イベントSSまとめ




※季節行事のssまとめです。随時更新




2025年12月23日



唐突に明日はどうする? などと聞かれたのでどうも何も仕事だよと答えると、親友はやけに気落ちした様子で「そうか」とだけ返事をした。

それがクリスマスイブの予定の話をしていたのだと気付いたのは、菰野乃木がこれ見よがしにチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を読み始めたからである。

伊妻はこの意外に捻くれたアピールの仕方に対して「申し訳ない、はやく謝らなければ」という率直な反省と「可愛いからもっと気付かないふりを続けて怒らせたい」という強烈なキュートアグレッションに襲われた。

しかし自分の加虐欲は洒落にならないレベルであることも分かっているので、間をとって思いっきり揶揄うことにした。

「ねえ、クリスマスイブなんて、そもそも恋人同士で過ごす時間だよ。性の六時間だよ? 本来友達でワイワイするような日じゃないよ」

菰野乃木は『クリスマス・キャロル』を閉じて、首を傾げた。

「聖なる六時間?」

「いや、聖じゃなくて性ね。クリスマス・イブはセックスするカップルが一番多い時間帯と言われていて……」

……自分は何を馬鹿らしい説明をしているのだろうか。伊妻は興醒めして途中で口を噤んだ。

菰野乃木は黒い瞳をぱちぱちと瞬きさせると、ああ、と納得した風に頷いた。

「だから九月生まれの人間が多いのか」

確かにそうだけど、言いたかったのはそれじゃない。

話が徐々に脱線し始めている気配を察知して、伊妻は菰野乃木が寝転がるソファの縁に座って彼の顔を覗き込んだ。

「それはさておき、俺は二十四日、夜なら全然空いてるけど?」

菰野乃木はふん、と馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「恋人同士で過ごす時間で、友達同士ワイワイするような日じゃないんだろう? 遠慮する」

ああ、変な揶揄いのせいで更に捻くれちゃった。

伊妻は頭を抱えた。そして、クリスマスイブの夜までに菰野乃木の機嫌が治っていますようにとイエス・キリストに願った。




2025年12月24日



十二月二十四日は、迎崎家にとってはイエス・キリストの生誕を祝う日ではない。

────無論、彼らが仏教徒であるからなどという意味合いではなく、その日のさらに優先度の高いイベントとして禊と祈、ふたりの誕生日が存在するからである。

禊が生まれた十二月二十四日のちょうど三年後の同じ日に祈が生まれた。

「この三年きっかりの絶対に埋まらない差が私は憎いんですよ」

「いよいよ年月すら恨み始めたねえ、お前は」

その日、祈は珍しく酒を飲んでいた。最近胃炎がかなりマシになったからと、アルコールの微弱なチューハイの缶を寝室に持ち込んできたのだ。ちなみにそれに付き合う禊は甘い酒類は苦手なので、普段よりかなり饒舌になった弟の横でスコッチ・ウイスキーをグラスに少量注いでベッドに腰掛け、舐めるように味わっている。

「僕は嬉しいけどね。一番好きな相手と同じ日に生まれたなんて」

微笑ましい気持ちで祈の柔らかい髪を撫でると、弟はムッと唇をとがらせ、禊の手を振り払った。

「誰ですか!兄さんの一番好きな相手!私だけじゃないんれすか!」

祈の発した言葉の最後の方はあまり呂律が回っていなかった。禊はそっと弟の手から酒の缶を奪う。

「ノリくん、飲みすぎだねえ。……うわ、甘っ。よく飲めるねこんなの」

好奇心で一口だけ飲んだみかん味の缶チューハイは、砂糖水のように甘かった。

祈は何を勘違いしたのかふっ、と得意げに口角を上げ、「私の方がお酒には強いみたいですね」と威張った。かと思うとそのままふらりとベッドに倒れ、眠ってしまった。

「……好き勝手言って眠ったら忘れちゃうんだから、確かにある意味強いのかもねえ」

禊はすやすやと穏やかな寝顔で眠る弟の眼鏡を外してやると、その額へと静かに口付けた。

「お誕生日おめでとう、愛する弟よ」




2025年12月25日

※MY BLOODY CHRISTMASの後日談



朝日に照らされたログハウスの中。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、外からは木々のざわめきと小鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。

都は未だかつてなく安らかな心持ちで微笑んでいた。

雪山で遭難した人間が今の彼を見つけたら、十中八九空から迎えに来た天使だと勘違いするだろう────その手に握った手斧と、全身に被った真っ赤な血さえ無ければの話だが。

手斧には、血のみならず肉片と思しき塊も所々に付着している。

空席になったロッキング・チェアが、まだギィギィと小さく揺れている。

ブルーシートを敷いた床には、ミキサーにかけた大量の挽肉のようなものが散乱していた。

「あぁ……清々しい朝だな」

都は大きく伸びをすると、手斧を床に放り投げた。そして、着ていたコートをその場で脱ぎ、同じように血の水溜まりの中に放る。

田子谷は昨夜から一睡もせず、ソファに座ったまま都の行った一部始終を眺めていた。しかし、朝日が昇った今になっても血が沸騰するような高揚感は治まらなかった。

都は血を吸って重くなったセーターを脱ぎ、その下に着ていたシャツのボタンもひとつずつ外し始めた。

ストリップと呼ぶには雑な、しかしただの着替えにしては酷く緩慢にボタンに手をかけながら、田子谷の膝の上へ向かい合うような形で座る。

都の体からは濃い血の匂いが立ち上っていた。さっきまで飲んでいたワインの色を連想させる暗い赤色に頬が濡れている。

「なあ、光司」

血に濡れた掌が田子谷の内腿にそっと触れた。

耳朶に顔が近づけられたかと思うと、唇の柔らかい感触が耳の縁に当たる。

「……プレゼントのお返しがしたいな」

「ふふ、俺はもう十分もらったのに、まだくださるんですか」

田子谷は目の前でシャツを脱ぎ捨てた都の胸へと耳をつけた。普段より早いリズムで鼓動を刻む心臓が愛おしい。

急かすように首の後ろに手が回されたので、田子谷は応えるようにして都の赤く濡れた唇にキスをした。




2025年12月31日



冬の間によく菰野乃木が使う『伊藤』は古い作りの和風の一軒家で、梔子市ではなく隣の口兄市にある。

冬季限定で利用頻度が高くなる理由は、『伊藤』には炬燵が置いてあるという一点に尽きる。日本人の最終兵器、一度入ったら二度と出られない恐ろしい罠、あるいは素晴らしき文明の利器である。菰野乃木は元来体温が低く寒がりなので、勿論のことだが炬燵が好きだ。

伊妻は炬燵の中でうたた寝をすると風邪ひくよとすぐ叱ってくるのだが、菰野乃木は人間のかかるような普通の感染症に基本的に罹患しないのでその言葉は聞き流している。

仕事納めが三十一日になってしまったせいか、伊妻はなにやらグロッキーになっていた。彼は『伊藤』に辿り着くと、病院から直行してきたからか念入りに手洗いうがいをしてから炬燵に入り、そのまま力尽きたようにぐったりと動かなくなった。

「お疲れ様、大丈夫か?」

「ああ……うん……なんとか……大晦日には間に合ったね……」

部屋の時計を確認して伊妻は自嘲気味に笑った。働いたことがない菰野乃木には伊妻の大変さは分からないが、金を稼ぐために────伊妻の場合はどちらかというと社会に溶け込むために────楽しくもない仕事を長期間続ける気力には感服する。

冷蔵庫から自分の分の全血製剤と、伊妻に出す用に冷えたビールの缶を手に取る。今日は小さな土鍋で伊妻の分だけ水炊きを作ってある。食べる気力があるだろうかと心配しつつも鍋敷きと土鍋を炬燵テーブルの上に置くと、伊妻は突然スイッチが入ったかのように勢いよく上体を起こした。

「わーっ! ありがとう菰野乃木さん!これ何の鍋?」

「水炊き。ビールも冷やしてあるぞ」

「やったー!じゃあ一杯だけ飲もうかな」

冷蔵庫に入れて冷やしてあったグラスにビールを注いでやる。菰野乃木自身はいつも通り生肉────ただし折角の年越しなので十代後半の若く健康な男の肉を皿に載せてテーブルに置いた。全血製剤を伊妻と揃いのグラスに入れ、手に持ったまま少し持ち上げる。

「今年も一年お疲れ様」

「お疲れ! カンパーイ!」

伊妻はビールの入ったグラスを呷ると、ぷはっと大きく息をついた。

「あー疲れた!本当に!……ていうかお腹すいた」

「冷めないうちに食え」

忙しない様子の親友に苦笑しつつ、居間に置かれたテレビをつける。

「紅白見るだろ?」

「うん、別に好きなアーティストとかいないんだけど、年越しといえばまあ紅白かなって。……あ、ガキ使の方が良かった?」

「俺はどっちもよく分からん。お前の好きな方でいい」

じゃあ紅白で、と言いつつ伊妻は早速水炊きに入っていた舞茸に箸をつけている。

「……冬だしノギさんも温かいもの食べられたらいいのにね」

「そうだな……血液製剤じゃなく鮮血ならまだ少しは温かいんだが」

「言うてそれも37度以下じゃない? あっ、お餅入ってる」

菰野乃木はもぐもぐと野菜を咀嚼する伊妻を横目に思案する。生まれてこの方人肌以上のものは食べたことがないので、急に人間の食べ物が平気になったとしても、熱い鍋物やスープなんかは食べられないかもしれない。自分が冷え性なのも、冷えた肉と血液しか口にしないからなのだろうか。

「人の食べ物にはさして興味は無いが、餅がどんな食感なのかは少し気になるな」

「お餅? ……なんか可愛いね?」

伊妻はぽろりと出た本音を誤魔化すように視線を逸らし、丸餅を頬張った。菰野乃木はふんと鼻で笑う。

「多分俺たちより多くの人数を殺めているだろう、この餅とかいう食べ物は」

「それは違いないね。……例えば人間の体でお餅に似た食感の部位って……」

言いかけた伊妻の頬に急に菰野乃木は顔を近づけ、かぷりと軽く噛み付いた。そのままがじがじと歯を立てて甘噛みされる。力を入れていないのか全く痛くはないが、それより突然の大胆な行動に驚愕して手に持っていた箸を取り落とす。

「えッ!?な、何!?」

「……頬なら餅に似ているかと……」

「俺で試さないでね!?」

痛みではなく羞恥で真っ赤になった頬を手でさする。菰野乃木はああ、と納得したように手を打った。

「お前が俺の頬を齧った方が実際の餅との違いがわかりやすいか」

「どういう理屈!?」

どうぞ噛んでくださいとばかりに白い頬を差し出され、赤くなっていた顔が更に火照る。伊妻は慌ててテレビを指差した。

「あっ!ほらノギさん見て!令和の時代にORANGERANGEが紅白出てる!」

「……おれんじれんじ?」

菰野乃木は首を傾げつつ、テレビに映るアーティストに視線を移した。

「お前は知っているのか?」

「平成男児ならまあ知ってるでしょ。あー、今度カラオケで歌ってあげるよ」

「要らん。お前は音痴だから」

すげなく首を横に振られて少しばかり落ち込みつつも、話題が餅から紅白に変わったことに安堵する。

いかに彼の歌が下手であるかを説く菰野乃木を横目に、いっそのこと思いっきり噛み付いてやればよかったかもと伊妻はほんの少し後悔した。




2026年1月1日



こうなる日がいつか来るとは思っていたが、まさかそれが元旦であろうとは。

重厚感のあるカウチに背を縮こめて座ったまま、都は俯きがちに唇を噛んだ。

「そう緊張しないで。君のお父さんには私もかなりお世話になったんだから……あ、そういえば光司に持たせた蟹はどうだった? 口にあったなら良かったんだけど……」

「あッ、はい……とても美味しかったです!ありがとうございました……!」

都は慌てて顔を上げ、笑みを作った。警視総監────田子谷幸徳を前にして緊張しないなど無理な話だ。しかもその息子と恋人として付き合っているのだから尚更。


「父がどうしても年始に会いたいと……」

年末年始を二人でゆっくり過ごしたかった田子谷は断りましょうと提案したが、都からすれば警視総監の頼みをゆっくり過ごしたいからというふんわりした理由で袖にできるはずもなく、しかも最高級の松葉蟹を田子谷経由で手渡された後なので尚更言い訳が思いつかなかった。結局、自宅前にわざわざ迎えに来た黒のメルセデス・ベンツに乗って急遽田子谷の実家を訪れることになった。

幸徳はあまり息子である田子谷とは顔が似ていなかった。本人曰く幸徳は実母に似ており、田子谷は覚醒遺伝で幸徳の実父である濠蔵に瓜二つらしい。

「光司から噂はよく聞いていたんだよ、優作くんは頭の切れる刑事で、しかも素晴らしい人格者でもある最高の相棒だって。そんな君が私生活においても息子のパートナーになってくれるなんて嬉しい限りだね」

────こ、これは嫌味か!?いや、純粋に褒めているのか!?マジわかんねえんだけど!

都は若干頬を引き攣らせて笑った。

「い、いえこちらこそ……光司さんはとても……その、優しくて献身的で……立派な方で……」

「え!?そうなんですか!?優作さんがそんな風に思ってくれていたなんて……」

横に座っている田子谷が子犬のようにはしゃいでヘーゼル色の瞳を輝かせる。

「シッ、黙ってろ!……いやあの、ははは……こらっお義父さんの目の前で抱きつくな!キスも後で!馬鹿っ!ステイ!」

都の言葉に田子谷はしゅんと落ち込みつつも姿勢を正して座り直した。その様子を幸徳は愉快そうに目を細めて見つめていたが、やがて耐えかねたようにぶはっと噴き出した。

「ふふっ、ふはは……!いやごめんね、くくっ……君たち、父さんと母さんの若い頃にあまりにもそっくりで……!あはは!ダメだ、ちょっと面白すぎる!」

いよいよ幸徳は腹を抱えて笑い始めた。政界の黒幕とその妻が自分たちにそっくりとはどういうことなのか、都は意味がわからずにぱちぱちと瞬きをした。

「父さんも母さんによく犬扱いされててね!ことあるごとにステイ!って怒られて正座させられてたね!懐かしいな!あははは!」

幸徳は笑いすぎて目に滲んだ涙を拭った。

どんなリアクションを取ればいいのか分からずに隣に座る田子谷を見つめると、彼はなぜか得意げに胸を張っていた。

「ふふん、いいでしょう?優作さんはとても素晴らしい人なんです」

「今の一連の流れに素晴らしがる要素あったか?」

「いや素晴らしいとも!優作くん、今日こうして話せてよかったよ。……光司のことを末永く頼むね」

幸徳から別れ際にはいこれお年玉ねと渡された封筒が思いのほか薄っぺらかったことに安堵した都だったが、帰ってから中身がありえない金額の入った口座の通帳であることを知って卒倒するのだった。




2026年2月14日 血液とチョコレート



伊妻が珍しく「キッチンを使わせてくれ」などというものだから、聴力には絶対的自信のあるさすがの菰野乃木もその耳を疑い、何と言ったのかを聞き返してしまった。

「……いや、だから台所を借りたいんだよね」

「なんだ、急に料理に目覚めたのか」

揶揄うというより呆れた様子の菰野乃木の言葉に伊妻はまあね、などと言葉尻を濁す。

「あと、台所使ってる間はどっかに出かけててくれない?」

「なんで家主の俺が出ていかなきゃならないんだ」

────『鈴木』のマンションの名義は菰野乃木ではなく鈴木さんなのだが、実際使っているのも管理しているのも菰野乃木なのでそれなりに正当な訴えである。伊妻はまた何か歯切れ悪く言い訳を並べていたが、やがて説明を諦めたのか大きな溜息をつくと、財布から万札を二枚取り出した。

「ジャジャーン!ノギさんに特別ミッション!渋沢栄一ふたりに収まる範囲で好きな小説をあるだけ買ってくること。文庫本、短編集でなおかつホラー・ミステリ縛り。はい、GO!」

伊妻がそう言うやいなや菰野乃木はボールを投げられた犬のように紙幣を素早く受け取り、仄暗い右の瞳をいきいきとさせながら駆けるようにして家から出て行った。

────本の虫は本で釣るに限るね。

まずは家主を追い出せたことに安堵しつつ、伊妻は持参した保冷バッグから全血製剤を取り出した。確か彼はA型の血が飲みやすいと言っていた気がする。

伊妻は台所の戸棚から『蒸籠』を取り出した。蒸し料理に使う、一般的な竹製の蒸籠である。そして全血製剤と同じく持ってきたシリコン製のチョコレート型に、血液を注ぎ入れた。



一方の菰野乃木は、大きな本屋がテナントで入っているデパートへと訪れていた。本屋だけでフロアの半分を使い切り、更に小説・一般書と児童向け・漫画本で二つの階に分かれているお気に入りの店舗である。普段伊妻と連れ立って来る時は本は一冊まで、と口酸っぱく言われるので二万円も好きな本を買えることに菰野乃木は浮かれていた。

もしかして、この二万円の書籍代は伊妻から菰野乃木へのプレゼントのつもりなのかもしれない。誕生日プレゼントには先日既にレザー製の眼帯と、揃いの革で作られた靴を貰ったはずだが……。

しかし菰野乃木はそのことについては深く考えなかった。半ば家から追い出されたことも忘れ、スキップでもするような足取りでデパートに入店した。スキップと言うのは菰野乃木の心持ちを表した比喩表現であり、実際は他人から見るとただ眼帯をつけた厳つい男が大股で無機質に歩んでいるだけである。


土曜日なので人自体が多かったが、それにしてもデパート内にやけに若い女性の姿が目立った。それに、店内もリボンやハートの風船で飾り付けがされている。何かの催事が行われているようだ。

ふわりと甘い香りが鼻腔をつく。食べたことはないが、基本的にあらゆる香料を記憶している菰野乃木はすぐに匂いの発信源を特定した。これはチョコレートだ。よく見るとハートの風船には『HAPPY Valentine's-Day』と筆記体でプリントされていた。

「……バレンタイン……」 菰野乃木は口元に指を当て、風船の前で立ち止まった。なるほど、この二万円はバレンタインのプレゼント代わりか。恋人にチョコレートを贈る文化については書籍などで触れたことがあるので知っている。菰野乃木はチョコレートなどの人間用の菓子は食べられないので、伊妻なりに配慮したのかもしれない。

────果たして伊妻は甘いものが好きだっただろうか?そんなことを考えながら、菰野乃木は吸い寄せられるようにしてチョコレート売り場へと近付いていった。



「ただいま」

数時間後、菰野乃木は両手に文庫本が詰まった紙袋を抱え、心なしか笑顔で『鈴木』に帰宅した。玄関のドアを開けた途端に濃い血の匂いが漂ってきたので、伊妻が女でも連れ込んで殺したのだろうかと首を傾げる。

「おい、誰か殺したのか?」

「いや?殺してないよ。ねえ、こっち来て」

やけに嬉しそうな伊妻に怪訝さを感じつつ、両手に持った紙袋を玄関に置いてリビングへと入る。

「じゃーん!見てこれ、ノギさん専用チョコレート」

伊妻は皿に盛られたハート型のそれを一つ指で摘んだ。

「食べて?」

すん、と匂いを嗅ぐと、血の匂いに混じって僅かに竹のような香りがする。蒸籠か何かで血液を蒸して一旦凝固させ、それを冷蔵庫で冷やしたのだろう。医者らしい発想だ。

伊妻が差し出した血液チョコを口に入れる。人間の血液は菰野乃木にとって美酒のような存在である。無理矢理凝固させたことでその本来の芳醇さは失われているが、幼い頃に憧れたあの菓子を実際に食しているかのような錯覚を覚え、気持ちは浮き足立った。これが普通の人間が味わう「菓子を食べる」という喜びなのだろう。

繊維状に固まったそれを牙で噛み割ると、パキッと子気味よい音を立てて口の中で粉々になった。やがて口内の熱でそれが蕩けて、鉄分の濃い香りと柔らかな甘味が舌の上に広がる。

「……悪くない」

「マジ?よかったあ」

伊妻は照れたように眉を下げて微笑んだ。

「前にあげたケーキはキャンドルだったけど、チョコは食べられるものにしてみたくて。いや料理っていうよりは理科の実験に近かったから俺でもまだなんとか作れたというか……」

まだ喋っている伊妻の言葉を遮るように菰野乃木はその唇に口付けた。軽く触れるだけですぐに口を離すと、コートのポケットから小箱を取り出す。

「俺からも。デパートで買ってきた」

菰野乃木が選んだのは洋酒入りのチョコレート・ボンボンだった。ちょうど二つ並んだ眼球ほどのサイズのそれに伊妻は思わず破顔する。

「あは、ちょっと……わざとこの見た目のチョコ選んだでしょ」

「まあな」

菰野乃木は得意げに口角を上げてみせた。伊妻はチョコの入った小箱をそっとテーブルの上に置くと、菰野乃木の頬を両掌で包んだ。

「アンタからもらえるとは思ってなかった……ありがとね」

「今年からは毎年贈る。だからお前も毎年これを作れよ」

伊妻の背に腕を回し、再び唇を重ねる。舌を入れ深く口付ければ血液のチョコレートよりさらに甘美な唾液の味に目が眩んで、菰野乃木はそのまま恋人の体をソファへと押し倒した。




2026年2月14日 バレンタインに薔薇の花を



────二月十四日はグレゴリオ暦では年始から四十五日にあたる。あるいは自動車保険の日、または煮干しの日、どうでもいいがふんどしの日でもある。

……都の二月十四日に関する認識はその程度だ。しかし今年は都の自宅の壁に掛けてあるカレンダーにこれ見よがしにピンク色のマーカーでハートの形で「14」の文字が囲んである。

田子谷はおそらく恋人同士のイベントごとや記念日を覚える気がない────もとい、よく忘れる都がバレンタインデーを失念している前提で親切で教えてくれているのだろうが、押し付けがましくお節介な上に結局はお前がもらう側じゃねえか、とキレそうになる。

都は額に青筋を立てながらカレンダーを壁から毟りとり、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱へと突っ込んだ。

誰がなんと言おうと、都は土曜の夜は趣味に生きると決めているのだ。もう殺すための性犯罪者にもしっかりと目星をつけている。田子谷に予定を合わせるつもりはない。


そう、全くとしてそのつもりは無かったのだが、目星をつけていた男がなぜか金曜日のうちに大人しく警察に自首してきたせいで都の計画は水泡に帰した。

────なぜこんなことに!!

何かがおかしい。今回の性犯罪者は八件の性的暴行事件を起こし、残忍で凶暴な性格だったと情報屋の鷺原からも聞いていた。勿論、都自身が時間をかけて何度か行った尾行でもそう感じていた。それなのに、警察署に自らの足でやって来た男はなぜか魂でも抜かれたかのように呆けた顔で自分の罪をつらつらと告白するだけ。実際、黒かった髪の毛はところどころ白くなって頬が痩け、別人のような様相だった。



取調室から出ると都は苛立ち紛れに廊下の自販機を蹴り飛ばそうとしたが、ここがまだ署内であることを思い出して諦め、代わりに深呼吸をした。

「ッ……クソが……」

「都警部」

不意に背後から声をかけられ、驚きに息を飲んだ。悪態をついているのを聞かれたかと身構えたが、振り返るとそこに立っていたのはやけに機嫌の良さそうな田子谷だった。

「ああ、なんだお前か……。脅かすなよダボカス」

「すみません!何だか落ち着きのないご様子でしたのでそっとお声かけをと思い…!あの、よかったらこれ」

手渡されたホットの缶コーヒーを受け取り、気まずさに少し目を逸らす。

「ああ……。なあ、悪ぃけど俺は何も用意してねえし、する気もねえよ」

「……え?」

きょとん、とヘーゼル色の瞳を丸くして、田子谷は首を傾げた。

「何かを……用意するご予定があったんですか?」

「嫌味か?それは」

都はこれ見よがしに大きな溜息をついた。

「まあ偶然明日は丸一日予定が空いたから、もうお前がやりたいこと勝手に決めていいよ」

「えっ!?いいんですか?」

田子谷は目を輝かせて都の手を握った。

「おい、署内で触るな」

「あっ、すみません!……ふふ、久々のデートですね」

ふにゃりと気の抜けるような笑みを浮かべる田子谷を都は胡乱な目で睨んだ。




そして十四日の朝。家まで迎えに来た田子谷の運転で連れていかれたのは郊外にある大きなガーデンショップだった。

「最初は花束を贈ろうと思ったのですが、よく考えたら優作さんは生きている植物をお世話する方がお好きでしょう?だから鉢植えの方がいいかと思って」

「……花束?」

そこで都はようやく気付いた。田子谷は都からのチョコレートが欲しくて十四日に印をつけていたわけではないのだと。

────こいつの献身を甘く見ていた。

そうだ、田子谷がイベントだからとわざわざ都に何かを用意させることなどない。いつだって田子谷から大量の愛情と共に押し付けてくるだけだ。

「……お前のバレンタインは欧米式かよ」

紅潮する頬を隠すようにして顔を背けると、ちょうどその一角に置かれた薔薇の苗木と目が合った。

「……そういえば薔薇は育てたことないな」

「そうなんですか?お世話は大変ですが、貴方の腕前なら上手く咲かせるはずですよ」

「薔薇はマンションのベランダでも育てられるのか?」

都は苗木の鉢の前に屈んだ。添えられている写真だと赤い薔薇が咲くようだ。

「ちょうど今優作さんが見ていらっしゃるのがベランダ・ローズとして人気のフロリバンダですよ。立ち木性で鉢さえ大きいものを選べばそんなに場所を取らないと思います」

「やけに詳しいな」

まるでこの店の従業員であるかのようにすらすらと説明をする田子谷に、都は怪訝な表情を向ける。

「お前、薔薇好きなの?」

「ええ、好きです。甘い香りや気品ある姿はもちろん、棘のあるところや虫がつきやすくて手がかかるところすらとても愛おしいんですよ」

薔薇ではなく都の瞳を見つめたまま、田子谷はふふ、と小さく微笑んだ。

都は脳裏にうかんだありとあらゆるツッコミを放棄して、薔薇の苗木をひとつカートに入れた。

育て方ならば、教本を買わずともこの恐ろしく献身的な男が一番よく知っているだろう。そして彼の恋人と同じで鋭い棘のある花の扱いも。

────と、そこまで考えてから何の躊躇いもなく自分を花に喩えてしまったことに気付く。


目の前の男に蝶よ花よと愛でられたせいで随分と自分も絆されたことだ、と都は本日何度目かになる溜息をついたのだった。





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