に立ち塞がるようにして、黒い大きなバンが二台停まっている。
ヘッドライトがハイビームでこちらに向けられているせいで眩しくて中に乗っている人物が見えない。
「……どういうことだ」
井下はバイクから降りると背中のナイロンリュックから突き出た手斧の柄を握る。
車のドアが開き、人影が降りてくる。逆光で姿は分からない。井下は眉根を寄せながら斧を構え、数歩前に歩みを進める。
「誰だ!」
「アナタが井下龍真サン、ですよネ?」
濃い煙草の匂いが漂う。いつの間にか間近に距離を詰めたその人物は、上背が百八十センチメートルある井下より頭ふたつ分近く背が高い。目の前にコンクリートの壁がそびえ立つかのような威圧感に、息を飲む。
「エート……一緒に来てくれマスか?」
「だ、誰だって聞いてんだろ……!」
斧を振り上げたはずの腕をひょいと軽く掴まれ、体ごと持ち上げられる。 まさに赤ん坊の腕でも捻るかのごとくきつく手首を握られ、手から斧を取り落としてしまう。
持ち上げられて、初めて相手の顔を直視する。派手なオレンジ色の髪に、サングラスを掛けた巨躯の女。ラメ入りのグロスがたっぷり塗られた唇に、既に短くなったラッキーストライクを噛むように咥えている。
「紫田サーン、井下サンはどうやら一緒に来てくれるようデス」
「無理やり連れていく、の間違いだろうが」
紫田と呼ばれた運転席の男はそう言って鼻で笑う。黒髪をオールバックにした、顔が傷だらけのみるからに堅気ではない男である。
井下が女に放り投げられる形でバンの中に転がると、後部座席で待機していた別の男ふたりが手早く井下を縛り上げた。
「なんだお前ら!離せっ……警察を呼ぶぞ!」
「呼ばれて困るのはどちらですかねえ、井下さん。まあご安心ください。俺たちは命を奪うなんてことはしませんし、もちろん指をちょんぎったり耳を削いだりなんて手荒な真似はもってのほかですんで」
「そーそー、モッテノホカ、ですネ!」
助手席に乗り込んだ女はきゃっきゃっと手を叩きながら爆笑する。
「まあ、それが我らが『坊ちゃん』のご意向ですから」
紫田はそう言うと運転席から身を乗り出し、にやりと白い歯を見せて笑った。
井下の聴取を行ったのは田坂と町川だった。
「写真とは随分印象が違いますけど……井下本人ですよね?」
マジックミラー越しに井下を睨みつつ新田がぼやく。
蓮田も腑に落ちない様子でしきりに顎下を指で掻いては、取調室の男と井下の写真を見比べた。体育会系で快活そうな写真の中の男と、部屋の中に放心状態で座る青ざめて窶れた男が同一人物だとは到底思えなかったのだ。
「……事件の間に酷く精神を病んだのかもしれん。今、指紋を田原に解析させている」
「上級生にいじめられていたんです、中学生の頃に……」
ぼんやりと虚ろな瞳をどこか遠くに向けたまま、井下は口を開いた。
「常習的にお金を巻き上げられていました。ある時、都晴輝くんのお兄さんの都優作さんが助けてくれました。私が怪我をしているのに気付くと病院にまで同行してくれて、そこで優作さんに恋心を抱きました」
町川と田坂は顔を見合せた。まだ何も話しかけていないのに、井下は町川が書記の準備を終えた途端勝手に供述を始めてしまった。
一度止めるべきか、と町川は田坂に視線を送るが、田坂は顎髭に手をやったまま静かに首を横に振った。
「彼に見合う人間になろうと体を鍛えたり勉学に励みましたが、最近それだけでは勝てないと知りました」
「勝てない……?」
田坂の問いに井下は遠くを見つめたまま少し口をはくはくと動かしたが、結局その質問には答えず、話を続けた。
「恋人になりたくて……自分の有能さをアピールするために彼に害を為した人物を調べて殺害しました。一人目は城崎高雄、二人目は坂間太一。城崎の件は近所でも有名だったので元から知っていました。坂間の件は弟の晴輝くんがやけに坂間を嫌っていたので、怪しいと思って自分で調べていました」
まるでカセットに録音されたテープを再生しているようだ、と田坂は感じた。この男が井下本人だったとしても、その『意思』のようなものを全く感じない。
「なぜ何年も片思いをしていて、このタイミングで犯行に及んだ?」
町川が問うと、井下の瞳がぎょろりと町川の方を向いた。
「こ、こ、こ、恋心があるとすればどこにあると思いますか? わ、わ、わ、私は心臓だと思います。あ、あ、あ、あなたの心臓はハート型ですね珍しく」
「……はあ?」
「ば、ば、ば、バラの木一本バラ子さん、幾つお面がおありです?あたし死のように顔色が悪いのよ」
田坂は悩んだ。明らかに発言が支離滅裂になったが、ここでストップをかけたらこの『録音』が終わってしまう気がする。
「話したいことだけ話せ」
咄嗟にそう口を挟むと、井下は数秒黙り込んで再び一方的な供述を再開した。
「三回目に心臓ではなく小型の爆弾を贈ったのは、優作さんの顔をめちゃくちゃにしてしまいたかったからです。綺麗な顔のままでは誰か他の人間に奪われるのではと怖かった……」
「今回は少しやりすぎですね!」
明朗な笑顔のまま放たれた『坊ちゃん』のお言葉に、オレンジ髪の女は大きな体を縮こめながら紫田の背後へと隠れた。
「ゴメンねボンチャマ……!でも紫田サンはそんなには悪くありまセン」
「鷹嶺てめえ……さらっと俺が叱られてることにすんなよ」
紫田は背中にくっついている女────鷹嶺に肘鉄を喰らわせようとしたが、ひらりと避けられた。
「……都合が悪くなるとコクトーの詩を暗唱させるように設定したのはどちらですか」
「俺です本当に申し訳ありませんでした」
紫田は潔いを通り越して雑に見えるほどに素早く最敬礼と謝罪の言葉を繰り出した。
『坊ちゃん』は呆れつつも、今回のふたりの功績に免じて小さなミスではお咎めをしないことにした。
そう、『坊ちゃん』にとって、井下が廃人寸前の録音再生機器と化したのはほんの些細な問題でしかなかった。
だって彼は表向きは無傷で、きちんと五体満足で生きたまま逮捕されたのだから。証言させた内容も、全て本人から聞き出したれっきとした事実である。
だから、例えばこの後井下が拘置所の便器に顔を突っ込んで死のうが、あるいは裁判の最中に突然走り出して窓から飛び降りようが、刑務所のドアに首を吊って息絶えようが────きっと彼の恋人も気に病まないだろう。
「ああ、俺はもう行かなくては!」
『坊ちゃん』は腕時計を一瞥すると、用事を思い出していそいそと席を立った。
「坊ちゃん、もしかして今からデートですかい」
「ええ、恋人と待ち合わせをしているんです!」
ふふ、と嬉しそうに笑う『坊ちゃん』を見て、紫田と鷹嶺もつられて頬を緩めた。小さい時から彼の成長を見守ってきたふたりとしても、『坊ちゃん』の恋は幸せで喜ばしいことである。
「ボンチャマ、恋人サンとオデカケ楽しんでくだサイ!」
「ええ。おふたりとも、今回はありがとうございました。特別手当を出すようにお祖父様にも伝えておきますね!」
特別手当、という言葉を聞いて、紫田と鷹嶺は各々ガッツポーズと共に歓声を上げた。
あまりに分かりやすいふたりの反応に苦笑しつつ、『坊ちゃん』は部屋を後にした。
都は駅にある噴水の前に立っていた。
駅前の広場ではクリスマスマーケットが開かれていた。ツリーに飾るオーナメントやサンタクロースのスノードーム、ジンジャーブレッドにホットワインなどこの時期らしい出店も賑わっている。
その暖かく賑やかな光の中には入りきれなくて少し離れた所にある噴水を選んだのだが、結局どこを向いていても目映いイルミネーションが視界に入る。
この世界にはサンタクロースというものがいて、子どもは皆プレゼントをもらい祝福されるべき存在である。都はそれを、最後まで妹に教えてあげることができなかった。
「遅くなってごめんなさい!」
ぎゅう、と強く抱き締められてようやく我に返る。この暖かい胸に抱かれるたびに安心してしまうのがとても怖い。でも少しだけ、数秒だけこのままでいたい。
目を閉じて冷たくなった鼻先を擦り寄せると、ふわりと甘い葡萄の香りがした。
「お詫びに出店でホットワインを買ってきました。寒かったでしょう、どうぞ」
手渡された小さな紙カップを受け取ると、悴んだ指の先がカップの熱でじんわり温かくなる。ふう、と息を吹きかけ舐める程度に口にすると、舌に葡萄の渋味と少しの甘味、スパイスの豊かな風味の後に、アルコールによる僅かな痺れが広がった。
「お前は?」
「俺は今から運転するので!」
匂いだけ楽しみます、と田子谷は微笑んだ。ちみりとまた一口飲んで、ほっと息をつく。スパイスとアルコールのおかげで体がぽかぽかする。
「味見だけすれば?」
「そうしたいところですがワインは加熱してもアルコールが……」
言いかけた田子谷の胸倉を引き寄せて唇を重ねる。驚きに見開かれたヘーゼル色の瞳がイルミネーションの光を反射してきらきらと点滅している。
────ばーか、驚いてやんの。
酷く愉快な気分になって、ちゅう、と音を立て下唇を軽く吸ってから離してやる。
「ふふ、びっくりしただろ」
「……ええ、それはもう……お酒に弱いにしてもお外でこんなに大胆になるとは思いませんでした……」
田子谷は真顔で都の手からワインのカップを奪った。
「ちょっと危険なので没収で」
「あぁ?そもそもお前が寄越したんだろーが……」
ふらり、前によろめいた都の肩を支えて田子谷は苦笑する。
「ワインは後でゆっくり飲みましょう。ただ、今から向かう場所ではなるべく素面でいてほしいので……酔いが冷めるまで少し歩きましょうか」
手を引かれ、クリスマスマーケットの雑踏の中へ向かう。オーナメントもツリーもリースも、視界に映るもの全てが輝いている。
「お前のこと愛せるようになりたいけど」
都は呟いた。田子谷は足を止め、振り返る。
「俺の心の中で陽葵が占める部分を少しでも減らすなんて出来ない」
「減らす必要なんてありません」
都の冷たい手を握る。彼の手の震えが少しでも治まるように、そっと指を絡める。
「気持ちに制限なんてありません。俺の分だけ心の中を増築してください」
「なんだそれ。好きなものが増える度にそれのための部屋を増やせって?ウィンチェスター・ハウスじゃねえか」
「そうですよ。これからいっぱい増やせばいいんです」
田子谷は都の手を引きながらくすくすと笑った。都はつられて僅かに笑みを浮かべた。
「……陽葵にプレゼントをあげたかった」
クリスマスマーケットを眺めながら、ぽつりと都がそう零す。
田子谷は都の目元を手で拭った。酔っているからか、自分が泣いていることにも気付いていないのだろう。
「それなら、今から買いましょう。陽葵さんは何をあげたら喜びますかね?」
「何かなあ。ツリーも見せてやりたいし……あの天使のスノードームも綺麗だし、あっちにかけてある赤い実のついたリースも喜びそうだ」
「全部買いましょう!」
田子谷が言われるがままにプレゼントを増やしていくのを、酔っ払っている都はただにこにこと機嫌よく眺めていた。帰ってからその膨大な数に青ざめることになるとも知らずに。
田子谷は買ったものをすべて愛車のブロンコに詰め込むと、それには乗らず近くに停まっていた黒のレクサスに都を案内した。
「ここからはこの車で行きますね。……大丈夫ですか?眠いです?」
「うん……眠く、ない……」
都は半分閉じかけた瞼をゆっくり瞬きさせた。
しかし手を取って助手席に案内し、シートベルトを締め終わった頃には都は既に寝息を立て始めていた。
「────ふふ、可愛いな」
額に軽くキスをすると、トランクから毛布を持ってきて体に掛けてやる。
目的地までは寝かせておくことにして、田子谷はレクサスの運転席へと乗り込んだ。
時刻が二十一時を回る頃、車がガタンと大きく揺れる音で都は目を覚ました。田子谷と合流してから今までの記憶があまり無いが、体が温かくてなぜか気分がいい。
「……何だ……ここはどこだ……?」
「山の中ですね」
車は山中の舗装されていない道を慎重に進んでいく。スタッドレスタイヤにチェーンを巻いてはいるが、用心に越したことはない。
「あとどのくらいで着く?」
「もうすぐです。……酔いはさめましたか?」
「酔い?何言ってんだお前」
しばらくガタガタと不安定な道が続いたが、田子谷の言う通り数分後には到着し、大きなログハウスの前で車が停まった。
「……ここは何の場所だ?」
「俺の祖父が所有する山の中です。これはある目的の時に使う特別な別荘」
田子谷は先に車から下りると、助手席側に回ってドアを開け、恭しく掌を差し出した。
「雪で滑ると困りますから」
普段ならすげなく手を振り払うところだが、都は今日、革のローファーを履いていた。
そのため、躊躇いつつも無様に滑り転ぶ醜態を晒すより素直に手を取っておくことに決めた。
「うわ、」
地に足を着けた時点で既に靴が滑ってよろめいてしまう。足裏の怪我は傷口も塞がり痛みもなくなっていたが、最近変に足を庇う癖がついていたので上手く歩けない。
「……運びましょうか」
「要らん」
忌々しいお姫様抱っこの提案を断りつつ、ログハウスというにはいささか豪奢な造りのその建物に入る。
「靴はこっちに履き替えてください」
田子谷は玄関に置いてあった長靴を都に差し出した。フード付きで、靴裏の滑り止めがやけにしっかりした作業用の長靴である。
疑問に思いつつも素直にそれを履くと、暗い廊下を手を引かれながら進む。歩く度、木組みの床に長靴のゴムがぎゅっ、ぎゅっと擦れる靴音が響く。
「電気つけねえの?」
「もうちょっとだけ我慢してください」
辿り着いたリビングも真っ暗だった。耳を澄ますと、部屋の中央からギィギィと木の軋むような音と、誰かのくぐもった荒い呼吸音が聞こえてくる。
怪訝な顔をする都に対して田子谷はくすくすと悪戯っぽく笑うと、部屋の明かりを灯した。
部屋の真ん中には昔ながらのロッキングチェアが置かれていた。
そこにはサンタクロースの服を着せられた小太りの中年男が、鉄の鎖で頑丈に縛りつけられている。
男が鎖から逃れようと身動ぎをする度に、椅子がギィギィと耳障りな音を立てては前後に揺れる。
口枷の間から苦しげに呻くその男の顔を見た瞬間、都は目を見開いたままその場に硬直した。
「……な、なんでコイツが……刑務所にいるはずじゃ……」
田子谷はサプライズの成功を確信して微笑んだ。
「俺からあなたに、クリスマスプレゼントです!この男は残念ながら脱獄してしまった……ということにしました。だから体が見つかりさえしなければ、何の問題もありません」
そこまで言うと、田子谷は部屋の中にある大きなクロゼットを開けてみせた。
中には手斧やサバイバルナイフ、チェーンソー、鋸、シャベル、ペンチ、ニッパーなどありとあらゆる『道具』が並んでいる。
「お好きな道具を使ってください。時間もいくらでも掛けていただいて構いません。あなたのための時間ですから」
田子谷は立ち尽くす都の両肩を抱いて、背後から囁いた。
「好きなもののための部屋は増築して、嫌いなものが占めている部屋は都度壊してしまえばいいんですよ」
都は縛られている男を見て、それから田子谷の顔を見上げた。そして、その場に立ったまま両手で顔を覆って俯いた。
「……あれっ、気に入りませんでした?」
「…………お前……これは…………最っっっっ高だな!」
きらきらと瞳を輝かせ、都は飛び跳ねるようにして田子谷の首に抱きついた。
「光司……お前、マジで大好き……!愛してる!」
「ふふ、喜んでくれてよかった……!」
都は軽快な足取りでクロゼットからペンチを手に取ると、ロッキングチェアの上で脂汗を流す男にとびきりの甘ったるい笑顔を浮かべてみせた。
「よお、久しぶり……!元気そうでマジ安心したぜ!」
中年男は震えながら涙を流している。これから自分に起こるであろう凶行を、今までやってきたことの代償を払わされる瞬間を想像しているのだろう。
───ああ、その顔が見たかった。ずっと見たかった!
都は天使のような笑みを浮かべたまま、男の膝へと甘えるように跨った。
「それじゃ俺と朝まで遊ぼっか、お父さん!」
田子谷はキッチンからワインのボトルを取り出し、グラスに注いだ。部屋にあるソファに腰を下ろし、男の耳がペンチで引きちぎられる様を満足気に眺めていた。
これは都への贈り物であり、自分自身へのプレゼントでもある。恋人が世界一憎い男を殺す一部始終を特等席で観覧できるのは、何よりも素晴らしい権利だからだ。
奇しくもよく晴れたクリスマスの朝、実子を虐待死させて服役中だった夏川健介という犯罪者の脱獄を伝えるニュースが各紙で報じられた。
周辺住人は強い不安を訴えており、警察は夏川の足取りを必死で追っているが────依然として、その行方は知れない。
(終)