迎崎家の次男




迎崎むかえざき家の次男は不憫だね。

それが私、迎崎いのりが物心ついた時から繰り返されてきた周囲の言葉。

迎崎の家に三人いる子どものうち、私の兄である長男のみそぎは自他ともに認める天才だった。

禊は勉強でも運動でも同世代の人間に比べて軽々とこなしたが、特に芸術においては秀でた才能を持ち合わせていた。

彼は片手で数えられる歳の頃から絵の才能を発揮し、テレビや新聞などに神童として取り上げられるようになった。小金持ちながらその方面には凡庸であった父母は、禊に画材やアトリエまで望むままに与え、その才能を最大限に伸ばした。

次男の私は禊が三歳の時に生まれた。私は生まれつきの弱視で、乳児の頃から眼鏡をかけないとまともに物が見えなかった。母はその時点で「ちょっとがっかりした」と友人に零していたらしい。

ただの雌鶏から続けて二回も金の卵が生まれると思っていたのだろうか? それ目当てで私を産んだのだとしたら、いささか呆れてしまう。

それでも父も母も、それなりの愛を注いでくれたと思っている。虐待なんて全くされなかったし、禊に比べても目に見える待遇の差はなかった。

ただ禊よりほんの少し要領の悪い私を、ほんの少し残念そうに見るだけで。

私は長年兄の禊に対して強いコンプレックスを抱いていた。彼の視力が眼鏡を必要としないほど良好なところも、すらりと脚が長く背が高いところも、私のくるくると巻いた鬱陶しいそれに比べてストレートで艶々とした髪質さえ憎かった。

一方で、禊は三つ下の不出来な弟である私を溺愛した。

私が生まれた時も、初めて立った時も、一番喜んだのは禊だったらしい。

禊はほとんど手のかからない子どもだったが、幼い私が最初に覚えた言葉が「ママ」だった時は酷く立腹し、かなりの癇癪を起こしたという。

不貞腐れて部屋に篭もり、布団に丸まって何時間も泣いていたんだとか。

禊がこんな風に大きく感情を乱したのは子供の頃でいうとこの時だけで、珍しいエピソードとして両親はことある事に私にこの話をしていた。



子どもの頃、と断りをいれたのは、まさに今現在進行形で禊が癇癪を起こしているからである。

完成したキャンバスを放り投げ、姿見を割り、絵の具を蹴散らかしてアトリエをめちゃくちゃに荒らした原因は無論弟の私にあるらしかった。

「……結婚することになって」

私と久しぶりに顔を合わせて上機嫌だった禊は、その言葉を聞いた途端に一切の表情を失った。

「……誰が?」

「私がです」

「……誰と?」

尚美なおみさんと」

兄は大きなため息をついて、後ろでひとつに括った黒い髪をガシガシと掻き毟った。

「なんであんな女と」

「……あんな女、なんて言い方やめてください」

「だって『あんな女』だ。ノリくん、考え直そうよ」

禊は私のことをよく「ノリくん」という愛称で呼んだ。禊の「みそ」と祈の「のり」、両方日本の食卓に欠かせないものだからという謎の理由で、兄はこの呼び方を気に入っていた。

「そもそも、どうして交際を始めた時点でお兄ちゃんに言ってくれなかったんだ」

「言ったら兄さんは彼女を刺し殺すでしょう」

私は眼鏡のフレームを指で押さえながら淡々とそう述べた。

「……それなら今報告に来たってことは、僕があの女を刺し殺しても問題なくなったってことかい?」

「どうしてそうなるんです? 交際ならともかく、結婚までするとなれば流石に実兄に報告しない訳にもいかないでしょう」

禊は冷たく突き放す私の言葉にぎゅっと唇を噛み────そして現在に至る。

「祈の馬鹿!僕を置いてあんな女と結婚だなんて!大嫌いだ!」

「そうですか」

時価二億円は下らないであろう自らの作品をめちゃくちゃに引き裂く兄を、私は辟易と共に眺めていた。兄の禊は現在三十九歳である。巨躯の中年男性が起こすヒステリーなど、当然の事ながら見るに堪えない。

「式には来ないでくださいね、兄さんはただでさえ目立ちますし」

「絶対行くよ!花嫁を殺しにね!」

「来たらすぐ警察を呼びますからね。くれぐれも来ないでください」

念押しすると、私は兄の全力の駄々を尻目に彼の邸宅を後にした。

車の運転席に乗り込んだところで、鞄に入れていたスマートフォンが鳴った。一瞬仕事の電話かと思ったが、相手は私の六つ下の弟である三男のはらいからだった。

『ノリくんおつかれ~。みーさんどうだったあ?』

祓らしい軽薄な調子に私は少し安堵した。禊と話すのはなぜかすごく緊張するので、聞き慣れた祓の声でどっと肩の力が抜ける。

「かなり荒れていました」

『だと思ったよ。怪我とかない?』

「あの男が私を傷付けるわけないでしょう」

そりゃそっか、と電話越しに祓が笑う。

「それより、何か私に用が?」

『あのさ~、こっちは猛獣の檻に単身突っ込んでいったお兄様を心配してわざわざ電話したんだって。ノリくんそういうトコ相変わらずだよねえ』

祓は呆れた様子で電話越しにため息をついた。三兄弟の中では人付き合いにおいて最も器用な末弟からすると、人間の感情の機微に関して私はかなり疎いらしい。

「それは……すみません」

『いーけどさあ。何もなくても心配するのが兄弟ってヤツなんだよ。ノリくんも人間三十六年目なんだから、いい加減人との距離に慣れてよねえ』

「……あの、祓くん……」

私は祓に長兄が花嫁を刺し殺すなどと暴言を吐いていたことを相談しようとしたが、ちょうどその時電話越しに女性の声がして、祓はくすくすと笑って何か言葉を返した。

どうやら祓はまたどこかの女性の家に居候しているのだろう。やめろよお、などとじゃれる声が聞こえてくる。

私は急に吐き気を感じて、ポケットからハンカチを取り出して口元を抑えた。

『あっ、ごめんノリくん。今何て~?』

「……いえ、なんでもありません。それでは」

電話を切ると、私はふうっと大きなため息をついた。最近、唐突に謎の吐き気が襲ってくる時がある。治まるのを待ってから車のエンジンを掛ける。

今日は禊に結婚の報告をするためだけにとった半休なので、午後からは職場に向かわなければならない。兄の家に居たのはほんの数分なので、まだ二時間ほど空き時間があった。

私は車を走らせて梔子市内にあるアートギャラリーに赴いた。

市街地から少しだけ離れたレトロな煉瓦造りのその建物は、一部の絵画マニアの間では隠れ家的な人気がある。

ガラス戸を開けると、白い顎髭を蓄えたオーナーの大槻おおつき氏が出迎えた。

「ああ、迎崎さんこんにちは。どうぞごゆっくりご覧くださいませ」

ギャラリー内は比較的閑散としていた。平日の午前中なので当然だ。

私は建物の入口から入って正面に飾ってある絵の前に立った。

木炭だけを使って繊細かつ写実的に描かれた女性は、眉を顰め瞳を固く閉じ、苦悶の表情を浮かべている。その裸体には至る所から植物の根が張っていた。

女性の生命を吸い上げるようにして咲き誇るのは油彩を用いて描かれた清楚な紫のアガパンサス。

禊はずっとこのモチーフを描き続けている。

人間の裸体と花の絵。モノクロで描かれた人間の表情はどれも苦痛や絶望に満ち、代わりに花は鮮やかに、生き生きとして瑞々しい。

噂によれば、禊が竜胆をモチーフに選んだ作品はとある新興宗教団体の教祖が気に入って五億で購入したとも言われている。

私には禊と違って、他人が目を見張るようなものなど何ひとつ作れない。芸術の才能が無いのだ。その分勉学に励んだが────周囲の関心は常に禊にあった。

私にできたことは、なるべく兄と芸術から離れること。そして、兄にも兄の描く作品にも興味がありませんよ、と無関心を装うことだった。

私がこのアートギャラリーに足繁く通っていることも、オーナーの大槻氏しか知らない。

ポケットからハンカチを取り出して口元に当てる。強い吐き気に小さく嘔吐いた。

私は粗相をする前にギャラリーから出ようと、足早に元来た道を引き返した。



結局、予定よりかなり早く職場である梔子大学に着いてしまった。

私の職業は法医学者だ。なるべく兄、ひいては芸術から縁遠そうな道を選び続けたら、いつのまにかこの仕事になってしまった。

現在は主に准教授として大学で教鞭をとりつつ、警察から依頼があれば遺体の解剖も行っている。

午後からは講義が二コマ入っていた。教務課の窓口で研究室の鍵を受け取ろうとすると、受付に座っていた事務の女性に「もう早くに青山あおやま先生がとっていきましたよ」と言われた。

青山先生とは、研究室の助教であり私の婚約者でもある青山あおやま尚美なおみのことだ。

午前は研究室を閉めると伝えていたはずだが、何か用事でもあったのだろうか。首を傾げつつ、D号棟の五階にある自らの研究室へと向かった。

D号棟は他の研究棟から少し離れている上に、酷く日当たりが悪い。丁度研究室がある側に大きな銀杏の木が生えていてほぼ一年中日陰となるのだ。

本当に邪魔だよね、コレ切り倒しちゃダメかなというのは尚美の口癖である。

大学創立と同時に植えられた由緒正しき大木を「日当たりが悪いから」といって切り倒せるはずもないだろうに。

エレベーターの前には点検中の看板が立っていた。今日は全く運が悪いなと思いながらも、大人しく一階から五階までの階段を上り、妙に薄暗い廊下を進む。


迎崎研究室はD号棟の中でも最上階の一番奥に面する。用事がなければ誰も好き好んで訪れない立地なので、うるさいのが苦手な私はそこそこ気に入っている。

研究室には明かりが灯っていた。ドアに手をかけた時、中から微かに笑い声が聞こえてきた。尚美以外に誰かいるのだろうか。

「いいのかお前、結婚するんだろ」

聞こえてきた男の声に、心臓が凍りつくかのような感覚を覚えた。助手の深山みやまの声だ。私はドアに手をかけたまま硬直する。

「祈ってつまらないんだもん。顔はまあいいけど、ずっと不機嫌そうに黙ってるし気遣いもできないし、何よりも性欲が無さすぎ。あんなの男として見れないわ」

「あー、先生は堅物だからなあ。でもあの人まだ三十六だろ? 尚美の体で性欲湧かないならEDなんじゃねえの?」

くすくす、くすくす。ふたりの笑う声が脳内で反響する。

私はポケットからハンカチを取り出して口元に当てた。ああ、気持ちが悪い。

もう一回、と尚美の強請るような声と共に衣擦れの音がして、耐えきれなくなった私はその場を後にして男子トイレに駆け込んだ。

昨晩から何も食べていなかったので、出たのは胃液だけだった。それでも吐き気は治まらず、便器に手をついたまま嘔吐き続けた。

尚美の言葉は当たっている。セックスどころか自慰行為も長らくしていないし、そもそもここ数年性的な欲求を感じることがない。三十代でこれは性欲が薄すぎるとは思っていたが、激務と体調不良のせいだと自分に言い聞かせていた。

禊のように笑顔の明るい男であれば、禊のように気遣いのできる人間であれば、あるいは『あんな女』と一蹴できるほどに他人を見極める力があれば。

私が尚美に抱いているはずの怒りと悔しさは、臓腑の底でいつの間にか禊への嫉妬に変容していた。



私は病院への受診を理由に、午後の講義を二つとも自習に変えた。

ただ、病院へ行く前に少し回り道をして、再び兄の邸宅へ向かった。

会うことを決めた時は胸に抱えた嫉妬心を罵詈雑言としてぶつけてやるつもりだったのに、車を飛ばして禊の家が見える頃にはそんな八つ当たりをする気力は消沈し、私は単に兄に慰めを求めに来た情けない弟に成り下がっていた。

禊は相変わらずアトリエにいた。ヒステリーの峠は越えたらしく、ぐちゃぐちゃに荒らされた部屋の中央に大の字になって寝転がり、ひたすら虚空を見つめるフェーズへと突入していた。

「兄さん」

私がアトリエの出入口に立ったまま声をかけると、禊は急にスイッチが入ったロボットのように飛び起きた。

「ノリくん…!?……いや、それじゃあ僕に都合がよすぎる。幻覚かな……もう一度寝るか……」

ぱたり、と再び床に寝転がる禊。私は顔から血の気が引くのを感じ、ポケットからハンカチを出して口に当てた。吐き気が治まらない。

「……あなたの言う通りでした」

「はいはい。祈がそんな僕に都合のいいことを言うはずがないね」

「……浮気をされていました」

禊は、目を見開き勢いよく上半身を起こした。私の顔色の悪さを見て、その柳眉を困惑したように少し下げた。

「祈……」

「『あんな女』だって、私にも薄々分かっていました。でも信じたくなかった。私だって誰かに心から愛されていると思い込みたかったんです」

私はドアに寄りかかったまま脱力して、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。禊が駆け寄ってきて、私の体を強く抱き締めた。

「……お前のこと心から愛している兄ならここに居るけど」

「……恋人として愛されたかったんです」

ひぐ、と小さくしゃくり上げる。恥ずかしくて、顔を隠すようにして禊のシャツの肩口に顔を埋めた。

絵の具のどこか油っぽい匂いに混じり、兄が好んで付けるベルガモットの香水がほんのりと漂ってくる。

不思議と気分の悪さが和らぐ気がして、私は肺いっぱいにその匂いを吸った。

兄に抱きしめられていると、吐き気が去った代わりに抑えていたはずの感情が溢れ、涙と嗚咽が止まらなくなってしまった。恥ずかしいやら悔しいやらで一層涙が流れてくる。

「……恋人って誰でもいいの?」

「……私は……」

禊の長い指がそっと髪を撫でてくる。濡れた頬に手が添えられて、顔を上げると唇に柔らかいものが押し当てられた。

それが禊の唇だと気付いた瞬間、私は慌てて兄の体を突き飛ばした。

「……ッ……何を……」

「……ごめん、……嫌だった?」

禊は冷静だった。顔を真っ赤にする私を見て、切れ長の目を細め悪戯っぽく微笑んだ。

体が焼けるように熱かった。全身の皮膚が甘く疼いて、心臓が早鐘を打ち始める。

 

私は、長く味わっていなかった欲望が突然沸き起こってきたことに戸惑っていた。しかも、実の兄を相手に。

「……か、帰ります」

「またおいで」

「もう二度と来ません!」

私は一度も振り返らず、逃げるようにして兄のアトリエを後にした。




「アナタねぇ、急性胃炎だから」

胃カメラの検査後、老年の男性医者は喉に突っ込まれた機械の余韻でしきりに嘔吐く私に対して冷静にそう告げた。

「アナタはねぇ、空腹時にコーヒーを飲みすぎだねぇ。それに加えて強いストレスが重なって、急激に悪化しちゃったんだなぁ」

うんうん、とひとりで頷きながら、医師はカルテにボールペンで何やら書き込んだ。

「毎食後のお薬を出しますからねぇ。アナタねぇ、コーヒーとお酒と刺激物は控えてしばらく消化のいい食事だけ摂ること。いいかね?」

私はハンカチで口元を抑えたまま、無言でこくこくと頷いた。

その医者からメンタルケアとして心療内科への紹介状を書こうかと提案されたが、私は断った。ただでさえ仕事が忙しいのに効果が出るのかも分からない心療内科に通院する余裕はなかった。

私が三十六歳という若さで准教授になれたのは専門である白骨化遺体解析の分野で功績が認められたおかげもあると信じたいが、おそらくほとんどの要因は梔子市という毎日のように大量の変死体が出る恐ろしい土地柄にあるのだろう。

私が司法解剖に携わり始めてから、二十代の間だけでも累計解剖数は五百件以上────常識的に考えて、およそ異常すぎる数値だ。



私が病院から出た途端にタイミングよくスマートフォンが震え始めた。所轄署のみやこという刑事からだった。

『迎崎先生、梔子署の都です。今よろしいですか?』

心身共にあまりよろしいとは言い難かったが、断るのも面倒だったのではい、と相槌を打った。

犬笛いぬぶえ町の国道十号線沿いで、用水路に死体が詰まっていて……。膨れ上がっていて取り出せないので、ひとまず現場に同行して検視をお願いしたいのですが』

現場に同行、用水路に詰まった変死体、しかも土左衛門か。私は鼻白んでしまった。どこをとっても面倒な予感しかしないじゃないか。

『……迎崎先生?』

「……ええ……大丈夫です。今出先ですので、一度大学に戻ってから署の方に伺います」

『承知しました。お待ちしております』

電話を切って、大きなため息をつく。

大学に戻れば深山か尚美のどちらかとは顔を合わせることになるだろう。

気が乗らないが、仕事なので当然行くしかなかった。



あいかわらずエレベーターが点検中のままだったので、私は再び五階まで階段を上って研究室へ向かった。

部屋のドアを引く直前、尚美と深山がくすくすと笑う声が聞こえてきた気がして一瞬身構えた。

しかし、いざドアを開けてみると部屋の中には書類の束を整理する尚美ひとりしかいなかった。

「あら、祈。講義を自習にしたって聞いたけど、体調は大丈夫なの?」

午前中の不埒な行いなど嘘のように、尚美は私の腕に抱きついてきた。

彼女の体から漂ってくる甘ったるい匂いは、金木犀の香水か何かだろうか。匂いのきつさに私は顔を背け、小さく咳払いをした。

「……少し胃をやってね。でもすぐに良くなると思う」

「無理しちゃだめよ。祈はいつも頑張りすぎなの」

むっとした顔で少女のように頬を膨らませる尚美は、相変わらず無邪気で可憐だ。なのに、午前中の嘲笑を思い出して胸の奥が硬く冷えていくのを感じる。つまらない男だという自覚はあった。でも、以前尚美はそんなところも含めて好きだと言っていたのに。

「……都警部から検視依頼があったので今から行ってくる」

「都警部って梔子署の?」

尚美の表情が露骨に明るくなった。都は若くて顔が整っているからか、尚美は以前から彼を気に入っていた。

昨日までならそのことに対して特に嫉妬などしなかった。韓流アイドルを好きな女子大生のようなものだと受け流しただろう。

しかし、深山との一件を知った後では、都とも寝ているのではないだろうかと邪推してしまう。

「体調が悪いのなら、私が代わりに行きましょうか」

「……用水路に詰まったらしいよ」

私の言葉に、尚美はぱちぱちと猫のような瞳を瞬きさせた。

「何が?」

「死体が。膨れ上がって動かなくなっちゃったから、長靴を履いて、用水路の中まで下りて検視をするんだ」

「……祈、頑張ってね」

尚美はにこりと屈託の無い笑みを浮かべると、そそくさと書類を整理する作業に戻った。



犬笛という町は比較的都会と言える梔子市の中ではかなり珍しく郊外の侘しい地域である。

はるか昔は工業団地として栄えたらしいが、バブルの崩壊後に一帯の工場が軒並み倒産。最後まで耐えていた老舗の部品工場も、火災で多数の死人を出したことにより広大な廃墟と化した。

現在は大きな国道にずらりと工場跡地が並び、その間に時たま人が住んでいるのかいないのかよく分からないあばら家が建っていたりする。

前フリが長くなってしまったが、上記の理由から用水路の中に落ち込んでいた死体は発見が遅れたのだろう。私はひと目見るどころか、パトカーから降りた瞬間に死後数日は過ぎているのであろうとわかった。

それは、周辺に強い腐乱臭が漂っていたからだ。

ああ、これは多分服に染み付くな……と溜息をつきながら、私は不織布のマスクを装着した。

「迎崎先生、お疲れ様です」

先に現場に到着していた都警部は、現場の悪臭など感じていないかのようにその美しい顔に笑みを浮かべた。後ろで彼の部下である田子谷たごや巡査部長が口元を抑えて青い顔をしているから、都警部が明らかに異常なのである。

「臭いが酷いから、マスクをつけた方がいいですよ。これは私でもきついです」

「なるほど。田子谷、つけておいで」

警部の言葉に田子谷くんは頷き、パトカーへと駆けていった。

「……警部は大丈夫なんですか」

「慣れていますので」

癖のある黒髪を耳に掛けながら、平然と彼は言った。私は以前からこの男が苦手だ。物腰は柔らかいが、どこか人間味が薄く残酷な面がちらつく時がある。茎に鋭い棘がびっしりと生えた薔薇のような人だと思う。

「こちらです。……ああ、恐らくその長靴では長さが足りません。警察が用意したものをお使いください」

都警部は車の荷台から漁師が使うような分厚い丈の長い長靴を取り出した。フード付きで中に水が入らないようになっている。私が持っているものも作業用で丈夫だが、彼が手にしているのは長靴と言うよりロングブーツのような丈の長さだった。

「死体が詰まっていますから、水かさが増しているんです」

警部は自身も長靴を履きながら、私にも一足手渡した。背が低い彼が履いているのは、女性用なのか薄いベージュカラーで細身のヒール底付きだった。

田子谷くんがマスクをつけて戻ってきた。顔が青い。

「水死体、初めて?」

私が用水路に入りながら尋ねると、若い彼は黙ったまま何度も頷いた。吐き気を必死で堪えているのだろう。

「……用水路の中で吐くと困るから彼は外で待たせた方がいいね」

「そうですね」

都警部も同意して、田子谷巡査部長に外で警備をするように言いつけた。

「許してやってください、まだ入って一か月の新米ですから」

そう言いながら彼の後ろ姿を見る都警部は、やはり薄情というか、白けた目をしていた。



「よお、先生」

バリケードテープを越えて現場に入ると、里木さとき鑑識官が軽い調子で片手を上げた。彼もマスクをつけていなかった。

「こりゃあ死後数日は経ってるぜ。まあ、真夏だったらもっと悲惨だっただろうから気温が低いのが不幸中の幸いだな。ちなみに周辺から特に目立つ足跡や凶器らしきものは見つからずだ」

見ると、用水路の水を塞き止めるような形で、ぶよぶよの水死体が水路に挟まっていた。

肌は緑っぽい灰色に変色し、ゼラチンのように表面が溶け出して水流とともにふるふると揺れている。水の流れが早くて、強く踏ん張らないと立っていられない。

「……水は止められないんですか?」

「はい?」

「この水が流れるの、止められませんか!」

少し離れたところに立っている都警部に、水流の音に負けないように声を張って叫ぶ。警部はざぶざぶと水を掻き分け、私の傍まで歩いてきた。

「勿論役場に問い合わせたのですが、水路の管理者がどうやら自治体ではないようでして。古い記録を今辿ってもらっています。残念ながら水路を壊して死体を取り出すのもその後ですね」

全く困りましたね、とでも言いたげな口調で都警部は肩を竦めてみせる。自分が解剖するわけではないからと、酷く他人事である。

私は長めのゴム手袋を填めた手で死体の頭にそっと触れた。皮膚がふやけ、頭蓋骨が露出している。

「……遺体は仰向け、腐敗が激しく性別の特定は困難。年齢は……歯と骨を見る限りは成人済み……詳しい歯科所見は後ですが、ざっと見ても奥歯の二十六、二十七に金インレー。三十六アマルガム、三十七はクラウン。あまり若くはないかも。浸軟はかなり進行して、手の皮膚がほとんど残っていない……死斑は背中側に固定、推定死後三日。鼻、口元に泡沫無し。後頭部頭蓋骨の損傷、おそらく打撲痕」

死体を調べながら、ボイスレコーダーに録音する。後ろでは里木鑑識官がメモを取っている。都警部は羽織っているマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだまま死体を眺めていた。

「泡沫無しで、打撲痕……他殺だと思いますか?」

「……ざっと見た限りではそう思います。後頭部の打撲痕は骨にまで傷が入っている。頸椎には負傷がないので飛び降りで死んだとも考えづらく……平たいからシャベルかな……とにかくリーチが長くて硬いもので大きく振りかぶって殴打した可能性が高い」

「なるほど…………あの、大丈夫ですか? 先程からお顔が青いような」

警部が怪訝そうに片眉を上げた。さすがにマスク越しでも分かるらしい。刑事の観察眼はすごいな、と私は内心苦笑した。

「胃炎になってしまって、少し体調が悪いんです。勿論業務には支障ないようにいたしますので」

「……そうですか」

都警部がそれ以上何も言わなかったので、私は死体の歯科所見へと移った。



一通りの検視を終え、都警部の運転する車に乗って梔子署まで戻った。

酔っ払った人間を運ぶタクシーのような慎重な運転に首を傾げていると、車は警察署に戻る途中の道で曲がり、小洒落たカフェの前で停まった。

「暫くお待ちを」

警部は私を残してカフェに入ったと思うと、数分でカップを二つ持って出てきた。片方差し出されたので断ろうとしたが、半ば強引に手に持たされた。

「胃炎なのでコーヒーは……」

「ホットカモミールティーです。ノンカフェインですし、カモミールに含まれるアピゲニン、ビサボロールには抗炎症作用があります」

「……それなら……どうも」

都警部はにこりと笑うと、自分の分のコーヒーを運転席のドリンクホルダーに置いて車を再び発進させた。

湯気の立つカモミールティーを少しだけ口に含む。カモミールの柔らかく甘い香りと共に、ハーブティーらしい穏やかな苦味が口内に広がる。

都警部の考えていることが分からない。普段誰にでも薄情な人物に、ここまで気遣われるほどの理由が見い出せなかった。

私の疑念を察したのか、フロントミラー越しに警部は目を細めた。

「ふふ、私は迎崎先生のファンですから、これでも心配しているんですよ。あなたの書いた『小児の虐待死に関する外表所見の統計化』────あれは実に素晴らしい」

自分の書いた数年前の論文の名が出てきて、私は思わず目を丸くした。

「……読んでくださったんですか?驚きました……その、都警部だからというわけではなく、まさか同業者以外の人間が読んでくださるとは思っていなかったので」

「あれは全警察官が読むべきです。今後子どもの虐待死を減らす糸口にもなり得るでしょう。本当に有益な研究ですよ」

書いた論文が賞をもらったことはあるが、同業者以外からこんな風に強く褒められることは珍しかった。

私はまたハーブティーを一口飲んだ。都警部の選んだカモミールティーは、コーヒーで疲弊していた胃に優しく沁みた。

私は少し悩んで、彼に質問をしてみた。

「……お聞きしたいのですが、うちの助教の青山のことを都警部はどう思ってますか」

「青山……?」

都警部は記憶を辿るように眉根を寄せていたが、やがて思い出したのか、ああ……と渋面に変わった。

「あの女のうるさ……よく喋る方ですか? まあ……迎崎先生の身内を悪く言う気はありませんので……」

悪く言う気はない、という物言いこそが間接的な悪口である。都警部から尚美への好意はなさそうで安堵すると共に、勝手に浮気相手だと思い込んで今更申し訳なく感じた。




翌日は尚美の着るウェディングドレスの下見だった。彼女の家まで車で迎えに行き、ふたりで簡単な昼食を取ってから尚美の指定したドレスショップへと向かった。

しかし、ドレスショップのショーウィンドウの前に佇む見慣れた人影に私は動揺した。見間違いかと思ったが、どう見てもそのすらりとした立ち姿は兄のものだった。

「兄さん?」

「ああ、ノリくん。遅かったね」

禊はいつもの絵の具まみれのTシャツジーパン姿ではなく、ドレスシャツの上に厚地で光沢のあるジャケットと、揃いのズボンを着ていた。足が長いから、画家と言うより海外のファッションモデルのようだ。

「なぜここにいるんだ」

「私が頼んだの!」

尚美はにっこりと微笑み、禊の腕に手を回した。

「せっかくセンス良い人が身内にいるんだから、ドレス選びを手伝ってもらおうと思って」

「僕にそんな重要な仕事を手伝わせてくれるなんて、実に光栄だよ尚美さん」

禊はミュージカル俳優のような大仰な動きで胸に手を当てて見せた。

「ちょっと、兄さん」

私は兄を尚美から引き剥がし、小声で耳打ちした。

「こんなことしてどういうつもりなんです」

「どういうつもりも何も、尚美さんに電話で頼まれたんだよ? 僕はそれを了承しただけさ」

────だからそれがおかしいんじゃないか!

あんなに嫌っていた尚美の我儘を禊が簡単に聞くわけがない。何か裏があるに決まっている。

「まあ、悪いようにはしないよ」

ふ、と禊の唇が弧を描く。昨日触れた兄の唇の柔らかさを思い出し、私はつい赤面して俯いた。

「……くれぐれも大人しくしていてくださいね」

戸惑いを隠すように眼鏡のフレームを指で押し上げる。兄はそれには答えず、悪戯っぽく笑みを深めた。

ドレス選びには時間がかかると言われてはいたが、新郎側からすると恐るべき待ち時間だった。一着着るのに十分以上待ち、そこから写真を撮ったりあれこれ考えたりすれば更に十五分はかかる。それを何回も繰り返しやるのである。

しかも、プリンセスラインだのАラインだのと言われても私にはさっぱりわからない。私はファッション自体に疎いし、どのドレスも白いから違いなんて判別できない。

私から尚美へは、胸の開いた露出の多いものにやんわりと苦言を呈することしかできなかった。

片や禊は服飾にも詳しいのか、私には聞き馴染みのない専門用語を尚美と交わしながらてきぱきとドレス選びを進めていった。

「真剣に考えてくださって、素敵な旦那様ですね」

店員の若い女性が尚美にそう言った。禊を尚美の結婚相手と勘違いしたのだろう。さすがに尚美も気まずそうな様子で言葉を詰まらせた。

「……彼は義兄です」

尚美の淡々とした口調に、私は胸の奥が冷えていくのを感じた。



ドレスショップから出ると、空は夕陽で橙色になりはじめていた。

風が冷たくて一気に体が冷える。私が肩を縮めて腕をさすっていると、兄さんは羽織っていたジャケットを無言で私の肩に掛けた。

断ろうとしたが、唇に指を当てて微笑まれ、何も言えなくなってしまった。

厚手の黒いジャケットは、兄の体温が残っていて暖かい。襟口からは僅かにベルガモットの香りがした。

尚美は禊が自分の車に戻ろうと背を向けると、甘えるように彼の手を取って引き止めた。

「私、お義兄さんのアトリエを見てみたいな」

禊は弟である私と祓しかアトリエに入れない。パトロンでも私の知る中では大槻さんしか足を踏み入れることは許していないし、雇っていたハウスキーパーがアトリエを勝手に掃除したことを知ってすぐに解雇したくらい、彼にとってアトリエは大切なものだ。

私は禊が今にも怒り出すかと思ってはらはらしていたが、意外にも彼はにっこりと尚美に微笑みかけた。

「いいけど、別に面白くないと思うよ?」

「でも興味があるの。前から祈に頼んでたんだけど、一度も頷いてくれなかったから」

当然だ。禊は尚美のことを蛇蝎のごとく嫌っていたので、提案するだけでも尚美が酷い目に遭うと思って断っていたのだ。

禊は意味深に目を細めて、私の顔をちらりと見た。

「じゃあ、祈がいいよって言うなら連れていく」

「本当に?ねえ祈、お義兄さんもこう言っているしいいでしょう?」

尚美は目を輝かせ、私の服の裾を引いた。

────兄さんが何考えてるか分からないから行きたくないな……。

私はありとあらゆる面倒事を想像して顔を顰めたが、嬉しそうな尚美を見て断りづらくなってしまった。

まさか兄さんも、本当に尚美を刺し殺したりはしないと信じたい。アトリエに入れるのも、もしかしたら今日長く一緒にいたことで尚美のことを気に入ったのかもしれない。それはそれで、私としては複雑な気持ちだが……。

「……兄さんがいいなら……少しだけね」

「やった!ありがとう、祈」

尚美は私の首に抱きつき、冗談めかしてキスをした。

禊は傍でそれを見てほんの少し眉尻を引き攣らせ、咳払いをした。



尚美は兄の大きな邸宅を一目見て猫のような大きな瞳を輝かせ、次に広い庭に大袈裟に感動していた。

「こんな大きなお家にひとりで住んでいるの?」

「まあね。お金だけは有り余ってるから」

ポケットに手を突っ込んだまま、特に感慨も無さげに禊はそう言った。

禊の絵にはファンが多い。絵自体はかなりの高値で売買されるため誰もが所持できるわけではないが、彼は意外に拘りなくグッズ化やブランドコラボなどにも頷くので、若い世代にまで幅広く名が知られている。

私の研究室にいる学生や職員にも禊のファンがいるし、なんなら弟である私を介して禊に近付くのが目当てじゃないかと思われる人間すらいる。

────深山もそうだ。彼も禊の画集やグッズを肌身離さず持ち歩いている。

尚美の浮気相手の顔を思い出してしまい、振り払うように必死で首を振る。

「私は……体調が悪いので部屋で待っています。アトリエにはふたりで行ってください」

「……祈、それなら寝室で休んで。場所はわかる?」

心配そうに背に触れてくる禊の手は暖かい。私はハンカチで口元を抑えつつ、頷いた。

「冷蔵庫の中にあるものは何でも口にしていい。ミネラルウォーターとかもあるから薬を持ってるならきちんと飲んで……」

「ねえ禊さん、行きましょう」

尚美は婚約者の私には目もくれず禊を急かした。禊は何度も私の方を振り返りつつも、アトリエへと向かった。

兄の言葉に甘え、冷蔵庫にあった未開封のミネラルウォーターを一本もらってから寝室へと向かった。

禊の寝室は一階の奥にある。

場所は以前教えられていたが、実は禊の寝室に入るのは初めてだった。兄弟と言えどお互い独り立ちした後だし、泊まるほどの長居はしたことがない。

家自体は風通しがよくミニマリスト然とした殺風景な造りだが、この部屋だけはなぜか厚いゴブラン織のカーテンが引かれ、部屋の中にあるインテリアは全て重厚な木製の家具で揃えてあった。

まるで古いフランスの映画のセットをそのまま持ってきたかのような部屋に驚きつつも、そっと室内に足を踏み入れる。

部屋の内装は禊の好みではなく、まるで私の趣味に合わせて設えたかのようだった。まさか、私のために一室用意したとまではさすがに思わないが……。

電気は付けず、アンティーク調の花柄のシーツに横たわった。羽毛の布団は新品の匂いがした。それに、上等なものなのか柔らかくて心地がよかった。

すぐに睡魔が襲ってきて、私は布団も被らずにそのまま意識を失った。



目を覚まし、寝返りを打ちながら小さく唸る。

寝起きのせいで頭が上手く働かない。眠っている間に外れたのかと思い手探りで眼鏡を探すも、シーツの上には見当たらなかった。

そういえばベッドに倒れ込んでそのまま眠っていたはずなのに、いつの間にか私は眼鏡を取り、ベストも脱いで布団の中できちんとシーツを被っていた。

ワイシャツのボタンもわざわざ上から2番目まで外してある。おそらく様子を見に来た兄が世話を焼いてくれたのだろう。

眼鏡はベッドサイドに置かれたナイトテーブルの上にあった。傍にミネラルウォーターも置きっぱなしになっている。

兄がわざとつけておいたのだろうか、テーブルの上にあるアンティークのガラスランプが橙色の柔らかな光を放っていた。

眼鏡をかけてベストを羽織ると、表面が結露してしまったミネラルウォーターの蓋を開ける。 少し温いそれを一口飲んで、息をついた。

「…………何時間寝ていたんだ」

部屋の中には時刻を知らせるものが一切無かった。そういえばリビングにも他の部屋にも時計は無かった気がする。

もしかすると、私が幼い頃から時計の針の音が嫌いだったからかもしれない。兄は私に関することならつまらないことまでよく覚えている人だった。

尚美はどうしたのだろうか。もう帰ったのか、それとも兄とよろしくやっている真っ最中か。

尚美が禊を誘惑するだろうという憶測は、最早確信に近かった。兄がそれに応じるかどうかは分からないが、今日の禊の機嫌の良さを見ていたらどう転ぶか予想できない。

寝室を出ると、廊下は真っ暗だった。大きな天窓の外には星空が広がっていて、秋の四辺形がくっきりと確認できた。かなり長い時間眠っていたらしい。

同じく電気の付いていないリビングを通り過ぎ、二階の離れにあるアトリエへと向かう。

離れに繋がる廊下は壁が全てガラス張りで、そこに私たち兄弟三人の写真ばかりが額に入れられ飾られている。アトリエに近づくにつれて成長していく私たちを眺めながら歩く間、いつでも私の脳内を占めるのは兄への劣等感と、嫉妬と、羨望だった。

アトリエからは微かに女の喘ぐ声が聞こえてきた。おそらく尚美だ。

私は当然の失望と同時に、ほんの少し愉快な気持ちすら覚えていた。あの迎崎禊が弟の婚約者を寝取るなんて、低俗で酷く馬鹿らしいじゃないか。

神だの天才だのと世間に崇め奉られようが、結局あの男も性欲には抗えないということか。

私は尚美との婚約解消、兄とは絶縁を告げるつもりで勢いよくドアを開け放った。

────そして、呆然とその場に立ち尽くした。

確かにそこには禊と尚美がいた。

だが、アトリエで繰り広げられているのは想定外の恐ろしい事態だった。

私の目にまず飛び込んできたのは、アトリエの中央にある巨大な額縁だった。蝶や蜻蛉が繊細に彫られたアール・ヌーヴォー調の豪奢な額縁が、天井にあるスクリーン用のフックから、ワイヤーで吊り下げられている。

地面から一メートルほどの高さで浮いているそれに尚美は磔にされていた。

尚美の顔は青白かった。眉根を寄せ、血が滲むほどに唇を噛み、涙がアイシャドウを黒く溶かしている。まさに苦悶の表情である。

手は額縁の左右に、足は下で一纏めに有刺鉄線で括り付けられて、血が床に敷かれたブルーシートへと垂れていた。

私が喘ぎ声と錯覚したのは、彼女が食いしばった歯の隙間から漏らす苦痛の呻き声だった。

なにより異様だったのは、尚美の肩から下に生えている大輪の花。

季節にそぐわない白い紫陽花が、まるでウエディングドレスのようにその身体を飾っている。

「…………美しい」

ぽつりと呟いた言葉が自分の口から発せられたものだと、すぐには気付けなかった。

私は驚いて、自身の口元を押さえた。

「違う、私は何を…………兄さん、これは何ですか? 今すぐ尚美を降ろしてください」

兄さんはいつの間にかいつもの白いTシャツとジーンズ姿で、低い脚立の上に座っていた。絵の具の代わりに赤黒い血がシャツに飛んでいる。

彼は私の言葉を待っていたかのようによいしょ、と床に降りた。

「降ろして、それでどうするの?」

「どう、って……病院に連れて行くんです」

「花を抜くと血が噴き出して死ぬよ」

禊はそう言うと、幼い子どものようにこてん、と首を傾げてみせる。

「嬉しくなかった?」

「なぜ私がこんなことをして喜ぶと思ったんですか」

「だって浮気されてもこの女が好きなんだろ。作品に仕立てたらもっと喜んでくれるかと」

そんなわけない、とすぐに断言出来ればよかった。しかし、唇を噛みしめて苦しんでいる尚美は淫蕩で饒舌な普段の彼女とは比べ物にならないくらい清廉で、まるで殉教者のような神々しさを放っていた。

何よりも、花のドレスがよく映えていて美しい。体の曲線に沿い、絶妙な間隔で生けられている。

「……なぜ彼女は何も言わないんです」

「花の茎一本一本が体の深くまで刺さっていて、声を出すとすごく痛くて苦しいんだよ。だから呻くことしか出来ないのさ」

ふふ、と笑いながら禊の腕が私の首の後ろに回されて、そのまま抱きしめられた。

興奮で体が熱い。さっきから心臓が痛いほど激しく脈打っている。兄の長い人差し指が私の下半身の昂りをつうっと下から上になぞる。

思わずごくり、と唾を飲んだ。触れられるまで自分が勃起していることにも気付かなかった。

「彼女をもっと苦しめたいと思わない?」

「……どう、やって」

「そうだな、例えば……目の前で浮気し返すっていうのは?」

耳元でそっと囁かれ、血が沸騰するような高揚感に襲われた。

正直な話、私が目の前で何をしても尚美が苦しむとは思えなかった。尚美は同じ研究室の若い男と平気で浮気をしていたのだ。そんな彼女が、私の浮気する姿を見て苦痛を感じるとは思えない。

しかし、私はどんな理由でもいいから今目の前の兄の体が欲しかった。

この瞬間、私は尚美ではなく禊に強く欲情していた。

劣等感や嫉妬がどう歪めば劣情に変わるのかわからない。禊が私のために人を傷つけたという背徳感のせいか、あるいは自分より遥かに優秀な雄を支配できる機会そのものに興奮しているのか。

性欲に抗えないのはどっちだよ、と内心乾いた笑いが漏れる。

私は自分より少し高い位置にある禊の頬を掌で包んだ。

暗褐色の瞳は何を考えているのか全く読み取れない。しかし、そこに映る自分は獲物に牙を立てる瞬間の獣のような飢えた顔つきをしていた。

僅かに背伸びをして、唇を重ねる。昨日は一瞬だけ触れた、薄くて柔らかい唇。角度を変えて啄むように下唇を食むと、禊は感じ入ったような吐息を零した。

「祈……」

熱っぽい声で名を呼ばれ、思わず息を飲む。

────禊も興奮しているのか? こんな私なんかに……。

禊はブルーシートの床に両膝を着いた。私の履くテーパードパンツのベルトに手を掛けてバックルを外し、ジッパーを下ろす。下着から勃起した私のペニスを取り出し、ごくりと唾を飲んだ。

「……だめ?」

男根を前にして、おあずけを食らう犬のように息を荒らげる兄の様子は愉快だった。私は彼の後ろ頭を掴むと、先走りを垂らす先端を禊の唇に押し付けた。

「いいよ、咥えて」

禊は薄く唇を開き、ゆっくりと私のものを口腔内へと迎え入れた。ぬるりとした熱い粘膜で敏感な亀頭を包まれる感覚に、小さく息を詰める。

禊の口淫自体は酷く拙かった。しかし、普段何でもそつ無くこなす兄が児戯のような愛撫をする姿は逆に興奮を誘った。

「上手だね」

子どもを褒めるような口振りでそう言って髪を撫でると、禊は嬉しそうに目を細めた。

「い、のり、」

か細い声が上から聞こえた。顔を横に向けると、尚美が涙を流しながら私を見つめていた。唇が戦慄き、その表情は絶望に引き攣っていた。

喋ると激痛がするはずなのに、それでも私の名前を呼んだ彼女の胸中は分からない。力を振り絞って助けを求めたのかもしれないし、本当は私を愛していて、目の前で禊と不埒な行為をされるのが苦痛だったのかもしれない。

でも私にとってそんなことはどうでもよかった。既に尚美は禊の「作品」だった。彼女が口を開くと作品から漂う静謐さが損なわれる気がして、私は不愉快さに眉根を寄せるとため息をついた。ズボンを上げ、ベルトのバックルも締め直した。

「……寝室に行きましょう」

「……え? でも、祈……」

「いいから、行こう」

荒っぽい口調でそう言って、きつく禊の手首を掴んだ。禊はされるがままに私に引っ張られた。

ふたりでアトリエを出ていく時、尚美はその痛みにも関わらず激しく慟哭した。



寝室に着くと、私は兄の髪を縛っていたヘアゴムを解き、次に彼に着ていた服を全て脱ぐように指示した。

自分が着ていた上着すら脱がなかったのは、羞恥を味合わせ、どちらが主導権を握っているのか兄に理解させるためだった。 

私は挿入はせず、兄の全身を時間をかけて愛撫した。そして、言葉で責め立てて羞恥を煽りながら何度も射精させた。

禊に泣きながら懇願されたので、まるで渋々言うことを聞いてやる風を装って兄の後孔に勃起した男性器を挿入した。兄は自分と交わるためにわざわざ準備をしていたらしく、硬く腫れたそれもすんなりと受け入れた。

終始平静を装いつつ、内心は凄まじい劣情と征服欲が綯い交ぜになって私の感情はぐちゃぐちゃだった。

私の男根で中を突かれる度に聞いたこともないような甘い声で啼き、快楽に打ち震える兄の姿で愚にもつかないちっぽけなプライドが満たされるのを感じた。男としての自分を肯定されている気分になった。

なによりも、生まれてこの方どう頑張ってもどの項目でも勝つことの出来なかった禊が、私の下で好き勝手に犯されて喘いでいるのがたまらなく気持ちよかった。

禊の口の中に一回、胎の中に二回吐精して、その後はふたりで気絶するように眠った。

明け方、スマートフォンの着信音で目を覚ました。今度こそ私は眼鏡をかけたまま眠っていた。フレームを指で押し上げて位置を直しつつ、通話ボタンをタップして耳に当てた。

「……はい、迎崎……」

『梔子署の都です。……迎崎先生、急で申し訳ありませんが今から署まで来ていただけますか』

「検視ですか?」

電話越しに都警部は一瞬黙り、違いますと言った。

『昨日の事件について、あなたに事情を聞きたくて』

「……聴取ということですか?……とにかくすぐに向かいます」

『お待ちしております』

私は電話を切ると、ベッドから立ち上がった。服を着たまま眠ったせいで、シャツもズボンも皺になってよれていた。

「……兄さん」

シーツを被って眠る兄の肩を揺すった。禊はうーん、と眠たげに呻くと、重い瞼を上げた。筋張った鎖骨と首筋に昨夜の情交の痕がいくつも散っていた。

「おはよう……祈……」

「今からちょっと出なきゃいけなくなったんだけど。……何か適当な服貸してくれない?」

禊は緩慢に頷くと、リビングの方向を指差し、掠れた声で言った。

「クロゼットから……好きなの取っていって……」

しかし、禊のクロゼットの中は絵の具まみれのボロボロのTシャツか、触るのを躊躇うほど高価なハイブランドの服の二択しかなかった。

悩んだ末に、一番地味そうなグレーのハイネックニットを選んだ。これも値段はやけに高そうではあったが────。

下は兄の服では丈が長すぎるので、諦めてしわくちゃのテーパードパンツのまま行くことにした。



梔子署に到着すると、都警部に案内されたのは取調室だった。

「申し訳ありません、こんな部屋に通して」

警部はそう言いながら私にパイプ椅子に座るように促し、自身もテーブルを挟んで向かい側へと腰を下ろした。

「聴取ではなく何点かご確認したいだけですので、あまり緊張なさらないでくださいね」

そうは言っても明らかに取調べのスタイルである。そんな訳はないのに、昨日の尚美の件がもうバレたのかと私は内心ハラハラしていた。

「先日の水死体なのですが……身元がわかったんです」

「そうですか……それで、なぜ私に?」

「死亡したのは青山あおやま武史たけしさん……あなたの研究所の助教で婚約者でもある青山尚美さんのお父上です」

私は驚き、言葉を失った。検視したのが義父の死体だったなんて、想像すらしなかった。

「……そんな……お義父さんが……」

「私も驚きました。そして……困ったことに、昨日の晩から青山尚美さんに何度もご連絡しているのですが、繋がらないのです。ご自宅に伺っても応答がなく……」

心臓がドクンと脈打った。尚美に電話が繋がるはずがない。だって彼女は今兄のアトリエで、額縁に磔にされて────。

「我々は彼女を重要参考人として捜索するつもりです。調べたところ青山武史さんにはギャンブルで作った多額の借金があり、尚美さんにそれを黙っていたようなのです」

「そんな……。しかし、まさか尚美が義父を殺したなんてことはありませんよね?」

都警部は申し訳なさそうに長い睫毛を伏せた。

「心苦しいですがその可能性は除外できません」

私の顔はきっと目に見えて青かっただろう。義父の死の真相は分からないが、兄が尚美を殺したも同然の状態にしてしまったのだから。警察が本腰を入れて尚美を探したら、兄にも行き着いてしまうのではないか。

「迎崎先生、つらいとは思いますがお気を強く持ってください。まだ尚美さんが犯人と確定した訳ではありません。彼女も危険に晒されていて、今は身を隠している状態なのかもしれませんから」

都警部は慰めるように私の肩に手を置いた。

しかし、次の瞬間彼は目を細め、探るような声音でこう尋ねた。

「……ちなみに青山尚美さんがどこに居るか、心当たりはありませんか」

私は冷や汗をかきつつも、平静を装い眼鏡のテンプルに指で触れた。

「今は分かりませんが、昨日は昼から彼女と一緒にいました。ウエディングドレスの下見に……ええと、女石めせき町にあるドレスショップです」

「なるほど。どこか変わった様子はありませんでしたか」

ここは騙しても仕方ないので、私は首を横に振った。

「特には。私の目にはいつも通りに見えました」

「そうですか……。ドレスショップの後は?」

兄の家に連れていったことは伏せた方がいいかと思い、私は咄嗟に嘘をつくことにした。

「彼女を車で家まで送って、私は用事があって家族の家に泊まりました。その後は連絡をとっていません」

「……御家族の、ですか。もしかしてお洋服も御家族のもの?」

都警部は言いながら私の着ていたセーターを指差した。

「……なぜそう思ったんです」

「下はしわくちゃになった安物のパンツなのに、上はよく手入れされたハイブランドのセーターだから。ああ、だからと言ってどうということはありません。ただ、今日の服装はお会いした時から少し気になっていて」

緊張で汗ばんだ手を握り込む私に、彼はにっこり、と音がしそうなほどお手本のような笑みを浮かべてみせた。

「……急なお泊まりだったんですね」



都警部の勘の鋭さには肝が冷えたが、彼は今のところ私が犯人であると確信したわけではないようだった。

実際、私は直接の犯人ではない。彼女を見棄てたという点では立派な共犯者なのかもしれないが。

私は取調べから解放されるとすぐに自分の自宅マンションに戻ってシャワーを浴びた。そして急いでスーツに着替え、定時前に間に合うように大学に出勤した。

エレベーターは点検が終わったらしく使えるようになっていた。五階のボタンを押して扉が閉まるのを待っていると、助手である深山が扉の隙間に手を入れ、こじ開けるようにして乗り込んできた。

「すんません、駆け込み乗車で」

深山は謝罪しつつ、へらへらと軽薄な笑みを浮かべた。私はおはよう、と挨拶だけしてあとは黙っていた。

深山が憎くないかと言われれば、正直今は全く何の恨みもない。彼と尚美が浮気をしなければ私が禊を抱くことはなかった。

だから、彼には感謝すらしていた。

五階に着くと、深山は足早に自分だけ先に降りた。私はのんびりとした足取りでその後をついて行った。鍵は私が持っているので深山が先に行ったところで研究室の扉は開かないのだが、彼は何を慌てているのだろう。

案の定、深山は閉まっているドアのノブをガチャガチャと無意味に回していた。その顔には苛立ちの色が浮かんでいた。後ろからやってくる私を見て、彼は掌を上にして鍵を出すように催促してきた。

「何か忘れ物でもしたのかい?」

「そうです!だから早く鍵をください」

深山は額に汗をかいていた。怪訝に思いつつもポケットから鍵を出して手渡すと、彼はそれを引ったくって解錠し、ドアを開けた。

研究室のデスクの上にあったB5サイズ程度の紙切れを見つけて、深山は慌ててその紙を手に取った。

「あった!……よかった……」

「それはなんだい?」

後ろから覗き込むと、深山はぱっと紙を胸に抱いて私から隠した。だが、一瞬だけ何が描いてあるか見えてしまった。

「……先生には関係ありません。俺の私物です」

彼は私を睨むと、ロッカールームに逃げていった。

しかし私はその場から動けず、何も言葉を発することができなかった。

深山が手にしていた紙はおそらくスケッチブックか何かを一枚千切ったものだった。そしてそこには木炭で、月下美人が繊細にスケッチされていた。

弟の私が見まごうはずもない。明らかに兄の筆致だった。

────なぜ深山が兄さんの絵を持っているんだ。それも直筆のスケッチを……。

私は唇を噛んだ。深山が兄の熱心なファンであることは知っていたが、禊が一介のファン相手に応えるとは思えなかった。

兄は弟の私と祓以外に、無償で何かを施すことはない。────逆に言えば、相応の対価さえあればスケッチくらい平気で渡すだろう。あれだけでもマニアになら何十万の高値がつく価値がある。

深山と禊に何の繋がりがあるのか……正直想像もつかないが、彼らを繋ぐ存在があるとすれば他ならぬ私しかいない。

深山が兄に望むことならいくらでもあるだろう。しかし、兄が深山に何かを施すことで得るメリットがあるとは思えなかった。

兄の頭の中は自分の描く作品か、あるいは弟である私で出来ている。これは慢心ではない。兄本人がそう言っていたのだから。

「僕には祈だけなんだ」

昨夜の行為の最中、うわ言のように禊はそう繰り返していた。

「お前だけを愛してる。僕にとって大切な人は祈だけだ」

そう、禊が欲しがるのは私だけで────。

ふと、恐ろしい可能性が脳裏に過った。

私は込み上げてくる吐き気に口元を抑え、その場にしゃがみこんだ。

禊が欲しがった対価が「私」だったら? 深山に尚美と浮気するように仕向けて、私たちを破局させようと……。

まさか義父の死も禊が……? いや、さすがにそれは考えすぎだ。そんなことを兄がするはずがない。

しかしもし仮にそうだとしたら、私はずっと兄の掌の上で踊らされていたことになる。

抱いた絶望も、嫉妬も、劣情も、優越感も、充足感も、すべてが兄の計算通りだったなら。



私は兄の思惑を探るためにも、深山の動向を追うことにした。夜、彼が大学から出た後にこっそりと尾行を試みた。

深山は電車通勤だったはずだ。だが彼は駅の方向には行かず、少し外れた金它かなへび通りという歓楽街へ向かった。

赤提灯が建ち並ぶ飲み屋街の角を曲がると、今度はけばけばしいネオンが輝くホテルばかりの通りに入る。私は少しの気まずさを感じつつ、深山の跡を尾けた。

深山はその中のひとつに迷いなく入っていった。それはラブホテルの立ち並ぶ中に場違いに一軒だけある簡素なビジネスホテルだった。追うか迷ったが、まさか部屋までついて行く訳にも行かないので私は向かいの通りに留まった。

深山が入った後、二組ほどの若いカップルが腕を組んで右隣のラブホテルに入っていったがそれだけだった。二十分が経過し、体も冷えてきたので私は帰ろうか悩み始めていた。

「祈?」

背後から肩を掴まれて振り返ると、厚手のコート姿に大きなトートバッグを提げた禊が立っていた。

兄は驚いた様子だった。

「こんなところで何をしているんだ?」

「こっちの台詞です。……兄さんは深山と待ち合わせでもしていたんですか?」

兄は私の口から深山の名を聞いて、凍りついたように黙り込んだ。

────ああ、あの男は対価に兄の体を望んだのか。

湯が一瞬で沸騰するように、急激に強い怒りを覚えた。私は兄の手首を掴み、嫌がる彼をラブホテルの方へと引っ張って行った。

「待ってノリくん、違うよ」

「何が違うんですか?」

「彼とは何もそういうことは……」

「……何も?こんな如何わしい通りで待ち合わせておいて?」

私が強い口調で聞き返すと、兄は萎縮したように黙り込んだ。私はパネルで適当な空き部屋を選び、彼を連れてエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターは饐えた体臭と煙草の煙が混じったような嫌な臭いが充満していた。兄が何か言う前にエレベーターの壁に押し付けて唇を塞いだ。

「ん、待っ……いのり、ここでは……」

嫌がる彼の服の下に手を入れる。肌に直に触れると、禊はびくりと身体を跳ねさせた。

「か、カメラがあるから、本当に待って、」

兄はエレベーターの防犯カメラを指差した。私は誰かに見られる可能性よりも、兄に拒まれたことに激しい怒りを感じていた。

「誰かに見られたら困るんですか?」

「困るでしょ、お前は……!」

「別に困りません」

私の言葉に禊は驚いたように口を噤んだ。ちょうどエレベーターが止まり、扉が開いたので再び腕を掴んで廊下へと出た。

指定の部屋に禊を無理矢理押し込むと、自分も中に入ってから鍵をかけた。部屋にはキングサイズのベッドと、革張りのソファが置かれていた。

「……祈、一旦説明をさせて、」

「そうやってまた私を掌の上で転がそうとしているんでしょうけど、もう耳を貸すつもりはありません」

苛立ちのままに禊の背中をベッドに突き飛ばした。彼はよろめいて、うつ伏せにシーツの上へと倒れ込んだ。

────気が狂いそうな程に、禊が憎い。

私は自身のズボンのジッパーを下ろすと、禊の履いていたスキニーも脱がせ、無理矢理挿入した。昨夜の行為の名残でまだそこは柔らかかった。

「あ、あっ……祈っ……」

兄はベッドのシーツをきつく掴み、身体を震わせた。

「あなたには私だけだと言っていたじゃないですか!どうしてそんな嘘をついたんです」

「う、そじゃ……っ、な……っ」

最奥まで怒張を押し込むと兄は膝をガクガクと震わせ脱力した。ベッドのまっさらなシーツの上に白濁が散った。

私は禊の頭を掴んで枕に押し付けた。禊は息苦しさのせいで、溺れるようにシーツを引っ掻いた。

「兄さん、あなたは私の欲しいものを全て持ってるんだから、せめてあなた自身は私だけのものでいてくださいよ」

律動の度に安いベッドがギシギシと耳障りな音を立てる。兄は耳まで真っ赤にして、藻掻きながらくぐもった喘ぎ声を上げた。

不意に携帯の着信音が鳴り響いた。腕に引っかかったままの兄のコートのポケットから、スマートフォンを取り出す。着信は深山からだった。

私は通話ボタンを押してスピーカーにすると、兄の頭の近くに置いた。

「ほら、深山からです。出てください」

「えっ、嫌、……い、今はっ……」

兄は電話を切ろうとしたが、私はその両手を掴んで後ろで一纏めにした。

『……禊さん?』

電話口から訝しむような深山の声が聞こえてくる。禊は必死で私の拘束を解こうとしていたが、上手く体に力が入らないようだった。

「……み、やまくん……」

『すみません、遅かったので何かあったのかと』

「ちがう、けど……ッ……今日はちょっと……都合悪くて……っぇ、」

私は緩慢にピストンを続けた。兄は声を出さないように唇を噛み締め、息を殺した。

『禊さんがそう仰るなら僕は別の日で構いません。いつならご都合がいいですか?』

「そ……れは……、あッ……!」

私は禊の携帯電話を取り上げると、スピーカーをオフにして耳に当てた。

「もう切るね、深山くん」

『……迎崎先生?どうしてあなたが……』

まだ何か喋っている深山を無視し電話を切ると、私は床にスマートフォンを放り投げた。

「だ、めっ……祈……ッ……いのり……」

兄は私が電話を切ったことに気付くと声を抑えるのを止めた。私は体の火照りを鎮めようとネクタイを弛め、シャツのボタンをふたつ外した。そして、数度強く腰を打ち付けて禊の中に射精した。



「……絵を描く約束!?」

思わず素っ頓狂な声を出してしまった私に、禊はベッドに横たわったまま恨みがましい視線を寄越した。

「……目の前で絵を描くところが見たいと言われて……それで画材も持ってきたんだ」

掠れた声でそう言って兄は小さく咳き込んだ。

私は兄の持ってきていたトートバッグの中を見た。そこには筆箱とスケッチブックだけが入っていた。

「……なんでもっと早く言ってくれなかったんです?」

「だから僕は言ったろ!説明させて、って!」

兄は先刻の電話のことを思い出したのか顔を赤くした。私は自分の愚かさに頭を抱えた。

「だってこんな……ホテルばかりの通りで、」

「僕の家は嫌だって言ったんだ。そうしたら彼がお父さんの経営してるホテルがあるから、そこの部屋ならどうかって……」

────深山もホテルなんかを選ぶなよ、紛らわしい……。

私は呆れ果て、ベッドの縁に腰を下ろした。すると兄はまたなにかされると思ったのか、怖々と身じろぎをした。

「……その点については謝りますが、私の知りたいことは解決していません。そういえば『あれ』は今どうしているんですか?」

「……ああ、そのままだよ。かろうじて生きてるし……」

ということは、尚美はまだアトリエにいるのか。

私はスマートフォンを取り出し、深山に電話をかけた。

「……もしもし、深山くん?」

『迎崎先生、さっきのは何だったんですか?まさか今禊さんと一緒にいるんですか?』

「ええ。君、右隣のホテルわかりますか?そこの五一二番の部屋に来てください。フロントに鍵を開けるように言いますから」

私はそれだけ言って電話を切った。兄は慌てて上体を起こし、シーツを手元に手繰り寄せた。

「な、なんで深山くん呼ぶの?僕まだ服着てないんだけど」

「……今着ればいいんじゃないですか?」

「お前が中にいっぱい出したの掻き出さないと服が着れないんだけど!」

私が無言で肩を竦めると、兄は恨み言を言いながらもふらふらと覚束無い足取りで浴室へと逃げ込んだ。



程なくして、深山が部屋に訪ねてきた。彼は体液でぐちゃぐちゃになったベッドと床に散らばった服を見て絶句した。

「……禊さんは」

「今シャワー中です。私が中に出したものを掻き出さないと服も着れないとぼやいていました」

私が鼻で笑うと、深山は怒りなのか羞恥なのかその両方か、とにかく顔を赤らめた。

「……君は兄に絵を描いてもらうつもりだったらしいけど……本当はやましい気持ちがあったんじゃないですか?こんな如何わしい通りで、自分の親のホテルを選ぶなんて」

図星だったのか深山は一瞬気まずそうに視線を泳がせた。彼はやがてため息をついて、乱暴にソファに腰を下ろした。

「……俺はアンタとは違う。禊さんに無理矢理酷いことをするなんて……絶対にありえない」

「……尚美が今どこで何をしてるか知ってますか?」

「あの女?そんなこと興味無いし、どうでもいい」

私は頬杖をついたまま禊のシャワーの音を聞いていた。

やっぱり、兄にその気がなくても深山は兄に惚れている。そうでなければ頼まれたからと言ってどうでもいい尚美と寝るなんてことするわけがない。

「四人で話し合いましょう。今後について」

「四人って?」

「私と、兄と、君と、尚美で」

シャワーの音が止まり、暫くしてバスローブを着た禊がおずおずと戻ってきた。

「深山くん、……さっきはごめん」

「……禊さんは全く悪くありません」

深山は横目でジロリと私を睨んだ。私は深山にわざとらしく微笑んでみせた。

ホテルを出て、兄の車で彼の邸宅に着くまでの間誰も一言も話さなかった。私は助手席でずっと外の景色を眺めていた。

やがて外は雨が降り始めたのか、窓ガラスに水滴がぽたぽたと垂れ始めた。



兄はアトリエに深山を入れるのをギリギリまで渋った。

「なんで入る必要があるの?話ならリビングでもできるでしょ」

「尚美を深山くんにも見せるんですよ。……兄さん、私が頼んでもだめですか?」

散々な仕打ちを受けてもまだ弟に甘い兄は、私のその言葉で結局深山がアトリエに入ることを許可した。

アトリエには相変わらずブルーシートが敷かれたままだった。吊り下げられた尚美を見た深山は驚いた様子だったが、私と同じようにその瞳を輝かせ、興奮に頬を紅潮させた。

「禊さんの絵が実際に形になるなんて……これはウエディングドレスがモチーフですか?すごい……紫陽花を選ぶところも禊さんらしい……!」

「……まあね」

禊は仏頂面で頷いた。私にしか見せる予定のなかった作品を深山が目にしたことは、兄にとっては不愉快なようだった。

尚美は昨日よりさらに青白くぐったりとしていた。しかし、僅かに胸の辺りが上下しているため確かに息はあるらしかった。

「じゃあ、四人揃ったことだし説明してくれませんか」

私の言葉に、兄と深山は顔を見合せた。深山は兄の指示を待っているようだが、当の禊は困惑気味に俯いて黙り込んでいた。

「……では私の質問になら答えてくれますか。尚美と寝るように深山くんに頼んだのは兄さんですか?そして、尚美の父親が死んだのは……それも兄さんが……」

「お、俺が殺しました!」

私の言葉を遮るように深山が答えた。私は顔を顰めた。

「……なぜ?君と義父に何の接点が?」

私の質問に深山は黙ったまま目を泳がせた。再び沈黙がアトリエ内を包んだ。

「……あのね、僕は祈とこの女を別れさせたかったんだ」

やがて兄は顔を上げ、自嘲気味に笑った。

「手始めに父親の青山武史を説得したけど、耳を貸してくれなかったから……カッとなって殺した。次に僕は深山くんに頼んで、尚美と寝てもらった。祈が浮気現場を見て、この女に愛想を尽かすように」

「……それは……私を愛していたから?」

兄はその場に膝をついて、私の脚に腕を回し抱きついた。

「うん。愛してるからお前が欲しかった。どんな汚い手段を使っても」

「禊さん……どうしてそんな……」

兄は何か言おうとした深山を睨んで言葉の続きを制した。

「祈、お前をたくさん傷つけてしまった。自分勝手な兄ですまない……お前が望むなら今からでも警察に自首するよ」

禊は目に涙を浮かべていた。私はその場に屈むと、彼の体を抱きしめた。

「……いいえ、警察になんて行かせない。私は兄さんを許します」

「祈……」

「その代わり条件があるんです」

その時の私はどんな顔をしていたのだろう。自分では分からないが、きっと場違いに喜色を露わにしていたのだろう。禊は怯えたような目で私を見ていた。




「ねえ、聞いた?迎崎のお宅のご両親、ふたり揃って首を吊ったんですって……」

「画家の長男が急に絵を描くのを止めたからだろ?」

「そうそう。あの夫婦は長男を溺愛していたから……でもだからって……次男と三男もいるのに可哀想よ」

「でも悲しんでるのは次男だけじゃないか。三男は相変わらず女の家を転々として遊び歩いてるらしいぞ」

「長男はまだ自宅に引きこもっているんだって?」

「そう。あの子はご両親の葬儀にも出てこないし……しかも次男の婚約者は実の父親を殺して夜逃げしたって噂よね……」

「親には愛されないし長男と婚約者はあんなのだし……次男は報われないわよね」

「迎崎家の次男は不憫だね」

皆口を揃えてそう言うが、私は決して不憫などではない。今、生まれて初めて迎崎家の次男でよかったと思っている。

大学のD号棟は新しい学長の意向で取り壊しの工事が始まり、あの銀杏の大木も邪魔だから、と呆気なく切り倒されてしまった。跡地に何を建てるのかは知らない。

私の研究室は日当たりがよくエレベーターも階段も使う必要が無いA号棟の一階に移った。深山は逃げるように助手の仕事を辞し、代わりに新しく若い女の助手と、他県の大学から転職してきた助教が務めることになった。

尚美は花が枯れて腐乱しかけていたので、鋸を使ってバラバラにして、邸宅の庭に埋めた。

都警部は尚美を犯人として捜査を続けるらしい。



夜、私が寝室のドアをノックすると、その直後に勢いよくドアが開いた。

「祈……!来てくれたんだ」

禊は嬉しそうに私に抱きついてきた。私は兄の随分伸びてしまった髪をそっと撫でた。

「兄さん、いい子にしていた?」

「してたよ……ずっと祈が来るのを待ってた」

兄は苦しげに目に涙を滲ませた。濡れた目の縁を指で拭ってやると、手を引いてベッドに座らせた。

遮光カーテンを引き、時計もないこの部屋で何日も過ごしていては精神も壊れるのだろうか。カーテンを開ければ光が見れるのに、兄はそれを望まなかった。

寝室はバスルームとも繋がっているが、そこにも一切窓は存在しない。

「寂しいよ祈。ずっと傍にいてよ」

「だめだよ兄さん。私にも仕事があるんだから」

兄を宥めながら、その体をベッドの上に横たえる。シーツに散らばる艶々とした黒い髪を指で梳いて、覆い被さるようにして唇を重ねる。

絵を失った兄には今、本当に私しかいない。

私はとても幸福だった。



(続く)



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