「そこに座って」
伊妻が狭い診察室に置かれた患者用の椅子を指で差すと、菰野乃木は不服そうなしかめっ面のままドスンと乱暴にそこへ腰掛けた。
室内の空気清浄機とエアコンの空清機能を最大にセットしてもまだ『臭う』のか、虚ろな瞳でしきりに室内を見回している。
彼の鋭すぎる嗅覚には人工的な薬品が多数入り交じった病院内の臭いは強烈なのだろう。それでも最初の頃は院内に足を踏み入れただけで失神していたので、かなり慣れてくれた方ではあった。
伊妻は毎月菰野乃木の定期検診を行っている。本当ならば週に一度は行いたいところだが、彼の感覚の過敏さを考えると月に二回が限界だった。
検診は簡単なものであれば菰野乃木の自宅で行っているが、病院の大きな機械まではさすがに持ち運べないので最低限の回数だけ病院へ通ってもらっている。
菰野乃木の正面に座ると、彼の手を取り脈を計測する。圧迫感が嫌いなのか脈拍計を露骨に嫌がるので、MRIやCT、血液検査以外はなるべく触診のみで行っている。
死人のような冷たい手首に指を添える。かなり意識して集中しなければ分からないほど薄い鼓動。それでも規則的に脈を刻んでいることに安堵する。
「脈拍三十八……相変わらず死人レベルだね。体調は?」
「頭が痛い、眠い、体がだるい、めまいがする、腹が減った」
いつも通りの回答だ。腹が減った、は体調では無いが。
「ご飯はもう少し待って。ちょっと胸の音を聞かせてね」
聴診器を装着し、先端を菰野乃木の胸部に当てる。極微弱だが心音に雑音は混じっていない。何箇所かに当てて確認した後、聴診器を外す。
「うん、大丈夫。じゃあ次は目を見せて」
顔を近づけ、瞳にペンライトを当てる。
極端な 散瞳 ────ライトを当てても瞳孔は大きく開いたまま。瞳の大半を占める沼の底のような濁った黒は本当に死人のそれと同じに見える。
伊妻にとって検診の愉しみはこの瞬間にあった。菰野乃木の瞳は何度見てもぞっとするほど美しい。抉り出して瓶に詰めたらもっと官能的だろう。それを実行する気はないが、夢想し恋焦がれる瞬間は絶えない。
「…………いつも通り」
渇いた喉から何とか言葉を絞り出し、微笑む。菰野乃木は全く伊妻を疑う様子もなく、眩しいのか何度も目を瞬かせていた。
「血液も採るけどいい?」
「……注射は嫌だ……」
くしゃりと顔を顰める菰野乃木の頬を、咎めるように指で抓む。筋肉は固いが、頬は意外と柔らかくてすべすべしている。
「毎回やってるでしょー。いい加減慣れてよね。……座ったまま暴れられると危ないからそこのベッドに横になってくれる?」
菰野乃木は渋々といった様子でベッドに寝転んだ。百八十センチ近い菰野乃木の体は病院の診察室にある小さなベッドには足を折り曲げなければ収まらず、不自然に体を縮こめている姿は些か間が抜けていた。
「腕出してね……手が強ばってる。これじゃ刺せないんだけど」
「……ッ……」
呼びかけても彼は青ざめた顔で唇を必死に噛んで黙っている。成人男性にしては可愛らしい反応だが、菰野乃木の並外れた筋力を考えると鋼のような腕に注射針が通らない可能性が高い。
噛んだ唇から既に血が滲み始めているのを見咎めて、伊妻は自身の左手の指を菰野乃木の口元に押し付けた。
「口開けて、咥えて」
「ふ、うぅ」
唇を割り開くようにして半ば無理矢理人差し指と中指を捩じ込むと、菰野乃木は慌てて脱力した。
彼は自分の顎の力をもってすれば伊妻の指くらい簡単に噛み千切ることができると自覚している。そして、医者にとって指がどれほど大切なものなのかも。
だから菰野乃木は何があっても伊妻の指だけは傷付けない。
「……いい子だね。そのままじっとしてて……痛くないでしょ?俺、上手いんだから。ゆっくり呼吸して、まだ力は抜いててね」
必死で口を開いているからか溢れた唾液が唇の端を伝うのを、親指でそっと拭ってやる。菰野乃木は苦しそうに眉根を寄せながら体に力を入れないように耐えていた。
喘ぐような苦しげな息遣いを聞いていると何かいやらしいことをしているような後ろめたい気持ちになるが、血液検査は彼のためにも必要なことだ。
「……はい、終わり。針も抜いたからね。ゆっくり息して。よしよし、怖かったね」
雨に打たれた子犬のように震えている菰野乃木の背中を掌で擦る。菰野乃木がきつくしがみついてくるので、伊妻は彼の頭を撫でながら片手で器用に採血スピッツの蓋を閉めて脇に避けた。その指はまだ菰野乃木の唾液で濡れている。
「怖いのはもう終わったから、ちょっとそのまましばらく横になってて。すぐ起き上がると目眩がするかも」
「……」
「起き上がれたら少しだけ待合室で待っていてね。あとはMRIだけ撮ったら一緒に帰って……ノギさんの好きそうなご飯も街で探そう」
菰野乃木は相変わらず険しい顔をしていたが、伊妻の言葉に無言でこくりと頷いた。
菰野乃木がふらつく足で待合室に向かった後、ひとり残った診察室で彼の口の中の温度を思い出した。死人にしては熱く、柔らかく、濡れた口の中を。
「……生きているんだよね」
伊妻は言い聞かせるようにそう呟いて、唇にまだ湿っている人差し指と中指を当てた。
(終)