ヒステリア・シベリアナ(1)




菰野乃木こののぎさんはさ、胎内記憶とかってある?」

ソファで本を読む友人に何気なくそう尋ねると、彼は本を閉じて膝に置き、視線を左下に向けて少し思案する様子を見せた。

「……子どもの時分はもしかしたらあったのかもしれないが、今は覚えていないな」

────その答えに、当時伊妻いづまは少なからず予想を裏切られた思いだった。

何事においても規格外なこの男ならば、胎内記憶なんて克明に覚えているであろうと勝手に思い込んでいたのだ。

「普通、胎内記憶は幼い子どもしか覚えていないんじゃないか?」

「まあそうなんだけど。俺は未だに覚えててさあ」

伊妻はソファに寝転がったまま、友人の真っ黒な両目をじっと見上げた。

「なんか俺はすごく寒いところにいて、ずーっとどこかに向かって必死で歩いてるんだよね。空に浮かぶ赤い光の方向に歩いてるんだけど、それが何なのかはわからなくて……でそれを長時間続けてたら歩き疲れて倒れちゃってさ。気を失ったと思ったらいつの間にかこの世に生まれてたっていう、……ただそれだけ」

菰野乃木はその時、笑うでも馬鹿にするでもなく神妙に頷いていたことを伊妻は覚えている。

「まるで村上春樹の小説だな」

「小説?」

「『国境の南、太陽の西』という本の中に出てくる病気にそういうのがあった。シベリアの農夫が何かに取り憑かれたように太陽に向かって歩き出し……そのまま歩き続けていつしか息絶えてしまうという」

「変な病気だね」

「それ自体は死や破滅の隠喩として使われた架空の病気だ。……しかし、歩き続けて倒れたらいつの間にか生まれていたというのはなかなか興味深いな」

菰野乃木は顎に手を当てて考え込む仕草をした。

「人は破滅の先にこそ次の生を生きられるのかもしれないな」




某日 夜 梔子市 BAR『raven』


まず、目に付いたのはその赤い髪だった。

「これ美容院で染めたの?綺麗だね」

指先で髪に触れると、女は不躾に触られたことに対して少し眉を顰める素振りを見せた。

「気安く触んないで。ていうか最近色抜けてきたし全然綺麗じゃないっしょ」

話し方はあまり賢くなさそうだったが、常に不機嫌そうな表情をしているところも彼にとって好ましかった。

「ねえ、一杯奢らせてよ。別に連絡先とか聞かないからさ」

「……聞かないならいいけど。何でもいいの?」

当たり前じゃん、と微笑めば、女は仏頂面のままメニュー表を指差した。爪は細長く整えられ、グリッター入りの黒いポリッシュが塗られている。

バーテンダーに声をかけると、彼女の選んだテキーラ・サンライズと自分の分のブラックマティーニを注文する。

「いいなあ、その髪の色。髪型もウルフっぽくて似合ってるね」

カウンターに肘をつき、女の傷んだ赤髪をうっとりと眺める。

「お兄さんの髪ならもっと綺麗に色入るよ」

女の言葉に、彼はホワイトブロンドの髪を手で掻き上げて苦笑した。

「エーッ?どうかなあ。生まれてから一度も染めたことないんだよね」

「ブリーチだけ?」

「いや、地毛。パパがノルウェー人だから」

「……そうなんだ」

女の瞳に好奇心の光が灯った。大抵の若い女は『ハーフ』というステータスに弱い。

目の前に置かれたグラスを手に取りつつ、男はじっと女の顔を見つめた。睡眠不足なのかくすんだ目元に、黒っぽいアイシャドウで縁取りがしてある。所謂「ゴス系」というやつだ。

グレーのカラーコンタクトをしているせいで本来の瞳の色が分からないのは残念だった。

「よく見ると目も青色だ。ハーフの人って初めて会ったかも」

「日本生まれ日本育ちだけどね。ノルウェー語とか分かんないし」

「そんな外国人顔なのに?」

女は口元に手を当て、くすくすと笑った。警戒が解けてきたのか、さっきはカウンターを向いていた体が今はリラックスした様子でこちらに向いている。

男はグラスに注がれたブラックマティーニの水面に視線を落とした。ほとんど黒に近い暗褐色に、ブラックベリーが一粒浮かんでいる。

グラスを傾けて口に含むと、コーヒーリキュールの甘苦さとウォッカの強い刺激が舌を焼いた。

「英語とドイツ語なら分かるよ。……あと少しだけラテン語も」

「十分すごいじゃん。趣味で覚えたの?」

「仕事で必要だったの。一応医者だからさ」

そう言って微笑むと、女の両眼がこちらを見たまま品定めするように細められた。

「設定盛りすぎじゃない?ハーフで医者なの?証拠は?」

「エーッ?ふふ、証拠かあ。どうしようかな」

指で女の長い髪を梳く。今度は嫌悪感は示されなかった。むしろ、女は試すような笑みを浮かべて、されるがままになっている。

「もう一軒付き合ってくれたら見せるよ」




観玲 みれいは純粋にそのバーを気に入って通っていた。決してナンパ待ちなどではない。しかも、それなりに気が強いので安い男に引っかかるタイプでもないと自負している。

しかしその夜声をかけてきた男は他所の男とは纏っている雰囲気が違っていた。

上背も高く整った顔つきをしているが、つり目がややきつく意地が悪そうな印象も受ける。

その目つきの鋭さを金髪と白基調の服装が和らげていたが、一方で無理矢理人好きに矯正したような胡散臭さがプラスされてしまっていた。

実際に話し方は至極軽薄で、よくあるナンパ男のやり口だ────いや、髪を突然触ってくるなんてナンパにしても悪手だと思う。

それでも絆されてホテルまでついていったのは、男から時折垣間見える危うさをもっと味わいたいと感じてしまったからだ。レディーキラーカクテルをそれと分かっていて飲み干すように、あえて男の掌の上で踊ってやったのである。

────観玲はその男が実際に女性だけ狙った連続殺人鬼レディーキラーだとは思いもしなかった。

「可愛いね」

ベッドの上で、男は熱の篭った声音でそう言って観玲の傷んだ赤い髪を撫でた。

軽薄で冷たい印象とは裏腹に触れる掌は熱く、手つきも今日出会ったばかりだというのに恋人に触れるかのように優しい。

しかし、手足を拘束され頭蓋骨を器具で固定されている状況下では決して甘い気分に浸ることなどできなかった。

薬で眠っている間にそれを装着された観玲には知るよしもなかったが、頭蓋骨を固定する器具は医療器具のヘッドイモビライザーだった。

用途としては、主に担架などで運ぶ際負傷者の頭部や頸椎を守るために使われる。

観玲は体の自由を一切奪われた状態で叫ぼうとしたが、舌が痺れて呂律が回らず、開いた口から涎を垂らすばかりで言葉にはならなかった。

────仮に叫べたところでそこは山の中にある一軒家だったので、誰にも届くことはないのだが。

男はいつの間にか観玲のハンドバッグから盗ったのか、彼女の免許証や保険証を確認してベッドシーツの上に置き、小型のインスタントカメラで撮影した。

「えーと、佐々木観玲さん二十八歳……三月生まれ?俺も三月なんだよ。お揃いだね」

微笑みを浮かべたまま、彼はそれらの身分証を用済みとばかりに床に放り投げた。

男は手に薄手のゴム手袋を嵌めると、ジュラルミンケースから綿布に巻かれた医療器具を取り出した。

スカルペルに 剪刀 せんとう 鑷子 せっしや鉗子、そしてこう……。縫合に使われるような針と糸、麻酔薬などは見当たらない。男にとってそれらは無用の物である。

「カラコン邪魔だから取るね」

観玲の目が閉じないように指で瞼を押さえながら、人差し指の腹で丁寧にカラーコンタクトを取り外す。

両目ともコンタクトを取り出すと、それらをベッド脇のテーブルの上に置かれた膿盆のうぼんへと入れた。

裸眼になった彼女の瞳を、ベッドに肘を着いて至近距離でじっと見つめる。涙の膜が張った暗褐色の瞳。ストレスと恐怖で瞳孔は開き気味だ。

暫く見つめ続けていると、恐怖に耐えかねたのか観玲は目をぎゅっと強く閉じた。目尻から涙が伝い、黒のアイシャドウを溶かしていく。

「目、開けて」

男は優しい口調でそう言ったが、観玲はきつく目を瞑り続けた。

頑なに目を開けない彼女を見て、男は呆れたようにため息をつくとベッドから立ち上がった。

観玲は目を閉じていたせいで、男がジュラルミンケースの中からスカルペルを手に取ったことに気付かなかった。

彼は観玲の閉じた上瞼を親指と人差し指で抓み、捻るようにして上に伸ばした。

驚いて目を開けた観玲の目に一瞬銀色の光が映ったかと思うと、瞼に激痛が走った。

「……ッ!」

言葉にならない掠れた悲鳴を上げながら、彼女は脚をばたつかせた。

男は眼窩の縁に沿うようにして彼女の左の上瞼をスカルペルで切除した。

切り口から血が溢れてきて眼球を覆い、視界が赤く染まる。しかし、閉じようとしても瞼は無い。

目の上からは血が、下からは涙が溢れて頬を伝い、頭を固定するヘッドイモビライザーを汚していく。

赤いフィルター越しに、観玲の上瞼を膿盆に投げ入れる腕が見えた。

男はスカルペルを再び手にすると彼女の顔を覗き込み────眉間にそれを突き立てた。

掌を添えながら体重を掛けて根元まで押し込むと、ゴリッ、と鈍い音がして頭蓋骨の向こうまで貫通する。

彼女の瞳から光が消えていくのを確認して、男は再び大きなため息をついた。

「……萎えた。こんなの虚しいだけだ」

彼はベッドの縁に腰掛けると、まだ僅かに痙攣を繰り返す観玲の腹を枕にして、横たわった。




十月七日 梔子市 スーパーマーケット『セキレイ』


セキレイは主に北関東に分布するローカルチェーンのスーパーマーケットである。

梔子くちなし市にある店舗は古い商店街の中という立地もあって少々くたびれた趣ではあるが、野菜や肉や魚、冷凍食品、そして薬や化粧品まで手広く扱っているため地域住民から根強い支持を集めている。

そして菰野乃木が主に生活を送るマンションから一番近くにある店なので、日用品は主にそこで揃えるのがお決まりになっていた。

菰野乃木は普通の食品を口にすることが出来ないが、通常の人間が食べる一般的な料理はそこそこに作ることができる。

もちろん自分では味見ができないので、うまく作れるようになるまではひたすら友人である伊妻に味見をさせた。

おかげで現在は普通の味覚の人間でも美味と感じるレベルにまで料理の腕が上がっている。

その日の夜も伊妻が来る予定だったので、菰野乃木は彼の分の食事を作るために買い出しに訪れていた。

赤髪に巨躯の男が買い物カゴを手に持ち生鮮コーナーをうろつく姿は、昼間の閑散としたスーパーマーケットではいささか悪目立ちしていた。

スウェット姿に抱っこ紐で赤ん坊を抱いた若い母親や買い物にやってきた老夫婦などが遠巻きにじろじろと彼を見ていたが、そんなことは菰野乃木にとっては些細な問題だった。

それよりも今彼を悩ませていたのは麻婆豆腐にネギを入れるべきか、ニラを入れるべきかであり、奇しくもその日両野菜は同じグラム数に同じ値段で陳列されていたのである。

産直コーナーで両手にネギとニラを見比べていると、背後から声をかけられた。

「菰野乃木さん?……やっぱり!菰野乃木さんですよね!」

花の綻ぶような笑みでそう言ったのは眼鏡をかけた若い女だった。

セットアップらしきブラウンのジレとパンツが佇まいにキャリアウーマンのような凛々しさを与えている。短く整えられたショートカットも利発そうな印象で、身長は小柄ながら意志の強そうな顔立ちをしていた。

────可食部の少なそうな女だな。

彼女の佇まいから誰もが感じられるであろう利発さや清廉さといった印象を、菰野乃木は何ひとつ認識しなかった。菰野乃木にとって、彼女は急に話しかけてきた食肉だった。

若いし味はそれなりによさそうだが、食べる部位が少ないなら殺すにはハイリスクローリターンだ。もっと体の大きな人間なら何日かは狩りをしなくて済む。

菰野乃木は散々肉質判断をするだけして、顔を顰めた。

「……どこかでお会いしましたか?」

「あ、私は塚本つかもとです!あの、アカゲラ出版の……以前お父様の件でインタビューに伺いました」

────安藤あんどうの部下の女か。

菰野乃木は納得し、一応口角を上げて愛想笑いを作ろうと心がけた。

「そうでしたか、すみません。人の顔と名前を覚えるのが苦手で」

「いえ!実は私もそうなんです、出版社の人間なのに人の顔と名前全然覚えられなくて、よく作家先生にも叱られるんですよ……って、すみません、ペラペラと自分の話をしてしまって」

塚本はあたふたと話しながら垂れてきた髪の毛を耳に掛け直した。

菰野乃木は既に彼女を意識の外に追いやっており、両手に持ったネギとニラを見比べる作業へと戻っていたので、特に返事を返さなかった。

塚本はしばらく黙ったまま菰野乃木の顔を見つめていたが、痺れを切らして再び話しかけた。

「……晩御飯、何を作られるんですか?」

「麻婆豆腐です」

「麻婆豆腐!美味しいですよね」

「そうなんですか」

要領を得ない菰野乃木の返事に、塚本は大きな丸い瞳を瞬かせた。

「食べたことないんですか?」

「ええ。だからネギとニラのどちらがいいのか分からなくて」

「どっちも美味しいですよ。あ、私は両方入れるんです」

「それは妙案ですね」

ネギとニラを両方買い物カゴに入れると、菰野乃木は塚本を置いてすたすたと精肉コーナーの方向に歩き始めた。

「ちょ、ちょっと待って菰野乃木さん」

歩幅の大きい菰野乃木の後を小走りで追い掛けながら、塚本はスマートフォンを取りだした。

「よ、よかったら連絡先を交換していただけませんか? ……安藤さんには及びませんが、私も菰野乃木先生のファンで……」

「……私のパソコンのメールアドレスはご存知でしょうから、取材の際はそちらに連絡いただければ、」

「あ、あの、違うんです」

塚本は細い指で菰野乃木の服の裾を握った。さすがに振りほどくわけにもいかず、菰野乃木は渋々足を止めた。

「正直に申し上げると、私が個人的にあなたと仲良くなりたいんです」

「……はあ……?そうですか」

塚本の意図が分からなかったが、つまりは会社を通さず連絡が取りたいということなのだろう。

菰野乃木にとって、塚本は肉としては物足りず、なおかつ友人でも敵でもないかなり興味のない存在であった。

しかし、性別が女であればもしかしたら伊妻が殺したがるかもしれない。キープしておいて、面倒臭くなったらすぐ連絡先を消そうと結論付けた。

とりあえずメールではなくメッセージアプリのIDでも交換するべきだろうかと、菰野乃木はポケットからスマートフォンを取り出した。

「……LINEでいいですか?」

「えっ、いいんですか?」

塚本は菰野乃木の言葉に目を輝かせた。

「嬉しいです!ありがとうございます!」

塚本のアイコンは三毛柄の猫の写真だった。名前は「みかげ」となっている。

「『みかげ』さんで間違いないですか」

「は、はい……菰野乃木さんはフルネームなんですね」

突然下の名前で呼ばれた塚本は僅かに頬を赤らめ、目を逸らした。

「ええ。アプリなどはよく分からないので全部友人に頼んで設定してもらいました」

「……このお写真に一緒に写っている人ですか?」

塚本は菰野乃木のアイコンを指で差した。

写真は二十代の頃一緒にテーマパークに行って、伊妻が強引に撮ったツーショットだった。

無理矢理伊妻にキャラクターのカチューシャを着けられた菰野乃木が顔を顰め、その隣で伊妻は嬉しそうにカメラ目線でピースをしている。

「ええ、そいつですね」

「……ふふ、菰野乃木さんには素敵なご友人がいらっしゃるんですね!」

何が面白いのか、塚本は鈴が転がるような声で笑った。



買い物を済ませてスーパーを出ると、商店街の広場で髪の長い男が何やら演説をしていた。

広場に集まった人々も同じような白い服を着て、男の周囲に集まり話に聞き入っている。

菰野乃木は観衆を避けながらマンションのある方角へと歩いていった。

男は白い法衣の袖から伸びる痩せぎすの腕を振り上げ、朗々と言葉を紡いだ。

「世界には均衡がございます。この世で幸せになれる数は決まっていて、人類の何割かはどう頑張っても必ず幸せからあぶれてしまいます。しかし、我々が不幸を自ら背負うことでその分他人を幸せにすることが出来るのです。────自分が幸せにならなければ、つまらないと思いますか? 汝、不幸を愛せよ。肉体など、魂を囲う檻に過ぎません。不幸を愛せた者だけが肉体から解き放たれて空へと旅立ち、慈悲深きれうじえんの懐に抱かれることができるのです。それこそが、我々にとって真に恒久の幸せであり『ルライの園』への到達なのです」

菰野乃木は立ち止まった。

────『肉体は魂を囲う檻』……?

父親の著書に似た文章があったことを思い出す。

小説の中で連続殺人鬼の司祭が自白する場面の、『肉の檻に閉じ込められた魂を救済する』という台詞だった。

男の視線が菰野乃木の姿を捉えた。

彼の灰色の目が一瞬驚いたように揺れたかと思うと、やがて男はこちらに向けて深々と頭を下げた。

掲げた指は九字護身法に似た奇妙な形に組まれていた。

「我らが神よ……れうじえんよ、どうか彷徨うルライの民に導きを与えたまえ」

演説を聞いていた信者たちは男に向かって歓声を上げ、皆一様に手を叩いて拍手をしている。

喝采の中、菰野乃木は人混みを縫うようにしてその場から立ち去った。



『鈴木』のマンションに着くと、冷蔵庫に買ってきたものを並べた後しばらくソファに座って本を読んだ。

菰野乃木燈一の著書である『血塗られた功徳くどく』────部屋に父の本を置いておくとなぜか伊妻が嫌な顔をするので、元々『鈴木』の部屋に彼の著書は一冊も置いてなかった。

そのため、菰野乃木は買い物の帰りにわざわざ書店に寄り道し、新品を買って帰ってきた。

『肉の檻』に関するページを探し出し、文章を指でなぞる。



ソワトは血で濡れた両手を組むと、立ちはだかるエリプスの前で膝をついた。

教会のステンドグラスから降り注ぐ朝日がふたりの横顔を白く照らしていた。


「神託が下ったのでございます。私は神の御名において、肉の檻に閉じ込められた魂を救済するのです」



ソワトは司祭、エリプスは新聞記者である主人公の名前だ。

ソワトによる連続殺人を見抜いたエリプスは、教会で彼を糾弾する。それに対してソワトは『殺しは神の神託である』と告げる場面である。

ちなみにこの後、ソワトの説得に失敗したエリプスは彼によって殺害される。

唯一真相を知る主人公は死に、司祭の殺人はこれからも続く、という結末で物語は終わる。

父である菰野乃木燈一の小説は全て主人公が死に、殺人鬼が生き延びて終わる。結末に例外は無い。

今思えば、それは殺人鬼である笹倉ささくら佳史よしふみに執着していた父の、秘めたる願望を表していたのかもしれない。

エリプスが父でありソワトが笹倉なら、父は本来なら笹倉の手にかかって殺されたかったのだろう。

なぜそこまで笹倉に傾倒したのかは分からないが、その結果父親は人の肉しか口にできない怪物────自分を生み出した。

本を閉じて、ソファに座ったまま項垂れる。

演説していたあの男は偶然父の小説に似た文言を述べただけなのだろうか? もしくは父のファンなのか────考えたくはないが、あるいは父の方が…………。

突然鳴ったスマートフォンの通知で我に返った。画面を開くと、先程連絡先を交換した塚本からだった。

『塚本です!先程はありがとうございました。美術館のチケットが二枚あるのですが、よかったら近いうちに一緒に行きませんか』

メッセージの後、美術館のリンクが送られてきた。彼女の好きなアーティストの特別展示が梔子市の美術館で開かれるらしい。

菰野乃木は特に絵画や芸術に造詣が深い訳では無いので、断ろうと文章を打ち────ふとテーブルに置いたままの本を手に取り、書店のカバーを外して表紙を確認した。

────アカゲラ出版……。

アカゲラ出版は塚本の勤める会社だ。

菰野乃木は一度打った文章を全て消すと、承諾の返事に書き換えて送った。



同日 夜 『鈴木』


伊妻が十七歳、菰野乃木が十八歳の時に初めて出会ってから、ほぼ毎日のように顔を合わせて生活も殺しも共にしている。

親友であり共犯者でも主治医でもある伊妻からすれば菰野乃木のことなら何でも知っていると言いたいところだが、実際はそうはいかない。

そもそも、伊妻から聞かなければ、菰野乃木が自分から身の上を話すことはまずない。

しかし、あれもこれもと深掘りして尋ねるほどの厚かましさを彼に向けて、自身の邪な心がバレてしまうのは嫌だった。

食事中にふと視線を感じて顔を上げると、菰野乃木はフォークを握ったままじっと伊妻の顔を見つめていた。

彼の真っ黒な瞳は、光の届かない森の奥のような、清廉ながら湿度のある冷ややかさを感じる。

菰野乃木の視線が長時間自分に向くことは珍しいので、すぐに声をかけるつもりが数秒間黙ったまま彼の両眼を凝視してしまった。

本当に美しい目をしている────まるで死んだ人間のようだ。

表面は艶やかなのに虹彩に輝きを感じない。瞳孔が開きがちなせいで異常なほど真っ黒な瞳は、意外に柔らかな眼差しをこちらに投げかけてくる。信頼、そして友愛を強く滲ませて。

彼の眼球をくり抜いて口に入れたらどんな味がするのだろうか。葡萄の皮のように薄い結膜を歯で噛み破り、その中から溢れ出る硝子体を味わって、自身の肉体の糧とする悦びはいかほどのものだろう。

口の中に唾液が溜まり、心臓がうるさい程に高鳴る。今伊妻が手に持っているスプーンでその目を抉り出したら、菰野乃木はどんな反応をするのだろう。どんな苦悶の表情を浮かべてくれるのだろうか。

ごくり、と口に溜まった唾を飲み込む。その音が静寂にやけに大きく響いた気がして、取り繕うように笑みを浮かべた。

「……ノギさん、どうしたの?」

「俺の父親とルライの園に関連があるかもしれない」

意を決したように菰野乃木はそう切り出した。父親の話をすると伊妻は嫌がるのであまり話したくなかったが、親友に隠し事をするのも気が引けた。

菰野乃木の言葉に伊妻は瞳を陰らせて、手に持ったスプーンへと視線を落とした。

「ルライの園ってカルト宗教でしょ。なんでまた?」

「……駅前でルライの園が演説していた。その文言が父の著作の中の台詞と似通っている」

躊躇いがちにそう言って菰野乃木はフォークで生肉を刺し、誤魔化すように口元に運んだ。

伊妻はため息をついて、スプーンをテーブルの上に置く。

「……結び付けたくなる気持ちは分かるよ。でも……多分偶然じゃないかな」

菰野乃木は眉を顰めたまま肉を咀嚼している。伊妻の口から否定の言葉が出てくるとは思ってもいなかった。いつものように意気揚々と一緒に調べよう、と言い出すものだと思っていたが、予想外の渋面に困惑していた。

「アンタの父親はそこそこ影響力があるんだからさ。教祖がお父さんのファンで、作中の台詞をわざと真似たんじゃないの?」

「俺もそう思ったが……少しでも可能性があるなら調べて……」

「カルト宗教になんて関わるべきじゃないよ」

菰野乃木の言葉を遮るように強い口調で言うと、伊妻はグラスに注がれた水を一口飲んだ。

「俺はばあちゃんに引き取られる前ほんの少しだけ伯父さんに預けられてたけど、ルライの園にどハマりして有り金全部寄付して、挙句生活苦で自殺してる」

「……俺は入信するわけじゃない」

「皆が皆入信するつもりで近付くわけじゃない。でも結局騙されて取り込まれるのさ。アンタみたいな嘘が下手で他人を疑わない男が太刀打ちできるものじゃないんだよ」

菰野乃木は伊妻の剣呑な口調に戸惑いつつも、嘘が下手と言われたことに不満げに唇を尖らせる。

「俺を馬鹿のように言うな」

「だって馬鹿だろ。菰野乃木さんは騙されたって疑いもしないような性格じゃないか」

伊妻の言葉に、険悪な空気が漂う。菰野乃木はムッとして眉根を寄せた。

「騙されたことなんてない。お前以外と関わることもないのに誰に騙されるんだ?お前は俺に隠し事なんてしないだろう」

菰野乃木の言葉に、伊妻は静かに息を飲んだ。今更誤魔化すには、一瞬の沈黙はあまりに重かった。

「……何を隠してるんだ? 親友に嘘は無しだろ」

探るようにじっと伊妻の瞳を見つめると、ふらりと視線が逸らされる。

「嘘はつかないけど……隠し事くらい誰にだってあるでしょ」

「俺は無い。親友に話して困ることなんて」

菰野乃木が自身の『親友』という言葉で伊妻を傷付けていることに気付くわけもなく、それを知っている伊妻は自嘲するように笑った。

「俺はあるの。親友だからこそ話せないことが。────とにかく、変なものに首突っ込まないでね。……俺、明日早いからそろそろ寝るよ」

伊妻は食器を置くとそそくさと立ち上がった。

「おい、待て……」

菰野乃木が言葉をかけ終える前に伊妻は寝室へと逃げ込んでしまった。

────親友だから話せないこと?そんなこと、存在するのか?

菰野乃木には、伊妻に話せないことなどひとつもなかった。聞かれれば何だって答える心積りだ。だから伊妻の言葉の意味が理解できず、何と声をかけるべきかわからなくなってしまった。

その日はそれ以上会話らしい会話もできないまま、仕方なく眠りについた。




十月十日 午前九時半 梔子市立美術館



三日後、菰野乃木は塚本と共に梔子市立美術館を訪れていた。

塚本はいつもの眼鏡をかけておらず、服装もとろみのあるブラウスにベージュのマーメイドスカートという女性らしい出で立ちだったが、菰野乃木はそれをお洒落だと認識するどころかむしろ眼鏡をかけていないことを訝しがった。

「目が悪いのかと思っていました」

「あ、いえ……今日はコンタクトで」

塚本は顔を赤らめ、ない眼鏡をかけ直す仕草をした。

「気合いを入れました」

「気合い……?」

「菰野乃木さんはいつも通りですね」

菰野乃木は普段よく着る黒のタートルネックと黒のズボンを身につけ、上にはカーキに近いブラウンのステンカラーコートを羽織っていた。コートは伊妻が買ってきたもの、それ以外は父のお下がりだ。

「そうですね。私も気合い?を入れるべきだったのでしょうか」

「いえっ、とんでもないです!普段通りで充分素敵なので……。さ、行きましょうか!」

塚本に促されるまま館内に入った。スマートフォンをマナーモードに設定し、コートのポケットに仕舞う。

「MISOは花と人を融合させたモチーフを得意とするアーティストなのですが、仄暗くグロテスクながらも神聖さを感じる独特な作品が菰野乃木燈一先生の小説の世界観に通じるものがあって私はすごく好きなんです」

塚本は息継ぎもせず矢継ぎ早にまくし立てた。こういう好きな物を前にすると饒舌になる部分は上司の安藤とよく似ている気がする。

菰野乃木は適当に相槌を打ちつつ、壁面に飾られたキャンバスを眺めた。

木炭で写実的に描かれた男性の裸体から根が張り、そこから鮮やかな青い花が咲いている。花の部分は油彩だろうか?人物画はあえて平面的に描かれているのに対し、花の部分にだけエンボス加工のような厚みがあって、まるで実際にそこに咲いているかのように生き生きとしている。

描かれた男性の苦悶の表情といい絵のコントラストといい、美しいがあまり健康的な思考で描かれた絵だとは思えなかった。

父親の作品と似ているかについてはいまいち理解できなかったが、詳しくないにしても菰野乃木は絵を見ること自体嫌いではなかった。しばらくの間、無言でその絵の筆致を追う。

「……丁寧な線で描かれた絵ですね」

真剣な顔でそう呟く菰野乃木の横顔を見て、塚本は微笑んだ。

「ふふ、菰野乃木さんが気に入ってくれて嬉しいです」

「塚本さんは────私の父の作品をどのくらいご存知なんですか」

菰野乃木の言葉に塚本は顎に手を当てて考え込む仕草をした。

「どのくらい……そうですね、世に出ている作品は全て読んでいるはずです。アカゲラ出版に就職したのも、菰野乃木燈一先生の作品を最も多く扱っていたのがこの会社だったからなので……」

「それでは、『血塗られた功徳』も……」

菰野乃木が喋り始めたのとほぼ同時に携帯電話のバイブ音が鳴り始めた。塚本のスマートフォンだった。

「すみません、仕事の電話です!私一旦外に出てきます!」

「……お待ちしています」

塚本は小走りで展示室の外に出て行った。取り残された菰野乃木は、ただ目的も無く順路に沿って作品を鑑賞した。

ふと額に入った一際大きな絵の前で足を止める。

どうやらMISOの代表作らしきその絵の周囲には特に多くのオーディエンスが群がっていた。

確かに、その一作だけが他の絵画とは明らかに雰囲気が違った。

安らかな表情で横たわる男性の周囲に、取り囲むようにして色とりどりの花が咲いている。男性の唇は緩く微笑を湛えている。その口元にあるほくろが中性的な色気を醸し出していた。

全体的に淡い色調も柔らかな筆遣いも、他の作品とは異彩を放っていた。

「『NORI』という作品らしいです」

声を掛けられて右隣を向くと、眼鏡をかけたスーツ姿の男が菰野乃木の横に立って作品を見上げていた。

気分が悪いのか、青い顔色で口元にハンカチを当てながら男は言葉を続けた。

「MISOの最高傑作と言われています。いつ描かれたものかは分かっていませんが、世に出たMISOの作品としては最後の作品です。……これ以降彼は一枚も絵を描いていません」

「……満足いく作品が描けたから描くのを止めたのでしょうか」

男は青い顔のまま微笑み、首を横に振った。よく見ると、その男は絵に描かれた人物に似ている。

「この絵のモデル────彼の愛した弟によって筆を絶つことを強いられたからです」

菰野乃木は作品に視線をやったまま首を傾げた。

「なぜ弟さんは筆を折ることを強要したのでしょうか」

「劣等感です。絵のモデルである弟には絵の才能がなかった。だから兄を憎んでいたんです」

「では『描くな』と言うのではなく……自分の思いを正しく伝えるべきだったのでは?」

菰野乃木の言葉に男は苦笑し、目を伏せた。

「実の兄弟だからこそ、言葉に出来なかった。自分の醜い感情をさらけ出すことで関係が決定的に壊れるのが怖かったのです」

「兄弟だからこそ……言えない?」

────伊妻も、親友だからこそ言えないこともあると告げていた。それは、自分たちの関係を壊したくなかったからなのかもしれない。

「……今の関係が壊れても、また別の新しい関係を構築してしまえばいいと思うのは私だけでしょうか」

菰野乃木の言葉に、男はハッとしたように目を見開き、口に当てていたハンカチを下ろした。

その唇の右下、絵の男性と同じ位置にほくろがあった。

「……そう、ですね。あなたはどう思いますか? ……弟の方からそれを伝えてもいいのかどうか」

「さあ、どうでしょうか」

 

菰野乃木は改めて作品全体を見渡した。

「……私に芸術は分かりませんが、この作品からは強い敬慕を感じます。愛情や優しさも惜しみなく。それに少なからず応える気持ちがあるならば、お兄さんを救えるのはその弟さんだけなのでは?」

「……すみません、私はもう行かなければ」

男はスーツのポケットから名刺入れを取り出し、その中の名刺を一枚取って菰野乃木に手渡した。

「あなたと話せてよかった。何かあれば力になります。連絡をください」

菰野乃木は手の中の名刺に目を落とした。

────迎崎むかえざきいのり…………I『NORI』か。


男とほとんど入れ違いで塚本が戻ってきた。

「ごめんなさい、安藤さんが急にいなくなってからまだ職場がバタバタしていて……もう用事は済んだので大丈夫です」

「作品を見ていましたから、どうかお構いなく」

菰野乃木は『NORI』を見上げた。

「いい絵ですね。気に入りました」

「そうでしょう。あ、物販もあるので後で行きませんか?ポストカードもあるみたいですよ」

「ええ。友人に土産を買いたいので」

塚本は嬉しそうに頬を緩めた。

「あのLINEのアイコンのお友達ですか?」

「そうです。私に友人と呼べるのは彼だけなので」

菰野乃木は物販でポストカードを一枚だけ買った。塚本は目を輝かせながら大量のグッズを買い込むと、美術館に併設されているカフェに菰野乃木を誘った。

「……水だけでいいなら」

「お腹が空いていないんですか?」

菰野乃木は頷いた。塚本に人肉食のことを打ち明ける気はなかった。

「塚本さんはお気になさらず何か召し上がってください。私は朝が遅かったので」

塚本は躊躇いつつもホットサンドとコーヒーを注文した。菰野乃木はミネラルウォーターだけを購入して、塚本と向かい合ってテラス席に座った。

「アカゲラ出版では『ルライの園』に関する書籍は扱っていますか」

 菰野乃木は開口一番にそう尋ねた。リスのようにホットサンドを頬張ったまま、塚本はこくりとうなずいた。

「宗教関連の部門では『ルライの園』の書籍が一番売れますから。とはいえ、ウチから出ているのは教祖である大井出おおいで朔也さくやの書いた自己啓発本が三冊ほどですね」

「……その大井出朔也という人に直接会って話す方法はありますか」

ううん、と唸って塚本は険しい顔をした。

「それはなかなか難しいですね。ウチも取材自体は申し込んだことがありますが、全て断られてしまっていますし……。大井出朔也と日常的に接する機会があるのは、ごく一部の幹部と……あとは彼の主治医だけだと言われています」

「主治医……ですか」

菰野乃木は脳裏に浮かぶ嫌な予想を掻き消そうと、ミネラルウォーターの入ったグラスに口をつけた。無論、菰野乃木の体質では水などで喉の乾きは治まらなかった。

「ええ、大井出朔也は一年前に脳出血を起こしているので。……それから定期的に梔子市の大学病院に通っているようです」

脳出血なら脳神経外科だ。梔子大学医学部附属病院の脳神経外科医はひとりしかいない。

菰野乃木はこめかみに手を当てながら俯いた。

「……菰野乃木さん、大丈夫ですか?」

「ええ……大丈夫です……」

────親友だから言えないこと。関係を壊してしまうようなこと。つまり、父の過去にまつわる何かを伊妻は知っていて、隠している。



美術館を出て塚本と別れた後、菰野乃木はホームセンターに寄ってロープを手にした。その後店内を一周してから、追加で手芸用の裁ち鋏を一挺だけ購入した。

伊妻に携帯からメッセージを送ると、『鈴木』のマンションではなく旧菰野乃木邸へと向かった。



同日 昼  梔子大学医学部附属病院



「……お疲れ様でした。CT、血液検査ともに異常はありませんでした」

伊妻は言いながらCT画像の一部をペンの先で差してみせた。

「出血が起きていた部位も特に問題ありません。次回はまた一か月後でよろしかったですね」

「ありがとうございます」

大井出は胸に手を当て、安堵したように微笑んだ。彼はいつもの白い法衣ではなく、グレーのワイシャツに黒い綿のズボンを身につけている。長い紫色の髪も、後ろでひとつに結ってあった。

「こちら、検査結果です」

伊妻は検査結果の用紙と、その下に他の看護師には見えないように血の入ったスピッツを隠して大井出に手渡した。

大井出は紙とスピッツを受け取ると、伊妻に深く頭を下げてお辞儀をした。

「いつもありがとうございます。……また来月、よろしくお願いいたします」

大井出が診察室から退出すると、伊妻の斜め後ろに控えていた看護師の西表島いりおもてじまが、はあっと大きく息を吐いた。

「やっぱりあの患者は息が詰まりますね。オフとはいえカルトの教祖様だなんて」

「まあ、患者であることに変わりはないからね」

平然とそう言って、伊妻は椅子に深く腰掛け直した。

西表島はCTの造影画像を見ながら不思議そうに首を捻る。

「でも脳出血から一年以上経ってて予後も悪くないのに、どうして毎月欠かさず検査するんですか? これなら半年に一回で十分でしょう」

伊妻は手に持っていたペンを口元に当て、皮肉の籠った笑みを浮かべた。

「……さあね。向こうのご希望に沿ってるだけだから。教祖サマは心配性なんじゃない?」



その日、伊妻が仕事を終えたのは夜の二十時だった。

更衣室に着替えに戻ったとき、スマートフォンの画面が光っていることに気がついた。菰野乃木からの連絡だった。

『話がある。父さんの家に来てほしい』

それだけの文章だった。菰野乃木から連絡が来ること自体稀なのに、彼にとって忌まわしい事件のあった旧菰野乃木邸を場所として指定するのはさらに珍しい。

なんとなく嫌な予感を覚えながら、車に乗って指定の場所に向かった。

菰野乃木邸は真っ暗だった。本当に中に彼がいるのか不安を覚えつつ、合鍵で玄関を開けると、靴を脱いだ。

「菰野乃木さん?どこー?」

コートのポケットに手を突っ込んだまま、真っ暗な廊下を歩いて居間へと入る。一歩足を踏み入れたところで、突然後ろから羽交い締めにされた。

「えっ、何、どうしたの!?」

伊妻の両腕を掴んでいるのは菰野乃木だった。意味がわからず目を白黒させる伊妻の喉元に、菰野乃木は鋏の切っ先を突き付けた。

「椅子に座れ」

「椅子?ここ?まあ座るけどさ……」

指差された椅子に大人しく座ると、タオルで手首を包んだ後、上からロープを巻かれ、体を縛られた。伊妻は特に抵抗らしい抵抗はしなかった。

「何なの?ちょっと黙ってないで説明してよ」

「大井出朔也の主治医であるということをなぜ黙っていた」

抑揚のない声音ではあったが、菰野乃木の口調には強い怒気が含まれていた。

伊妻は薄笑いを浮かべ、椅子にもたれかかった。

「え?大井出ってあのルライの?なんで俺が……」

「もうわかってる。白を切るな」

菰野乃木はそう言って伊妻の胸倉を掴む。彼の怪力のせいで体が上に持ち上げられ、伊妻の体ごと椅子までが宙に浮く。息苦しさを感じつつも、伊妻はなおも軽薄な態度を崩さなかった。

「……まあ病院には来てるけど、それだけだよ。別に医者として診てるだけだし」

「そうか」

溜息をついて、菰野乃木は伊妻から手を離した。

「話すつもりはない、と思っていいんだな」

「話すつもりはないっていうか、話すことがないっていうか……。それで?俺の事脅すか……拷問でもするの?」

菰野乃木は自らの手に握った鋏を一瞥し、首を横に振った。

「いいや。お前を痛みで支配することなんてできないだろう?」

「じゃあもうこれ解いてくれない?馬鹿力で縛られてるから結構つらいんだけど」

「それはできない」

鋏を床に置くと、菰野乃木は伊妻の眼前に自らの手の甲を掲げた。

「いいか?まずは手の爪。次に目、それから鼻。それでも話さなければ喉を掻き切る」

「────ちょっと待って、それはどういう……」

困惑する伊妻の眼前で、菰野乃木は自身の左手の小指の爪を引き千切った。


菰野乃木は剥がした自分の小指の爪を床に落とした。からり、貝殻のような乾いた音を立てて爪はフローリングの上に転がる。

「……え?な、何やってんの!?ちょっとこれ解いて!」

「知っていることを全て話せ」

「何もない、隠してることなんてないよ!ねえ、止血するから解いて!」

「じゃあ次だな」

菰野乃木は次に左手の薬指の爪を剥がした。まるで見せつけるように、ゆっくりと反対の手で剥いでみせる。

「もうやめようよ!俺何も知らないって」

「爪の後は目だ。覚えておけ」

菰野乃木は中指の爪に手をかけた。めりっ、と音がして、爪がじわじわと指から剥がれていく。血が糸を引き、皮一枚繋がったまま爪がぶらぶらと揺れる。伊妻は必死に浅い呼吸を繰り返した。

「やめてよ。そんなの見たくない!」

「見ろ。痛みをきちんと感じろ」

菰野乃木が反対の手を勢いよく引くと、ぶつりと音がして、中指の爪が千切れた。付け根に肉片がついたそれを同じように床に落とす。

「話す気になったか?」

「お願い、何も知らないから……」

か細い声でそう呟いた伊妻を見て、菰野乃木は片眉を上げて人差し指の爪に手をかけた。

「待って……!分かった、話す!……だから止血させて」

「いい。そのまま話せ」

菰野乃木はその場にしゃがみ込むと血塗れの左手で頬杖をつき、伊妻を見上げた。

伊妻は青ざめた唇を震わせながら、恐る恐る口を開いた。

「……俺は……大井出朔也と契約を結んでる。月に一度、アンタの血を渡す。その代わりに見逃してもらう。一年前からずっとやってる」

「理由は?見逃す、とはなんだ」

「あいつが言うには、菰野乃木さんの血は『神聖なもの』らしい。本当は教団に来てほしいらしいけど、定期的に血を渡すことでそれはなんとか断り続けてる」

────俺の血が神聖? どういう意味だ?

「なぜそれを俺に黙っていた?」

「……笹倉佳史が絡んでる」

伊妻は観念したようにそう言うと、脱力し椅子に沈みこんだ。

父を誘拐した男の名を聞き、菰野乃木は目を見開いた。

「笹倉が?」

「笹倉はルライの園の御神体だった。あの男が死んで、ルライの園には笹倉と互換性のある人間────アンタが必要になった」

「……笹倉が死んだのは一年前なのか」

「大井出は『れうじえんが空に帰った』って言ってたから死んだんだと思う。……だから代わりがいるんだって」

菰野乃木はまだ残っている左手の親指の爪を噛んだ。

────父は笹倉佳史に執着し、自分という化け物を作った。笹倉と自分に共通するのは生粋の人肉食であること。大井出の言う『れうじえん』は人の肉しか喰えない食人鬼を指しているのか?

「大井出に会いに行く」

「やめてって言っても行くんでしょ。もう止めないけど……ちゃんと戻ってきてよ」

「そうか」

菰野乃木は険しかった表情を緩めた。伊妻は縛られた後ろ手をもぞもぞと動かした。

「止血したいからこれ解いてくれる?」

「できない」

菰野乃木は血塗れの左手で伊妻の頬に触れた。頬を濡らす血は熱いのに、掌の温度は死人のように冷たい。

「叔父さんの言いつけだからと律儀に俺を守ってくれていたんだろう?でも、こんなことをさせるくらいならもう俺と関わるのはやめるべきだ」

「……は?」

伊妻の顔から血の気が引いた。

菰野乃木は伊妻から離れると、自分の左眼に指を添えた。目の縁、瞼と眼球の間に指を深く押し込む。

「ぐっ……」

だらりと力なく、血の涙が菰野乃木の頬を伝う。伊妻は呼吸も忘れてその姿を凝視した。

力を込めた指の間からぶつりぶつりと聞こえる音は、毛細血管の千切れる音だろうか? 白かった結膜が徐々に赤く染まっていくのが分かる。

菰野乃木は自分の左眼を眼窩から完全に抜き出してしまった。ゴルフボール大のそれが視神経と繋がったまま瞼から垂れ下がる。

裁ち鋏を使って眼球の付け根のあたりで視神経を切り離すと、彼は伊妻の眼前にそれを摘み上げてみせた。

伊妻は禁じられてもいないのに一言も喋ることが出来なかった。

血に塗れた目玉は、元の持ち主の顔に在った時のような美しさを失っていた。菰野乃木の眼窩から抜き取られた眼球はただの臓器であり、硝子体で満たされた球体に過ぎなかった。

それは伊妻にとってはあまりにも衝撃的で、絶望に近い感覚だった。

「前からこれを欲しがっていたことくらい、俺も知っていた。……餞別だ、好きにしろ」

菰野乃木は呆然と開いたままの伊妻の口に自分の眼球を押し込むと、彼に背を向けた。

「さよなら、伊妻」

伊妻は引き止めることも声を上げることも出来ず、放心状態で菰野乃木の背中を見送った。



(続く)



← 前の話 | 目次へ| 次の話 →