迎崎家の長男




僕の大切なものは昔からたったのふたつだけ。弟のいのりと、はらい

両親には、物心ついた時から不思議と何の感情も抱いていなかった。なんとなく、ふたりとも他人────というよりも無機物のような、そう、マネキン人形かなにかのような気がしていた。

両親に限らず、周囲の人間も全て同じに見えた。血の通わない、どこか無機質な物体達。

僕は絵を描くことで、自分の中に欠けた人間への温もりを補おうとした。でも僕は他人を愛せないから、人の体を養分として咲く花を想像してそれを愛でた。

花は言葉こそ話さないが、僕にとっては人間よりもずっと生き生きとして生命を強く感じる存在だった。人の体から花が咲けば、僕はきっとその花を通して人間を心から愛することができる。だからそのモチーフを描き続けた。

弟の祈が生まれた時、彼が産声を上げた瞬間は本当に嬉しかったのを覚えている。世界に急に鮮やかな色がついたような感覚だった。

僕にとって初めての人間かぞく。血の通った唯一の弟。

祈はとても不器用だった。彼は僕なんかよりもずっと絵を描くことが好きだったのに、才能にはあまり恵まれなかった。

僕は絵を人を愛する目的のための単なる手段としていたが、祈は徐々に書いた絵を使って両親や他人に愛されることを目的にしていった。そのせいで苦しくなったのか、小学校を出たあたりで弟は絵を描くのを一切やめてしまった。

弟はその小さな体に常に怒りと不満を抱えていた。兄である僕の手を決して離さないくせに、いつも恨みがましい目で僕を睨み続けていた。

彼は僕を兄として慕いつつも、同時にすさまじく憎んでいた。その境目で、ぐらぐらと揺れ続けているようだった。

それは大人になっても変わらなかった。彼は眼鏡が無いと物が見えないところも、僕よりほんの少しだけ低い上背も、自分のくるくる巻く可愛らしい髪質も、何もかもに対して不満を抱えていた。

祓はたまに遊びに来てくれたけど、祈は僕のアトリエにも、そもそも僕の家にも滅多に寄り付かなかった。

年末年始、両親の家に行く時だけ弟の姿を見ることができた。両親はあまり好きじゃないけど、弟ふたりと会うことができるのはその時だけだから欠かさず毎年通った。

「ノリくんは不器用だよねえ」

画家の僕よりよっぽど器用な三男の祓は、去年の正月にそう言っていた。

「自己肯定感が低いのを、みーさんへの劣等感だと思い込んでるし」

「でも祈は頭がいいし、勉強もよくできる。努力を惜しまないのはあの子の才能だよ」

祓はふんと鼻で笑って、肩を竦めた。

「それを自覚できないのが馬鹿なんじゃないの。ずーっと自分は二番目だ、二番目だって言い聞かせて何が楽しいんだか」

「はーちゃんったら、ノリくんの悪口言わないでよ」

僕はその時、苦笑しながら祓の頬を軽く抓った。でも内心、僕も祈が自分自身を苦しめていることがとても心配だった。



祈は知らないだろうけど、僕は一回だけ祈の勤めている大学を訪ねたことがある。といっても用事があったのは医学部じゃなくて文学部の方で、画家として講演会に呼ばれたためだった。

講演会が終わって学長の欠伸が出るようなありがたい長話の後で、僕は祈がいるという医学部キャンパスのD号棟へと向かった。D号棟の前には大きな銀杏の木があって、ちょうど美しく紅葉していた。

僕は銀杏の木の真下に立った。木の周囲は落ち葉で金色の絨毯になっていて、踏むとぱりぱりと枯葉の割れる音がした。青臭い銀杏の実の香りも秋らしくて心地良かった。こんな素敵な場所が祈の普段働いている場所なんだと思うと嬉しかった。

「……あ、あの」

白衣を着た若い青年が声を掛けてきた。学生だろうかと思い、僕は咄嗟に愛想笑いを浮かべた。

「はい、なんでしょう」

「失礼ですが……あなたは画家のMISO先生では?」

青年の頬は紅潮し、瞳はきらきらと輝いていた。僕は面倒だなと内心溜息をつきながらも頷いた。

「ええ。……君は、祈のところの学生さん?」

「はい!迎崎研究室で院生として学んでいる深山みやまと申します……!僕、先生の大ファンで……画集も全て持っています!」

そう、ありがとう、と適当に笑顔を作ると深山青年は感激して目に涙を浮かべた。

「実際にお会いできるなんて本当に夢みたいです」

「祈は?上にいる?」

「いるはずです!よ、よかったらご案内しましょうか」

「いや、さっき道は聞いたから大丈夫」

僕は着いてこようとする深山青年を何とか追い払い、エレベーターに乗って五階に向かった。

研究室の中に祈はいなかった。代わりに、若いカップルが並んで仲睦まじく手を握りながらソファに座って寄り添って雑談をしていた。

「……あー、君たちここの研究室の学生さん?」

僕が声を掛けると彼らは驚いたように手を離し、気まずそうに立ち上がった。若い女の方は髪の毛をしきりに気にしながらぎこちなく笑った。よく見ると彼女の白衣の胸元に「青山あおやま」という名札がついていた。

「私は学生ではなく助手です。……あの、なにか御用ですか?」

助手のくせに勤務中に学生と手を繋いでくっついていたのかと、僕は少し眉を顰めた。

「……迎崎むかえざき先生に会いたいんだけど」

「ああ……迎崎先生はついさっき警察からの依頼で検視に向かいました。ご連絡先を教えていただければ後から迎崎にお伝えしましょうか」

僕はがっかりして、首を横に振った。

「いや、いいよ。顔を見に来ただけだし」

「失礼ですが、あなたのお名前は?」

「さあね。何だろう」

助手の女はまだ何か言っていたが、僕は無視して研究室を出た。それが青山あおやまら尚美なおみとのあまり印象の良くない出会いだった。



後に祈の婚約者となる青山尚美の────というより彼女の家の悪い部分は、祈よりも早く僕が知るところとなった。

ある日、青山武史たけしと名乗る男が僕の家に訪ねてきた。 

小太りで赤ら顔の彼からは、全身から濃いアルコールの匂いが漂ってきて不愉快だった。

彼は娘である尚美と僕の弟が付き合っていることを伝えると、さも当然のように金の無心をしてきた。

「私の頼みは娘の頼み、ひいては弟さんの頼みですよ」

というのが青山の言い分だった。警察を呼ぶと言ったが、彼は頑として帰らなかった。

「あんたがダメなら弟の方に頼みますよ。彼は私に優しくしてくれますから」

青山は唾を飛ばしながらそう怒鳴った。祈に被害が及ぶのは嫌だったので、僕は青山にいくらかの金を渡した。

それから青山は度々家に押しかけては金をせびるようになった。僕にとって金を渡す行為自体は痛くも痒くもないことだったが、このような男が弟の義父になるのはあまりよくないのでは、と思い始めていた。

僕は祈の前で露骨に青山尚美を嫌う態度をとるようにした。しかし祈にはあまり響いていないように見えた。祈の目には若く美しい尚美の姿しか映っていないようだった。

僕だって祈のことを心から愛していた。家族愛も、友愛も、性愛も、全ての愛情を祈に抱いていた。

祓のことも勿論心から愛しているけど、僕にとって三つ下の弟はとにかく特別だった。僕は祈が生まれたその日に、初めて血の通った愛を知ったから。

祈のことが好きだった僕は、三十九歳になっても一度も誰かと交際したことがなかった。周囲は僕を偏屈だと言ったが、マネキン人形を相手に恋なんて出来るわけないんだから当然だ。

それでも、親は見合いを執拗に勧めてきた。彼らは僕の遺伝子が孫に引き継がれて、その孫がまた絵の才能を発揮することを望んでいた。でも、僕はそんなのは競走馬の繁殖と変わりないじゃないかと内心軽蔑していた。

彼らはより速い勝ち馬が欲しいだけだった。孫の顔が見たいだなんて、言い訳に過ぎない。


ほどなくして、祈の大学で出会った青年と再会することになった。パトロンの大槻おおつきさんに、彼のギャラリーで深山くんを紹介された。

「君は確か祈の研究室の……」

「覚えていてくださったんですね」

深山くんは目を輝かせた。祈の研究室の人だから覚えていただけなのだが、深山くんにとっては感激するほどのことだったらしい。

「彼は友人の孫でしてね。若いのに足繁く通ってくれているんですよ」

大槻さんはかなり深山くんを気に入っているようだった。僕は大槻さんへの義理もあったので、言われるがままに深山くんとふたりでギャラリーを回った後、近くのカフェで一緒にコーヒーを飲んだ。

尚美について聞いてみようと思ったのは、深山くんが僕が思っていたよりも賢く礼儀正しく感じたからだった。

「青山尚美は、僕の弟と付き合ってるんだよね?」

深山くんはああ、と少し眉を顰めながら返事をした。

「確かに付き合ってはいるようです……でも、あの女はやめた方がいいと俺は思います」

「……やめた方がいい?やっぱり……お金とかの問題?」

彼は僕に真実を伝えるのを少し躊躇った。尚美の悪口が間接的に僕の弟を悪くいうことになると彼は知っていた。

僕は怒らないから教えて、と彼に執拗く尋ねた。

「……青山尚美は……その、浮気性なんです。……俺もふたりきりの時に彼女に誘われたことがあります。当然断りました……迎崎先生との交際を知っていたので」

あの父親あってこの娘ありか。僕は呆れるとともに、相変わらず他人を見る目がない弟を憐れんだ。

子を勝ち馬だとしか思っていない両親の期待を望み、浮気性の女を愛する。本当に憐れで、不運で、不遇な子だ。

「こんなこと会って二回目の君に言う話じゃないって分かってるんだけど……少し青山尚美の父親のことで悩んでいるんだ。彼はあまり良識のある人ではないみたいだし、弟に害が及ぶんじゃないかと……」

「……俺が何とかしてみましょうか」

深山くんは膝に置いていた僕の手を握ってきた。

驚いたけれど、振りほどかずに彼の話に耳を傾けた。

「青山尚美に探りを入れて、迎崎先生と引き離せないかを試してみます。あなたはどうか、安心してください」

「なんで君がそこまでしてくれるの?」

深山は少し困ったように眉を下げた。

彼は僕の手の甲を握る指先に少し力を込めた。

「あなたの絵が好きだからです……烏滸がましいのは承知の上でお願いします、僕に何か対価をください」

彼は僕の絵が欲しいと言った。

「世間に流通していないものがいいんです。僕だけの特別な何かをください……スケッチブックに描いた素描を、僕だけに一切れ破ってくださいませんか」

僕はちょうど持ち歩いていたスケッチブックから、月下美人の絵を破いて渡した。

「これでどうかな。夜の散歩中に偶然咲いていたから、一枚描いたんだ」

「……ありがとうございます。絶対に約束は守ります」

彼は目を潤ませて、破った月下美人のスケッチを胸に抱いた。

僕と深山くんは連絡先を交換して、時たま近況を報告しあった。彼は尚美に接触し、彼女から父親についての情報を得ているようだった。



半月後、深山くんから珍しく出かけないかと誘いの連絡が来た。

口兄くちあに市にある植物園で今夜月下美人が咲くらしいんです。禊さん、よかったら一緒に行きませんか』

月下美人は見たかったけど、僕はちょうど車を車検に出していた。その話をすると深山くんは家の前まで迎えに来ると言ってくれたので、僕も了承した。

夜、インターホンが鳴ったので深山くんかと思ってドアを開けると、相手は青山だった。

青山はいつにも増してニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていた。

「このあと用事があるので、手短に頼みたいのですが」

「うちの娘がプロポーズを受けたらしいんです。誰が相手だと思いますか?」

僕は顔を顰めた。回りくどい言い方も、何か含みのある笑い方も不愉快だった。

「それで?」

「あんたは金持ちの画家じゃないですか。でも弟の方はそんな才能はない、朴念仁だ。娘がもし子どもを産むなら、才能のあるあんたの遺伝子の方がいいんです」

僕は込み上がる怒りを拳をきつく握って耐えた。こいつも僕を種馬にしようとしている。しかも、大事な弟を侮辱しながら。

青山は下卑た笑みを浮かべながら僕の肩に手を掛けた。

「娘はそれなりに美人だから、あんたもきっと気に入るはずだ。女と寝るくらい簡単だろう?なあに、ばれやしないさ。なんてったって、あんたの弟は随分と鈍くて馬鹿だからな」

僕は肩を撫でさすってくる青山の手を振り払った。

「侮辱するのも大概にしろ!弟が鈍くて馬鹿だって?僕の弟が!?鈍くて馬鹿なのはお前の方だろ!」

僕が怒鳴ると、青山は厳つい顔をみるみる真っ赤にして掴みかかってきた。

「この若造が、こっちが下手に出れば調子に乗りやがって!」

「離せ、僕に触るな!」

青山は僕より背が低かったが、体格はラガーマンのように大きく逞しかった。だから僕は簡単に床に転がされて、上から伸し掛って首を絞められた。

意識が遠のいていく中で、青山の後ろで何かぎらりと銀色のものが光った。

青山は大きくよろめいて、そのまま横向きに倒れた。

深山くんが血のついたシャベルを握って青山の背後に立っていた。

彼は急いで駆けつけたのか、肩で息をしていた。

「……家の前まで来たら怒鳴り声が聞こえたので……咄嗟に庭にあったシャベルを持ってきたんです……」

深山くんは顔面蒼白のままそう言った。

僕は青山と深山くんを交互に見た。

「────深山くん、僕のせいで……」

「いえ……俺は禊さんを守れたならそれで……。でも俺……け、警察、に……?」

「いや、駄目だ」

僕はスマートフォンを取り出そうとする深山くんの腕を掴んだ。深山くんが警察に事実を話すことで、僕が青山に金を渡していたことを祈に知られたくなかった。

「隠そう。どこか遠い場所に持って行って捨てるんだ」



僕と深山くんは青山の死体をビニールシートで包んで、彼の車のトランクに乗せた。そして、あまり人の寄り付かない心霊スポットである山────怨生山えんおざんという場所に死体を棄てることにした。

途中、女石めせきの入口に差し掛かったところで警察の事故処理車両が何台も止まって、通行止めになっていた。

「どうしようか。ここを通らないと怨生山にはいけない」

「……ルートを変えて犬笛いぬぶえはどうですか。あそこは廃工場ばかりで何もありません」

僕たちは犬笛に向かい、森の中にあった大きな池の中へと死体を沈めた。

その帰りにふたりで口兄まで行って、植物園に寄った。

月下美人は美しかった。清らかな白い花からはジャスミンのような濃密な香りが立ち上っていた。

僕と深山くんはさっき死体を棄てたことも忘れて、ふたりで長い時間月下美人を眺めていた。



「また借りをひとつ作ってしまったね」

帰りの車で僕はそう呟いた。窓の外は粉糠雨がさらさらと降っていた。

「……借りだなんて」

深山くんは覇気のない口調で否定しつつ、ちらりとフロントミラー越しに僕を見た。

「じゃあまたひとつ対価をくれませんか」

「何がいい?」

彼は緊張したように少し唇を舐め、深呼吸してから意を決したように口を開いた。

「……あなたが絵を描いている姿が見たいんです」

「それだけ?人がひとり死んだのに」

深山くんは力強く頷いた。僕は彼の欲の無さについ苦笑した。

「いいけど……アトリエ以外でもいい?どこか別の場所で」

「……ふたりきりならそれでいいんです。俺以外に見られない場所で……親の経営してるホテルがあるのですが、そこの部屋でもいいですか」

いいよ、と僕はその時何も考えずに安請け合いをした。

「モチーフは何がいい?」

「あなたを」

僕が驚いて彼の顔を凝視すると、深山くんは露骨に顔を赤らめた。

「あなたの自画像を俺にください」

彼は僕のことを画家として以外の意味で好きなのかもしれないと思った。でも、あえて気付かないふりをすることにした。

僕が愛しているのは、血の繋がった弟たちだけだから。



その三日後、アトリエを訪れた祈から尚美との結婚を告げられた。

僕は聞き分けのない兄になることにして、それはもう猛烈に駄々をこねてみせた。

祈はそれを見て辟易したようにため息をつき、用件は済ませたとばかりに早々に帰っていった。

尚美に嫉妬していないと言えば嘘になる。たくさんの人間を同時に愛せるのは彼女の才能だ。僕には祈と祓以外の他人を愛せない。

でも、だからこそ祈から愛されたのもきっと彼女の才能のひとつなんだろう。

僕は天井を見つめたまま、次の絵のモチーフを考えていた。

祈を描きたい。彼から伸びる花じゃない、僕の愛する彼自身を。

そして祈をありとあらゆる美しい花で囲むんだ。それが僕の愛情の、理想の形だから。

それを祈に渡して────恋心に区切りをつけることが出来れば……僕もいつか他の誰かを愛せるようになるかもしれない。吹っ切れるには時間がかかるかもしれないけれど。

「兄さん」

弟の声に僕は飛び起きた。青ざめた顔の祈がアトリエの出入口に立っていた。

「ノリくん…!?……いや、それじゃあ僕に都合がよすぎる。幻覚かな……もう一度寝るか……」

僕は再び床に寝転がった。どうやら祈のことばかり考えるあまり幻覚まで見始めたらしい。

「……あなたの言う通りでした」

「はいはい。祈がそんな僕に都合のいいことを言うはずがないね」

「……浮気をされていました」

僕は驚いて、勢いよく上半身を起こした。祈は苦しそうに上半身を屈め、口元にハンカチを当てていた。

────浮気?まさか、深山くん……。

深山くんの「なんとかする」がまさか彼自身が尚美と浮気をすることだとは、その時の僕は想像もしていなかった。

「ノリくん……?」

「『あんな女』だって、私にも薄々分かっていました。でも信じたくなかった。私だって誰かに心から愛されていると思い込みたかったんです」

祈はドアに寄りかかったまま脱力して、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。僕は急いで駆け寄って、弟の体を強く抱き締めた。

「……お前のこと心から愛している兄がここに居るけど」

「恋人として愛されたかったんです」

腕の中で小さくしゃくり上げると、祈は顔を隠すようにして僕のシャツの肩口に顔を埋めた。暫く声を殺したまま祈は泣いていた。

僕は悔しかった。さっきまで恋心を諦めるつもりだったくせに、今この瞬間は僕を選べばいいのに、あんな女やめて僕にしておけばもっと祈だけを大切にするのにと、そんなことばかり考えていた。

「……恋人って、誰でもいいの?」

「……私は……」

僕は祈の頬に手を添えて、そっと唇を重ねた。

祈は一瞬惚けていたが、みるみる顔を真っ赤に染めると慌てて僕の体を突き飛ばした。

「……ッ……何を……」

「……ごめん、……嫌だった?」

僕は祈に微笑んでみせた。内心はかなり驚いていた。思っていたような反応じゃなかった。もっと気持ち悪がられるかと思ったのに、彼は思春期の少年のように顔を赤くした。

「……か、帰ります」

「またおいで」

「もう二度と来ません!」

祈は逃げるようにしてアトリエを後にした。僕は小さくなっていく弟の背中を、完全に消えてしまうまでずっと見守っていた。




殺してしまおうかな、と僕は思った。

今現在進行形で、電話口で猫なで声で話しかけてくる尚美を、である。

「お義兄さんに選んで欲しいんです。祈ったら野暮だから、ドレスの種類とか全然詳しくなくて」

「……まあ、法医学にあんまりファッションセンスは関係ないからね」

殺すならばどうしようか。祈はこの女を愛している。

────この女のどこを?淫蕩さ?饒舌さ?それとも移ろいやすさ?

「明日一緒に来てくれませんか? 本当は父に頼むつもりだったんですが、なぜか連絡がつかなくて……」

「そう。それは心配だねえ。そういうことなら僕が引き受けるよ」

彼女の持つ魅力を全て潰してしまえば、祈も彼女への興味を失うかもしれない。

例えば、物言わぬ作品にしてしまうだとか。

そうだ、それならウエディングドレスがいい。ウエディングドレスの持つ清らかさと尚美は対極にあるから。

黙っていたら美しくて、喋ると吐き気がするような、そんな作品にしよう。

僕は懇意にしている花屋に二季咲きの白いアナベルを急遽注文した。集められるだけすぐにくださいと頼むと、花屋の店主は快く引き受けてくれた。

次の日、ドレス選びの後にアトリエに来た尚美の首を絞めて気絶させた。大切なモチーフである彼女の首に締め跡がつかないようにタオルを三重に緩く巻いた上から慎重に絞めた。

気絶した彼女の服を剥ぐと、用意してあった額縁に吊るした。

あとは簡単だ。茎の切っ先に太い針を取り付けたアナベルを、彼女の胴体に刺していくだけ。彼女が気に入っていた、美しい曲線のマーメイドラインになるように長さを調節しながら一本一本刺していった。

彼女は体を貫かれる度に叫び、痛みで痙攣した。僕は急所を避け、わざとゆっくり痛みを引き伸ばしながら作業を行った。

尚美はずっと祈の名前を呼んでいた。深山でもなく、他のどの男の名前でもなく祈の名前だけを。

「わかるよ。君の浮気性は祈が無関心なせいだよね」

僕は脚立に腰掛けたまま、血塗れで涙を流す彼女にそう囁いた。

「あいつが本当の君を見てくれないから、君の上辺の美しさにしか興味を抱かないから、意趣返しで深山くんと寝たんだろ?」

尚美はがっくりと項垂れた。図星だったのか、それとも単に体が辛かっただけなのかは分からない。

僕は初めて尚美に同情した。指でそっと乱れた前髪を整えてやる。

「祈はね、僕にしか興味無いんだよ。僕のことが憎くて、妬ましくて、それだけが行動原理なんだ。だからこそ、多分僕の方があの子を幸せにできるよ」

俯いた顔を少し上げ、尚美は僕を睨んだ。

「馬鹿な男。祈が好きなのは私なの。わざと見せつけて浮気してやったのに、結局私の言いなりだったじゃない……あんたなんか彼にとってコンプレックスの象徴でしかないわ」

僕は黙って尚美の右の肺にアナベルを突き刺した。

彼女は苦しげに呻き、唇を噛み締めた。



祈は僕の作品を見て、眼鏡の奥の瞳を輝かせた。彼が小さく「美しい」と呟くのを僕は聞き逃さなかった。

弟が僕に隠れて大槻さんのギャラリーに通っていることは知っていた。

だから無関心の振りをしている祈が本当は僕の絵を愛していることにも気付いていた。

祈のズボンは股間が膨らんでいて、勃起しているのがすぐにわかった。

僕は祈を誘惑して、尚美の目の前で彼の勃起したペニスを咥えた。

祈はほとんど尚美に見向きもせず、僕のことを劣情の籠った目で凝視していた。

フェラチオなんてしたことなかったけど、祈は僕の拙さに逆に興奮しているようだった。

彼は額に汗を浮かべ、呼吸を荒げながら僕の髪を撫でた。

「上手だね」

熱っぽい声だった。頬を撫でられて、初めて自分の顔が酷く火照っていることに気付いた。僕は祈のペニスを咥えているだけで自身も勃起していた。祈の匂いと、祈の味と、祈の温度に包まれて酩酊にも近い感覚を覚えていた。

途中尚美が振り絞るように祈の名を呼んだ。しかし祈は顔を顰めて、萎えたペニスを仕舞い服を着直してしまった。

「……寝室に行きましょう」

「……え?でも、祈……」

「いいから、行こう」

弟は珍しく荒っぽい口調でそう言うと、僕の手首を乱暴に引っ張った。

僕は心臓がドクドクと激しく脈打つのを感じた。

今この瞬間、祈が欲しがっているのは僕だ。作品になってしまった尚美じゃない。

部屋を出ていく直前に振り返って尚美に向かって笑みを浮かべてみせると、彼女は絶望で金切り声にも似た叫び声を上げていた。


寝室に入ると髪を解かれ、服を全て脱がされた。

祈自身は服を着込んだまま、一方的に口の中、首筋、胸、背中、腰、そして性器まで、至る所を時間をかけてじっくり嬲られた。自分の弟がセックスの時にこんなにねちっこいとは思ってもみなかった。

しかも彼は、僕が気をやるたびに耳元で恥ずかしい言葉を囁いてきた。

僕は頭の中が真っ白になって、小さな子どもみたいに泣きながら祈に縋った。もどかしい快感が苦しくてもう挿入れてと何度も強請ると、祈は渋々といった様子でため息をつきながらも僕を犯した。

正直意識が飛びかけていてその間のことはあまり覚えていない。ただひたすら苦しくて、気持ちよくて、僕は弟に抱きついて泣くことしかできなかった。

気が付いたら朝になっていて、祈はボサボサの頭とヨレヨレのスーツでベッドに腰掛けていた。僕は服を着ていなかったけど、もっと酷い状態だった。

彼は仕事で呼ばれたらしく、服を貸してほしいと頼んできた。

それに頷いた後、僕はぐったりと再びベッドに倒れ込んだ。



その夜、僕は深山くんとの約束のために家を出た。大きめのトートバッグに、スケッチブックと木炭を入れた。

金它かなへび通りを抜けたホテル街の中に約束したビジネスホテルを見つけたが、その前に祈が立っていることに気付いた。

「こんなところで何をしているんだ?」

「こっちの台詞です。……兄さんは深山と待ち合わせでもしていたんですか?」

憎々しげな口調で祈はそう吐き捨てた。僕は祈が深山くんとの関係を知っていたことに驚愕して、言葉を失った。

祈は僕の腕を掴んで右隣のラブホテルの方に引っ張って行った。僕は説明しようとしたけど、弟は耳を貸さなかった。

エレベーターに乗ると、壁に押し付けられてキスをされた。エレベーターの隅にある監視カメラが目に入り、僕は慌てて弟の腕を振りほどこうとした。

「ん、待っ……いのり、ここでは……」

祈のひんやりした手が服の下に直に触れてきて、僕は冷たさでびくっと体を跳ねさせた。

「か、カメラがあるから、本当に待って、」

僕はエレベーターの防犯カメラを指差した。祈は顔を顰めて僕を睨んだ。

「誰かに見られたら困るんですか?」

「困るでしょ、お前は……!」

「別に困りません」

外聞を気にする祈とは思えない言葉に僕は驚いた。同時に、少しだけ嬉しいと思ってしまった。僕とキスしているところを誰かに見られても祈は別に嫌じゃないんだ。

エレベーターが止まると、その階のチカチカとパネルが点滅している部屋に押し込まれ、ベッドに突き飛ばされた。

僕がうつ伏せにシーツの上へと倒れ込むと、そのままズボンを脱がされて性急にペニスを捩じ込まれた。

「あ、あっ……祈っ……」

僕の体はみるみるうちに昨晩与えられた快感を思い出した。体の力が抜けそうになるのを必死で耐えながらシーツを掴んだ。

「あなたには私だけだと言っていたじゃないですか!どうしてそんな嘘をついたんです」

「う、そじゃ……っ、な……っ」

腰を強く押し付けられて、一番奥の行き止まりまで祈のものが当たった。僕は恥ずかしいくらい膝をガクガク震わせながらそのまま射精した。

祈は乱暴に僕の頭を掴んで枕に押し付けた。息が出来なくて、僕は藻掻くように必死でシーツを引っ掻いた。

昨日のじわじわと虐め抜くような愛撫とはまた違う、性急で乱暴なやり方に僕は興奮していた。祈にされることなら多分何だって喜ぶけど、こういう荒っぽい面を出してくるのは珍しいから、素直に感情を曝け出してくれて嬉しかった。

「兄さん、あなたは私の欲しいものを全て持ってるんだから、せめてあなた自身は私だけのものでいてくださいよ」

祈の声は怒っている風でもあり、同時に酷く欲情しているようにも聞こえた。

僕はとっくに祈だけのものなのに。でもそう言いたくても奥まで押し付けたまま何度も揺さぶられたせいで、僕はくぐもった喘ぎ声を上げることしかできなかった。

祈は性器を挿入したままの状態で深山くんとの電話を僕に強要した。僕は必死で声を押さえながらなんとか受け答えしたけど、深山くんは戸惑っている様子だった。

祈は電話を切ると緩慢だった動きを急に激しいものに変えた。一度中に出されて、終わりかと思ったら抜かずに再び動き始めた。

「いやだ、祈っ、待って……」

僕はうつ伏せで祈に両腕を掴まれているせいで大した抵抗ができなかった。涎と涙でぐちゃぐちゃになった枕にまた顔を埋めて、快楽に耐えるしか僕に選択肢はなかった。

本来なら深山くんに絵を描いているはずの時間に、僕は何をやっているんだろう。でも祈に求められるのは嬉しくて、嫉妬されたことすら愛おしくて、結局はもうどうでもいいや、と結論づけた。

僕がシャワーを浴びている間に深山くんが部屋に訪れた。慌ててバスローブだけ着て浴室から出ると、彼は僕の素足を見て、それから露骨に目を逸らした。耳が真っ赤に染まっていた。

「深山くん、……さっきはごめん」

「……禊さんは全く悪くありません」

深山くんは祈を睨んだが、祈は平然と笑みを浮かべていた。

その後、三人で車に乗って僕の家に移動した。外は小雨が降り始めていた。

祈が深山くんに行き着いたということは、後は尚美と、彼女の父親の話になるだろうと予想していた。ちょうどその日の昼にネットニュースで犬笛に死体が上がったという記事を見ていたから、法医学者の祈なら多分既にその身元も知っているだろう。

僕は祈に話す筋書きを考えていた。弟に横恋慕した兄が婚約者の父親を殺して、僕のファンである深山くんを利用して婚約者と浮気するように唆したと。────そうすれば、祈には一切の非がないことになる。

実際、祈が贖う必要があるものなど何一つない。でもきっと事実をそのまま伝えれば、律儀な弟は気に病むだろう。

僕の話を弟は簡単に信じた。彼は僕のやった悪事を許すと言い、僕の体を抱きしめながらこう言った。

「もう二度と絵を描かないでください。ずっとこの家の────寝室の中にいて、私の許可が出た時以外は外に出ないでください」

深山くんは必死の形相で猛反対した。でも僕は彼を説得して、なんとか深山くんを家に帰らせた。



 

僕は弟の言うことを守った。

あの日を境に、寝室からは出ないようにした。バスルームとトイレは部屋の内側から繋がってるから不自由はしなかった。

日用品や食品は祈が週に何度か持ってきてくれた。僕は祈が持ってきた食べ物を食べて、その後は毎回のように祈に抱かれた。

両親が死んだというのは訪ねてきた祓からドア越しに聞かされた。祓は姿を見せて欲しいと言ったけど、僕は部屋から出なかった。

勿論、両親の葬儀にも出席しなかった。

父母の死に対して特にショックはなかった。どこか遠い国の人が戦争で死んだニュースを見たかのような実感のなさだった。

僕は二人が僕のせいで死んだことに対して、ああ可哀想に、でもまあ仕方ないよね、としか思わなかった。

祈は両親の葬儀の終わった夜、寝室に来て僕に喪服を着せた。そして両親の遺影を部屋に飾って、そのままセックスした。

僕らにとって、両親の死は背徳の材料でしか無かった。

「深山は助手を辞めました。実家のホテル業を継ぐそうですよ」

ある朝、床に散らばった服を着ながら祈はそう言った。

僕は気怠い体を起こす気力もなく、ただ「そう」とだけ答えた。

正直、僕には深山くんがどこでどうなろうと興味はなかった。

祈は僕が深山くんに対して無関心であることにとても満足した様子だった。よほど嬉しかったのか、仕事に行くぎりぎりまで僕を抱きしめていてくれた。僕も嬉しかった。


僕は祈の言いつけをなるべく遵守したけど、一つだけ約束を破った。

祈が居ない間、こっそりとアトリエで絵を描いた。絵の完成には二週間以上かかった。祈は尚美の死体を処分したあとはアトリエに行っていないようだったけど、一応棚の影に裏返しにして隠しながら、少しずつ絵を描き進めた。

完成した絵は、その日のうちに電話で大槻さんを呼んで彼に渡した。

「いいんですか、これは……間違いなく最高傑作なのでは……」

彼は目に涙を浮かべながら絵を眺めた。僕は頷いた。

「あなたなら任せられます。これをどうか持って行ってください。勿論世間にも発表して構いません────ただ、描いた時期についてはくれぐれも秘匿してください」

大槻さんは丁重に絵を持って帰ってくれた。

僕の最後の仕事はそれで終わりだった。

絵を描くことをやめた僕には、もう完全に祈しかいなかった。

退屈な日々と、昼も夜も分からない暗い部屋。電気をつけるのも窓を開けるのも億劫で、祈が来てくれる時以外は僕は電池の抜けた人形のようにずっとベッドの上に横たわっていた。

一週間に一回くらい、蛇口が壊れたみたいに勝手に目から涙が流れる夜がある。

祈がいない間は、ずっと寂しくて苦しい。祈さえ傍にいてくれれば僕はそれでいいのに。世界がこの寝室以外全て消えて、人間が僕と祈だけになってしまえばいいのに。


 

でも祈が幸せなら────それなら僕も幸せだ。



(終)



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