往なず逃げずの冬達(お仕事編)




塩崎俊平 しおざきしゅんぺい は耳障りな蝿の羽音で目を覚ました。咄嗟に顔の周りを払おうとして、手が動かないことに気付く。どうやら自分は椅子に座った状態で、肘置きに手首を固定されているようだった。抜け出そうと体を捩って藻掻くが、手首の枷は鉄製らしくいくら力を込めてもびくともしない。

彼は顔を上げ、その場所が窓のない無機質な白い部屋の中であること、そして蝿の羽音だと思ったのは頭上に設置された巨大な換気扇の回転音であると気付いた。


塩崎が拘束されているのは部屋の丁度真ん中で、正面を向けば出入口となるドアが一つだけあった。そのドアはガラス製なのか無色透明で、目を細めて注視すればドアの向こうにも真っ白な廊下と、さらにその向こうには金属製の二重扉が設置されていることがわかる。


逃げ道が存在しないことに絶望したところで、ガラス戸の向こうの金属製の扉がギギィ、と重く軋みながら開いた。

スーツの上に黒いファーのコートを着た明らかに堅気ではない男と、その後ろからそれより更に頭ふたつ分ほど背の高い人物が入ってくるのが見えた。男はともかく、後ろの人物は背が高すぎてこちらからは頭が隠れ、顔が分からない。

塩崎は恐怖に息を飲んだ。これから自分は殺されるのだろうか? 果たして何の罪で? どのようにして?

ごく一般的な小市民である塩崎には、ヤクザに狙われるような悪事には心当たりがなかった。

男が手に持っていたリモコンのようなものを天井に向けて操作すると、頭上から白いスクリーンが降りてきた。学校の授業なんかで使うような大きな天吊りのプロジェクタースクリーンである。

「うーっす、お疲れ様です。……大丈夫です?なんか生まれたての小鹿みたいに震えてますけど」

気安い口調でそう話しかけてきた男の顔は鼻筋を横切るように大きな傷跡がある。髭のある口元に、火のついた煙草を咥えていた。一拍遅れてスクリーンの陰からひょこりと顔を出すようにして現れたのは、これまでの人生で見たこともないような巨躯の女だった。女はその鮮やかなオレンジ色の髪と西洋的な顔立ちを鑑みても唖然とするほどの長身であった。目算二メートルは優に超えているだろう。女も男と同じ銘柄の煙草を噛むように口端に咥えたまま、塩崎と目が合うと犬歯を見せて笑った。

「エート、塩崎ス、スンペェ、サン……?でしたカ?」

「しゅんぺい、だ馬ァ鹿」

男は自分より体格のいい女の脛の当たりを革靴の爪先で軽く蹴った。そして、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま塩崎と目線を合わせるように屈んだ。同時に漂った紫煙を直に吸い込み、塩崎は思わず噎せ返る。

「あぁ、塩崎さんは煙草は吸われないんですね。これは失敬」

申し訳なさそうな声音でそう言うも煙草の火を消すつもりはないらしく、男の両手はポケットに突っ込まれたままだった。

「塩崎さん、なんでここにいるか分かります?」

揶揄うように男に尋ねられ、塩崎は必死で首を横に振った。

「わわ、わかりません。ひ、人違いです。俺は借金とか、その、な、何も悪いことはしていません」

紫田しだサン、また『カタギじゃナイ』に勘違いされてますネ!」

女は手を叩きながらけらけらと笑った。煙草臭さに息を詰めながら、塩崎は男と女の顔を交互に見た。堅気じゃない、と勘違いされている……ということは、この二人は暴力団関係者などではないのだろうか?

男の着る派手な柄モノの開襟シャツと黒スーツ、ファーコートに比べ、女はミリタリーチックなカーキのジャケットの下に黒のハイネックを着込み、海外の軍人を思わせる装いをしている。服装の統一感の無さから明確な組織性は感じられないが、このような頑強な拘束と真っ白な部屋の設備を見ているとこの二人がただの私怨で塩崎を拉致したようには思えない。

紫田、と呼ばれた男はふうっと煙草の煙を吐き出すと、口端を歪めるようにして笑った。

「じゃあこの人物に覚えはありますか?」

言いながら、紫田はリモコンを操作した。直後スクリーンに映し出された人物に塩崎は息を飲む。

華奢で顔立ちの整った、中性的な男性が画面に映されている。男性の視線や撮影角度から見るに、隠し撮りである。────そもそも、塩崎が撮ったものなのだから隠し撮りであることなど百も承知だ。

「……あなたは一か月前清掃員として警察署で働き始めてから、この人物の盗撮や私物の窃盗を続けていますね」

「そ、それは……その……ッ……出来心で……」

塩崎は訥々と言い訳をするも、紫田の表情は冷たかった。

「彼のコートや鞄に体液を掛けたのも出来心ですか?」

「ウエッ、キモチワルイですネェ」

紫田の言葉に女が露骨に顔を顰めた。

「し、真剣に好きなんです彼のことが!あんな綺麗な人が俺みたいな清掃員にも笑顔で挨拶してくれて、好きにならない方が無理があるじゃないですか!」

「それは彼に性的な嫌がらせをする理由にはなりませんね。……あなたが気色悪ィまじ有り得ねえ狼藉を働いたのはね、『坊ちゃん』の恋人さんなんですよ」

紫田はそこまで言うと、咥えていた煙草を指で摘んだ。そして、その先端をまるで灰皿にでも押し付けるように塩崎の額に押し当てた。

「ぎっ……!」

「『坊ちゃん』は酷くご立腹でしてねえ……恋人さんは警察沙汰にしたくないから我慢するみたいですけど……まあ、逆にこっちからしてみれば警察沙汰にさえしなければいいんですからねえ」

喋っている間、紫田は煙草の先が潰れて中身の葉が零れるまで短くなったそれをぐりぐりと塩崎の顔に押し付け続けた。皮膚の焦げる鋭い痛みに塩崎は悶絶する。

「ご、ごごめ、ごめんなさい!もうしませんから!!命だけは助けてください……ッ」

塩崎は涙と鼻水を垂れ流しながら紫田に懇願した。紫田は火の消えた煙草を無造作に床に放ると、にっこりと満面の笑みを浮かべてみせた。

「命だなんてそんな物騒な!一般人パンピー殺すなんてもってのほかだよなぁ?なあ鷹嶺たかみね!」

「そーそー、モッテノホカ、ですネ!」

女────鷹嶺は幼い子どものようにきゃはは、と声を上げながら破顔した。

「じゃ、じゃあわた、私は……どうなるんですか……?」

震える声で塩崎がそう絞り出すと、紫田と鷹嶺は目を瞬かせながら互いに顔を見合せた。

「アレをなんて説明すればいい」

「Ah……Ludovico Technique……?」

「それだ」

鷹嶺が何か呟いた言葉に紫田はパチンと指を鳴らすと、笑顔で塩崎に向き直った。

「『時計じかけのオレンジ』って観たことあります?あれのちょっと痛いやつをやりますからね」


とある人物のサポート組織で紫田が行っているのは、主に人格の矯正である。その矯正に物理的な暴力が必要な際は、荒事担当の鷹嶺が補助を行う。歴代の矯正官の中でも特に面倒臭がり────もといタイムパフォーマンス重視の紫田は、ほとんど毎回鷹嶺を引き連れている。

今回塩崎俊平に施す矯正は、『坊ちゃん』の恋人への恋慕と性欲を減退させることを目的としている。そのために紫田は「古典的条件付け」を行うことにした。

ちなみに古典的条件付けを分かりやすく例示すると『パブロフの犬』になる。犬の前にベルを鳴らして餌を出す。すると犬は餌を前にして唾液を分泌する。ベルを鳴らす。餌を出す。唾液が出る。それを繰り返す。するとやがて、犬は餌を出されなくてもベルの音だけで涎を垂らすようになるという、言わずとも知れたイワン・パブロフの実験である。

紫田はスクリーンに『坊ちゃん』の恋人の写真を映し出した。無論、塩崎が盗撮したデータの一部である。おそらく塩崎がいかがわしい行為に使用していたであろうそれを大画面に投影したまま、鷹嶺に手を挙げて合図する。

鷹嶺は無言で頷くと、金属の枷で固定されている塩崎の右手を革手袋越しに握った。

「いいですか塩崎さん。しっかり画面を見ていてくださいねえ。目を逸らすと後が酷いですよー」

紫田の言葉につられ画面を見た途端、ボグッと鈍い音がして掌全体を万力で押し潰されたかのような強烈な痛みが走った。

塩崎は激痛に叫びながら自身の右手を見た。鷹嶺は相変わらずただ握手と似た形で塩崎の手を握っているだけだった。しかし塩崎の右手の指は五本それぞれの関節があらぬ方向に曲がっており、手の甲も青紫色に変色している。

────まさか素手で折られたのか、手指の骨を……!?

目に涙が滲み、画面に映る愛しい人の姿がぼやける。かと思うと、涙をペーパータオルのようなもので乱暴に拭われた。無理矢理クリアにされた視界に紫田の凶悪な笑みが映る。

「この画面に映ってる人がね、怖いなーって思うようになるまで頑張りましょうねー」

鷹嶺の大きな手が塩崎の肩に触れる。

直後室内に響き渡った劈くような塩崎の絶叫は頭上の巨大な換気扇に飲まれ、霧散した。




数分後。鷹嶺と紫田は換気扇を見上げ、ため息をついた。

「このカンキセンは優秀ですネ」

「まあ先代の『睦月』が何かと臭いが気になるから馬鹿でっけーターボファンをつけてくれ、って御大に頼んでくださったからな。それでもちょっと臭うけど」

紫田は吐瀉物を膝にぶち撒けたまま気を失っている塩崎を見下ろし、眉を顰めた。

「あーあ。こいつが起きねえといつまでも飯抜きだぜ。なあ、バケツに水汲んでぶっかけて早く起こそうぜ」

「賛成、もうお腹ペコペコですネ〜!」

「マジかよお前、ゲロ見ても腹減んの」

「紫田サンだってお腹減ってるでショ!」

呆れ顔で肩を竦める紫田の後を鷹嶺はスキップしながら追いかけた。




「うーん……少しやりすぎですね!」

笑顔のまま放たれた『坊ちゃん』の第一声に、その場に正座していた紫田と鷹嶺はしょんぼりと肩を落とした。

「手足の骨が粉々に折れて軟体動物みたいになったアレはどうするおつもりですか?」

「でもボンチャマ、塩崎スン……シェンペーサンはちゃんと生きてますヨ!」

鷹嶺は反論しかけたが、『坊ちゃん』のヘーゼル色の瞳がきゅ、と咎めるように細められたのを見て慌てて口を噤んだ。

「申し訳ありません、坊ちゃん。恋人さんの写真を見たら反射で吐くようになるまでやろうと思ったら熱が籠っちゃって、ちょっと折りすぎました」

紫田も厳つい顔をチベットスナギツネのようにしょぼつかせている。『坊ちゃん』は呆れ顔ながらも表情を緩め、頷いた。

「俺も『手足の骨を粉砕骨折させるな』とまでは指定していませんでしたから。お互い様ということにしましょう。それで、結果は?」

紫田と鷹嶺は目を輝かせ、部屋の中央の椅子に座る塩崎を指で指し示した。塩崎は虚ろな瞳でどこか遠くを見つめたまま、開きっぱなしの口から涎を垂らしている。剥き出しのその両手両足は青紫色に腫れ上がり、蛇のように不自然にぐにゃぐにゃと曲がっていた。

「見ててくださいよ坊ちゃん!」

紫田はリモコンを使って天井から垂れたスクリーンに彼の恋人の写真を映し出した。すると放心状態だった塩崎は途端に猿のような甲高い悲鳴を上げ、椅子に固定されたまま痙攣しながら嘔吐、失禁した。

「……ふむ、これならあの人に二度とあんな蛮行は働かないでしょう。ありがとうございます紫田。それに、鷹嶺も」

満足そうに頷く『坊ちゃん』を見て、鷹嶺と紫田は安堵に胸を撫で下ろした。

「しかし、恋人さんには犯人が塩崎だって伝えないんですか?」

「彼に伝えたら俺が殺りたかったのに!って怒られちゃうので……。優作さんは性犯罪者の粛清にとても積極的な人で……」

怒られる、と言いながらも『坊ちゃん』はどこか恍惚とした笑みを浮かべている。長い惚気話が始まる気配を察知して、紫田と鷹嶺はその場に体育座りで座り直したのであった。



(終)



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