いつか幸福な朝食を




※性加害に関する言及、児童への性的虐待の描写あり




その倉庫は梔子くちなし市から20km以上離れた女石めせき市の小さな山の中にあった。あまり知られていないが山の正式名称は 怨生山えんおざんと言い、麓の廃病院は心霊スポットとして有名だが山の中腹までわざわざ来るような物好きな人間はいない。だからみやこはそこにあったガレージ付きの廃倉庫を安く買い、『趣味』に使っている。


「土曜日の夜って謎にワクワクするよな。仕事は休みだし、次の日もどうせ日曜だから夜更かししちまうか、って考えると背徳感でテンションが上がるんだよ」

床に敷かれた褪せたブルーシートの上には古いCDラジカセが置かれている。昔リサイクルショップで千二百円で買ったそれのスピーカーからは、ラッツ&スターの『トゥナイト』が流れていた。

都は曲に合わせて小さく鼻歌を歌いながら、切れ味の悪い錆びたナイフを革手袋越しに撫でる。ナイフの刃渡りは十三センチメートルほどで、一見するとシンプルなペティナイフに見える。しかしよく目を凝らして見れば、錆びた刃先には鋸歯のように均等に細かい棘が並んでいた。

「ごめんなさい……もう許してください……」

「この曲の『土曜の夜はお前を抱いて渚で眠りたい』って歌い出しが好きなんだが、『渚』……って何だ?よく歌詞で使われるけど言葉の定義がいまいち分かんねえな」

「お願いします……もうやめて……」

「『渚』は波が寄せて返す場所ですね!『波打ち際』と言うと分かりやすいかもしれません!」

ガレージの奥でパイプ椅子に座ったまま田子谷たごやが答えた。都は自分から聞いておいて興味なさげにふうん、と呟くと、錆びたナイフで男の剥き出しの腹を突いた。

「ぎいぃぃっ」

男は猿のように甲高く叫び、首を仰け反らせた。立ったまま拘束された彼の体には、頭と心臓以外の全身至るところに同じようなナイフが刺さっている。まるで玩具の『黒ひげ危機一髪』のように、様々な角度からナイフの柄が飛び出していた。

「これもハズレか。刺されても意外と意識は失わねえもんだな」

「も……ゆるじてぐださい゛……」

男は年甲斐もなく鼻水を垂らしながら号泣していた。腹を何箇所も刺されているため、内臓から逆流してきた血が口から床へぼたぼたと垂れている。

「十四歳の少女がお前に泣いてそう懇願した時、お前はやめてやったのか?悪魔のようなお前はその言葉にさらに喜んで、彼女の首を絞めたんじゃなかったっけ」

冷たくそう言って、男の首元に手を当てる。手に力を込めて太い首を絞めると、彼の着けている黒い革手袋が男の皮膚と擦れてギチギチと耳障りな音を立てた。

「かっ…………ふ、……ぐッ……」

気道が塞がれ、男の顔が赤紫色に変色していく。口から泡と血の混じった唾液が伝い、男が白目を剥く。今にも失神するというその寸前で都は手を離した。

「うふふ、被害者の気持ちが少しはわかったか?」

都は長い睫毛に縁取られた瞳を細め、柔らかく微笑する。その天使のような笑みを少し離れた場所で眺めながら、田子谷は見惚れてほうと息を吐いた。

────なんて綺麗な人なんだろう。『趣味』の時の彼はいつにも増して美しい。

都は木の作業台の上にずらりと並べたナイフを一本手に取ると、再び男に近づいた。

「なあ、悪魔のはらわたが何色か知りたくないか?」

男の耳元でひそひそと囁くと、男は怯えたようにぶるぶると震えながらまた血を吐いた。

都は男の胸の下辺りに錆びたナイフを突き刺すと、そのまま力を込めて下へと垂直に引いた。

「ふぎぃっ……!!」

想像を絶する痛みに男は悶え、体をガクガクと痙攣させた。熟れた柘榴のように真っ二つに割れた腹から、肉色の小腸が血を纏わせてぬるりと溢れ出る。

あはは、と都は高らかな笑声を上げた。

「汚ねえ色だな!あははは!」

まだ温かい肉のホースを手袋越しに掴むと、都はダンスでも踊るようにくるくるとその場で廻る。ステップを踏み軽やかに回転する度に小腸が引きずり出され、糸巻きのように巻き取られて都の体に纏わりつく。

男は赤黒い血を吐きながら痙攣した後、やがてがっくりと項垂れた。飛散した血液が、都の白い頬の上で赤く光っている。都は幼い子どもがはしゃぐ時のように手を叩きながら笑った。


「あはははは!見たか光司こうじ、今の……」

優作ゆうさくさん」

振り返ると、背後に立っていた田子谷が手に持ったハンカチを都の頬にそっと当てた。丁寧に血液を拭き取ってから、都の唇に触れるだけの口付けを落とす。

「終わったなら後は『業者』に任せて帰りましょう!」

「…………ああ」

都はスーツのポケットからスマートフォンを取り出し、『清掃業者』に電話を掛けた。3コールの後、電話に出たのは業者の中でも若手の海野という男だった。

『は~い、アオサギクリーンサービスです〜』

「都です。『重い荷物』の清掃を頼みたいのですが」

『これはこれは〜、都様。お世話になっております〜。いつもの倉庫でよろしかったですか〜?』

「ええ。今回も『荷物』は一つです。……私はすぐ帰宅するので鍵は倉庫の前にあるポストに入れておきます。使ったらまた同じ場所に入れてください」

『は〜い、承知いたしました〜』

電話を切ると、都はスマホを操作するふりをしながらちらりと田子谷を横目で見た。

田子谷は相変わらずにこにこと人好きのする笑みを浮かべ、その場に姿勢よく待機している。都と目が合うと、ヘーゼル色の瞳が鮮やかに輝いた。

「……今日は『土曜の夜』ですから、一緒に夜更かししましょうね?」

「…………うるさい」

都は赤くなった耳を指摘されないよう、脱いだレインコートを田子谷の顔面に勢いよく投げつけた。




「……あッ」

無意識に声を出してしまい、慌てて口を噤む。都を見下ろす田子谷の目が、愉快そうに弧を描いた。

「……『当たり』でしたか?」

「っ、るせ……ぇ」

田子谷は都の腰を掴んでぐっと奥まで挿入しなおした。行き止まりを無理矢理抉られた衝撃で息が詰まり、下腹がひくひくと痙攣する。

「ぅ……深……っ」

都の黒い瞳に生理的な涙が浮かぶ。呼吸をするだけで腹の奥深くまで填められた肉の杭がいい所に当たってしまい、動いていないのに勝手に達しそうになる。

「は、……はぁっ……ぁ……ッ」

苦し紛れに田子谷の背に手を回し抱きつくと、それを待っていたとばかりに律動を再開される。最奥にきつく押し付けたまま中を揺さぶるように動かれて、激しい快感で視界が霞む。

都は耐えきれず力を込めて田子谷の背に爪を立てた。

「ぅ、あっ、あ……っ!動く、なっ……」

「大丈夫……怖くないですからね」

宥めるようにキスをされたかと思うとまだ穿たれたままの下腹部をぐっと片手の掌で刺激され、強い刺激に思わず体が跳ねる。

「やめろっ、そこ、はっ……」

「気持ちいいですね? 大丈夫ですよ」

「あっ、はぁっ……光司ッ……」

縋るように田子谷にしがみつく。奥を突かれる度に二人分の体重を受けたベッドがギシリと軋む。

気持ちいい、よりも強く、怖いと感じる。

真綿で首を絞めるように、快感で思考を溶かされて何も考えられなくなってしまう。

怖い、と声に出して呟くと、幼子をあやすかのように頬を手で包まれ、再び唇が重ねられた。汗で湿った黒髪をささくれだった指が梳いていく。

田子谷の分厚いざらりとした舌が都のそれを絡め取り、そのまま柔く舌先を吸われる。

────怖い。何重にも固く心臓を縛り付けているはずの恐怖が、この男の手にかかればいとも簡単に解けて霧散しまうのが酷く恐ろしい。

幼い頃に実父に植え付けられた男性への恐怖と憎悪は都にとって根深いものだった。しかし同時に、それが自身の人生の「軸」でもあった。

田子谷と行為を重ねる度、その「軸」が揺らぐような不安を覚える。朝、ベッドでこの男に抱きしめられて心地のいい目覚めを覚える毎に、自分が変わっていってしまうのを強く感じる。

「考えごとですか?」

上の空の視線を咎めるように動きが激しくなる。頭の中が白と黒に点滅する。拒もうと伸ばした手に優しく指が絡められ、いとも簡単にベッドに縫い止められる。

「可愛い……あなたは本当に綺麗だ」

「うう……しゃべ、るな……」

耳に熱い吐息がかかり、ぞくぞくと背筋を甘い痺れが襲う。一突き毎に肉壁が戦慄いて、より強い快感に変わっていくのを感じる。

────その時携帯電話の着信音が鳴り響いた。都は朦朧としながらベッドサイドのスマートフォンに手を伸ばそうとしたが、田子谷がその手首を掴んでベッドに引き戻した。

「後でいいでしょう」

「でも、仕事かも……」

「じゃあなおさら後でいい」

一度引き抜くとベッドシーツの上にうつ伏せに押さえつけられて、上から杭を打つように一気に最奥まで挿入される。一瞬息が止まってしまうほどの圧迫感に喘ぐ。

時間をかけてぎりぎりまで引き抜かれたかと思うと再び力強く穿たれ、体に雷が落とされたかのように重いワンストロークに身悶えする。

「うあ゛ッ……っ」

「俺に集中してください」

「あっ、いやだ、光司……ッ……」

言葉とは裏腹に媚びるように中が締まり、田子谷が頭上で息を詰めたのがわかった。頭が真っ白になって、意識が遠のく。

再び携帯電話が鳴った。今度は田子谷のスマートフォンだ。田子谷はうんざりした様子でため息をついた。

────二人とも鳴ったということはやはり仕事だ。

都は無理矢理体を起こし、ふらつく足で立ち上がった。さすがに気が削がれたのか田子谷もベッドの縁に腰掛けている。

「はい」

『……ん?都……?……お前都か?』

電話に出ると、課長の蓮田はすたは躊躇いがちにそう確認してきた。

「……私ではなにかまずかったですか?」

『……いや……田子谷くんの携帯にかけたつもりだったんだが……私が間違えたのか……?』

「あっ」

都は顔を顰め、無言で田子谷にスマートフォンを手渡した。

「田子谷です!すみません、都警部と一緒にいて……手が離せなかったので代わりに出てもらいました!」

田子谷は口からでまかせを言いつつ、都にウインクをして見せた。誠実そうに見えて、全く器用な男だ。

「……はい!……ええ、分かりました!すぐ向かいます!え?都警部も……? でも警部は……」

田子谷から気遣うような視線が寄越されたので、都は無言で首を縦に振った。本当は足腰が疲れて上手く動かなかったが、一度電話に出てしまったし今更体調不良などと言い訳はできない。

「……はい!二人ともすぐ向かいます!はい、失礼します!」

電話を切ると、田子谷はがっくりと肩を落とした。

「事件発生です……至急現場に向かえとのことです」

「腑抜けたツラすんな。仕事なんだから仕方ねえだろ」

都は露骨にしょぼくれる田子谷を軽くあしらいつつ、体を流すためシャワールームへと向かった。




事件現場は梔子市の郊外にある閑静な住宅街の、とある空き家だった。

遺体は二つ。どちらもリビングルームに、電気の延長コードを三重に使って天井から吊るされていた。身長から見るにおそらく二人とも男性────というのも、身体中の肉を刃物で削ぎ落とされ骨が見えているせいで、どのような人物なのかは具体的に特定できなかった。

「タロットカードの『吊るされた男』みたいですね」

「そうか?私は『悪魔のいけにえ』を想像した」

田子谷と都は天井に吊るされたままの遺体を見上げながら、各々の感想を述べた。

「『悪魔のいけにえ』つったら殺人鬼が人を食べるやつでしょう?ホトケもなんかケバブみたいな切り方されてるし、気味が悪ぃですね」

同じく現場検証に当たっていた田坂たさかが遺体を見て眉をひそめる。

────人を食べる、か。

都の脳裏に『食人鬼知り合い』の顔が過ったが、彼ならこんな食い散らかし方はしない。それに遺体は都が使っているのと同じ『業者』に任せるはずだ。稀にあの男もしくじって死体が見つかることがあるが────おそらく今回は別の者の犯行だろう。

「僕の見立てではまだ両者とも死後二時間経っておりませんですので、今DNA鑑定しておりますです」

鑑識の田原たはらは早口でそう言った。彼は喋っている最中もバインダーに挟まれた紙になにやらメモを取りつつ、せかせかと室内を歩き回っている。

「早く身元が分かればいいが……」

都の呟きに田原がぴたりと立ち止まり、瓶底のような眼鏡の奥の瞳をきょろりと彼に向けた。

「第一発見者は向かいの一軒家に住む女性なのです。庭からこの家の天井に何か吊るされてるのが見えたらしく、不審に思って通報したようですます」

「署に来てもらって詳しい話を聞こう」

都の言葉に田子谷も頷いた。

第一発見者の細金ほそかねいとは、二十代後半とみられる嫋やかな雰囲気の女性だった。彼女の長い黒髪は腰まであり、よく手入れされているのか艶々としていた。すらりとした細身の美しい彼女は、水色のシンプルなワンピース姿で車椅子に乗っていた。

「……事情があって、足が不自由なのです」

細金はそう言って眉を下げた。都は取り調べ室の椅子を畳んで退け、車椅子が通れるようにデスクを大きく横にずらした。

「どうぞ」

「ありがとうございます。刑事さんは優しいですね」

「いえ。……早速で申し訳ありませんが、発見した時の状況を詳しく教えていただけますか」

都は細金の向かいに座り、記録用紙とペンを取り出した。田子谷は都の斜め後ろに立って控えていた。

細金糸は静かに話し始めた。

「夜中に、何かギイギイと軋むような音がして目が覚めたんです。その時は気のせいかな?と思って、少し夜風に当たろうと思って庭に出ました。……そしたら向かいの空き家の────カーテンがかかってないから中が丸見えなんですが────天井から何かぶら下がっていたんです。黒い影にしか見えなかったけどやけに人の形に似ている気がして、それで慌てて警察に通報しました」

「その際に周辺で不審な人物などはみませんでしたか」

「不審な人物……うーん……私はこんな体なので、あまり家の外には出ないんです。たまに庭に出るくらいで……申し訳ないのですがそれらしい心当たりはありません」

「なるほど……。細金さんはご家族とお住まいなんですか?」

「弟と二人暮らしです。両親はかなり前に二人とも家を出て行ってしまって」

都はペンを走らせる手を止め、背後にいる田子谷と顔を見合せた。

「……よろしければ弟さんにも話をお聞きしたいのですが」

都の言葉に、細金は途端に表情を曇らせた。彼女は長い髪を触りながら躊躇いがちに口を開いた。

「……弟……あつしは、何年も前からずっと部屋に引きこもっているんです。聞いてはみますが、外に出てくれるかどうか……」

────車椅子の姉と引きこもりの弟。その向かいの空き家で人が吊るされ肉を削がれる猟奇事件……なんか妙な感じがするな。

都はペンを口元に当てながら思考を巡らせた。

────この細金って女もそうだが、弟は更に怪しい臭いがしやがる。

「……署まで来るのが大変でしたらご自宅にお話を聞きに伺っても?勿論、細金さんがよろしければですが」

「私は構いません。……篤が話してくれるかどうかはわかりませんが……」

いずれにせよ、足の不自由な細金をパトカーで自宅まで送る手筈になっている。都と田子谷は、その際に細金篤にも話を聞くことにした。

細金を連れて署から出ると、もう外はすっかり朝になっていた。白っぽい空には、雀か何か小さな鳥が飛んでいるシルエットが小さく見える。

「自分、車を持ってきます!」

田子谷がそう言い残してパトカーを取りに行ったので、都は彼女と二人で署の前で待機することになった。

特に話すこともないので、都は無言で空を見上げていた。

「────刑事さん」

「何でしょう」

細金の指先が都の手の甲に軽く触れた。都はびっくりして細金の顔を見た。

「……どうかしましたか?」

「綺麗な手で羨ましいわ」

そう言った細金の手は、よく見ると薄ピンク色に爛れて全体がケロイドの跡になっていた。

「子どもの頃火事にあって、こうなってしまったんです」

「……そうですか」

都は興味が無いので事務的に相槌を打った。しかし、細金はそれを見て嬉しそうに微笑んだ。

「気持ち悪がったりしないんですね」

「別に、何とも思いません。……見た目に傷のない人間の方が唾棄すべき邪悪な一面を持っていたりしますから」

都は過去に葬ってきた性犯罪者たちの顔を思い出し、目を伏せた。細金は幼い少女のように頬を赤らめて、火照った自身の顔を両の手で覆った。

「……やっぱり優しくて素敵」

「……今何か?」

くぐもった呟きはよく聞き取れず、都は細金の方に身を屈めた。顔が近づいたせいで細金は更に赤面し、目を逸らした。

「いいえ。なんでもありません」

やがて田子谷の運転するパトカーが署の入口前へと停まった。田子谷が降りてきて、後部座席のドアを開ける。

「細金さん、車に移動しますね」

「ありがとうございます」

都は細金の手を取り、肩を支えるようにしてパトカーに誘導した。田子谷はその間に車椅子を畳み、トランクへと載せる。

「あっ」

細金がよろめいて、車のシートへと倒れ込んだ。都は咄嗟に彼女の背中に手を回して、自分の方へと引き寄せた。

────ん?

違和感を覚え、都は細金の顔を見た。至近距離で目が合った彼女は顔を真っ赤にし、恥ずかしそうに瞼を伏せた。

「大丈夫ですか?」

「あっ……はい……」

「お二人共、お怪我はありませんか!」

田子谷は慌ててトランクを閉めると、都に駆け寄って彼の体を支えた。

「すまないな。私は大丈夫だ」

「よかったです!細金さんも頭など打っておりませんか!」

「ありがとうございます、私も大丈夫です」

細金は小さくはにかんで、車の後部座席に座り直した。



細金の自宅のガレージに車を停めてから、田子谷が車椅子を押し、彼女を介助しながら家に入った。その間に都は細金宅の庭から向かいの空き家である事件現場を眺めた。庭からはレンガの塀越しに事件現場の天井付近を見ることができる。

────いや、待てよ。

再び違和感を覚え、都はその場で少し身を屈めた。中腰になってもう一度向かいの家の方角に目を向ける。

────やっぱりそうか……。しかしなぜあの女は嘘をついているんだ?

「警部?」

田子谷はドアを開けたまま、庭でしゃがみこんでいる都に声をかけた。

「何かあったんですか?」

「あとで話す」

都はそれだけ言うと、田子谷に続いて家の中に入った。

細金は一足先に電動の昇降機で二階へと上がっていた。都と田子谷も階段を上がり、篤の部屋の前まで向かった。

細金は部屋のドアを二回ノックして、中に向かって話しかける。

「篤?お姉ちゃんだけど……刑事さんが昨日のことでお話聞きたいんだって。少し出てこれない?」

「…………」

返答はなかった。細金にとっては予想通りの展開らしく、呆れたようにため息をついている。

「……嫌みたいです。せっかく来ていただいたのに申し訳ありません」

「仕方ありませんよ。……今日のところは、我々はお暇いたします」

都が一階に降りようと踵を返すと、細金は躊躇いがちに都に声をかけた。

「あの……せっかく来ていただいたのでお茶だけでも飲んでいってください」

「いえ、我々仕事中ですので……」

断りの文句を言いかけた田子谷を手で制して、都は細金へと微笑みかけた。

「それではお言葉に甘えて、一杯だけいただいて帰ることにします」


一階のリビングのダイニングテーブルに、都と田子谷は隣り合って座った。白を基調としたリビングルームは二人暮らしにしては広かったが、十分に掃除が行き届いており、清潔感があった。

「……車椅子だと家事も大変ではありませんか」

都は壁や棚の上に飾ってある家族写真を眺めながら呟いた。細金はキッチンの高い吊り戸棚から紅茶の茶葉が入った瓶を取り出そうと、車椅子に座ったまま必死で手を伸ばしている。

「一日中家の中にいますから、時間だけはあるんです。それに篤も……人見知りですが、優しい子なんですよ。掃除はほとんど篤に頼んでいます」

指の先に当たった瓶を細金は何度も手繰り寄せ、ようやく手に持った。

「篤さんは……いつ頃から家から出られなくなったんですか?」

都の質問に、細金は紅茶の瓶を手に持ったまま悩むように目を閉じた。

「ええと、いつだったっけ……中学……の時だったような……あれっ……?…………うっ……」

細金は苦しげに頭を押えて俯いた。その拍子にガラス瓶が床に落ちて粉々に砕け、茶葉と共にフローリングに散乱する。

「大丈夫ですか?!」

田子谷は慌てて立ち上がる。都も席を立って細金に駆け寄った。

「……篤は小学校の時……火事に遭って……いや、中学は一緒に通っていたから高校の受験に失敗して……違う、大学で……」

「細金さん、落ち着いてください」

都は細金の肩に手で触れた。彼女の額には汗が浮いており、呼吸が極端に浅かった。

「これ以上は追求しないのでやめてあげてください」

耳元で囁くと、細金の瞳がぎろりと都を鋭く睨み────やがて脱力したように俯き、目を閉じた。

一瞬の間の後彼女は飛び起きて、手でこめかみを押えた。

「……痛っ…………あれっ? す、すみません……私、ぼーっとしてましたよね」

「大丈夫ですよ。……足を怪我してる」

飛散したガラスの破片が刺さったのか、彼女の脛に血が滲んでいた。都はポケットから綿のハンカチを取り出してガラスの破片を慎重に取り除き、血を拭った。

「自分バンドエイド持ってるのでどうぞ!」

田子谷に手渡された絆創膏を、都は丁寧に細金の足へと貼った。

「割れたガラスを片付けますね!ちりとりとほうきがあればお借りしてもいいですか?」

「あっ、玄関の靴入れにあります……すみません、お茶をお出しするどころかご迷惑をかけてしまって」

「いえ!お気になさらず!」

田子谷は玄関に向かうと靴入れの戸棚を開けた。

広い棚の中には、女性物のパンプス数足とスニーカー、そしてこれも女性用と思しき黒い革のブーツが一足置いてあった。

────弟さんの靴は置いていないのかな?

田子谷は不審に思いつつも、一番下の段に入っていたちりとりと小さな箒を手に取り、リビングに走った。

都と田子谷は割れた瓶を片付けてゴミ袋にまとめると、細金の見送りを丁重に断ってから二人でパトカーに戻った。



「……色々思うところがありましたね!」

助手席に座ると、開口一番に田子谷はそう告げた。都は頷き、エンジンをかけて車を発進させた。

ガレージを出て、車道に入った所で都はすぐに車を停めた。

「さっきそこの庭の中から塀越しに現場を見たんだが、庭からだと現場の天井付近がやっと見えるくらいだった」

「……え? 立っている状態で、ですか?」

田子谷は困惑し、塀を一瞥した。都は170cm弱はある。小柄な細金が車椅子に座った状態ならば都の腰の辺りに頭が来るはずだ。 都は更に言葉を続けた。

「しゃがんでからもう一度見上げた時は塀しか見えなかった。車椅子に座った状態の細金糸に天井なんて見えねえはずだ」

「細金さんが嘘をついているということですか?」

「だろうな。それと、弟の話が妙に引っ掛かる。家族写真を見たんだが、弟の写真が……」

言いかけて、都はふと口を噤んだ。細金宅の二階のカーテンの隙間から、誰かがこちらを見ている。髪が長いので一瞬細金糸かと思ったが、全身に黒い服を着て立っているので、あれが弟の篤なのだろうか?

奇妙なことに、彼は伝統舞踊で使うような生成なまなりの般若の面を被っていた。

「優作さん、どうしました?」

「……おい、二階を見ろ」

都は二階を指で差しながらスマートフォンを手に取り、撮影するためにカメラのアプリを開いた。

「……何か見えたんですか?」

田子谷は助手席から身を乗り出し、不思議そうに二階を見上げている。都が再び振り返るとカーテンは閉まっていた。

「チッ、勘づかれたな……とりあえず一旦署に戻るぞ」



二人が帰ってくると、梔子署内は妙に慌ただしい空気に包まれていた。あたふたと走り回る署員たちを見て、都と田子谷は顔を見合せた。

「どうしたんでしょうね!」

「……警視庁の奴らでも来たんじゃねえか」

「ご名答!」

突然背後から肩を掴まれ、都と田子谷は同時に振り返った。いつの間にか真後ろに立っていた痩せぎすの男がニヤリと意地悪く笑う。

────彼は警視庁捜査一課の刑事である深町ふかまちだ。都とは警察学校の同期にあたる。針金のように手足が細長く、ペテン師のようなどうにも胡散臭い顔つきの男だった。目の下の隈がペンで描いたかのように濃いのも、より一層彼の人相を悪く見せていた。

「久しぶりやね、都くん。田子谷警視総監の息子を子分みたいに従えて……まるで虎の威を借る狐やな」

「深町さん、お元気そうでなによりです」

都は深町の嫌味をさらりと受け流し、笑みを浮かべた。田子谷は都を馬鹿にされたのが気に食わないらしく、ムッとした表情で頬を膨らませている。

「梔子署に本部を設置するんですね」

「まあねえ。キミの上背みたいにちんま~い署やけど、一番現場から近いからしゃあないねん」

喧嘩を売りながらヘラヘラと笑う深町を、田子谷はいよいよ柴犬の威嚇に似た険しいんだか険しくないんだかよく分からない顔で睨み上げた。都は田子谷の背中をぽんぽんと軽く叩いて宥める。

「こら。深町さんは警視庁捜査一課の先輩だぞ。あまり威嚇するな」

「でもっ、都警部……!」

「そうやで、親の七光りくん。警視総監の息子やからってみんな優しくしてくれる思ったら大間違いやからな」

「そうだとしてもその態度はないんじゃない?」

背の高い白髪の男が、後ろから乱暴に深町の首根っこを掴んだ。白髪といっても顔はまだ若く、顔だけならばパッと見は三十代前半に見える。垂れ目の、柔和な顔つきの男である。

花畑はなばた警視。ご無沙汰しております」

都は姿勢を正し白髪の男に敬礼した。田子谷もそれに倣う。花畑は人好きのする朗らかな笑みを浮かべて二人に敬礼を返した。

「やあ〜、都くん、田子谷くん。久しぶりだねえ。深町くんを許してやってねえ。口と態度は死ぬほど悪いけど同期の都くんに久々に会えてはしゃいじゃってんのさ」

花畑に頭を軽く小突かれ、深町は顔を顰めた。

「暴力反対ですよ、花畑さん」

「君は二人に謝りなさいよ、全く……。ああ、田子谷くん、お父さんはお変わりないかい?」

「はい!また花畑さんとお会いしたいと申しておりました!」

田子谷と花畑は父親繋がりで既に面識があるらしい。都は田子谷の顔つきが明るくなったのを見て安堵した。

花畑はふと都の顔を見ると、意味深に目を細めた。

「おやおや……都くんは女難の相が出ているねえ」

「女難……ですか?」

「そう、女難。君はいつもそうだよねえ。女性から恨まれるタチだから」

「へえ、女泣かせなん?都くんは」

花畑の言葉に、深町も意外そうに片眉を跳ね上げた。同期の彼は都が警察学校時代から同性の友人達に何度もアタックされていたことを知っているのだ。

「女性との交際歴はありませんが……。何故なのでしょう」

「うーん、思わせぶりなんじゃないかな?君の後ろに般若の面が見えるよ」

花畑はそう言うと都の背後を指で差した。

昔から花畑は他の人間には見えないものが『視える』と有名で、さっきの『女難の相』のような占いと思しき発言も珍しくなかった。

────般若面……?

都は細金の家の窓から覗いていた般若の面を思い出し、表情を強ばらせた。

「般若面が見えるんですか?」

「うん。だから女難かなって。般若の面は女の顔だからさ。────狂った女の顔だ」




結局、事件は警視庁が主導で取り仕切ることになり、梔子署の刑事課は終日暇を持て余した。やるとしてもお茶汲みと書類仕事くらいで、縄張り意識の強い本庁の刑事たちからは聞き込みすら参加させてもらえない。

都も田子谷も、定時とまでは行かないがそれなりに早い時間に帰宅した。

「今回の事件って連続殺人なんですね!」

スウェット姿でソファに座り、タブレットを指で操作しながら田子谷が呟いた。

都はその隣で 殊能将之 しゅのうまさゆきの『ハサミ男』を読んでいたが、田子谷の言葉を聞いて読みかけの本を閉じ、彼の方に向き直った。

「過去に似た事件があったのか?」

「同一犯の犯行と見られるのは今回で二件目ですね!前回は八年前で、男性二人組が揃って殺されています!手口も、空き家に拘束して時間をかけ嬲り殺すという形式なので一致しますね!」

田子谷は言いながら、タブレットの画面を都に見せた。梔子市ではないが、過去の報告書には今回の事件と似通った点が多く見られた。

都は少し思案して、田子谷に尋ねた。

「……俺は細金姉弟が怪しいと思っているが、お前はどう思う」

「自分も同じ考えですが、そもそも細金篤という人物は存在しないんじゃかいでしょうか?」

田子谷は、細金宅の靴箱に女物の靴しか無かったことを都に話した。都は昼間にとったメモを見返しながら何度も頷く。

「やはりそうか……。俺もいくつか違和感を感じていた。一つは縄の音だ。おそらくあの庭からでは向かいの家で死体が吊るされてコードが軋む音は聞こえない。もう一つはあの女をパトカーに乗せる時、……背中から下半身の筋肉が思いの外しっかりついていたのが気になった。長年足が不自由ならもっと筋力が低下しているはずだが、むしろ活発に動いている人間とそう変わりない体型だった」

「それなら自分も不可解に思ったことがあるのですが、階段には昇降機が着いていたのにあの家には他にバリアフリーの機能が見当たりませんでした!自分の祖父は足が悪く車椅子なので分かるのですが、もっと段差や棚の高さには気を使うはずです!」

────確かに、足の悪さに配慮した設計の家には見えなかった。両親が出ていった後にリフォームするのは難しかったとも考えられるが、引きこもりの篤は使わないであろう来客用の紅茶の瓶があんなに高い位置にあったのは何故なのだろうか。

「細金糸は本当は足が悪くないのかもしれません!」

「もうひとつ妙だったのは家族写真だ。幼少期の写真には姉も弟も写っていたが、他のほとんどの写真には姉の方しか写っていなかった」

都の言葉に田子谷はまたタブレットを操作し、別のページを開いた。

「父の部下に頼んで細金糸と篤について調べさせたのですが、細金篤はどうやら記録上では六歳の時に自宅の火災で死亡しています!」

田子谷の言葉に都は目を丸くした。情報自体も興味深いものだったが、それよりも父親の部下という言葉に驚いて田子谷の肩を小突く。

「おいおい、何サラッと親父の手ェ借りてんだよ。『趣味』の方ならともかく、仕事は正攻法で行かなきゃ証拠になんねえぞ」

「全て分かったらそのまま花畑さんに伝えれば問題ないかと……すみません!……それよりも、細金糸は死んだ弟がまだ生きていることにして彼の犯行に見せかけようとしているのでしょうか?」

うーん、と都は唸り、首を横に振った。

「多分違う。細金糸はむしろ何も認知していないと思う。説明が難しいんだが……」

────都が説明しようと身を乗り出した時、玄関のインターホンが鳴った。

「……こんな時間に来客……?」

都と田子谷は互いに目配せをした。田子谷は玄関を指差すと、ひそひそ声で囁いた。

「……自分が出ます。優作さん、身を守るものは?」

「ナイフが棚の中にある」

田子谷は立ち上がり、玄関に向かった。

都はその間に、キャビネットの隠しポケットから袖に隠すための小型のナイフと大きめのダガーナイフの二種類を取り出した。

バチンッと何かが弾けるような音と、重いものが地面に倒れる鈍い音がした。直後に部屋の電気が消えて、思わず身構える。

「……光司?」

都はダガーナイフを構え、一歩前に進む。額に冷や汗が浮かぶ。暗闇の中でゴツ、ゴツと硬い革靴を踏みしめる音が近付いてくる。

「おい、返事しろ!光司!」

「アンタの相方はおねんねしてるよ」

くすくすと含み笑いのような声が聞こえたかと思うと、弾けるような大きな音と一瞬の激しい痛みを喰らって都はその場に倒れ込んだ。

恐らくスタンガンだろう、体が痺れて動かない。霞む視界に革靴の足元が映る。

暗がりの中にぼんやりと般若の面が見えたかと思うと、腹を思いっきり蹴られて今度こそ意識を失った。




ごみ溜めのような狭い部屋の中で、小太りの男が酒を片手にテレビを眺めている。

少年は歌っていた子守唄を止めると、押し入れの中ですやすやと眠る妹の額にそっとキスをして、押し入れを閉めた。

「……あの、お父さん」

少年は男の前に正座した。

「陽葵の粉ミルクがもう少なくなっていて」

男は振り返り、じとりとした視線で上から下まで少年を見回した。

「だから何だ?俺にわざわざそれを買えって?」

「お願いします。僕にできることなら何でもします」

少年が床に頭を擦り付けるようにして土下座すると、男は脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべた。

「わかってるならさっさと服を脱げ、優作」




「……さん、優作さん!」

聞き慣れた声に薄らと瞼を開ける。蹴られた腹がズキズキと痛み、顔を顰める。

「痛ッ……光司、怪我は……」

「俺は大丈夫です……優作さんは?」

「別に腹を蹴られたくらいだが……クソ、やられたな」

その場所はどうやらどこかの廃墟の中のようだった。剥き出しのコンクリートの床と壁には、多数の落書きが施されている。窓ガラスは磨りガラスになっていて、所々ガラスが割れた部分から黒い木々が覗いているので、どこかの山の中かもしれない。

田子谷と都は向かい合うようにしてそれぞれパイプ椅子に縛り付けられていた。

「目え覚めたか?お二人さん」

般若の面を着けた髪の長い人物が暗がりから現れ、二人の前に立った。グレーのつなぎと革のブーツを身につけている。そして黒い手袋を填めた手には、大型の電動ドリルを握っていた。

「……お陰様で最悪の目覚めだぜ。お前が細金篤だな?」

都が吐き捨てるように言うと、般若面は愉快そうに手を叩いて笑った。

「やっぱりバレてたか!アンタ、初めからやけに勘が鋭くて嫌な感じだったんだよな」

男は般若の面に手をかけ、乱暴に顔から外した。

────その顔は細金糸と全く同じ見た目をしていた。

「双子……!? 細金篤は死んでるんじゃ……」

「ダボが、双子なわけねえだろ。篤と糸は同一人物だ。もっと言うなら『別人格』か?」

糸────もとい篤は、白い歯を見せてニヤリと笑う。

「そう。姉さんはどうやら気付いてないみたいだけどな。『篤』は六歳で死んでんのに、その後もずっと弟がそこにいるかのように暮らしてんだからそりゃ親も気味悪がって愛想を尽かすよね」

「なぜ男たちを殺したんです?」

田子谷がそう言うと、篤は表情を歪めて、般若の形相で歯ぎしりをした。

「憎いからに決まっているだろ!姉さんは十六歳の時にあいつらに襲われて、レイプされた後両足を折られたんだよ。……それからずーっと塞ぎ込んでる。足なんてとっくに治ってるのに、自分は歩けないと思い込んでるのさ」

都は篤の言葉に納得した。ようやく事件の全貌が見えてきた。

予想通り、人格が篤の時しか彼女は歩いていないのだろう。

手を縛るロープはかなりきつく何重にも巻かれていたが、幸い篤は都が袖口に仕込んでいた小型のナイフには気付かなかったらしい。バレないようにロープを少しずつ削りながら、篤の気を逸らそうと適当に話しかける。

「八年前の犯行の理由はそれだろうが、今回の犯行でも二人殺したのは何故だ」

「全く同じだよ。四人グループだったんだ。八年前に殺せたのは二人。残りの二人が別件で逮捕されて昨日ようやく出所したから、晴れて全員殺せたってワケ」

篤は右手と左手でそれぞれピースでもするかのように二本ずつ指を立ててみせた。

────篤の犯行動機は姉の復讐か。

正直、都からすると被害者は殺されて当然だったと思う。細金糸と篤にも情状酌量の余地はあるし、なんなら都とかなり近い立場だと感じる。

しかし、この状態で説得して篤が大人しく都たちを逃がしてくれるとは考えにくい。都としては篤を殺したくはなかったので、顔を上げて彼ににこりと笑いかける。

「それはおめでとう。お前と姉貴の新しい門出を祝福するよ。誰にも言わないから帰してくれないか?」

都の言葉に篤は笑みを浮かべたまま首を横に振った。

「信用出来るわけないだろ。それに姉さんは……都さんだっけ?本気でアンタのこと好きになっちゃったみたいだし。男に散々いたぶられたのに今更恋をするなんて可哀想な女だと思わないか? アンタは俺が始末しておかないと」

篤はそう言って電動ドリルのスイッチを入れた。悲鳴にも似た甲高いモーター音と共に、ドリルの先端が高速で回転を始める。

「彼に触るな!」

田子谷が叫んだ。彼は縛られたまま前のめりになったせいで、勢い余って椅子ごとコンクリートの上に倒れた。

「相棒同士の美しい友情だな。じゃあアンタから死ぬかい?」

篤は方向転換して田子谷に近付き、彼の前髪を掴んで無理矢理上を向かせた。頭を打ったのか、田子谷の額からは血が滲んでいる。

ロープはまだ切れそうにない。都は己の非力さを恨みながらも、篤に向かって怒鳴った。

「お前とお前の姉貴の意識は完全に別れていないぞ!いつか必ず犯行にボロが出る」

「どういう意味だ?」

篤は意味がわからず眉を顰めた。都は縛られた手の代わりに顎で天井を指し示す。

「天井に吊るした遺体の姿と縄の軋むような音を細金糸は認識していた。だが、お前の家の庭からでは遺体は見えないし音も聞こえない。この意味がわかるか?」

「分かんないけど、それが何なんだよ」

「お前の姉貴は間近で見た遺体の姿と、自分がコードで遺体を吊るした時の音を覚えていたんだ。だから俺たちにも正直に証言した。彼女は善人だ。犯行について覚えていることがあれば、脳内で多少記憶が改竄されていようと全て警察に話すぞ」

「刑事さん……私、」

篤はドリルを手に持ったまま苦しげに頭を抱えた。

「……ぐ…っ、……姉さん!大人しく寝ておけばいいじゃないか!」

「お前はいつか必ず逮捕される。お前がボロを出さずとも姉が覚えているからだ。だからこれ以上罪を重ねるべきじゃない」

「黙れ!」

篤は苛立ち紛れに都の縛られた椅子を蹴り飛ばすと、電動ドリルを田子谷の腹へと近付けた。

「どうせ捕まるなら、それまでに殺したいやつは殺しとかなきゃな!」

「……ぐっ……がはっ……」

篤は田子谷の脇腹に電動ドリルの刃を押し込んだ。抉られたグレーのスウェットにみるみるうちに血が広がり、田子谷の口から溢れた大量の血が床にぶちまけられて血溜まりを作る。

「やめろ!クソッ……そいつを離せ!」

都の手首はナイフが当たったのか、血でぬかるんでいた。それでも刃先で擦り続けたお陰か、一際強く力を込めてナイフを引くとロープが千切れて床に落ちた。

それと同時に、都は弾かれたように立ち上がって血塗れの手で篤に掴みかかった。

篤はドリルの刃を都に向けたが、都は刃が体に届く前に脚を上げて篤の腕を蹴り付けた。

電動ドリルはガシャンと音を立て、唸るように回転を続けながらもコンクリートの地面に転がった。都はそのまま篤の胸ぐらを掴み、押し倒して馬乗りになった。

「クソ野郎……ッ大人しくしろ!」

「離せ!姉さんの体に触るな!」

篤は泣き喚きながら都の体を何度も拳で殴った。しかし男女の腕力差は明確で、細金糸の体では都には敵わない。

────性犯罪者共はこんな力の差で女を傷つけていたのか。

都は戸惑った。篤ではなく、細金糸の体を傷つけることに躊躇いがあった。彼女は自分と同じく性犯罪の被害者であり、更には細身の自分と比べても非力だった。

「細金さん…………細金糸さん!」

都は篤の肩を掴み、呼びかけた。般若の面から能面に変化するように、険しい顔から一転して怯えたような顔つきに変わる。

「刑事さん……」

「一緒に帰りましょう。負けてはだめだ!」

「姉さんは出てこないでくれ!」

般若面が吼えた。かと思うと、また一瞬で能面に変わる。

「篤、この人を傷付けないで……俺は姉さんのためにやってるんだ!もうやめて!うるさい!黙ってろ!」

くるくると表情を入れ替えながら篤は藻掻き、地面に落ちていたガラスの破片を握って都の太腿へと突き刺した。

「ッ……」

都がよろめき体勢を崩した隙に篤は立ち上がると、床に転がったまま回転を続ける電動ドリルを手に取った。

「糸さん!」

都が叫ぶと、再び表情が変わった。彼女は場違いに穏やかな顔で微笑んだ。

「……刑事さん、私篤と一緒に行きます」

細金糸は震える右手で電動ドリルを自分のこめかみに近付けた。左手が右手を押さえ、必死でそれを止めようとしている。

「待て姉さん、やめろ!ありがとう刑事さん。待て待て待て!ごめんなさいね。嫌だ死にたくない!」

電動ドリルの先端が、彼女の白いこめかみへと埋まる。ずぶずぶとまるで泥の中に沈むように容易く刃が飲み込まれていく。能面の目から頬へと血涙が伝う。鼻からも口からも耳からも、全ての穴からだらりと力無く血が流れ出る。

操り人形の糸が切れたかのように地面に崩れ落ち、細金糸と細金篤は息絶えた。

穴の開いたこめかみから夥しい量の血が湧き出して、コンクリートの地面を赤く染めていく。

「…………光司」

都は痛む足を引き摺りながら田子谷に駆け寄った。彼は床に転がったまま口端から絶えず血を流し、ゼェゼェと濁った呼吸を繰り返している。

「今……縄を解く」

震える手でロープを解こうとするが、手に力が入らない。また地面を這いつくばって自身の落としたナイフを手に取り、田子谷の身体を縛るロープに刃を当てて擦る。

「おい……死ぬな!すぐに縄を切るから……!」

「ゆ、……さくさん」

喋る度にごぽ、と口から泡立った血が溢れ、床を濡らす。

「喋るな、いいから黙っていろ……大丈夫だ、絶対に助かるから」

ロープは憎らしいほど頑丈で、必死に刃を前後して削ってもなかなか切れない。くしゃりと顔を歪めたかと思うと、都の目から大粒の涙が溢れ落ちる。

「畜生……っなんで……なんで切れねえんだよ……クソッ!」

都は怒りのままにナイフを床に叩きつけた。キン、と鋭い音を立て、役立たずのナイフが地面の上に転がり、回転する。

都は素手でロープを引きちぎろうとしたが、摩擦で掌が傷付いたのか血で滑ってロープが上手く掴めない。声にならない叫びを上げ、その場に蹲った。

────クソッ、諦めるな!考えろ、 何かあるはずだ!外部との連絡手段を探せ!

都は自身の服のポケットをまさぐったが、携帯電話は見つからなかった。ふと細金の死体が目に入り、急いで駆け寄ると彼女の身体をうつ伏せに転がした。

つなぎの尻ポケットにスマートフォンが入っていた。急いで119番を押し、耳に当てる。

「────こちら119番。消防ですか、救急ですか」

「救急を、今すぐ来てください!恋人が死にかけているんです!」

必死で声を絞り出した。泣き声混じりの言葉に救急隊員は緊急性を感じたのか、場所が分からないと言うと端末から逆探知すると告げた。

都は既に意識の無い田子谷に覆い被さるようにして抱き締めた。朦朧とする頭で何か出来ないかと考える。

────ああ、せめて安らかに眠らせてやらないと。

震える唇で遥か昔に妹によく歌っていた子守唄を口ずさむ。血の滲む額に口付けて、そっと汗で濡れた髪を撫でる。

通報からほどなくして救急車のサイレンの音が聞こえてきた。磨りガラス越しに点滅する赤色灯の光を確認してから、都も意識を失った。




「おはよう!お兄ちゃん!」

どかっと体の上に何かが倒れ込んできて、ようやく目を覚ました。陽葵が満面の笑みでこちらを見下ろしている。

「お兄ちゃんはまだ眠いよ……あと五分寝かせてくれ」

「えー?起きてよ!光司お兄ちゃんがホットケーキ作ってくれたよ!みんなで食べようよ!」

陽葵はよほど嬉しいのかぴょんぴょんとベッドの上で飛び跳ねている。

ふわりと甘いホットケーキの香りが鼻腔を擽った。寝起きだったが都も腹が減っていた。

「……仕方ない、起きるか……」

「あっ、お目覚めですか!おはようございます!」

ダイニングテーブルにホットケーキの乗った皿を並べながら田子谷が微笑んだ。窓から差し込む朝日に照らされ、ヘーゼル色の瞳がキラキラと輝いている。

────なるほど。これが幸せか。

都もつられて微笑んだ。

「おはよう」





「あはははは!本気で死ぬかと思いました!」

病院のベッドに腰掛けて、あっけらかんと田子谷は笑った。

同じ病室の真隣のベッドに伏せっている都は青ざめた顔でベッドのシーツを頭まで被り直す。

「頭が痛えから静かにしやがれ……」

田子谷は内臓を損傷する大怪我にも関わらず、手術の後なんと二日も経たずに自力で歩けるようになっていた。若いにしても鋼のような強靭な肉体だ。

一方の都はというと、ガラスで刺された太腿の小さな傷が化膿して高熱を出し、未だに寝込んでいる。

「軟弱やね~都くんは。これお見舞いね」

ふらりと病室に入ってきた深町は、フルーツの盛り合わせが入った籠を置こうとして凍りついた。

都のベッドの周りは祭壇のごとく大量の供物────ではなく、見舞いの品で溢れかえっていた。果物だけでなく菓子や花束、はたまたぬいぐるみや漫画、携帯ゲーム機までもが所狭しと置いてある。

深町は諦めてベッド脇の丸椅子に座り、籠は自分の膝の上に置いた。

「この果物、花畑さんからって預かってんけど……なんや愛されてるやん」

「はあ、そうですかね」

都はベッドから頭だけ出して、見舞いの品々を渋い顔つきで見回した。

「田子谷くんの所にはほとんど何も無いけど、キミは嫌われてんの?」

「いえ!でも皆さんお見舞いに来て、自分を見たらそのまま帰っていかれました!」

「こいつが期待してたより元気だったから皆がっかりしてたんですよ」

確かにしおらしい田子谷は面白そうだ。珍獣目当てに見舞いに来ては肩を落として帰って行く署員たちを想像して深町は苦笑し、フルーツが盛られた籠から果物を一つ手に取った。艶々とした真っ赤な林檎だ。

「折角やからボクが剥いてあげるわ」

深町は通りかかった看護師を呼び止め、ナイフと皿を持ってくるように頼んだ。

「ちなみに事件についてやけど、細金糸の犯行で間違いなさそうやね。細金の二階の自室の壁には犯行の際の現場や遺体の写真がベタベタ貼られてたし、家の中から被害者のDNAが付着した凶器も出てきたから」

「そうですか」

看護師が持ってきたフルーツナイフを受け取り、深町は林檎に刃を当てた。手首を上手く使いながらくるくると器用に皮を剥いていく。

「でも多重人格についてはさすがに立証が難しいなあ……まあどっちみち体は一個やから、細金糸を被疑者死亡で書類送検やな。……細金の両親は連絡が取れんかった。あのルライの園 に入信しとるみたいで、一応教団に問い合せたけど、両親は娘のことについては関わりたくないんやって」

『ルライの園』の名を聞いて都は田子谷と顔を見合せた。今回は事件には関係ないと信じたいところだが、どちらにせよ聞きたくない不吉な名前である。

「……こちらとしてもルライの園には極力関わりたくありませんが……」

「ボクかてなるべく触れたくないわ。公安にも睨まれとる要注意団体やで? 管轄外や」

深町は食べやすい大きさのくし切りにした林檎を皿の上に並べ、都に手渡した。

「あーんしてあげた方がええ?」

「結構です!」

都が断る前に、田子谷が満面の笑みで皿を奪い取った。

「そういうのは相棒である自分が責任をもって!やらせていただきますので!」

「おお、元気やねえ。……キミも一応怪我人やから、あんまり頭に血ぃ登らんようにせんとね」

深町は籠を椅子の上に置くと、自身は立ち上がって大袈裟に背伸びをした。

「うーん、じゃあボク帰るわ。二人ともお大事にね」

「花畑警視にどうか感謝をお伝えください」

都が部屋から出ようとする深町にそう声をかけると、彼は「ボクには?」と呆れたように文句を言った。



「……おい、自分で食べられるぞ」

深町が去っても皿を手に持ったままの田子谷を軽く睨む。田子谷は笑顔を隠そうともせず、フォークに刺した林檎を差し出した。

「どうぞ!」

「……」

都はなるべく無表情で、顔の前に差し出された林檎を齧った。甘くて実が柔らかい。林檎の種類については詳しくないが、やけに高級そうな味がする。

「あ、口元に汁が付いてますよ」

「んん」

お前が拭け、と口元を指差すと何を勘違いしたのかペロリと舌で舐め取られた。

「ゔ……」

「……ん、甘いですね」

口の中に林檎が入っているので悪態もつけず、都は精一杯の険しい顔を作って見せた。

田子谷も林檎を一つ口に入れ、さくさくと咀嚼した。窓の外の雲ひとつない快晴を眺めながら、こんな日に外に出られないなんてと思わずため息をつく。

「……なるべく早く退院したいですね。……優作さんは退院したら何がしたいですか?」

都はようやく口の中の物を飲み込むと、仏頂面のまま同じく窓の外に目をやった。

「さあな。家に帰れるなら何でもいい。……そうだな、ホットケーキが食べたい。ああ、でもお前が焼けよ。俺は作ったことないし」

田子谷は驚愕し、都の顔を凝視した。この年上の天邪鬼な恋人が田子谷に何かを頼むのは珍しかった。

「勿論です!百枚でも千枚でも焼きますよ!」

「……そんなに要らねえよ」

目の前に置かれる百枚のホットケーキを想像して都はため息をついた。

「……お兄ちゃんまだ恥ずかしいよ、『幸せ』ってやつ」

ぼそりと小さく呟いた言葉は、風に乗って病室の窓から流れて消えていった。



(終)



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