伊妻は、雪真の肩を掴んだまま前へと押し立てた。
雪真は涙を堪えながら震える足を動かし、数歩前に進む。菰野乃木は困惑して伊妻と雪真の顔を交互に見た。理由は分からないが、伊妻から強い殺気を感じる。このままだと雪真が殺されてしまうかもしれない。
「……その子は関係ない。離してやってくれ」
「アンタが俺の言うことを聞いてくれるならそうしてもいいよ」
菰野乃木が逡巡の後にうなずくと、伊妻は子供の肩から手を離した。
「れうじえん様!」
雪真は泣きながら菰野乃木に駆け寄り、力いっぱいしがみついた。
菰野乃木は雪真の頭を撫でると、その場にしゃがんで目線を合わせ、微笑んだ。
「いいか、すぐにお家に帰りなさい。彼のことは絶対誰にも言うな」
「でも、れうじえん様が殺されちゃうよ」
ひぐ、と雪真はしゃくり上げながら菰野乃木の法衣の袖を握っていた。菰野乃木は首を横に振って、少年の背を手で撫でた。
「そんなことはない。こう見えて彼は悪い人ではないから、お話したらわかってくれるよ。いいね?さあ、行くんだ」
菰野乃木に急かされ、雪真は渋々といった様子で石段の方へと駆けて行った。その間、彼は何度も振り返っては菰野乃木の方を見た。
「ノギさんって何でか分かんないけど昔からよく子どもに好かれるよね。ていうか何、その格好。白い服着るの珍しいじゃん」
伊妻はけらけらと笑って、ナイフを肩のホルスターにしまった。はめていた黒い革手袋を外すと、ズボンのポケットに乱雑に突っ込む。
「……とりあえず家の中に入れ」
「そうだねえ……誰かに見られたくないし」
菰野乃木は溜息をつくと、玄関の引き戸を開けて伊妻に中に入るように促した。
家に入ると、菰野乃木は暖かい煎茶の入った湯呑みを伊妻の前に置いた。
伊妻はダイニングチェアに大きくもたれかかったまま、物珍しそうにきょろきょろと家の中を見回していた。
「で?何の用だ」
「友達に会うのに何か理由が必要なの?」
伊妻は顔を歪めるようにして笑った。彼は以前よりもかなり痩せた気がする。菰野乃木は静かに首を横に振った。
「……もう友達じゃない」
「それはアンタが一方的に言っただけじゃん。……まあいいよ、それでも。友達じゃないからできることもあるもんね」
椅子から立ち上がると、伊妻はテーブルの向かいに座る菰野乃木に手を伸ばし、胸倉を掴んで引き寄せた。
その拍子にテーブルの上の湯呑みが音を立てて床に落ち、粉々に砕ける。
────ああ、来客用の湯呑みだったのに。
菰野乃木が上の空でそんなことを考えている間に、伊妻はテーブルに身を乗り出し、菰野乃木の唇に自分の唇を乱暴に重ねた。
菰野乃木は驚きに目を見開いた。伊妻の殺気には気付いていたが、こんなことをされるなんて菰野乃木にとって想定外だった。
伊妻は慌てて離れようとする菰野乃木の後ろ頭に手を添えて固定すると、彼の乾いた下唇に歯を立てた。
直後唇に鋭い痛みが走り、菰野乃木はびくっと肩を跳ねさせた。少し遅れて、じわじわと口腔内に血の味が広がる。
口内に伊妻の舌が侵入してきて、血を塗り込めるように口の中を這い回る。
血と唾液が混ざり合うその味は食人鬼の菰野乃木にとっては酷く甘美だった。数秒つい拒絶するのも忘れ、目を閉じて口付けを受け入れる。
息継ぎで少し離れたかと思うとまた唇に吸いつかれ、蛇のような長い舌に自分の舌が絡め取られた。舌同士が擦れ合うざらりとした感触は未知の感覚で、舌先を甘噛みされ上顎を優しく撫でられると背筋がぞわぞわと粟立って、意図せずくぐもった声を漏らしてしまう。
口の端から飲み込みきれなかった唾液が顎へと伝い、酸欠のせいか激しい目眩を覚えてテーブルに手をついた。
伊妻は名残惜しそうにもう一度口付けてからようやく離れていった。それでも、頭を掴まれているので顔同士は吐息がかかる程の距離にあった。
「……俺はアンタをずっと殺したかった」
伊妻は愛を囁くかのように熱っぽい口調でそう告げた。
間近で直視した薄青の瞳は、光を反射するスパングルのようにぎらぎらと輝いていた。
「アンタの体を犯して辱めてから両目を抉り出して、それを食べてしまいたいとずっと思ってた。片目はもう食べちゃったけど……友達じゃないなら残りも全部俺にちょうだい」
伊妻は菰野乃木の髪を掴んだ状態で乱暴に席を立たせると、そのまま隣の部屋の襖を開けた。
「ベッドあるじゃん。ここでいいや」
そこは哉秋の寝室だった。菰野乃木は拘束を振りほどこうとしたが、なぜか腕に力が入らず、ただ伊妻の腕に縋りつく形になった。
────その時まで一度もキスをしたことがなかった菰野乃木は知らなかったが、彼の人肉への特異体質は唾液にも作用していた。
具体的に言うと、その時の菰野乃木の体は唾液によってアルコールの摂取による「酩酊」と似た状態になっていた。
「離、せっ……」
「離すわけないじゃん。ほらここに寝て」
突き飛ばすようにしてベッドに押し倒される。シーツに倒れ込んだ瞬間に哉秋の匂いに包まれて、罪悪感で胸の奥が冷えていく。すぐに起き上がろうとするが、伊妻に体を押さえつけられて上に跨られた。
「いやだ、やめろっ……」
「大人しくしろって」
伊妻は仰向けに倒れている菰野乃木の腹の上に馬乗りになると、大きな傷痕のある首を両手で掴み、そのまま絞め上げた。
「ぐっ……が、……はっ……」
「あー……いいね、その苦しそうな顔……すっごい唆る」
腹に硬いものが当たる。伊妻は菰野乃木の首を絞めながら勃起していた。荒い呼吸を繰り返しながら、体重をかけて更にきつく絞める。乱れた金髪が一筋、汗で額に張り付いているが、それを直す余裕は今の伊妻にはなかった。
「ねえ、これも気付いてたの?俺が友達の────男の首絞めておっ勃てるような変態だってこともさぁ」
「ッ……う……」
普段血の気の無い菰野乃木の顔に窒息により僅かに赤みが差す。徐々に意識が遠のき、眼帯をしていない右目の焦点が合わなくなる。
伊妻は菰野乃木が失神する直前で手の力を緩めた。肺に流れ込んでくる酸素を必死で取り込み、絞められていた首を手で押さえて大きくむせる。
「危ない危ない、すぐに殺しちゃうところだった」
悪戯っぽく笑うと、伊妻は今度は菰野乃木の着ている白い法衣に手を掛けた。
「さあ、脱ごうか」
「な……にを、する、んだ?」
「え?セックスだけど……ああ、ノギさんが抵抗したら、俺は自分の指をナイフで切り落とすからね」
菰野乃木の眼前に手を突き出し、指を切るジェスチャーをしてみせる。
「医者の指がどれだけ大事かくらい知ってるよね。ふふ、そうだよね、アンタが一番よくわかってるよねえ。いつも壊さないように気をつけてくれてたもんね」
絶句する菰野乃木の頬を、伊妻はそっと指で撫でた。彼の肌は滑らかで、ひんやりとしていて気持ちがいい。ずっとこれをめちゃくちゃにしたかった。
「……アンタがわざわざ実践して教えてくれたんだよ。痛みで支配できない人間にはこの方が効くって」
半ば剥ぎ取るようにして法衣のローブを脱がされると、うつ伏せにされてベッドに押さえつけられた。藻掻こうとしても体に力が入らない。
ズボンを下ろされ、ろくに慣らしもせずに無理矢理勃起したものを挿入された。
「ひっ…………ぐ、」
無遠慮に肉を穿たれ、激しい痛みに唇を噛み締める。準備も前戯もないと言えど眼球を自分で抉り出すのに比べればまだ耐えられる苦痛ではあったが、哉秋のベッドで行為に及ばれたことへの罪悪感の方が鋭く胸に刺さった。
背後から体重を掛けてのし掛かられているせいか、上手く身動きが取れない。
血の伝う後孔には、根元までみっちりと伊妻の男根が埋め込まれている。その状態のまま更に奥まで押し付けるように腰を動かされ、痛みと息苦しさに耐えかねて目をきつく閉じた。
腹を埋める圧迫感に耐えかねて汗ばむ指でシーツを掴むと、その上から伊妻の手が重ねられた。火傷しそうなほど熱い掌の温度に息を飲む。
「……ぅ、」
ぐっと大きく腰を押し進められ、先端が最奥に当たると反射的に呻くような声が口から漏れる。
痛くて苦しいはずなのに、腹を肉杭で埋められて伊妻の熱と匂いを感じていると、長い間胸にぽっかりと空いていた洞が満たされていく感覚に心地よさすら覚えてしまう。
消毒液と針葉樹林のような冷たくも優しい香りに包まれながら、対照的に焼けるような痛みと強い圧迫感が襲ってきてまともな思考が押し潰されてしまう。上手く頭が働かない。脳が蕩けて液状化したかのような錯覚に陥る。
それは性的快感とはまた違った、言わば多幸感にも似た状態だった。
伊妻の指が菰野乃木の後ろ髪を掻き分け、汗ばんだ項に触れた。指先で髪を撫でられる度に肌がぞわぞわと粟立つ。友人であった頃には敢えて避けてくれていた部位を、伊妻の掌が劣情を持って這い回っている。まるで見知った友人とは別の人間に触れられているかのような恐怖。しかし同時に皮膚が疼くような快感を覚えてしまい、必死で歯を食い縛る。
項に軽く唇が触れたかと思うと、伊妻はそこに噛み付いた。血が出るほどきつく歯を立てて、薄い皮膚を食い破る。覆い被さる姿勢も乱れた呼吸も、さながら獣のマウンティングを思わせた。
「あ……ッ」
噛み跡から滲む血を舌で舐めとる。やけに美味しく感じるのは菰野乃木の眼球を食べたからだろうか。もっと味わいたくて傷口に唇をつけて軽く吸うと、びくっと菰野乃木の体が小さく震えた。
その震えの原因は痛みなのか快感なのか、それともただの恐怖なのか。
伊妻にとってはそのどれであっても構わなかった。自分が菰野乃木の感情を動かしているのなら、何だって嬉しい。
伊妻が荒っぽく腰を揺すると、成人男性二人分の体重を受けて古いベッドの木枠がギシギシと鈍い音を立てる。
奥を突くたびに血でぬかるんだ腸壁が戦慄き、悦ぶように蠕動する。
「浅いとこより奥の方が好きなの?」
「……違……っ……」
「ふふ、可愛い」
耳元で囁くと応えるようにぎゅうっときつく中が締まった。聴覚が鋭い菰野乃木は耳を責められると弱いらしい。伊妻は舌で菰野乃木の耳の縁を舐め上げた。
「ッ……!?いやだ、それやめ……っ」
「ノギさんも性感とかあるんだね。ちゃんと勃起もしてるし」
背後から菰野乃木の勃起した男根を握る。体に見合った大きさだが、色が薄く使い込まれてはいない。
当然だろう、三大欲求が全て食に向いているこの男は、自慰行為すら経験がないと以前言っていた。
「こうやって扱くと気持ちいいでしょ?」
「っひ…………あぁっ!」
先走りを垂らす菰野乃木のそれを上下に扱くと、小刻みに腰が跳ねる。
爪を立てながら少し痛いくらいに強く刺激すると、菰野乃木は息を殺したまま苦しげに首を左右に振った。
「うぅう……ッ……い、やだ……っ」
「ごめんねえ、嫌だよねえ。ノギさんは俺のこと友達だと思ってたもんね?でも俺は友達とか親友とか言われる度にめちゃくちゃ辛かったよ」
尿道を精液がゆっくりせり上がってくる感覚に思わず息を詰める。あっ、と声を上げた瞬間、そのままシーツの上に吐精した。
目に生理的な涙が浮かび、視界が滲む。
後背位のせいで伊妻の顔が見えないのが恐ろしく感じて、菰野乃木はうわ言のように彼の名を呼んだ。
「伊妻ッ…………いづ、ま……っ」
「ここにいるよ。前からの方がいいかな」
伊妻は一度引き抜くと、菰野乃木の体を仰向けにして再び挿入した。
体の奥深くまで熱い肉で満たされて、思わず感じ入った吐息が零れる。
「ね、誰に犯されてるかちゃんと顔見てね。俺だよ、わかる?」
菰野乃木の頬を掴み、正面を向かせる。ぼやけた半分の視界に映る伊妻の顔はどこか苦しそうだった。
「伊妻……」
彼の方に伸ばした手を掴まれ、シーツに縫い止められる。
深く穿たれた腹が焼けるように熱い。
律動の度に結合部から血と先走りが泡立ってぐぷぐぷと粘っこい音がする。
その度に自分のものとは思えない喘ぎ声が口から漏れるのを、菰野乃木はどこか遠くの出来事のように感じていた。
「菰野乃木さん、俺を置いていかないで。一生傍に居てよ」
「…………ッ」
「それが無理なら今すぐここで死んで。殺してあげるから」
伊妻の左手が首筋に掛けられた。肩のホルスターからサバイバルナイフを抜いて逆手に握る。
伊妻の青い瞳に涙が溜まって、その澄んだ湖面のような美しさに菰野乃木は息を飲んだ。
「どっちか選んで。どうする?」
「お……前、の……ッ……」
菰野乃木は首を絞める伊妻の左手に自分の手を添えた。
伊妻の緊張で硬く強ばった手の甲をそっと撫でる。
「好きに……っ……して、いい……」
「……いいの?……俺が決めてもいいの?」
伊妻は幼い子どものように不安げに瞳を揺らした。ぽろりと一粒涙が零れ、頬を伝う。
菰野乃木は眉を下げて小さく微笑み、うなずいた。
「いい…………お前が決めろ」
菰野乃木がその言葉を言い終えるのとほぼ同時に、伊妻はナイフを振り下ろした。
同日 十八時
哉秋が通院を終え、船から降りて自宅に戻ると、縁側に見慣れぬ金髪の男が座っていた。男は哉秋の姿を見ると立ち上がり、被っていた帽子を取って微笑んだ。
「あっ、どうも。俺は伊妻って言います。菰野乃木さんの元友達」
哉秋はうなずき、伊妻に差し出された手を握り返した。
「ああ……君の方から彼に会いに来てくれたんだね」
哉秋は縁側に腰掛けている伊妻の隣に座った。
暗い空には既に細く白っぽい月が出ていた。潮風に乗って時折虫の鳴く声が聞こえてくる。
「佳史は私の愛する人によく似ていた。だから私も手放すのが惜しくて────君に悪いことをしてしまった」
伊妻は首を横に振った。
「俺も、失うのが怖くてずっと盲目になっていた。でも失ったらそこで終わりじゃないんだね……今はなんか悪くない気分。……そうだ、アンタに謝らなきゃいけないんだけど、ベッドにナイフを刺したせいで傷がついちゃって、あとそれから諸々の……あれで、その……汚してしまって」
最後の方はしどろもどろになりながら伊妻が謝罪した。哉秋は苦笑しながら首を横に振る。
「古いベッドだし別にいいよ。若いねえ」
「本当にすみません」
「それよりこれからどうするんだい? 『れうじえん様』を失ったら教団は血眼で犯人を探し回ると思うよ」
「さあね、ノープランです。……アンタはどうしたい?」
伊妻はキッチンに立つ菰野乃木に問いかけた。
里芋と油揚げを入れた鍋からくつくつと湯が煮える音がする。火を止めて味噌を加えたら完成だ。里芋の入った味噌汁は哉秋の好物だった。
菰野乃木は振り向いて、いつもと同じ仏頂面のまま握っていた菜箸を伊妻へと向けた。
「好きにしろ。俺はお前と一緒に行く」
十一月十四日 午前五時
伊妻と菰野乃木は、次の日の早朝に連絡船で本島に帰っていった。
菰野乃木は船に乗る直前まで哉秋に抱きついて離れようとしなかった。
それを伊妻がずっと背後から苦々しい表情で見つめていて、哉秋は内心若い二人を微笑ましく思った。
水平線へ去っていく船の姿が完全に見えなくなるまで、哉秋はずっと二人が消えた方向へと手を振り続けた。
伊妻と菰野乃木が船に乗る姿を誰かに見られないかと心配だったが、念の為菰野乃木には哉秋の私服や帽子で変装させたし、自分さえ報告しなければすぐには教団本部にバレないはずだ。
その後、少し防波堤沿いを散歩した。菰野乃木に懐いていた三毛の野良猫が擦り寄ってきたので少し撫でてから、自宅へと戻った。教会に続く急な石段を上がったせいで、哉秋はまだ息切れをしていた。
菰野乃木が作り置いていった里芋の味噌汁を温めて食べた後、いつも通りに導師の服へと着替えた。
そして、クロゼットの奥に隠していた段ボール箱から、以前通販で買っておいた自転車用のU字ロックを取り出す。
────朝の九時に行われる礼拝には、島民の全員が集まる。
哉秋は痛む腰を手で押さえながらポリエチレンの灯油タンクを教会の前まで持って行った。
灯油タンクの中身は、冬に向けてちょうど先日菰野乃木に補給してもらったところだった。
教会を囲むようにぐるりと一周咲く竜胆の花壇を見渡すと、哉秋は息をついた。
はるか昔、笹倉が幽閉されていた部屋にはいつも竜胆の花が飾ってあった。彼はよくその竜胆を手折り、哉秋の髪に飾っては「可愛い」と笑っていた。
────神の懐になんて抱かれない。私はあなたに会いにいくんだ。
哉秋は花壇の土の上へと灯油タンクを傾けた。
竜胆の花はまだ何も知らないまま、朝の冷たい潮風に揺れていた。
貧しくも心美しい少女ルライは、宇宙の始祖である我らが神れうじえんにこう願いました。
「どうか世界中の人々の不幸を私に集めてください。私が不幸になる分、世界中の人を幸せにしてください」
しかし、ルライの小さな体では世界中の不幸を抱えきれず、彼女の体は破裂してしまいました。
それを憐れに思ったれうじえんは、ルライの破片を拾い集めて全て自らの腹の中に収めました。
ルライが目を覚ますと、そこは美しい花園でした。その場所に苦しみは無く、ルライの大切なものの総てが笑っていました。
れうじえんはその場所を「ルライの園」と名付け、不幸を背負って死んだ人々のための楽園としました。
めでたしめでたし。
十一月十四日 ルライの園本部
「────さて、今日のお話はここまでです」
女がそう締め括ると、静かに話に聞き入っていた子どもたちは皆小さな手を叩き一生懸命に拍手をした。
女は白地に金の縁取りがされた法衣を着ている。女のかけるフレームの細い眼鏡とさっぱりとしたショートカットの黒髪が知性と若さを感じさせる。
一方で子どもたちは皆小枝のようにやせ細っており、病院着のような簡素な服を身に付けていた。酸素チューブや点滴を伴っている者もいる。
ドアを開け、白服の男が部屋の中に静かに入ってきた。身を屈め、椅子に座る女へと耳打ちする。
「導師塚本、今よろしいですか」
「ええ、ちょうどお話が終わったところだから」
塚本は立ち上がると、子どもたちに笑顔を向けてから部屋から廊下へと出た。
「────夕匕尸島で火災です。教会が全焼しました」
「……なんですって?」
耳を疑う言葉に思わず強い口調で聞き返す。
「夕匕尸島には菰野乃木様がいらっしゃるのよ。あのお方は無事なの?」
「島民は礼拝中で、島に住む全員が教会内に集まっていました。死体によっては損傷が激しく特定が困難で……報告では、生存者は幼い子どもが一名だと」
「……一体どういうこと……? 導師笹倉はどうなったの?」
「……火災で亡くなっているかと」
塚本は櫻色の唇を強く噛み、苛立ちを鎮めようとこめかみを押さえた。
「伊妻……きっとあの男が何かやったんだわ」
────やはり菰野乃木様には無理矢理にでもお付きの者を連れさせるべきだった。導師笹倉からの報告に異常が無かったからと油断していたわ。
「大井出さんに伝えて。私は病院に行って生存者の子どもに話を聞くわ」 「承知いたしました」
白服が頭を下げてその場を立ち去ると、塚本は近くに飾ってあった花瓶を手に取り、勢いよく床へと投げ付けた。
白磁に金細工が施されたそれは大理石の床にぶつかり無残に砕け散る。
花瓶に活けてあった竜胆の深い青色に菰野乃木の暗い瞳が重なり、塚本は顔を両手で覆った。
────信じたくない。あの人が死んでしまったなんて。
「荒れてるな、導師塚本」
床に散らばる花瓶の破片を白いエナメルのローファーが踏みしめた。
顔を上げると、塚本と同じ本部の導師で大井出の側近でもある鉾良がポケットに手を突っ込んで気怠げに立っていた。
塚本は顔を覆う手の隙間から自分より頭ふたつ分近く背の高い鉾良を睨み上げた。
「お前なんかに私の苦しみは分からないでしょう。私は子どもの頃からずっと菰野乃木様のことを見守ってきたのよ」
「そんなに睨むなよ。同じ導師なんだから仲良くするべきだろ」
鉾良が肩に置こうとした手を塚本はすげなく払い、射殺さんばかりに彼を睨みつけると靴のヒールを鳴らしながら早足で去っていった。
鉾良は苦笑して、叩かれた手をさすった。
「まったく、苛烈だな……」
塚本は物心ついた時からルライの園にいた。塚本の父親は導師であり、教団内でもかなり高い地位にいた。
幼い頃から塚本は父親に言い聞かされてきた。
「いいか深景、今のれうじえん様がお空へと帰られたら、次はこのお方が神の生き写しになる。お前の使命はいずれ彼のために全てを捧げ、れうじえん様の御子を産むことだ」
渡された写真には赤い髪をしたまだ若い男が映っていた。塚本は写真越しでも分かる彼の暗い瞳や、青白く神秘的な肌、儚げな顔立ち、そして首を真一文字に通る大きな傷痕に衝撃を受けた。今までに覚えたことのない胸の高鳴りと、体温の上昇を感じた。
それは世間一般で言えば「一目惚れ」と呼称される感情だったが、ルライの園で生まれ育った塚本はそれを天啓として認識した。
────私はこの人に一生を捧げるんだわ。
塚本は肌身離さずその写真を持ち歩いた。
十四歳の時、初めて本物の「神様」と直接対面した。市立図書館でヴァージニア・ウルフの『灯台へ』に手を伸ばした時、菰野乃木も同じ本を取ろうとして手が触れたのだ。
目が合ってその相手が神様だと気付いた瞬間、塚本は頭の中が真っ白になってただ口をぱくぱくとさせた。
「あ、あの、あ、私、ごめんなさい……」
「……別にいい」
菰野乃木は無感情にそれだけ言うと、塚本の手に本を手渡し、そのまま去っていった。
その日から塚本の恋慕は更に強いものになっていった。『灯台へ』を読む度に一瞬触れ合った彼の手の冷たさを、体から漂った飴を煮詰めたような甘い匂いを思い出した。
彼が死んでしまったとしたら、自分が今生きている意味がわからない。
同日 口兄総合病院
唯一の生存者である御社雪真は、火傷を負い右足の骨を折りつつも命に別状はなかった。
彼は夕匕尸島から一番近い口兄市の総合病院に入院していた。
塚本はアカゲラ出版の記者として雪真に接触した。
「……何があったのか、教えてくれる?」
雪真はベッドの上から虚ろな目を塚本に向けた。火傷を負った顔の半分に大きなガーゼが何枚も当てられている。
既に何時間も泣いた後なのだろう、目元が真っ赤に腫れていた。
「れうじえん様があいつに殺されちゃったんだと思う」
掠れた声で雪真はそう呟いた。
「あいつ?」
「あの……悪魔に……きっとあの後殺されちゃったんだ……だからご導師さまもおかしくなっちゃったんだ……」
「悪魔はどんな見た目だった?金髪に青い目をしていなかった?」
塚本の言葉に雪真はひっ、と引き攣るような声を上げた。
「れうじえん様……!僕のせいで……!」
雪真は指が白くなるほど強く自分の胸を手で押さえ、青い顔で苦しげな呼吸を繰り返した。
「雪真くん、悪魔の見た目は?何が起きたか説明して!」
塚本は苛立ち混じりに雪真の肩を揺すった。雪真の苦しそうな声に気付いた看護師が駆け付けてきて、強引に塚本を引き離した。
「出て行ってください!」
「でも、話を」
「今そんな状況じゃないのわかるでしょ!?」
看護師は塚本に怒鳴ると、雪真を落ち着かせるために彼の背中を擦りながら声掛けをし始めた。
再び話しかけようとすると今度は服の襟を引っ張られて病室の外へと押し出される。彼女は嫌悪感を露わにして塚本を睨んだ。
「あなた、次入ってきたら警察を呼びますからね!」
─────ルライの園の一員として来ることが出来れば楽だったのに。
項垂れたまま、病院の廊下をとぼとぼと歩く。
雪真は、「れうじえん様は殺されたと思う」と言っていた。殺したのはおそらく「悪魔」だとも。
導師笹倉や島民たちを悪魔と呼ぶはずがないから、やはり伊妻冬吾が何らかの情報を得て夕匕尸島に辿り着いたのだろう。
伊妻は菰野乃木を殺害した後に導師や島民たちも全員虐殺したのだろうか。
雪真の話では菰野乃木が死んだことで導師笹倉が「おかしくなった」……導師笹倉に一体何が起きて雪真にそう思わせたのか。
「ご導師様?大丈夫ですか?」
男に肩を叩かれ、自分が廊下の真ん中で立ち尽くしていたことにようやく気付いた。
「あ……ええ……」
「私はさっきまで夕匕尸島にて現場検証に当たっておりました」
彼は口兄署に巡査として勤めている信徒だった。
「生き残りの少年は体が小さかったので火事が起きてすぐに屋根裏部屋にある小窓から飛び降りて無事でした。他の子供はみな彼より大きかったので小窓を通れなかったようです」
「……」
「島民はほぼ全員扉があった辺りに詰めかける形で亡くなっていました。教会自体が全焼したので詳細はまだ分かりませんが、焼け跡から自転車などにつける金属製のU字ロックと思しきものが見つかっています。……おそらくですが、誰かが扉にU字ロックをはめて逃げられないようにしたのではないかと」
塚本は驚きに目を見開き、巡査の顔を見た。
若い巡査はなおも小声で続けた。
「不可解なのは、夕匕尸島の教会の扉には内側にしか錠が掛けられるような取っ手がないのです。つまりロックを掛けたのは島民の中の誰かということになります」
「どういうこと……?犯人は信徒なの……?」
島民たちはルライの園に従順だった。
伊妻が犯人だと確信していた塚本は、困惑気味に巡査に尋ねた。
「誰か裏切り者が居たってこと……?」
「……信じたくありませんがその可能性が高いです。内側からロックを掛けたということは犯人も確実に死んでいるとは思いますが……」
─────伊妻冬吾が犯人でなければ、世間にはルライの園の信者による集団自殺と認識される可能性が高い。ただでさえカルト扱いされている我が教団はどうなってしまうの。
「とりあえず一度戻って大井出さんに報告しないと」
「……ご導師様は本部に戻らない方がよろしいでしょう。いずれマスコミが詰めかけてきます」
巡査は塚本に黒いUSBメモリを手渡した。
「ついさっき警視庁宛てに送られてきた告発書のデータのコピーです。私はまだ中を詳しく確認できていませんが、信徒に対して教団が長年に渡り洗脳と虐待を行っていたという内容のようです」
「嘘でしょう……」
一気に頭から血の気が引いて、塚本はよろめいた。巡査がその肩を支える。
「ご導師様だけでもどこか遠くにお逃げください。我々ルライの民のために」
巡査の瞳は若さと使命感に輝いていた。
塚本にもこういう時期があったかもしれないが、過去の話だ。
菰野乃木を失い、教団が崩壊しつつある状態でこれ以上生きていける気がしなかった。
「ありがとう……私はもう行くわ」
「お気をつけて」
巡査に見送られながら塚本は病院を出て愛車のヴィクトリアへと乗り込んだ。
走り出した車がどこに向かうのか、運転している塚本自身にも分からなかった。
十一月十七日 ルライの園 本部
大井出は自室の机で教義書をめくっていた。
本部の五階にある彼の部屋は壁も床も打ちっぱなしのコンクリートで、小さな高窓がひとつしかない。机の上の花瓶に活けられた竜胆の花を除けば部屋に色彩は殆ど無く、まるでモノクロ映画に出てくる刑務所の独房のようだった。
しかし大井出は自分の部屋に非常に満足していた。
「大井出様。外にマスコミが押し寄せています。警察の捜査が入るのも時間の問題です」
導師の鉾良が粛々とそう告げた。大井出は教義書に目を落としたままうなずいた。
「そうですか」
「────まだ今なら車で外に出られます」
「ええ、そうでしょうね」
「……お言葉ですが、我が教団の『シンボル』である貴方はここから逃げて身を隠すべきです」
大井出は本を閉じ、灰色の瞳を細めて鉾良を見た。
「私はどこにも逃げません。最期まで教団と共に在るつもりです」
彼は椅子から立ち上がると、小枝のような細い指で鉾良の肩に触れた。
「貴方こそ、ここを離れるべきです」
「……私も……教団と共に……」
「鉾良、お前には信仰がないでしょう」
鉾良は目を見開き、大井出の顔を凝視した。大井出は彼を責めたり咎めたりする様子はなく、当然の事実を述べたかのように平然としていた。
「信仰を持たずに死んでもルライの園へは行けません。今のうちに逃げた方がよいでしょう」
それだけ言うと大井出は再び椅子に座り、本を開いた。
鉾良は言葉を失った。確かに自分にはれうじえんへの信仰はない。親に従い教団に属していただけの宗教二世である。
しかし、大井出は鉾良の不信心に一切憤りを感じていない。教祖としてあるまじき他者への無関心さだ。
鉾良は説得のためなおも大井出に頭を下げた。
「私は……俺には確かに信仰はない……だが貴方への信頼と積み重ねてきた情はあるつもりです。貴方を独りで逝かせるのは嫌です」
「独りではありません。私は数多の信徒達と共に慈悲深きれうじえんの懐へと……」
「……アンタは!」
鉾良は言葉を遮り、大井出の肩を強く掴んだ。
「教団に洗脳されているんだ!前はそんな性格じゃなかっただろう。自分の昔の姿を思い出すんだ」
鉾良の言葉に、大井出の灰色の瞳が一瞬大きく揺れた。
「何をおっしゃっているんですか?私はれうじえんに神託を受けてこの教団を導くために……長くこの身を……」
大井出の脳裏に古い四畳半のアパートが浮かんだ。ラジカセから流れる『ジギー・スターダスト』に合わせて鼻歌を歌いながら、窓から夕陽の中高架線を走る電車を眺めている男は誰だ?
草臥れたタンクトップの隙間から見える薄い肋と、口に咥えたショートホープから窓の外に流れていく紫煙。デヴィッド・ボウイに憧れて赤く染めた髪。
襖に画鋲で貼り付けたThe Cureのポスターは、買った時から既に右下の端が少し折れていた。
大井出は教義書を手から取り落とし、細い両腕で頭を抱えた。
「……あ……あ……」
「俺と一緒に来てください。アンタは被害者なんだ」
「いいえ!私はここにいます、ここにしかもう居場所が無いのです!」
大井出はコンクリートの床の上で背を丸めて蹲った。
鉾良は焦っていた。迷っている時間はない。警察が教団へと来る前に彼を連れ出さなければ。
鉾良は咄嗟に机の上に置かれたガラス製の花瓶を手に取ると、力一杯大井出の頭へと振り下ろした。
鈍い音がして、頭を殴られた大井出の体から力が抜けた。額から、零れた花瓶の水と混じりながら薄らと血が滴り落ちている。
鉾良は気を失いぐったりとした大井出の体を軽々と抱えあげると、そのまま部屋を出た。
────その日、ルライの園の本部から三人の幹部が消えた。教祖の大井出、導師の鉾良と塚本である。
同日午後、本部に残っていた他の幹部と信徒たちは、教祖不在のまま毒を飲んで集団自殺を決行した。その数は八百名以上に上った。
警察は姿を消した三人の行方を追っているが、依然としてその居場所は分かっていない。
夕匕尸島で起こった島民の焼死事件を発端として、新興宗教団体ルライの園は瞬く間に崩壊した。
某日 某マンションの一室
「ただいま」
鉾良は鍵を開け、マンションの八階にある自室へと戻った。
時刻は十九時。スーツのネクタイを弛めながら革靴を乱雑に脱ぎ、薄暗い寝室へと入る。
寝室のベッドには痩せた男がひとり眠っている。細い両手首と両足首には鉄の枷がはめられ、鎖で繋がれている。
枷は金属製とはいえネット通販で買ったSM用のチープなものだが、枯れ枝のような手足をしている男にそれを壊す力は無かった。
鉾良は手に持っていたコンビニ弁当の袋をベッド脇に置くと、包帯が巻かれた男の額に触れた。
「暁さん。帰りましたよ」
男の本当の名を呼ぶと、痩けて落ちくぼんだ瞼が薄らと開く。覚醒と共に灰色の瞳は恐怖に揺れ、瞳孔が拡大する。
男は飛び起きると、鉾良から距離を取るようにベッドの隅、壁際へと飛びのいた。
彼が動くとガチャガチャと金属の鎖が擦れる耳障りな音がした。
「お許しください」
男は手を奇妙な形に組み、ガタガタと震えながら目を閉じた。
「どうか私を死なせてください……もう解放してください、どうか……どうかお願いです……」
鉾良は苦笑した。
「大丈夫、いずれアンタも本来の自分を思い出すさ。それまでどのくらいの時間がかかるかは分からないが……まあ償いとして世話させてもらいますよ」
男は鉾良の声を無視し、頭を垂れたまま神に祈った。
どうか今すぐ私を死なせてください。あなたの懐に、ルライの花園へと私も入れてください。
男にとって、不幸になることは苦ではない。それが神の望みだと未だに彼は信じていた。
しかし────今更正気に戻るなんて、男には到底耐えられなかった。
犯した罪の重さを素面で背負うことなど、今の自分に出来るわけがない。
男が夢に見た花園は恐ろしいほど遠く彼方にある。そして、現在進行形で更に遠のきつつあった。
鉾良は胸ポケットからショートホープの箱を取り出し、中から一本取って口に銜えた。滑らかな紙越しに僅かに甘みを感じる。
ライターで火をつけて深く吸うと、タールの重みと蜂蜜の甘みが肺の奥へと染み込んでいく。
鉾良は男の顔に向かって煙を吹きかける。昔は教団の庭で、ふたりで礼拝をサボってタバコを吸っていたものだった。
男は灰色の瞳に薄らと涙を浮かべた。楽園の代わりに、夕陽に照らされた四畳半の部屋が近付いてくる。
それが幸福なのか不幸なのか、男にはわからなかった。
数ヶ月後 某日 マルタ島パーチャビル
佳奈子 はその夜、女友達二人とともにパーチャビルにあるクラブを訪れていた。
美紀 と 咲良 は欧米人のいい男を見つけるんだと意気込んでいたが、元来内気な佳奈子は興味はあってもそこまで乗り気にはなれなかった。
露出の高い大胆な格好をしたふたりと比べて佳奈子は地味なカットソーとデニム姿だったし、化粧もろくにしていない。
クラブハウスの中は薄暗く、ビルボードのヒットチャートが流れていた。
夜の二十一時ということもありまだ絶頂と呼べるほどの盛り上がりはないが、入り始めた客で既に賑わっている。
「佳奈子、何飲む?」
そう尋ねる美紀の手にはさっそく酒の入ったグラスが握られている。
「ええと、私は……」
「何杯か飲んで、さっさと酔っ払っちゃいなさい。気が大きくなればきっと楽しくなるって」
そう言って美紀の肩に手を回した咲良の顔も既に赤い。自ら実践して酒を飲みまくったらしい。
「私には無理だよ、やっぱりこういう場所は合わない」
「外国人が無理なら日本人観光客探して逆ナンしてみなよ!」
「そんなことできないよ」
その時ラテン系らしき若い男性が美紀と咲良に声をかけた。
ふたりはテンション高く受け答えして、彼と共に踊りに行ってしまった。
「……どうしよう」
佳奈子はバーテンに度数の低いカクテルを頼むと、外のテラス席へと避難した。
マルタ島のクラブの大きな特徴として、テラス席が設置されたオープンな作りがある。まだ時間も早いので、テラスまで出れば中の喧騒に比べて少しだけ静かだ。
四人がけの席をひとりで使うのは忍びなかったが、テラスに人が増えてきたら中に戻ればいいと思い使わせてもらうことにした。
「あれー?お姉さんもしかして日本人?」
顔を上げるとすらりと背の高い金髪の男が立っていた。
片手にモヒートの入ったグラスを持ち、もう片方の手は友人らしい赤毛の男の肩に回している。
軟派そうな雰囲気に怯みつつも、母国語が通じることには少し安堵した。
「うん。あなた達は観光?」
「まあね。俺たち今世界中を旅しててさ。マルタ島は今日で三日目。お姉さんは?」
「私は語学留学。今日は少し……息抜きに来たの」
金髪の男は佳奈子の向かいの席を指差した。
「よかったら座っていい? 俺たち日本人に飢えてたんだよね」
「もちろん。私も久しぶりに日本の人と話したい」
金髪の男は赤毛の男と共に佳奈子と同じテーブルに着いた。
赤毛の男は酔っ払っているのか、眠たげな目をして金髪の男の肩にもたれかかるようにして座った。
「そっちの彼、大丈夫?」
「ああ、こいつはちょっと酔っ払っちゃって。酒は飲んでないんだけどね」
「……ええと、場酔いしちゃったってこと?」
「別に酔ってない……」
赤毛の男は力なく金髪の男の肩を殴った。
彼は左眼に眼帯をつけていた。
顔色は悪いが、唇は紅を引いたように赤く濡れている。
「場酔いっていうのはお酒に酔ってるんじゃなくてその場の空気に酔うってやつだよ」
「そのくらい知ってる……俺は酔ってない……」
「仲良いね」
ふたりの距離の近さと親しげな様子に佳奈子は微笑ましくなってくすくすと笑った。
「昨日までセントジュリアンにいたんだ────こいつがポルトマソをえらく気に入っちゃって。せっかくマルタに来たのに、朝から日が沈むまで延々と港町のヨットを眺めるだけ」
「ポルトマソマリーナは私も好き。綺麗な場所だよね」
「海が好きなんだ」
赤毛の男がぼそりと呟いた。
寡黙で仏頂面だが、彼の繊細そうなところが佳奈子には好ましく思えた。
「それなら 青の洞門 には行った?今の時期ならボートも出てるはずだけど」
「こいつカナヅチだから海に入るのは怖いんだよ」
金髪の男は茶化すように言って、グラスの中身を煽った。
赤毛の男は仏頂面をさらに不機嫌そうにして金髪の男の脇腹を軽く殴る。
「言うなよ」
「だって事実じゃん」
「乾季だし水流も激しくないから、ボートは沈まないよ」
佳奈子が微笑むと、赤毛の男はつられて少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ乗ってみてもいいかもしれない」
「よかったら明日一緒に────」
佳奈子が言いかけた時、美紀と咲良があっと声を上げてこちらに駆け寄ってきた。
「佳奈子、逆ナン?やるぅ」
「そんなんじゃないよ。同じ日本人だから話してただけ」
「お姉さんたち三人友達?」
金髪の男の問いに咲良が食い気味に頷いた。
「そうそう!友達なの。佳奈子詰めて。私たちも座る」
「お兄さんイケメンだね! 金髪似合う」
「赤毛のお兄さん怪我してるの?」
「ていうか一緒に飲も!なんか頼もう!」
ふたりに押されて佳奈子は席の奥まで詰めて座った。
「ごめんね、騒がしくて」
佳奈子が謝ると、金髪の男は朗らかに笑った。
「いいのいいの!人数は多い方が楽しいから。ねっ、ノギさん」
「ああ。そろそろ腹も減ってきたからな」
赤毛の男は小さな声で呟くと、愉快そうに黒い瞳を細めた。
(終)