洗脳は人格の収奪だ。体の外側はそのままに、中身だけ虫に食われた果実のように伽藍堂に変えてしまう。
────とはいえ、見た目も随分変わったものだ。
鉾良はベッドで眠る男の痩けた頬を見下ろした。
この枯れ枝のような男は、名を日高暁という。宗教団体『ルライの園』の元教祖であり、鉾良の元友人である。
暁の名前が大井出朔也に変わったのはもう二十年も前の話だ。不信心な末端の信徒である暁に白羽の矢が立ったのは、先代の教祖に背格好が似ていたからという至極単純でくだらない理由だった。
「アンタに『大井出朔也』が務まりますかね」
マルボロのメンソールを咥えたまま鉾良が揶揄いの言葉を投げかけると、暁は気怠げな瞼を少し伏せて「ま、適当にがんばりますよ」と煙草の煙を吐き出した。
暁が好んで吸うのはショートホープで、彼の吐く煙はどこか重たく甘い香りがした。
後ろで高く結った赤い髪を一筋指に絡め、暁は少し眉を顰める。
「髪も先代と似た色にしろと言われました。今の色が気に入っているのですが」
「どんな色でも似合うさ、アンタなら」
鉾良も本当はそのままの暁でいてほしかった。薄く整えた眉も重い瞼も、デヴィッド・ボウイに憧れて赤くした髪も彼によく似合っていて好きだった。
暁が黒く塗った爪の先で戯れに弾くギターの音色を、目を閉じて聴いている時間をこよなく愛していた。だから、ふたりでこうして礼拝をサボって裏庭で煙草を吸うのが今日で最後だなんて信じられなかった。
だが、当時の鉾良にとっても友人が『大井出朔也』に選ばれるのは名誉で誇らしいことだと思っていた。暁の出世により鉾良も導師へと地位が上がることになったのだから、これからも会う機会はいくらでもあるはずだと楽観していた。
しかし、半月後に礼拝に現れた暁───否、大井出朔也は鉾良の知る彼とは全く別の人間になっていた。
手足はやせ細り骨と皮だけになり、痩けた頬に薄らと法悦の笑みを浮かべていた。目は落ち窪んで皺も増え、急に十歳ほど老けたようにも見えた。
教祖の法衣に身を包み、朗々と神への賛美を紡ぐその人物に鉾良は困惑した。
大井出朔也は煙草を一切吸わなかった。爪を黒く塗らず、ピアスもせず、あんなに好きだったギターも弾くどころか触ることすらなかった。ふと廊下で会った時に好きだったラーメン屋に誘っても、困ったように眉を下げて微笑むだけだった。
もう鉾良の好きだった暁は死んでいて、その残った肉体に大井出という別の人間が入ってしまったようだと思った。
やがて大井出の周りには他の導師たちで取り巻きが出来て、鉾良とは事務連絡くらいしか交わさなくなっていった。
────これでいいのかもしれない。暁さんはもう居ないのだから。『大井出朔也』と仲良くしたって俺には意味が無い。
鉾良は導師といえど地位は末席であった。自分から関わろうとするのをやめてしまえば、大井出は瞬く間に雲の上の存在になった。
しかし暁が大井出になってからしばらく経ったある日、鉾良は他の導師の言伝を受けて初めて大井出の自室へと向かった。
大井出の自室はコンクリート壁の簡素すぎる部屋で、まるで独房のようだった。
鉾良が部屋に入ると、大井出は待っていたとでも言いたげに鉾良に手に持っていたギターを差し出した。赤いギターのボディには暁が肩に入れていたタトゥーと同じ茨のペイントがしてある。
「お前にこれを」
「……しかし……これはあか……大井出様の大切なものでは」
大井出はゆっくりと首を横に振った。
「私にはもう必要ありません。鉾良は以前ギターを欲しがっていたでしょう? 古いですがまだ使えるはずです」
────その言葉に、鉾良は後ろ頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
確かに、鉾良は過去にギターが欲しいが金が無いとぼやいたことがあった。しかし、大井出がそれに言及してくるなんて思ってもみなかった。彼はもう暁ではないのに。
そして、その日を境に大井出は鉾良を必ず傍に置くようになった。鉾良は彼の直近の導師となった。無論、他の導師達はそのことをよく思わなかった。特にそれまでは大井出の側近として幅を利かせていた導師などは、鉾良を目に見えて敵視した。
鉾良には、暁ではない暁と同じ姿をした男の目的が分からなかった。ただ、それが大井出の奥底に眠る暁から発せられた救難信号なのではないかと感じていた。だから言われるがままに傍にいた。汚い仕事も数え切れないほどした。
長い期間接し続けて、鉾良は気付いた。大井出は暁としての記憶までまっさらに失っている訳では無い。総て覚えていて、尚且つ性格だけ変わってしまったのだ。
鉾良は思った。それなら、元の日高暁に戻すことだってできるんじゃないか?
洗脳を解くにしても実行する勇気も具体的な策もなかったので、当時の鉾良にできたのは洗脳やカルト宗教に関する書籍を密かに読み漁ることだけだった。
────調べたことを実行する日がくるとは思ってなかったけどな。
鉾良は暁を拐かしてからというもの、『大井出朔也』から過去の彼に戻そうと様々な方法を取った。
まずは信頼と安心を与えること。外の情報を遮断せずに狭窄した視野を広げてあげること。
暁の中にあった鉾良への信頼は、今回無理矢理拉致と監禁を行ったせいでかなり薄れてしまっていた。自分が近づくだけで暁は怯えて泣きながら神に祈り始める。
とりあえず、暁が慣れるまでは世話が必要な時以外なるべく自分から近付かないようにした。
暁をひとりにすると脱走や自死をしようとするので、鉾良は在宅ワークで仕事を始めた。
暁と世間との乖離を防ぐため、部屋にはテレビを置いてなるべくつけっぱなしにした。
最初はチャンネルが変えられるようにリモコンも手に届く位置に置いていたが、暁が電源を切ってしまうので適当な民放を流したままリモコンは鉾良が管理した。
暁が若い頃好きだった音楽雑誌なども何冊か買ってきて枕元に置いたが、それらが開かれた形跡はない。
まさに暖簾に腕押し、糠に釘。
食事も嫌がるし、娯楽全般に至っては怯えに近い表情で忌避する。衛生面は気になるのか入浴にだけは素直に応じるが、それ以外はてんで言うことを聞かない。
そもそも鉾良に監禁されているのだから、肝心の信頼関係も構築できない。
────いっそ洗脳しなおす方が早いんじゃないか?
脳裏を過った恐ろしい考えを鉾良は慌てて振り払った。監禁する犯人と被害者という構図なら、暁をストックホルム症候群に陥らせる方が比較的安易ではある。
しかし洗脳を受けている暁に対して教団と同じことをするなんてあまりに悪趣味だ。
鉾良は暁と再び対話を試みることにした。仕事が終わった後、暁の横たわるベッドに腰掛けて声をかけた。
「暁さん。今いいですか?」
暁は虚ろな灰色の瞳を僅かに揺らしたが、返事はしなかった。
「今日は神のことについて話しましょう。嫌だったら無視してください」
暁はのそりと起き上がった。痩せ細っても、気怠げな表情は昔の彼にそっくりだ。
「信仰の無いお前に我々の何がわかるのです」
どうやら暁の中で、不信心な鉾良は『我々』の内には入らないらしい。
鉾良は苦笑して、ショートホープを口に咥えた。オイルライターで火をつけて肺いっぱいに甘く重い煙を吸い込む。
「……じゃあ俺に教えを説いてくれませんか。俺が正しく信仰を持てるように。俺が貴方と共に神の御許に行けるように」
暁は視線を彷徨わせ、躊躇いがちに口を開いた。
「神れうじえんは不幸な人々のみを救います。我々ルライの園の信徒たちは、不幸を愛して受け入れることで神への信仰を示します」
鉾良は無言で相槌を打って続きを促した。暁の瞳が僅かに光を取り戻す。
「聖なる少女ルライに倣って、人の不幸を肩代わりするのです。多くの人は自らの私利私欲のみを追い求めますが我々は違います。苦しみの中に救いを見出すのです。肉体は魂を囲う檻に過ぎません。肉体から解き放たれ、れうじえんの懐に抱かれる時こそが真の幸福と言えるのです」
暁は笑みを浮かべて饒舌に教義を語り始めた。
鉾良は暫くの間黙って喋らせていたが、ふーっと煙草の煙を吐き出すと暁の方に向き直った。
「ではいくつか質問をします。まず、少女ルライの伝説は誰が最初に話し始めたのですか」
「初代の『大井出朔也』が神の天啓を受けて知ったのです」
鉾良は真剣な眼差しで頷き、重ねて尋ねた。
「なぜ神は大井出朔也に天啓を与えたのでしょうか」
「それは、初代の大井出が選ばれし者だったから……」
「大井出朔也はどのような人物でしたか」
暁は息を呑んだ。初代の大井出については、自分と先代である二代目の大井出に似ているということしか知らない。とにかく素晴らしい人物だとも。
しかし、それは教団から聞かされてきた情報に過ぎない。暁は初代の大井出朔也のひととなりを明確に答えることが出来ない。
どうして大井出朔也が神に選ばれたのか。なぜれうじえんはルライの園の伝説を初代の大井出に伝えたのか。
暁は両手で頭を抱えた。考えたくない。頭の奥にある疑念に気付きたくない。
鉾良は苦しげに俯くその姿を見て険しかった表情を緩め、暁の体を抱き締めた。
体が鉾良の熱に包まれ、何故か酷く安堵した気分になって目を閉じる。
不思議と拒むことが出来なかった。こんなことは仲が良かった頃ですらされたことがないのに。
「……ここまでにしましょう。ゆっくり眠ってください」
鉾良の体が離れていく。薄れていく温もりが名残惜しくて心細い気分に陥る。
「鉾良……」
思わず鉾良の服の裾を掴んでしまい、暁は慌てて手を離した。
鉾良は優しい表情のまま、首を傾けて暁を見つめている。
「……な、なんでもありません……おやすみなさい……」
自分は今何を考えていた? もっと触れて欲しいなどと、目の前の男を求めるような邪なことを────
暁は鉾良から顔を背けるようにしてベッドの端に蹲った。
その夜、暁は昔鉾良が部屋に泊まった時のことを思い出していた。
まだ教団内へと住処を移す前、暁は四畳半の狭いアパートに住んでいた。
ふたりで好きなインディーズバンドのライブへ行った帰りのことだった。夜も遅く終電が無くなっていたため、鉾良をその部屋に泊めたのである。
真夏の熱帯夜だった。開けたままの窓からは煩わしい蝉の鳴き声がしきりに聞こえてきた。
ラジカセに入れていたのはイギー・ポップのLust for Lifeのカセットで、その時はThe Passengerが流れていたのを今でも鮮明に思い出す。
暑さ故に布団を広げる気にもならなくて、ふたりで雑魚寝した畳の上。い草の香りに包まれながらうとうとしていると、ギシリと音がして足元がたわんだ。鉾良が立ち上がったらしかった。
そのまま暁が目を閉じていると、唇に鉾良が触れてきた。下唇の形を確かめるようにそっと指先でなぞられて、ただそれだけで離れていった。
心臓の鼓動がうるさくて、鉾良に聞こえないか心配したのを覚えている。鉾良は男性が好きなのだろうか? もしかして自分も恋愛対象に入っているのかと考えると、無性に胸が高鳴って落ち着かない気持ちになった。
額縁の中の絵のように遠くに眺めていたはずのその記憶が、急に鮮やかな色を帯びて暁の脳内を支配した。
暁は枯れ枝のような自分の腕を見た。随分醜い姿になったこんな自分でも、鉾良はまだ恋愛対象として見ているのだろうか。
────ルライの園において同性愛は禁忌だ。
教祖としての自分が頭の奥で必死で警鐘を鳴らす。
しかし、一度考えてしまうと夢想することを止められなかった。抱きしめられた時の力強く優しい腕と、目を細めて自分を見下ろす柔らかな表情を。
暁は、改めて自分は早く死なねばならないと思った。神のことを考える時間が減る前に────そして、これ以上友人で淫らなことを想像してしまう前に。
次の日の夜、暁は入浴時にシャワーホースで自分の首を絞めて自死を図った。
タオルと着替えを用意していた鉾良が目を離したほんの少しの隙を狙った。
暁の首に巻き付いた白いホースと、首を強く絞めるために必死に体重を掛けようとする姿を見て、鉾良の腹の底から沸いてきたのは激しい怒りだった。
「ッ……ふざけるな!」
鉾良は怒鳴って、暁の頬を力一杯叩いた。か細い暁の体はただの張り手で勢いよくタイルの上に倒れ込み、痩けた頬には肌が裂けたのか血が薄らと滲んでいた。
暁は怒気を孕んだ鉾良の声に怯えて目に涙を滲ませながらも、必死でその場に這いつくばって土下座でもするかのように床に頭をつけた。
「ごめんなさい、もう死なせてください、私を許してください、もう限界なんです……」
人間は怒りに支配されると逆に言葉が出なくなるのだと鉾良はその時初めて知った。
いくら心を傾けても暁が回復しないことも、未だに自死を目論んだことも憎らしくて仕方なかった。
しかし、それより僅かでも隙を与えた自分への怒りが一番大きく熾烈だった。
────彼を俺に縛り付けるしかない。依存先を変えさせるんだ。
鉾良は無言で暁の肩を掴み、風呂場のタイルの上にうつ伏せに転がした。湯が出続けているシャワーヘッドを手に取ると、先端を捻ってシャワーホースから取り外した。
「……鉾良、」
「大丈夫ですよ、きっと大丈夫」
その言葉は暁に、というよりは自分に言い聞かせるためだった。無理矢理口角を上げて笑顔を作ると、暁の薄い背中を強く抱き締めた。
「俺が……絶対に何とかしてあげますから」
鉾良は泣きながら暴れる暁の体を手で押さえつけて、シャワーを使って彼の後孔を清めた。
その時点で何をされるかくらい暁でも予想がついたのだろう、途中からは許しを乞い泣きながらもうこんなことは二度としませんと口にしていたが、無視して濡れたままの彼を抱え寝室へと連れて行った。
鉾良は暁の手足の枷をベッドフレームに繋ぎ、腰の下に枕を敷いて下半身を高く上げさせた状態で寝かせた。
「鉾良、ごめんなさいっ……もう二度としませんから、ごめんなさい、お願いですからこんなことはやめてください」
鉾良は何も答えなかった。ただ一旦寝室を離れたかと思うと、保湿用のベビーローションを持って戻った。
「嫌……ッ!嫌ですっ、鉾良!」
逃げようにも手枷はベッドに括り付けられ、脚は無理矢理開かされている。
鉾良は右手にベビーローションを纏わせ、暁の後孔に触れた。急に突っ込んだりはせず、入口の周りを解すようにマッサージを施していく。
「ッ……」
ぞわぞわと下腹が疼くような感覚に暁は唇を噛んだ。もっと乱暴に犯されるのかと思っていたのに、鉾良の手つきは至って丁寧だった。 穴の周りにローションを塗り広げ、時おり人差し指の第一関節だけをくぽ、くぽっと音を立てて後孔に挿し入れられる。鉾良に触れられている箇所が酷く熱を持って苦しい。
鉾良は指を二本に増やし、内壁を傷付けないようにゆっくりと出し入れし始めた。
理由は分からないが、腹側の浅い所を何度も執拗に押してくる。鉤のように指を曲げ同じ箇所をノックするように優しく叩かれていると、徐々に下半身を痺れるような感覚が走るようになる。
「ほこ、らッ……お願いです……!そんなところ汚いからっ……」
相変わらず鉾良は無言だったが、普段は涼やかな瞳に隠しきれない熱が篭っており、息遣いも荒く苦しげだった。
その股間が張り詰めズボンを押し上げているのが目に映り、暁は心臓がドクンと跳ね上がるのを感じた。鉾良が暁に劣情を抱いているのは明らかだった。
それに対して暁は────嬉しい、と一瞬思ってしまった。
すぐに我に返って再び体を捩ろうとしたが、軟弱な手足では金属製の枷を壊すことは出来ない。
「ぅ、あっ……」
反応が薄いと思われたのか、鉾良は萎えたままの暁の性器に手をかけた。逞しい掌で握りこまれ、思いのほか優しくさするような動きで扱かれる。
後孔を指で弄られながら前も刺激されると、意志とは反対に徐々に男根が硬くなってくる。
「ぅ、うっ」
ここまで来ても鉾良は一言も言葉を発しなかった。唇を噛んで何かに耐えるように顔を顰め、しかし劣情を滲ませながら手を緩めることなく愛撫してくる。
鉾良の顎から落ちた汗の滴が暁の薄い腹に落ち、その些細な刺激ですら性感を意識させて体が大きく跳ねる。
神に仕える身でありながら触れられて悦ぶ己の浅ましさに嫌気がさす。しかし、耐えれば耐えるほど鉾良の指の硬さと温度を鮮明に感じてより強い快感へと繋がっていった。
暁は泣きながら首を左右に振った。乱れた長い髪が顔に掛かり、鉾良の顔が見えなくなって安堵する。鉾良の瞳が熱に浮かされている姿を直視してしまったら、ギリギリの所で持ち堪えている矜恃が崩れ落ちてしまいそうで怖かった。
鉾良は暁の顔に掛る髪を指で掬って避け、汗ばんだ額に唇を付けた。思ったより柔らかな唇の感触に鼓動が早くなる。赤くなった耳がもはや熱を持ってヒリヒリ痛む錯覚すらする。息が苦しい。酷く心細い。何よりも、鉾良の声が聞きたかった。
「……暁さん」
暁の心を読んだかのように鉾良は苦しげな吐息と共に暁の名を呼んだ。耳元でくぐもった低い声で囁かれた瞬間、暁は鉾良の手の中で射精していた。
「え……あっ……?」
何が起こったかわからなかった。一瞬頭が真っ白になって、気付いたら果てていた。
羞恥で頭に血が上る。必死で我慢していたつもりだったのに、声だけで達したのが恥ずかしくて悔しくて消えてしまいたい。
「神よ、れうじえんよ、お赦しください……私は罪人です……!お赦しください……どうか……」
暁はまだ腹の奥で燻る熱を消そうと必死で神の名を口にした。祈りの姿勢が取れないせいか、口先だけのその懺悔は暁にとって酷く無意味で軽薄に響いた。
────神は穢れた私を見捨てたんだ。
鉾良は指についた暁の精をティッシュで拭うと、ベッドフレームから手枷を外し、蒸しタオルを持ってきて暁の体を綺麗に拭いた。
そして薄い綿のガウンを暁に着せると、ペットボトルのミネラルウォーターを手渡してきた。
「これを飲んで……今日は寝てください」
暁は震える手でペットボトルを受け取り、口をつけた。
鉾良が毎晩渡してくるミネラルウォーターに睡眠薬を混ぜているのには気付いていたが、今はむしろ全て忘れて眠ってしまいたかった。だから、半ば急くようにして冷たい水を嚥下した。
やがて眠気が襲ってきて、ベッドに横たわった。鉾良のごつごつとした硬い指が髪を撫でるのが気持ちいい。暁は目を閉じ、すぐに意識を手放した。
その日から、鉾良は毎晩暁の体を暴くようになった。
最初は男性器を慰めながら後孔に指を入れるだけだったが、指が三本入るようになると今度はどこで買ったのか性玩具も使うようになった。
在宅ワークで鉾良がパソコンで作業している間、エネマグラという変わった形の器具を挿入されて数時間放置されたこともあった。その頃には暁は前を触られなくても後ろだけで絶頂するようになっていた。
鏡の前で脚を開かされて玩具を挿入され、自らの痴態を見せられたこともあった。嫌がる暁に、鉾良は「これも治療ですから」と意味のわからないことを言っていた。泣いても喚いても鉾良はいつも平然と暁の体を嬲った。
変わっていく自分が怖かった。何時間も性的な刺激を与えられると体力を使うのか、食事も睡眠も徐々に量が増えてきて、やつれていた体は半月も経つとかなり体重を取り戻していた。
自分でも驚くほど神のことを考える時間が減り、それに気付いては慌てて祈るような有様だった。
その代わりに暁の脳内の殆どを占めたのは鉾良だった。
正確には、過去の鉾良のことをよく思い出していた。不真面目で、手先は器用なくせに笑うのが下手で、よく部屋に来ては暁にギターを弾くように強請ってきた友人を。薄らと目を細め、嬉しそうに音楽に耳を傾けていたあのかんばせを。
ふたりで四畳半に寝転んで口ずさんだデヴィッド・ボウイの曲も、カウンター席に並んでふたりで昼食をとった古いラーメン屋の匂いすら、どんなに忘れようとしても煙草のタールのように重く肺の底に染み付いて吐き出すことが出来ない。
「今度の土曜日、外に行きませんか」
鉾良の言葉に暁は我が耳を疑った。どんなに懇願しても外に出してくれなかったのに、どういう心変わりだろう。
「……いいんですか?」
「ええ。寒くなってきたから、一緒に洋服を買いに行きましょう」
彼は微笑んで、暁の肩に彫られた茨のタトゥーを撫でた。
「最近はかなり体重も戻ってきたから、今度は外を歩いて日の光を浴びるべきです」
「……そう、ですね」
暁は笑みを浮かべそうになるのを必死で堪えた。
────外に出られる。きっと一瞬でも隙はあるはず。タイミングを見計らって鉾良から逃げよう。
「鉾良、窓の外が見たいです」
「外?カーテンを開けましょうか」
鉾良はベッド脇のカーテンを半分開けた。灰色の空から、ちらほらと雪が降っていた。
暁は拘束されたままの両手で窓ガラスに触れた。外気を吸って、透明なガラス板は刺すように冷たい。掌を付けると鉄の枷がごつりと硬い音を立ててガラスに当たる。
「暁さん、そんなに近付いたら体が冷えますよ」
背後から鉾良に抱き締められ、窓から引き離された。そのままベッドに横たえられたかと思うと、額にそっと口付けられる。
「欲しいものがあるなら考えておいてください。大丈夫そうなら食事も外でとりましょう……何か希望はありますか」
「……ぁ……あの……高架下の……」
暁は鉾良の胸に額をくっつけた。ずっと前、自分たちがまだ友人だった頃によく通った高架下のラーメン屋はまだやっているのだろうか。古かったから、もう店自体が無いのかもしれない。
「ん?」
「……なんでも……ありません……」
しかし土曜の朝、午前十時をすぎても鉾良は目を覚まさなかった。
それどころか、普段は暁が眠ったら自分のベッドに戻るはずなのに今朝はまだ暁の隣に横たわっていた。
暁はベッドに座ると鉾良の額に手を当て、その熱さに驚いてすぐに離した。
────熱がある。息が苦しそうだし、顔も赤い。
「鉾良……?大丈夫ですか?」
体を軽く揺するも、返答はない。眉根が苦しげに寄せられて、魘されているのか大量に汗をかいている。
「ねえ、鉾良……起きてください……」
呼びかけた自分の声は驚くほど不安げで、思わず口を閉じた。当然だ。鉾良がこのまま死んでしまったら、ここに拘束されている暁は確実に生きていけない。
暁は鉾良のズボンのポケットをまさぐった。携帯電話、財布……鍵らしきものはない。一応財布の中を確認すると、小銭入れから小さな鍵の束が出てきた。鉾良が目を覚まさない内に急いで手足の枷を外す。
静かにベッドを降りようとした時、鉾良に手首を掴まれた。
「……暁さん……行っちゃ……だめだ……」
「……は、離してください」
必死で鉾良の手を振りほどき、椅子にかけてあった鉾良のダウンジャケットを羽織ると逃げるように家から飛び出した。
外は相変わらず雪が降っていた。まだ積もるほどでないが、このまま降り続ければそれも時間の問題かもしれない。
吐く息が白い。手が悴んで指先が痺れる。
────早く、早く行かなければ。
つっかけた鉾良の靴は暁には大きすぎて、一歩足を動かす度に脱げそうになる。
それでもなるべく急いで、繁華街の方へと向かった。
暁が居なくなった部屋の中。鉾良は半ば転げ落ちるようにしてベッドから降りたものの、立ち上がることが出来なかった。
────追いかけなければ。今度こそ暁さんが死んでしまう。
這いつくばって玄関の方に向かおうとするが、体に力が入らない。意識が朦朧として、瞼が閉じそうになる。
「……つき……さん……あかつきさん…………」
腫れた喉から必死で声を絞り出す。しかし、ドアは重く閉ざされたまま、返答はない。
このまま彼を失ってしまうのだろうか。やっとあの教団から連れ出したのに。やっとふたりきりになれたのに。
鉾良は歪む視界に耐えられず目を閉じた。頭が痛い。吐き気がする。それよりも体が動かないことが悔しかった。
ふと気が付いて目を開けると、鉾良は床に転がったままだったがその体には毛布が掛けられていた。額に濡れタオルか何かが載せられていて、ひんやりとして気持ちがいい。火照った頬にかさついた細い指が触れてくる。
「……あ、かつき、さん」
「はい、ここにいますよ。お薬は飲めますか?少しだけ頭を起こしますね」
暁は自分の膝の上に鉾良の頭を乗せると、グラスに注いだ水と白い錠剤を差し出してきた。なんとか重い頭を上げ、鉾良は錠剤を口に含んで水で流し込んだ。
「……好きです……暁さん……ずっと俺の傍にいてください……」
うわ言のような鉾良の言葉に、暁は悲しげに眉を下げた。
「……お前の愛情に応えるには、私は罪を犯しすぎました」
「それでもいい……一緒に……地獄に……」
鉾良は暁の膝に縋りついた。目から涙が溢れてくる。暁の手が優しく鉾良の髪を撫でる。
「ふふ……地獄までついてくるなんて、お前からは逃げられませんね」
「愛しています……暁さん…」
手を伸ばすと、以前よりかなり肉付きがよくなった頬に指で触れる。ああ、なんて幸せな夢だろう。ずっとこのまま眠っていられたら……。
そこで鉾良は目を覚ました。
相変わらず鉾良は床に転がって眠っていた。フローリングの上で寝たせいで体の節々が痛いが、熱が下がったのか体は軽い。
頭の上に乗せられていたはずの濡れタオルはなかった。体に被せられていた毛布も、……暁の姿も勿論ない。
「……はは、」
鉾良は乾いた笑い声を漏らした。酷く自分に都合のいい夢を見ていた。鉾良のことをあんなに怖がっていた暁が、戻ってくるはずなど────
「……鉾良?目が覚めましたか?」
聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる。髪を後ろで一つに縛った暁が、手に綺麗に畳んだスウェットの上下を抱えて立っていた。
「汗をかいていたから着替えるかなと思って……」
「……暁さん!」
鉾良は飛び起きて、暁に抱きついた。驚いた暁が手から着替えを取り落とす。
「どうしました?」
「俺は、さっきのは夢かと思って……ッ……もうあなたは戻ってこないと……!」
鉾良の体は震えていた。暁は少し悩んで、そっとその背中に手を添えた。
「……鉾良にギターを渡した時のことを覚えていますか」
「……ええ」
「あの時……私の精神は限界でした。犯す罪の重さに耐えられなくて、それでお前の顔がふと浮かんだんです」
鉾良は暁の顔を見た。暁は悲しそうに眉を下げていた。
「一緒に堕ちてくれる相手が欲しかったんです……それなら鉾良、お前が良かった。きっと私はずっとこうなりたかった……お前に連れ出してもらうのを望んでいたんだと思います」
「暁さん……嬉しいです……俺もずっと夢見ていたんです」
鉾良は微笑むと、さっきより強く暁の細い体を抱き締めた。
「また俺のためにギターを弾いてくれませんか」
「……それは……なんだかプロポーズみたいですね」
暁は苦笑して、鉾良の背を抱き締め返した。
熱が下がって数日後。二人で食事をとったあと、音楽雑誌を眺めていた暁がふと顔を上げた。
「……そういえば鉾良って私に入れたことはないですよね」
何気なく放たれた暁の言葉に鉾良はしばし硬直した。確かに、散々体を曝いてはいるが鉾良の性器を挿入してのセックス自体はしたことがない。
「それは……流石に暁さんの尊厳が……?」
「あんなことまでしておいて今更そんな躊躇をしていたんですか?」
暁は驚くというよりは呆れていた。そしてその直後、鉾良にされたあれこれを急に思い出して赤面した。
「……わ、私が嫌がると……本当に思っているんですか?」
「……嫌じゃないんですか?」
鉾良は暁の両肩を手で掴んだ。その掌の力強さにどきりとして、暁は息を飲んだ。
「い、やじゃないというか……その、……私だけ……っていうのも、嫌だなって……」
「抱いていいですか?」
鉾良の表情はいつも通り冷静だった。しかし、その声音に隠しきれない熱が籠っていた。
暁は目を泳がせながらも、こくりと頷いた。
鉾良の興奮した様子を見てすぐに入れられると思っていたが、いつも通りの念入りな準備の後、気が遠くなるほど長い前戯を行われて暁は息も絶え絶えになった。もう数回は指だけでイかされている。ここから更に本番?冗談だと言ってほしい。
「大丈夫ですか? 俺の、そこそこ大きいから……入るかな……」
普段通りの抑揚のない低い声でそう言って、鉾良はぐったりと脱力している暁の体をうつ伏せに転がした。
「ネットではうつ伏せが楽だって書いてるけどどうなんだろう……それとも横向きの方がいいのか……?暁さん、腰上げられます?下に枕敷くので」
腰を持ち上げられて下に枕を挟まれた。臀部を高く突き出す姿勢に羞恥心を覚えるも、鉾良の言葉に従う。
鉾良はベッドサイドに置いていたローションのボトルから中身を掌に出すと、少し温くなるまで手で包んでから暁の後孔へとそれを纏わせた。
「あ……ッ……」
触れられただけで肌が甘く戦慄いて疼くような快感に襲われる。 服を脱いでいるのか背後で衣擦れの音が聞こえた。
「……鉾良……っ」
「力抜いてくださいね。慣らしてるから痛くはないと思いますが」
後孔の縁に熱いものが当てられた。指より太い。玩具と比べ物にならないほど熱く、弾力が強い。
ぬぷっ、と音を立て肉壁を押し拡げながら怒張が入ってくる。普段よりも数倍強烈な圧迫感と直腸を抉られる快感に開きっぱなしの口から涎が垂れる。
「あー……ッ……うぁ……っ」
鉾良が覆い被さってきて、後ろから抱きつかれるような形になる。密着する肌の温かさも腹を埋める熱も心地がいい。思考が溶けて、全てがどうでも良くなってしまう。
「ッ……中、キツ……痛くはないですか?」
「は、いっ……大丈、夫っ……」
耳朶に鉾良の吐息が掛かって興奮で背筋が粟立つ。暁は訳も分からず必死でうなずいた。
鉾良は数分動かずに待っていたが、それでも暁は朦朧としたまま何回かドライで絶頂した。中がきつく収縮する度に鉾良は暁の髪を撫でたり、項にキスを落としてきた。
「暁さん……動きますね」
暫くして、鉾良はようやく律動を始めた。鉾良の逞しい体がぶつかる度、腹に体重が掛かり濁った喘ぎ声が出てしまう。
腹側の浅い所を硬い肉杭が掠める度に腰が跳ねる。自分の快楽を追うより暁の前立腺を的確に責める動きを続けられ、長い甘イキで目に涙が滲む。
「ぉ゛っ!?ぐ、……うッ……」
内壁をぞりぞりと抉られ目の前に星が散る。
────こんなの、頭がおかしくなってしまう。
暁は苦し紛れにベッドシーツを掴んだ。
鉾良は暁の体を気遣っているつもりだろうが、じわじわと前立腺ばかり嬲るような浅い抽挿は痛みを伴わないだけでもはや拷問だった。
鉾良は暁の目から零れ落ちた涙を拭うと、ふうっと大きく息を吐いて暁の腰を掴み自分の方に引き寄せた。そのまま彼の下腹に掌を当てれば自分の性器がどの辺りまで入っているかさえ薄い腹越しに分かってしまう。
────もっと食べさせなければ。
体重が増えてきたとはいえ、暁はまだ成人男性にしては体が軽すぎる。
鉾良が更に奥の行き止まりまで腰を進めると、暁は苦しげに首を振った。
「……っ!だ、めッ……それ嫌、ですっ……」
弱々しい拒絶の言葉を無視して最奥を何度か突くと暁はシーツの上に力無く射精した。と同時に中がきつく収縮し、鉾良は息を詰める。
腰を掴んでいた手を離すと、暁はふらりとそのままベッドに倒れ込んだ。追い討ちをかけるように暁に覆い被さって腰を押し付けると、体の下で暁のくぐもった悲鳴が上がる。
鉾良はシーツを掴む暁の指へとキスを落とし、律動を再開する。絶頂後の余韻に浸る間もなく再び激しい刺激を与えられ、暁は涙を流し始めた。
「鉾良ッ、あっ、止まって……ッ、ぅ、本当に、だめッ……」
「怖くないですからね、大丈夫」
鉾良は幼子をあやす様にそう言うと、今度はひたすら最奥まで穿つ動きに変えた。
「あっ、あ……あ゛ぁ……!っイく……離してっ……イッ……」
体重を掛けられているせいで快感が上手く逃がせない。ピンと足を伸ばしたまま痙攣し、絶頂する。気付かないうちにまた射精してしまったのか、濡れたシーツが腹に張り付く。
「ほこ、らっ……無理……っも、出ないですっ……だめ……っ」
「ああ、大丈夫です。出なくてもイくことはできますから」
むしろドライで何度も連続して達する方がつらいのだが、鉾良はそれを知ってか知らずかさっきよりも腰の動きを激しくする。
「うあぁッ…イくっ……鉾良……っ」
暁は幼子のように鼻水と涎でぐしゃぐしゃになりながら泣いている。
その様子に鉾良は笑みすら浮かべながら、笠の張ったカリ首で容赦なく内壁を嬲る。
「暁さん、気持ちいいならちゃんと気持ちいいって言わないと。だめと嫌ばっかりじゃ俺も傷つきますよ」
鉾良の言葉に暁の灰色の瞳が揺れた。鉾良は言葉を続けた。
「素直に口に出した方が多分もっと気持ちいいですよ」
「う……あっ……」
腰を押し付けたまま揺するように抽挿すると暁は感じ入ったように身体を震わせた。鉾良は暁の背後から手を伸ばし、彼の首を手のひらで覆って側面を軽く圧迫した。
「ぐっ……ぅ……ッ」
酸欠で視界が白む。思考が不明瞭になり、じんわりと滲むような多幸感で目に涙が浮かぶ。
「暁さん……言って?」
耳元に鉾良の熱い吐息がかかる。鉾良の低い声も、体の熱も、硬い指も、何もかもが心地いい。暁は小さくうなずいた。
「気持ちい……鉾良……ッ……気持ちいい……っ」
ふうっ、と鉾良は荒い呼吸を吐くと、ピストンを激しくした。暁は恍惚とそれを受け入れる。中を穿つ熱も電流のような強い快感も、最初は怖かったのに今は愛おしくて堪らない。
────鉾良が好きだ。ずっと前から好きだった。
「っ……暁さんっ……イく……っ」
鉾良は射精の直前で怒張を引き抜くと、暁の背中の上に白濁を放った。
熱い精液が勢いよく背を濡らすその感触にゾクゾクと背筋が粟立つ。
「……鉾良……」
振り返って顔を近付けると、望みを察した鉾良は暁の唇に自身のそれを重ねた。
髪を撫でられたかと思うと後ろ頭を掌で固定されて深く口付けられる。
舌を絡めると懐かしいショートホープの苦味が口の中に広がった。ぬるりとした粘膜同士が擦れ合う感触を味わいながら目を閉じる。
鉾良に肩を押され、仰向けにシーツの上に押し倒された。
「……さすがに……もう無理です……」
暁は力の入らない腕で鉾良の胸を押し返した。
鉾良は意外にあっさり引き下がると、ベッドサイドのチェストに置いていた煙草の箱を手に取る。
「……ん」
暁が掌を差し出すと、鉾良は少しだけ驚いたように眉を上げた。
しかしすぐにいつもの仏頂面に戻り、一本を口に咥えるともう一本取り出して暁に手渡した。暁は差し出されたライターの火に顔を近づけ、ショートホープに火を点す。
ゆっくりと息を吸って肺を紫煙で満たす。甘みと重厚感を堪能しながら細く息を吐くと、ふわりと焦がした蜂蜜のような香りが顔の周りに広がる。
暁は喉に絡みつくタールの刺激で少しだけ噎せた。
「……久々だと上手く吸えません」
「すぐ思い出しますよ、アンタなら」
鉾良は暁の真似をしてふーっと煙を吐き出すと、眉を下げて小さく笑った。
(終)