ヒステリア・シベリアナ(2)




十一月十二日 メゾンド・ヒル・マイナ



伊妻は一か月前に起きた恐ろしい出来事の悪夢を見て、そして目を覚ました。

体が重い。全身に汗をかいている。口の中にまだ眼球の味が残っている気がして、無理矢理唾を飲み込む。とりあえず上体を起こし、着ていたスウェットの上を脱ぐ。

ベッドから立ち上がろうとしてふらつき、足の力が抜けてその場に座り込んだ。

────菰野乃木が伊妻の元を去った後、朝になると刑事のみやこがやってきて、伊妻の縄を解いた。

その時には伊妻は高熱でほとんど気絶しかけていた。都は菰野乃木から連絡を受けたと言っていた。

「病院行くか?それとも家?」

「い、家……」

自分より十五センチメートル近く背の高い伊妻を引き摺るようにして、都は黒いバンの後部座席に彼を押し込んだ。

運転席には見慣れない若い男が座っていた。

「優作さん、大丈夫ですか?」

「ああ。この馬鹿すげえ熱出してやがる。途中で熱止め買うから薬局寄ってくれ」

「わかりました!」

「こののぎさんは……?」

「知るか!お前を回収しろって話しか聞いてねえよ」

都は助手席に乗り込むと、シートベルトを装着した。後部座席を一列使って寝転がっている伊妻はシートベルトを着けなかったが、運転席の男は特に気にせず車を発進させた。

そのため、車が動き出すと同時に伊妻は車のシートから転げ落ちて床に盛大に体を打ちつけた。

都に血について聞かれたので菰野乃木がやったことについては一通り説明したが、その眼球がどこに行ったのかは流石に言うことができなかった。

伊妻は菰野乃木の体からその一部が欠落してしまったのが惜しくて、どうせならばと口の中のそれを噛み砕いて嚥下したのである。

その時は気が動転していたからか、食人病などへの恐るべき脅威は頭から消えてしまっていた。

高熱もおそらく眼球を食べたせいで起こったものだったが、一週間後の朝に目を覚ますと熱は嘘のように引いていた。

むしろ以前より体が軽く、力が有り余っているような気すらする。

菰野乃木佳史という人間と似て非なる男の体の一部を取り込んだのだから、伊妻も普通ではなくなったのかもしれない。

菰野乃木の行き先は分からなかった。GPSを仕込んでいた菰野乃木のスマートフォンは『鈴木』のマンションに置いたままになっていた。

大井出の元に行くと言っていたので熱が下がった翌日に教団の本部を訪ねたが、当然のように警備員に門前払いを食らってしまった。

帰れと言われて大人しく帰ったのは、何となくルライの園には菰野乃木が居ないような気がしていたからだ。いや、少なくともこの梔子市にはもう居ないだろう。

しかし、だからと言って彼がどこに向かったのかまでは検討もつかなかった。

伊妻にとっては置いていかれた悲しさよりも、自分が選択を誤ったことへの悔しさが深く胸に突き刺さった。

上手く立ち回っているつもりだった。菰野乃木を失うかもしれないという危機感は常にあったはずだ。

まだ二十代の頃、菰野乃木はふらりと家を出て三日も帰らなかったことがあった。財布も電話も家に置いたままだったので、伊妻は半泣きで近所を探し回った挙句アフリカにいる菰野乃木の叔父に連絡するかと迷ったが、結局彼は三日後にいつの間にか帰ってきて、平然とソファに座って本を読み始めた。

何をしていたのかと問い詰めると、菰野乃木はいつも通りの無表情で海を見に行ってきたなどと言うものだから安堵よりも怒りが激しく勝った。

その際かなり叱責したおかげでさすがの菰野乃木も出かける際に携帯電話を持ち歩くようになったが、それからというもの伊妻は常に大きな不安を抱えることになった。

────この男はいつでも自分を置いていける。心を痛めることもなく、ふらりと散歩に行くように去っていくだろう。

しかし、今回はただ海を見に行くのとは訳が違う。菰野乃木は強い意志を持って伊妻と決別したのである。

おそらくもう二度とここに帰ってくるつもりはないだろう。

熱が下がった後は、しばらく職場と自宅を往復するだけの日々が続いた。悲しいことに体力だけは十二分に持て余していたので、以前より残業をしてなるべく仕事に打ち込んだ。

時たまバーで出会った赤毛の女性に彼の面影を重ねて殺したりもしたが、大した気休めにはならなかった。

思えば伊妻は十七歳の時に出会ってから、ずっと菰野乃木をこの手で殺してしまいたかった。それと同時に、永遠に生きたまま自分の傍にいてほしかった。

相反する願いのどちらを取るかで悩み続けてそのままなるようになるのだと思っていた。

しかし選択を誤ったせいで、両方の願いが叶わなくなったのだ。


夜、自宅に都が尋ねてきた。茶髪のロングヘアを緩く巻いたウィッグを被り、オープンショルダーのニットとグレンチェックのミニスカート、そして黒いニーハイブーツを履いていた。

女装をしているということは狩りの前かと思ったが、その隣には以前バンの運転をしていた若い男を従えていた。

「……都ちゃんが俺の家に遊びにくるなんて珍しいじゃん」

「遊びになんて来るわけねえだろダボ!デート……じゃなくて少し出かけるついでに寄ったんだよ」

「体調いかがですか!祖父が心配しておりました!」

若い男が大きな声ではきはきとそう言った。目の輝きと言い色素の薄い茶髪といい、どこかで見たような見た目をしている。

「ご挨拶が遅れました!自分田子谷たごやと申します!」

「……もしかして濠蔵ごうぞうさんのお孫さん?」

田子谷と名乗った男は、伊妻が定期的に訪問診療をしている元政治家の老人に面影がよく似ていた。

都ちゃんすっごい彼氏捕まえたね~、などとぼやくと、都に睨まれ脇腹を割と強めに殴打された。

伊妻はふたりを居間に案内しコーヒーを振る舞おうとしたが、都に断られたので大人しく床に座った。

都と田子谷はすぐ帰るつもりなのかそれとも足の踏み場が無いからか、コートを脱いだり座ったりする様子はなかった。

「テメーの部屋、クッソ汚ねえな」

書類や本が散乱している室内を見て都は渋面を作ったが、いつものように癇癪を起こしたり怒鳴ったりする様子はない。都なりに伊妻に気をつかっているようだ。

「……お前、目に見えてやつれてるぞ」

「エーッ?そう?」

伊妻は誤魔化すようにヘラヘラと笑って見せたが、確かに自分でもその自覚はあった。最近夜はろくに眠れず、食事もまともにとっていない。

都は険しい顔のままコートのポケットから手帳を取り出し、その中のページを一枚破って伊妻に手渡した。

「……何これ」

口兄くちあに市の海沿いにある立里たちさと埠頭のフェリー乗り場で、受付の職員がちょうど一か月前、赤毛の男にチケットを売ったそうだ。左目に眼帯を着けていたからよく覚えていると。行き先はここ。メモに書いた」

────ああ、こいつわざわざ聞き込みまでしたんだ。

目頭がじわりと熱くなる。ずっと押し殺していた苦しいという気持ちをつい口に出しそうになり、唇を噛んで耐える。

「それを……そこに、行ったところで……」

伊妻は少し言葉に詰まり、鼻を啜った。

「俺に……どうしろって?」

「知るかよ。ただ……一応教えただけだ」

都は仏頂面でそれだけ言うと、踵を返した。

部屋から出て行く直前、彼は少しだけ立ち止まってこう言った。

「お前のことは殺したいほど嫌いだが、菰野乃木には多分お前が必要だからな」

逆だ。伊妻にとって菰野乃木の存在が必要だったのだ。常に追いかけているのは彼ではなく自分の方だった。

だから伊妻には、都の言葉の意味が理解できなかった。

伊妻は二人を見送ることもせずに、フローリングの上に座ったまま黙って手の中のメモを見つめ続けていた。



同日 朝 夕匕尸島ゆうさじとう

男は午前中の柔らかな陽射しの中、テトラポットの並ぶ防波堤沿いを歩いていた。波が寄せて返す度に、泡立つ紺の海から磯の香りが漂ってくる。濃い匂いだが不思議と不快ではない。

以前元友人と海に遊びに行ったことがあるが、そこは砂浜のある温かで穏やかな海岸だったのでこの島の冷たくて荒々しい海とはまた違った趣だった。

陽の当たるコンクリートの上に寝転がっていた三毛の野良猫が、男の姿を見ると起き上がって足元へと擦り寄ってきた。白い法衣が地面に擦らないように少しだけ屈んで顎を撫でると、猫はごろごろと嬉しそうに喉を鳴らす。

「れうじえん様!」

威勢のいい声と共に、ドタバタと遠くから駆け寄ってくる足音が聞こえる。猫は驚き、走ってどこかに行ってしまった。男が振り返る前に、まだ年端も行かぬ少年が男の腰に抱きついた。

雪真せつま。もう昼の礼拝の時間か?」

雪真と呼ばれた黒髪の少年は、男の大きな手で頭を撫でられて嬉しそうに頬を緩めた。

「違うよー。ご導師様が本を運ぶのを手伝ってって。れうじえん様は力持ちだから」

「分かった。すぐ行く」

来た時と同じようにぱたぱたと走って戻る雪真の後を、男は大股で歩きながらゆっくり追った。

ルライの園では説法や礼拝を行う指導者的立場の者を導師と呼ぶ。

その教会は高台の上にある。昔ながらの漁村の中で、洋風の作りをしたレンガ屋根の建物はかなり異質で目立っていた。

真っ白な壁をぐるりと一周囲むようにして青い竜胆が植わっており、導師が毎日丹精込めて水やりをしている。導師の話によると、竜胆の花は世界の不幸を全て請け負いれうじえんの元に旅立ったという幼い少女────聖女ルライを意味しているらしい。

長い石の階段を登ると、導師は庭に立って二人を待っていた。

「ご導師様!れうじえん様を連れてきたよ!」

「やあ、ご苦労だったね雪真。居間のテーブルの上にお菓子を用意しているから持っていきなさい」

雪真は飛び上がって喜ぶと、ドタドタと大きな足音を立てながら教会に併設された導師の家の縁側に上がった。教会は洋風の作りだが、導師の自宅は昔ながらの平屋の日本家屋だ。

「佳史もごめんね。以前倉庫にある本を見たいって言っていただろう?だけど腰が悪い私じゃ運びきれなくてね」

「ありがとうございます、哉秋かなあきさん」

男────菰野乃木が礼を言うと、年老いた導師、笹倉哉秋は穏やかに微笑んだ。


菰野乃木が夕匕尸島の導師である笹倉哉秋のもとにたどり着くまでの話をすると、時期は一か月前まで遡る。



一か月前 十月十一日



自身の片目を抉った後、菰野乃木はすぐに『鈴木』のマンションに戻ると流れ出る血をコンロの火で炙って止血した。

朝日が昇る頃、爛れた目元をドラッグストアで買った眼帯で隠して公衆電話から塚本に連絡をした。

「塚本さん、菰野乃木です」

『菰野乃木さん、こんな時間にどうなさいましたか?』

「大井出朔也の居場所を教えてください」

塚本は電話越しで数秒躊躇うように沈黙した。

そして、意を決したように大きく息を吸ってからこう言った。

『恐らく────教団本部に居るはずです。今どこにいますか?私が車を出します』

電話を切って十分もしないうちに、塚本の乗る白のMINIヴィクトリアが薬局前に入ってきて入口の手前に停まった。

菰野乃木が助手席に座ると、塚本は彼の眼帯と傷ついた手を見て表情を曇らせた。

「怪我をなさったんですか?」

「ええ、少し」

「……今、大井出は信者たちに朝の礼拝を行っている時間です。いるなら教団本部の講堂だと思います」

塚本は話しながら車を発進させた。

「何があったか……お聞きしてもいいですか?」

「友人と絶縁してきたんです」

「もしかしてその怪我はご友人に……?」

恐々と塚本は尋ねた。菰野乃木は首を横に振って、眼帯に指で触れた。

「そんなことをするような男じゃありません」

「じゃあどうして……」

「これは自分でやった傷です。見た目ほど痛くないので気になさらず」

自分でやったという言葉を聞いて、塚本は困惑気味に口を噤んだ。それ以上言及しない方がいいと思ったのかもしれない。

車で三十分ほど走った郊外の山の中に教団の本部はあった。

教団本部の周囲は高いコンクリート塀で囲まれていて、中を覗き見ることは出来ない。出入口は正面にある鉄柵の門しかなかった。

塚本は門の前に立つ男達に歩み寄り、声をかけた。

「戻ったわ。大井出さんは?」

「おかえりなさいませ。大井出様は講堂におられます」

「……らしいです。行きましょう」

塚本は男達の開けた門から敷地内に入った。菰野乃木も塚本の背中を追った。

「黙っていたことをお許しください。私もルライの園の一員なんです」

「そうですか」

菰野乃木は無感情に頷いた。塚本は眉を下げ、鈴が転がるような可憐な声で笑った。

「あら、もっと驚くかと」

「驚いています。でもさっきの様子から見て、一介の信者だとは思えません」

廊下で塚本とすれ違う度、信者たちが深く頭を下げてお辞儀をする。塚本はそれらを無視し、早足で講堂に続く廊下を進む。

「そうですね、幹部と言えるかもしれません。教祖の大井出以外にも、指導者的な立場の『導師』と呼ばれる役職があるのです。私もその一人」

「教団で最も上の立場にいるのは大井出ですか」

「便宜上はそうですね。とはいえ、『大井出朔也』は襲名性なので彼は真の教祖とは言えません」

塚本は微笑むと、講堂に続く扉を開けた。

ちょうど礼拝が終わったところらしく、白い服を着た信者たちがぞろぞろと列を成して講堂から中庭へと出ていくところだった。

紫髪に純白の法衣の男────大井出朔也はまだ壇上に立っていて、真剣な面持ちで教義書を眺めていた。

「大井出さん」

塚本が声を掛けると大井出はこちらを振り向いた。塚本の後ろにいる菰野乃木の姿を見て、彼は灰色の瞳を驚きに見開いた。

「なぜ菰野乃木様がここに……」

「彼は伊妻冬吾と決別することを選んだの」

塚本は観覧席の最前列に座ると足を組んだ。彼女の履く白いエナメルのパンプスが、天井のシャンデリアの光を受けて艶々と輝いている。

「そうでございましたか。しかしまさか直接教団に来ていただけるとは夢にも思いませんでした」

「大井出朔也……俺はお前に話を聞きにきたんだ」

菰野乃木は壇上に上り大井出の目の前に立つと、正面から彼の灰色の瞳を見下ろした。

笹倉ささくら佳史よしふみについて知っていることを全て教えろ」

大井出は目を伏せると、菰野乃木の前に膝を付き、手をルライ式に組んで頭を垂れた。

講堂の窓から降り注ぐ朝日がふたりの横顔を白く照らしていた。

「あなた様が望むなら私の知る限りの全てをお話しいたします」

そうして大井出は、笹倉佳史とルライの園の関係について菰野乃木に語り始めた。


────とにかく装飾的で長ったらしい大井出の話を簡潔にまとめると、ルライの園の信者たちの目的は、れうじえんの作った楽園『ルライの園』への到達である。

そのために神であるれうじえんは信徒の血肉を喰らい、肉体という不浄の檻から魂を解放する。

教団では、長年れうじえん────神の生き写しを作るためにとある儀式を行ってきた。

信者に第一子の男児が生まれた場合のみに行われるその儀式では、子どもに母乳ではなく人の生き血を飲ませるのである。

しばらく続けているとほとんどの子どもは栄養不足と免疫不全で亡くなってしまうが、ごく稀に人の血肉に適応する嬰児が出現する。

────その第一の適応例が笹倉佳史である。

笹倉佳史はれうじえんの生き写しとして教団で祀られ、信者の血肉のみを糧として育った。

しかし、笹倉はある時突然教団を脱走して姿をくらませてしまった。

笹倉の行方は分からなかったが、彼は世間では恐ろしい食人鬼として噂されるようになった。菰野乃木の父親である燈一が誘拐されたのも、笹倉が教団から逃げている間である。

五十一年前、教団は笹倉を見つけて連れ戻した。しかし、笹倉は以前のように血肉を口にすることを拒否し、日に日に痩せ衰えていった。

そして、遂に一年前、笹倉は餓死してしまった。『餓死』と一口に言っても、笹倉が完全に飢えて死ぬまでには五十年の月日を要した。それまで笹倉は血肉どころか、水の一滴すらも口にしなかったという。

「そこで我々には新たな神の生き写しが必要となりました。しかし、人の血肉に適応する嬰児はこの五十年間ひとりとしておりませんでした」

大井出は悲しげに首を振った。そして、ルライ式に手を組んだまま目を輝かせて菰野乃木を見上げた。

「あなたは教団の外で偶然────いえ、きっとれうじえんが蓋然的に我々に与えたもうた神の生き写しです。非常に尊く稀有な存在なのです」

菰野乃木は眉をひそめ、遠くを睨んだまま親指の爪を噛んだ。

「俺は笹倉佳史のようにお前たちに大人しく囲われるつもりなどない」

「ええ、お気持ちはよくわかりますとも。我々としても笹倉様に起こった悲劇を繰り返したくはありません。あなた様が儀式のために月に一度血液をくださり、祭事の際には顔を出していただければ満足です。ただ……」

そこまで言うと、大井出は少し口ごもった。

「……できれば、我々の目の届く範囲にいていただきたいというのが本音です。不自由のない生活の保証はいたしますので、本部でなくても、例えばルライの園の支部で暮らすことなどは────」

「大井出さん、それならば夕匕尸島はどうですか?あの島には笹倉様の甥がいますし、菰野乃木様もきっと気にいられるかと」

塚本が横からそう言うと、大井出も納得したように頷いた。

「ああ、確かあそこは小さくて自然が豊かな漁村でしたね」

「……笹倉佳史には甥がいるのか」

菰野乃木は目を丸くした。まさか笹倉の血縁が生きているなどとは想像もしていなかった。

「ええ。笹倉様は小さな子どもが好きで……その甥っ子さんのことは特に可愛がっていらっしゃったようですよ」

大井出は青白く痩けた頬に笑みを浮かべてうなずいた。



笹倉佳史の血縁ならば、彼のひととなりを詳しく知っているかもしれない。菰野乃木は大井出の提案を受け入れることにした。

塚本には念の為警護をつけると何回も言われたが、それを断って一人で立里埠頭からフェリーに乗り、夕匕尸島へと渡った。

笹倉佳史の甥である笹倉哉秋は、菰野乃木が夕匕尸島に着く前に既に大井出から連絡を受けていたらしく、快く菰野乃木を自宅に迎え入れた。

夕匕尸島に住む島民たちは百人に満たず、全員が敬虔なルライの園の信者だった。菰野乃木は島民から「れうじえん様」と呼ばれた。

神様の証として白く丈の長い法衣を着せられ、道を歩けばどの島民にもルライ式に拝まれた。島民からの神仏を崇拝するかのような態度はそこそこに気色が悪かったが、雪真のように無邪気に懐いてくる子どもたちもいたのは救いだった。

菰野乃木の食事である人肉は頻繁に本部から船便で送られてきた。様子を見に夕匕尸島へと訪れた塚本が言うには、それらの肉は「ルライの園に旅立ちたい」と希望する信者たちのものらしい。

哉秋の家の冷蔵庫は、血抜きされ真空パックに包まれた肉と輸血のパックで瞬く間に満杯になった。彼は「もう少し大きな冷蔵庫を買わなくてはね」と苦笑していた。

島で送る暮らしは実に平和だった。

ここにいれば、菰野乃木はわざわざ街に出て人を殺す必要がなかった。

それに、黒髪長身で読書家でもある哉秋に、菰野乃木は自らの父親である燈一を重ねて慕った。父と送りたかったはずの穏やかな生活を、哉秋が代わりに叶えてくれた。

哉秋は最初、菰野乃木のことを他の島民と同じく「れうじえん様」と呼んでいた。しかし、菰野乃木の強い希望で「佳史」と下の名前で呼ぶようになった。

腰の悪い哉秋の代わりに力仕事をして、毎日のように教会へと来る子どもたちと遊び、たまに島民の相談という体の長話に適当な相槌を打つ日々はなかなか悪くなかった。

それでもなぜか、常に大きな空虚を心に抱えていた。まるで自分の心臓が欠落したような喪失感を覚えて、泣きながら胸を掻き毟りたくなるような苦しみに襲われる日々が続いた。

特にそれは夜に酷く、眠れない時は哉秋の寝室まで行き、彼のベッドに潜り込んで抱きついたまま朝まで過ごした。

哉秋は嫌な顔ひとつせず、寝付くまで優しく菰野乃木の背を撫でては他愛もない話をしてくれた。



十一月十二日



その夜も、菰野乃木は眠れずに哉秋のベッドに潜り込んでいた。

「笹倉佳史は────あなたの伯父はどうして教団から逃げたのでしょうか。彼も私と同じ飢えを感じていたのか」

布団の中で、哉秋の背中に額をつけながら菰野乃木はそう尋ねた。

「……あの人は、私を可愛がってくれていた」

哉秋は体の向きを変え、菰野乃木の頭をそっと腕の中に抱いた。

「私の兄は血に適合できず生まれてすぐ亡くなったし、母や祖母は彼に食されてれうじえんの懐に抱かれることを選んだ。だからあの人にとっては私が唯一の家族でね。雪真が君に懐いているように、私も彼を慕って毎日のように訪ねていた」

哉秋の体の温もりを感じながら菰野乃木は目を閉じた。とくん、とくんと規則正しい心音が聞こえてくる。哉秋はいつも陽を浴びて乾いた樹木のような優しい匂いがした。

「教団はあの人に次ぐ第二の成功例が欲しかった。だから、彼の血縁である私を──当時既に五歳になっていた私にも血肉を与える食事をさせようとした」

「あなたは第一子ではないのに?」

「教団も必死だったんだろうね。そのうち私は人の肉への拒否反応でかなり痩せ衰えてしまったから、導師たちは彼に私を会わせないようにした。ばれたら彼が怒るのは目に見えていたからね」

急に哉秋に会えなくなった笹倉は、強い空虚に苦しんだ。教団本部に幽閉されている笹倉にとっては哉秋だけが生きる希望だった。

そして笹倉はある時限界を迎え、教団から逃げ出した。

「あの人は逃げ出した先で君のお父さんを見つけた。新聞記事で見たけど、君のお父さんは私と似た背格好と年齢だったから、あの人は君のお父さんを私の代わりにしようとしたんだろう」

────笹倉が父を家族の代わりにしたように、父にとっては本当の血縁より笹倉の方が大切な家族だったのかもしれない。

「佳史が今空虚を感じているのならば、あの人と同じで愛する人に会えない苦しみなんだと思うよ。君が愛する人は誰?」

哉秋の言葉で真っ先に脳裏を過ぎったのは元友人の顔だった。

しかし、決別した今彼を愛する人間と称するのも違う気がした。

菰野乃木は顔を上げ、哉秋の加齢でたるんだ目尻を爪のない人差し指の先で撫でた。

「わからない。私には今あなた以上に大切な人間はいない」

「それはどうだろう。君が気付かないふりをしているだけで、島の外にいるんだと思うよ」

会いに行くべきだ、と哉秋は静かに告げた。

「この島はあの人が幽閉されていた教団の中と同じだよ、佳史。君には愛する人と自由に暮らしてほしい」

哉秋の胸に頭を押し付けたまま菰野乃木は首を横に振った。

「私はずっとここにいます。笹倉佳史と同等の存在になれば、亡くなった父もきっと喜んでくれる……そして笹倉佳史のことを一番知っているのはあなただ」

それは言い訳に過ぎなかった。哉秋が傍にいる今、父の亡霊を追う意味を菰野乃木は感じていなかった。

だが、伊妻と決別した今、自分の居場所はこの島にしか存在しない気がしていた。

「……君がそれを望むのなら、私は無理強いしないけどね」

哉秋は小さく溜息をついて、目を閉じた。



十一月十三日 朝



次の日の朝早く、哉秋は本島にある病院に通院するために連絡船に乗った。

「夜までには戻るよ。ああ、雪真が遊びに来たら三時におやつを出してあげてね」

「ええ。気をつけて行ってらっしゃい」

哉秋を見送った後、菰野乃木はすぐに教会へと戻った。哉秋が居ない間は菰野乃木が代わりに教会に来た人々の対応をする。

といっても礼拝の際以外の来客は雪真を初めとした子ども達くらいなので、案の定すぐに暇を持て余すことになった。

波の音を遠くに感じながら、陽の当たる縁側で哉秋の本棚にあった遠藤周作の『沈黙』を読んだ。ルライの園の信者なのにキリスト教文学を平気で所持しているあたり、哉秋も敬虔とは言い難いのかもしれない。

「れうじえん様!」

石段を駆け上がり教会の敷地に走って来た雪真が、満面の笑みで菰野乃木に駆け寄った。

「おはよう、雪真」

「何読んでるの?」

「昔の小説」

雪真は菰野乃木の手から古いハードカバーの本を奪うとぱらぱらとめくったが、内容が分からなかったのか顔をしかめた。

「なんて書いてあるかわかんない」

「まだ雪真には難しいだろうな」

菰野乃木は苦笑して、雪真から本を受け取ると丁寧に書棚に戻した。

雪真は靴を履いたまま縁側に寝転がって空を雲が流れていくのを見上げていた。

「ご導師様もいないし、礼拝がない日はやることないね」

「そうだな。……ああ、確か倉庫に絵本と児童書もあったな。少し持ってくるから、その間に竜胆に水やりをしてくれないか?」

「うん!わかった!」

雪真は勢いよく起き上がると花壇の横の柵に掛けてあるジョウロを手に取って、庭の手洗い場へと水を汲みに行った。

菰野乃木は教会の裏にある古いプレハブ倉庫に向かうと、倉庫の鍵を開けた。

錆びた扉は開けるとカタカタと軋むような音を立てた。

この前普通の小説などの一般書はほとんど運び出して家に持っていったので、上の方の棚はがらんとしている。一番下の段にあるダンボール箱を開けると、やはり絵本や児童書が何冊か入っていた。

その中の一冊を手に取り、埃を叩く。少し黴臭いが、思ったよりも綺麗そうだ。

バシャン、と水が地面にぶちまけられる音が遠くに聞こえて、菰野乃木は顔を上げた。

雪真がジョウロを落としてしまったのだろうか。心配になり、花壇の方に早足で向かう。

花壇の傍にさっきまで雪真が持っていたはずのジョウロが転がっていた。ジョウロの周りには零した水で水溜まりができている。

「雪真?」

雪真の姿がない。代わりに竜胆の花の香りに交じって、消毒液と微かにジュニパーのような瑞々しい匂いがする。

どこか懐かしさもあるその匂いに、胸の奥にぽっかりと空いた穴が疼くような不思議な感覚を覚える。

「……雪真、いるなら返事をしてくれ」

針葉樹のようなその匂いを辿って歩いていくと、雪真は花壇の奥にある敷地の行き止まりに立っていた。

その肩を男が掴み、か細い首元に銀色のサバイバルナイフを突き付けている。

男は明るい金髪で、黒いレザーのジャケットを着ていた。

そのジャケットには見覚えがある。以前梔子に住んでいた時に自分がよく着ていたものだ。

「雪真!」

「れうじえん様……」

雪真の目には涙がいっぱいに溜まっていた。

男──伊妻冬吾は菰野乃木の姿を見て嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「やあ!相変わらず顔色悪いね」



(続く)



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