爆弾魔の暇乞い




土曜日の午後、梔子くちなし運動公園に併設されるカフェ『grayheron』は訪れた人々で賑わっていた。

まだ寒さの残る時期ながら、開花し始めた桜を目当てに公園の散歩コースを歩くカップルや家族連れも少なくない。小規模ながら静かでゆったりした雰囲気のその店は、運動後に少し羽を休めるにはちょうどいい空間だった。

青年はテラス席に座り、期間限定のさくらラテをお供に公園の桜を眺めていた。毛先だけビビットなピンクに染めた髪に、薄ピンクのニット帽を被っている。服装もピンクのスウェットとホワイトのカーゴパンツという出で立ちで、まさに花見に来ましたと言わんばかりの格好だ。しかし彼の目的は桜ではない。もちろん、grayheronの春限定さくらラテでもなかった。

不意にテーブルに置いたスマートフォンから通知音が鳴った。画面を見ると、『あと五分。撤退しろ』と簡素なメッセージが入っていた。青年はカップに僅かに残ったさくらラテを飲みきると、スマートフォンを猫のぬいぐるみバッグに仕舞い立ち上がった。

ちょうどその時足元に何かが触れた。下を向くと、赤い首輪をつけた黒猫と目が合う。

毛艶の良い黒猫は、青年をじっと見つめたかと思うと彼の足元にすりすりと体を擦り付け、甘えるようにこてんと寝転んで腹を見せた。

「オマエ、飼い猫だろー」

まるで幼児のような舌っ足らずの口調で青年はそう言うと、慣れた手つきで黒猫の腹を撫でる。

「ついてこい」

彼が歩き始めると黒猫は青年の言葉を理解しているかのようにその後ろを追った。彼は軽快な足取りで公園を横切り、駐車場へと向かう。

公園の駐車場には昼間の公園にそぐわぬ黒のレクサスが一台停まっていた。その運転席には金髪にサングラスをかけた厳つい顔の男が座って、何やらスマートフォンを耳に当てて話している。

青年は迷わずその車に近寄ると、運転席の窓ガラスを素手でぺちぺちと叩いた。

金髪の男は手垢で汚れる窓ガラスを見て怪訝な表情になるも、電話中だからかそれを無視して話を続ける。

青年は拗ねた子供のように頬を膨らませ、さっきより強く窓ガラスを叩いた。

「カーナーヤー!あーけーろー!」

金髪の男────カナヤは慌てて運転席のドアを開け、電話の相手に断ってから青年の方を向いた。

「今依頼人と話し中だ!乗るなら反対の助手席に回れ!」

「ドアが開いてないのにジョシュセキにどーやって乗るニャー?」

「あーもう、わかった。ドア開けてやるから!」

苛立った様子でカナヤは車から出ると、車の反対側に回って助手席のドアを開けた。

「ほら乗れ。……なんだその猫。連れて帰るのは無理だぞ」

助手席に座った青年に続き車に飛び乗った黒猫を見て、カナヤは眉間にシワを寄せる。

「コイツにはお家があるニャ。そこの通りで逃がしてあげるんニャー」

青年は膝の上で寛ぐ黒猫の顎下を撫でる。猫はぐるぐると気持ちよさそうに唸りながら目を細めた。


最初に異変に気がついたのはカフェの店員だった。テラス席に力無く座る男が、目を見開いたまま口から涎を垂らしているのを見て恐る恐る声をかけた。

「お客様? 大丈夫ですか? お客様?」

男の瞳がぐるりと動き、店員の姿を捉えた。彼は開きっぱなしの口を不自然に動かし何かを喋っていたが、それは言葉として機能していない。

男は瞳をぐるぐると動かしながら何やら呟いていたが、やがてぐっと呻くと黙り込み、顔がみるみる内に赤く鬱血し始めた。

店員は急いでカフェ内にいる店長を呼び、救急の通報をした。店長とその場にいた客数人で男を地面に寝かせ、AEDを使おうと上着を脱がせる。すると上着の中から、ツギハギだらけの不気味な猫のぬいぐるみが顔を出した。

「……これって」

その場にいた全員が一瞬硬直した。店長は立ち上がり、大声で叫んだ。

「爆弾だ!皆早く逃げろ!」

まだ客は戸惑い、遠巻きにこちらを眺めている。店長は額に汗をかきながら更に大声で避難を呼びかけようとしたが、その時地面に寝かせていた男の頭が風船のように膨れ上がった。

眼球がおもちゃのスーパーボールのように飛び出して地面に転がり、耳と鼻と口と眼孔と、とにかく穴という穴から血が噴き出す。野次馬から悲鳴が上がった。

皆が破裂に備え逃げようと背を向けた瞬間に男の体が爆発した。

ドン!と地鳴りとともに爆音が響き、車体が大きく揺れた。黒猫は驚いたように金色の目を見開いて体を強ばらせる。青年────ユナは安心させるようにその背を撫でた。

「ダイジョーブだニャ。オマエは安全よー」

白煙が公園全体を包む。周辺にいた人々の悲鳴と思しき声が方々から聞こえてくる。

カナヤは煙る公園をサイドミラーで一瞥する。ドアを僅かに開けて駐車場のコンクリートの上に猫のぬいぐるみをそっと置くと、車を発進し駐車場を後にした。


『警察によりますと、またもや駐車場にはボマーキャットのものと思われる猫のぬいぐるみが残されていたとのことです。』

廃墟と化した公園の中で、女性レポーターが深刻な顔つきでカメラに向かって言葉を紡ぐ。

『今回の梔子運動公園爆破事件では死者十五名、けが人は少なくとも五十人以上に上ります。一体、世間を騒がせるボマーキャットとは何者なのでしょうか』


 

「やあー!ご飯やだニャ!」

ユナは癇癪を起こす幼児のように足をじたばたさせながら、手に持っていた子ども用フォークを床に投げた。

「あ!お前ッ、食器を投げるなって俺は何度も……ッ!つーか海苔を巻いたおにぎりがいいって言ったのはお前だろうが!」

いつものサングラスにオールバック、スーツの上からエプロンをつけたカナヤは、ユナが落としたフォークを拾って今日何度目かも分からぬ大きな溜息をついた。

「さっきまで機嫌よかったのにどうしちゃったかな……」

「ユナ、メロンパンじゃなきゃ食べないっ! おにぎりやだーっ!」

「馬鹿野郎、ワガママ言わず米もちゃんと食べろっ!メロンパンは明日買ってやるから!」

「いやだニャーッ!メロンパンがいいニャー!カナヤのバカー!オニー!」

ユナはずびずびと鼻水を垂らしながら大声で泣き喚いている。十九歳の青年とは思えないその姿にも慣れっこであるカナヤは、エプロンを外すと車の鍵を手に取った。

「OK、じゃあ馬鹿の鬼のカナヤがメロンパンを買ってきてやる。……メロンパンならちゃんと食べるんだよな?」

ユナは泣きながらこくりと頷いた。カナヤは無言でユナのピンク色の髪をわしゃわしゃと撫でると部屋を出て行く。


「……」

カナヤが部屋から出るとユナは先程までの癇癪が嘘のようにピタリと泣き止んだ。テーブルに頬杖をつき、食べられることのない哀れな海苔巻きおにぎりを指でつついた。

ユナには爆弾が仕掛けられていて、きっともうすぐ爆発するのだと自覚している。それが明日なのか、一年後なのか、ユナには分からない。ただその爆発にカナヤを巻き込むべきでないと言うことだけはわかる。

カナヤという男は一見やくざ者のような見た目をしているが、実際はどこの組織にも属していない。

元は反社会的な勢力とは何ら関係のない平凡なサラリーマンだったが、ユナがスカウトして爆弾のブローカーとして雇った。

雇った以上は、雇用主としてカナヤが今後快適に生きていけるように準備をしておかなければならない。



「ユナ~、おーい、戻ったぞ。どれならいいか分からねえからコンビニ何軒かハシゴしたら思ったより時間が……ユナ?」

カナヤが家に戻ると、ユナは泣き疲れたのかソファで眠ってしまっていた。猫のように丸まったその背中に、起こさないようにそろりとブランケットをかける。

「……ったく……最近やけに食べるの嫌がるな……」

以前は健啖とは言わないまでも何でもよく食べていたのに、最近のユナは食事の際の我儘が極端に酷くなった。カナヤの脳裏に『反抗期』の三文字が浮かぶ。

────どっちかというとイヤイヤ期か?

どっちみちあと一年で成人するとは思えない幼稚っぷりだ。ユナはカナヤと出会った八年前から我儘な性格も子どものようなおかしな口調も全く変わらない。

それでも、カナヤとしてはユナがずっと幼稚な振る舞いをすることへの不安よりも、来年二十歳を迎えることへの感慨深さの方が大きかった。

「何かお祝いしなきゃな……なんなら喜ぶかな、お前さんは」

カナヤは眉を下げ、眠るユナの顔にかかる髪をそっと指で払った。



「ボマーキャットの犯行となると所轄の仕事は無いですね!」

梔子署、夜二十時────帰り支度をしながら田子谷たごやは悔しそうに顔を顰める。

「ここまで規模が大きいと公安に任せるしかないよ。さあ、大人しく帰ろう」

黒いトレンチコートを着込んだみやこは既に帰り支度を終えていた。

「あのふたり最近いつも一緒に帰ってますよね?」

新田にったは二人の後ろ姿を見送りながら怪訝そうに目を細める。

「まさか……デキてるとか?」

田坂たさかは飲んでいた缶コーヒーを思わず噴き出しそうになり、思わず大仰に噎せる。

「ッ……女の子がそういうこと言わない!」

「田坂さん何で焦ってんすか……?」



「ボマー・キャットって一体どんな奴なんですかね!」

「……別に見た目は生意気そうなただのガキだな。ちょっとおかしいところはあるが」

都の言葉に田子谷は驚いて助手席の方を向いた。

優作ゆうさくさん、ボマー・キャットの素顔を知ってるんですか?」

「バカ、運転中に余所見すんな。……俺が主に会うのは仲介してるオッサンの方だが、二度ほど本人にも会ったことがある。一見ハタチ前後だが手にぬいぐるみ抱えて離さねえし珍妙な喋り方をする変なヤツだったぜ」

都はそう言いながらつまらなさそうに頬杖をついて窓の外を眺めている。田子谷は一人で感慨深そうにうんうんと頷いた。

「なるほど、そうなんですね!勝手に眼鏡をかけた科学者みたいな人をイメージしてました!」

「……死霊のしたたりかよ。マッドサイエンティストは爆弾は作んねえぞ」

田子谷はハンドルを握ったまま首を傾げる。

「死霊のしたたりって何ですか?」

「あ?スチュアート・ゴードンの名作を知らねえのか?おい今すぐ進路変えてTSUTAYAに寄りやがれ。今日は徹夜で映画観るぞ」

「いいですね!ポップコーンも買いましょう!」

田子谷は満面の笑みでウインカーを出し、隣の車線に移った。




「ユナね、爆弾作るのやめる」

寝起きにユナが放った第一声に、ベランダで煙草をふかしていたカナヤは思わず手に挟んだそれを取り落としそうになる。

「お前……今なんて?」

「ユナは爆弾作るのもうやめるニャ!」

────またお得意の癇癪が出た。

カナヤは鼻白みつつも煙草の火を消すと、ソファに座ったままのユナへと歩み寄る。幼い子どもにするように屈んでユナと視線を合わせると、あくまで優しく問いかけた。

「何が嫌なんだ、え?お前さんが爆弾作らなきゃ俺たちこれからどうするって言うんだよ」

「そんなの……カナヤはユナが居なくてもシャチク?になって生きていけるだろー。ユナはおかーさんとおとーさんのいるおうちに帰るニャ」

カナヤは困惑してユナに詰め寄った。

「……おいおい、お前まさか本気で言ってるのか!?マジで今の仕事から足を洗うつもりかよ」

カナヤはユナの肩を掴んで激しく前後に揺すった。ユナはくしゃりと顔を歪め、血の気のない唇を尖らせる。

「そーだニャ!手も足も洗うんニャ!本当の家族とヨセイ?を過ごすニャー!」

ユナが自ら縁を切った血縁の話を持ち出すのは珍しかった。それほど本気だと示したいのだろうか。

「いいかユナ、俺たちは裏社会について知りすぎてる。辞めたいからはい辞めますってできるほど簡単な話じゃないのはお前でもわかるだろう?」

いつになく真剣に諭すも、ユナは聞き入れたくないのか耳を両手で塞いで顔を顰めている。

「……ユナ、本当にちゃんと話聞け。おいユナ!」

耳を覆う手を無理矢理引き剥がすと、ユナはまたわっと声を上げて泣き出した。

「カナヤのバカー!大嫌い!カナヤなんかどっかいっちゃえ!」

────こうなるともう聞く耳を持たない。

カナヤは辟易し、後ろ頭をガシガシと掻く。

確かにユナは最近仕事続きで、昼夜休みなく爆弾を作り続けてきた。そしてそれは仲介人のカナヤが安易に仕事を受けすぎたせいでもあるだろう。

自責の念に駆られると同時に、最近癇癪続きのユナと少し距離を置く必要性も感じていた。

カナヤは泣きじゃくるユナの目の前に人差し指を立ててみせた。

「よし、一か月だ。一か月間俺たち二人の休暇にしよう。その間俺もお前もお互いのことにはノータッチ。俺はお前が家族のところに帰ろうが何も言わないし一切干渉しない。一か月後にお前の意思が変わらなければ希望通りに解散だ。これでどうだ?」

ユナの瞳が躊躇いに揺れた。思案するように視線をぐるりと巡らせて、やがて無言でこくりと頷いた。

カナヤはその時まだ楽観視していた。気まぐれなユナのことだ。一か月どころか三日で泣きついてくるだろう。なんなら明日の朝起きたら今した話すら忘れているかもしれない。



「今までお世話になったニャ」

朝、寝起きのカナヤの眼前に突きつけられたのは奇抜な色合いの布で継ぎ接ぎされた猫のぬいぐるみだった。ユナが「ボムボムくん」と呼んで特に肌身離さず持っていた物だ。

「……これは」

「センベイ!」

「煎餅?」

数秒考え、“餞別”のことを言っているのだと気付く。

「あー……俺が持っていていいのか?」

「もういらないからオマエにやるニャー」

ユナは言いながらカナヤの手にぬいぐるみを押し付け、自分は荷物ひとつも持たず振り返りもせずに部屋から出ていった。

「……まあ、預かっとくか」

カナヤは腹の上にボムボムくんを乗せると、二度寝をするために目を閉じた。




安心院あじむ和美かずみは商店街にあるスーパーマーケット『セキレイ』で夕飯の買い出しをしていた。

物価高で食品も生活用品もかなり値上げされてしまったが、セキレイならば卵が他より三十円は安いのである。代わりに野菜が高いので、帰りに他のスーパーに寄ってエリンギとトマトだけ買う予定だった。

今夜の献立は野菜スープと唐揚げにするつもりだ。唐揚げなんて大皿に山盛り作っても運動部に所属する子どもたちはペロリと平らげてしまうが、特に息子には頻繁にリクエストされるメニューなので仕方ない。

今年中学三年生になる長女のあまねは柔道部に所属している。受験生だというのに部活に没頭しすぎているのが悩ましいが、勉強もそこそこできるので母として文句が言いづらい。

弟である 奏多そうたは中学一年生の野球少年。今夜の唐揚げを希望した張本人でもある。

二人ともスポーツが好きなのは若い頃からテニスが好きだった夫の 昭次 はるつぐに似たのかもしれない。最近の昭次は肩が痛い腰が痛いと何かにつけて運動を避けがちではあるが。

そういえば牛乳も買わなければ。奏多が毎日大量に飲むので我が家は常に牛乳不足なのである。

和美は店の奥にある乳製品のコーナーへと買い物カートを押して向かう。

乳製品コーナー、プリンの棚の前に背の低い小学生くらいの女の子が立っていた。上の段にあるチョコプリンに手が届かないのか、必死に背伸びをしている。その姿に思わず足を止め、じっと見つめてしまう。

────おかーさん、届かないにゃー。

息子が幼い頃、高いところにあるお菓子が届かなくてよく駄々を捏ねていた。息子と言っても奏多のことではない。和美にはもう一人、今はいない息子がいる。

派手なピンク髪の青年が子どもの背後に立ち、後ろからチョコプリンをひとつ手に取った。

中腰になって少女と目線を合わせ、にこりと笑ってプリンを手渡す。

「はい、どーぞぉ」

「……ありがとう」

少女は照れたように小声で礼を言うと、プリンを手に持って走り去った。

和美は呆然として、肩にかけていた鞄を地面に取り落とした。カートをその場に放置して青年に駆け寄ると、その肩を掴んだ。

「んー?おばちゃん、何か用ニャ?」

「……那由多なゆた……?あなた、那由多なの?」

和美の言葉に、青年は大きな丸い目を驚いたように瞬かせた。

「……もしかして、おかーさん……?」

背はかなり伸びているし、声も前よりぐんと低い。髪も染めて、ピアスまで開けている。

それでもこの青年が自分の息子であることはすぐにわかった。

和美は人目も気にせず、青年を力いっぱい抱きしめた。

「会いたかった……!」

青年は和美の抱擁に少し戸惑い、宙に浮かせた手を何度か握ったり開いたりした。

「……おかーさん。那由多……おかーさんのいるお家に帰ってもいい?」

「当たり前じゃない……!家族なんだから!」

和美はぼろぼろと涙を流しながら、更に強く息子を抱き締めた。


安心院那由多は、十二歳の頃小学校の卒業式から自宅に帰らなかった。

和美と昭次は夜になっても息子の行き先が分からないと知るとすぐに警察に連絡した。しかし、警察は同日夕方に起きた爆破事件の対応で多忙を窮めていた。

警察から事件を聞いて和美は胸の奥に氷を落とされたかのような悪寒を覚えた。爆発したビルはオフィス街とはいえ小学校から近かったし、長男の那由多も爆破事件に巻き込まれたのではないかと最悪の想定をした。

実際、警察の捜査ではそのビルのある通りを胸に花飾りをつけランドセルを背負った子供が一人で歩いている姿が目撃されていた。

────しかし、那由多はいつまで経っても見つからなかった。

昭次もかなりショックを受けていたが、和美はそれよりも更に強い心労でしばらくの間情緒不安定になった。

それというのも、那由多の卒業式の日に夫婦はどちらも式を欠席していた。昭次は仕事が忙しく、和美は体調を崩していた。

しかしそれも実は建前であり、和美は当時育児ノイローゼ気味だった。那由多は昔から我儘で癇癪持ちだったので、和美は上手く那由多のことを愛せなかった。

そのことを、那由多がいなくなった後で和美は強く後悔した。自分が卒業式に出席していれば。那由多を一人にしなければ。もっと愛してあげていれば。そうすれば那由多は行方不明になんてならなかったかもしれない。

昭次は君は悪くないと言ってくれたが、自責の念は強く残った。

幼い遍のために表向きは明るく振る舞いながら生活を送り、月に二度は心療内科に通った。睡眠薬が無いと眠れない日々が何年も続いた。

次男の奏多が生まれてから少しずつ精神は回復していったが、それでも未だに夜中になると那由多のことを思い出して泣くことがあった。



八年振りに自宅に帰ってきた那由多は、居心地悪そうにリビングのソファに浅く座った。

「何か食べる?お腹すいてない?」

和美はキッチンで温かいココアを入れながらそう声をかけたが、那由多は無言で首を横に振った。

ぎこちない沈黙が流れる。和美は那由多に何と言葉をかけるべきか分からなかった。

居なくなっていた間のことを聞くのが怖かった。

────もし那由多が消えたのが、「お母さんに愛されてないと思ったから」だったら?

「テレビ付けていい?」

那由多は恐る恐るといった様子で和美に尋ねた。和美は笑顔で頷いた。

「いいに決まってるじゃない。あなたの家なんだから」

那由多はテーブルの上にあるリモコンを手に持ち、テレビの電源をつけた。

付けたチャンネルではちょうど報道番組が放送されていた。女性リポーターがマイクを手に持ち、まだ煙の立つ瓦礫を指差す。

『二日続けての爆破事件です。焼け跡からは人の体の一部と見られるものが多数見つかりました。警察は連続爆弾魔ボマー・キャットの手口とみて…… 』

那由多はニュースを見ながら目を伏せ、安堵したように息をついた。和美はその様子を訝しく思いながら見つめていた。

────このニュースが見たかったのかしら。そういえばこの子がいなくなった日も爆破事件があったような……。

和美の胸に不安が渦巻いた。那由多は小さい頃から異様に頭が良く手先が器用で────爆弾に対して強い興味があった。

ドタドタと騒がしい足音がして、野球のユニフォーム姿の奏多がリビングに入ってきた。

「ただいまー!…………あれ、お客さん?」

奏多は怪訝な顔で那由多のピンク色の髪を一瞥した。那由多も目を丸くしている。そうだ、那由多は奏多に一度も会ったことがないのだ。

「那由多……この子は奏多。あなたの弟よ」

「え?……この人が俺の兄貴?」

那由多より先に奏多が驚きの声を上げた。当然だ、奏多に居なくなった兄の話は一応しているが、彼はアルバムにある幼い那由多の写真しか見たことがない。

それに、父親の昭次に瓜二つな奏多と比べ、那由多は父親にも母親にも似ていない。そう、昔から全く似ていないのだ───。

「オニーチャンだよ。よろしくニャー」

那由多は何を考えているのかよく分からない気怠げな表情でこてんと首を傾げてみせた。奇妙な喋り方に奏多は頬を引き攣らせながら愛想笑いを浮かべた。

「えーと……奏多です……どうも……」

「早く手洗っておいで!靴下も脱いで洗濯かご!」

和美は半ば怒鳴るようにして奏多をリビングから追い出した。

「……ごめんね、那由多。急に弟が増えたら驚くわよね」

「……ソータくんの方が驚いたでしょー。こんな変なのが家にいて」

那由多は困ったように眉を下げ苦笑した。和美は「変なの」という那由多の言葉に、何も反論することができなかった。


遍と昭次も帰ってきて、夜は全員で食卓を囲んだ。ニコニコしているのは和美だけで、あとは那由多も含めて全員気まずそうな顔で椅子に座っていた。

「……お兄ちゃん……なんだよね?」

遍は好物の唐揚げに手をつけようともせず、居心地が悪そうに那由多を横目に見た。

「そーそー。オニーチャンだよ」

「何はともあれ……よかった、戻ってきて」

昭次は咳払いをして、缶ビールのプルタブを開けた。

「……那由多も飲むか?」

「那由多、まだ未成年だニャ」

「……そうか」

どんよりとした空気が居間に漂う。奏多は黙々と唐揚げを口に詰め込んでいる。那由多は箸すら持とうとしなかった。

「那由多、ご飯どのくらいつぐ?」

「……いい。お腹すいてない」

和美はそう呟く那由多の唇が異様に青いことに気づいた。しゃもじを置き、那由多の頬に手を当てる。

────冷たい。なのに大量に汗をかいている。

「那由多……あなた、具合が悪いの?」

「……悪くないよ」

「久しぶりだから緊張してるだけじゃないか」

昭次が宥めるような口調でそう言った。和美はきっと昭次を睨んだ。

「貴方さっきから何なの?那由多が戻ってきてくれたのよ!なんでそんな心配もせずヘラヘラしてるの!?」

「おかーさん……」

那由多は戸惑いがちに和美の服の裾を掴んだ。

和美は怒りが治まらず、手で顔を覆って泣いた。

「有り得ない。せっかく……私たちの所に帰ってきてくれたのに……」

「おかーさん。那由多大丈夫だニャ。ご飯も食べるニャ。だから泣かないで」

那由多は幼い頃と全く同じ口調でそう言って和美を抱き締めた。和美は那由多に縋り付き、しばらく泣き続けていた。


食事を終えると和美は那由多を自分のベッドに寝かせた。パジャマは昭次のものを着せた。

那由多は落ち着きなくベッドシーツを首まで被って視線をキョロキョロさせていた。

「那由多、帰ってこない方がよかったかな」

ぽつりと那由多が零した。

「おとーさんも遍も嬉しそうじゃないニャ。ソータくんもいるし、もう那由多は必要ないニャ?」

「そんなことない。あなたは大事な家族よ」

自分でも驚くほどか細い声で和美は答えた。

那由多が帰ってきて嬉しいはずだ。昭次だって子どもたちだって今は驚きが勝っているだけで、すぐに那由多がいることに慣れるはず。

「不安にさせてごめんね。お母さんが絶対守ってあげるから」

「……母さん、今少しいいかな」

昭次がドアを開けた。まだ夕飯時の態度を許せていない和美は不機嫌な顔で立ち上がった。

「おやすみ、那由多。ゆっくり寝てね」

那由多の髪を撫で、部屋の電気を消してから廊下に出た。

「……何?」

昭次は躊躇いがちに小声で和美に耳打ちした。

「……明日あの子を警察に連れていこう」

「何ですって?」

和美は眉を顰めて昭次に詰め寄った。

「あの子が何をしたって言うのよ!私たちの子どもよ!?」

「分かってる。でも行方不明届を出してる以上は警察に報告する義務があるだろう」

昭次の言葉は正しかった。しかし、和美にとってはその昭次の冷静さが鼻についた。

「あなたは嬉しくないの?那由多が帰ってきて」

夫は困惑気味に瞬きして、和美から視線を逸らすように俯いた。

「…………そういうわけじゃない……でも……そもそもなんであの子は出ていったんだ?八年間どこで何をして……なぜ今戻ってきたんだろう」

「そんなことどうでもいいじゃない。もう戻ってきてくれたんだから」

「……君が那由多のことで責任を感じてるのは分かってるけど……僕だって同じ気持ちだよ」

昭次は真剣な顔で和美の肩を掴んだ。

「僕も上手くあの子を愛せなかったから」




喫茶「やましぎ」の窓際に面したテーブル席で、カナヤ────本名 九鼓 くつづみ 叶弥 かなやはブラックコーヒーの黒い水面を見つめていた。

顔を上げれば向かいの席には最愛の元妻である 奈波 ななみがいるというのに、いや、いるからこそ顔を上げることができなかった。

「……随分変わったね」

奈波は苦笑し、ホットカフェラテのカップをスプーンで混ぜた。

「なんか、危ない職業の人みたい」

「……そうか?……いや、そう見える、よな」

カナヤは俯いたままどぎまぎと返事をした。挙動不審な自覚はあった。十年音沙汰のなかった元妻から急に会いたいと連絡が来たのだから当たり前だ。

「元気に……していたか」

「ええ、まあそれなりにね。実は地元で元同級生と再婚したの」

カナヤは驚いて顔を上げた。奈波は記憶の中より少しだけ皺が増えていたものの、相変わらず美しかった。長かった髪はバッサリ切ってショートヘアになっている。

「そうか……それは……おめでとう……」

「あなたと別れて五年で再婚して、それで去年別れた。これでバツ2ってわけ」

ピースでもするように奈波は右手の人差し指と中指を上げてみせた。気まずくなって、カナヤは再び俯いた。さっきまで湯気が立っていたはずのコーヒーは既に冷めかけていた。

「そう、か……」

「なんで今更連絡してきた、って聞かないの?」

カナヤは首を横に振った。

「いや。今更だろうと……連絡してくれて嬉しかった」

「そう?怒ってないのなら良かった。ずっと下を向いてるから」

「お前に合わせる顔がないだけだ」

カナヤは下を向いていたせいでずり下がってきたサングラスを指でかけ直した。

「……仕事を理由に君を蔑ろにしたのは俺だ。俺が君に対して怒るはずがない」

「そういう真面目なところは変わんないんだ」

奈波は小さく声を上げて笑った。窓越しに見える歩道を、学校指定の黄色い帽子を被った小学生の集団が歩いている。

カナヤと別れなければあんな年齢の子どももいただろうかと少しだけ考えてしまう。

「私も若すぎたの。あなただって辛かったのに、自分の気持ちばかりで寄り添えなかった」

「悪くないよ……君は何も……」

消え入りそうな声でカナヤは呟いた。

カナヤは所謂ブラック企業に勤めていた。上司のパワハラと度重なる激務────そして毎日夜遅くまで続く残業で心も体も壊れていった。

勿論、妻である奈波を気遣う余裕などなかった。家と職場を往復するだけの日々に、先に根を上げたのは奈波だった。

カナヤは、文句も言わずすぐに離婚届に判を押した。自分が奈波を追い詰めている自覚があったからこそ、せめてみっともなく縋る真似はするべきではないと思ったのだ。

奈波が実家に帰って、二年後にカナヤの精神も限界を迎えた。勤めている会社のビルの屋上に上がり、そこから飛び降りようとした。

─────その時、当時まだ十二歳だったユナに出会った。


「ねえ、勝手なこと言ってるのはわかってるけど……やり直せないかな」

奈波の声で我に返る。カナヤは思わず顔を上げ、サングラスを外した。

「……や、やり直す?」

「私、やっぱりあなたがいい。また一緒に暮らさない?」

奈波はカナヤを見つめながら彼の手にそっと自身の手を重ねた。カナヤは心臓が大きく高鳴るのを感じた。彼はまだ元妻を愛していた。

今は休暇、いや『お試し期間』────しかし一ヶ月後にユナさえ望めば、自分は堅気に戻れる。

カナヤはごくりと唾を飲んだ。ユナを裏切る真似はしたくない。しかし、そのユナ自身が本当の家族と暮らすことを望んでいるのならば、カナヤも新しい人生を始めなければならないだろう。

「一か月……待ってくれ」

カナヤは奈波の細い手を握った。

「……一か月で答えを出すよ」

奈波は頷いた。彼女の目には薄らと涙が浮かんでいた。


カナヤは喫茶店を後にすると、自宅へと戻った。現在カナヤは都内五十四階建てのタワーマンションの最上階にユナと共に住んでいた。

最初カナヤは高級なマンション自体を嫌がったのだが、タワーマンションの最上階はユナの強い希望だったので仕方なく購入した。カナヤにはよく分からないが、高ければ高いほどいいんニャとユナは言っていた。

どっちみち金は使い切らないほど持て余していた。ユナの爆弾を一個売るだけで目を剥くほどの大金が入ってくる。

それはユナの作る爆弾の精度は勿論のこと、「ボマーキャット」というブランド性によるものが強かった。

誰が何人殺しても、それを上回る規模の爆弾を仕掛けて証拠を隠滅する。そして、犯行を「ボマーキャット」によるものに見せかける。

木を隠すなら森の中、死体を隠すなら死体の山の中だ。そもそも爆心地ならば死体は跡形も残らず、死因すら特定されない。

無論、非道なやり口ではある。カナヤだって分かっている。一回の爆発で、隠す死体よりも多くの人間が無差別に死ぬ。その中には何の罪のない子どもや善人だってたくさん居るだろう。

しかしカナヤは爆弾を殺人鬼や殺し屋に売り捌き続けた。

八年前、会社のビルから飛び降りようとしたカナヤを止めたのはまだ幼いユナだった。

「どーせ死ぬならその命ちょうだいニャ」

紅葉の葉のような小さな手のひらを差し出し、ユナは微笑んだ。あの時カナヤは自暴自棄になっていて、確かにどうせ死ぬならこのガキに命を使ってやってもいいかと思ったのだ。

そう、ユナの仕掛けた爆弾により働いていたビルが爆発し音を立てて崩れていったあの時、カナヤは全てをユナに渡した。それを突き返してきたのはユナ自身だ。だから自分だって第二……いや、第三の人生を生きていいはずだと自分に言い聞かせた。

自室のソファに置きっぱなしになっていたぬいぐるみ──ボムボムくんをふと手に取る。

なんとなく違和感が胸を掠めた。ユナはいつも肌身離さずこれを持っていたのに、餞別だからとわざわざ一番お気に入りのこれを自分に渡すだろうか?あの我儘で横暴なユナが……?

爆弾でも仕込んでいるのではないかと不安になり、ボムボムくんの背中のチャックに手をかけた。ユナの作るぬいぐるみには全て背中にチャックがあり、中に物を入れることが出来る。大体は警察に宛てた犯行声明などを仕込むのだが……。

チャックを開けると、中には通帳が入っていた。拍子抜けしてカナヤは肩の力を抜く。

────なんだ、ユナの通帳か。

多分ユナが通帳を抜き忘れたのだろう。

ユナとカナヤの取り分は半々だ。自分はただの仲介人だから半々では取り分が大きすぎるとユナに何度も言ったが、そこは頑なに譲ってくれなかった。

ぱらぱらと中身を捲って────動きを止めた。数千円の支出はあるが、ほとんど金が出ていっていない。特にここ二年ほどは稼いだ分がほぼ全てそっくりそのまま残っている。

ユナは浪費癖がある。急に大きなソファを何台も買ったり、弾けもしないのにグランドピアノを注文したりする。それが、この二年全く動きがない。

カナヤはぬいぐるみの中をもう一度漁った。奥の方にカサリと小さな丸まった紙が手に触れる。

心臓がバクバクと耳障りな音を立てている。

しわくちゃになっている紙を指で伸ばすと、ノートの切れ端らしきそれには拙い筆跡の数字の羅列と「カナヤがつかえ」という言葉が書いてあった。数字は通帳の暗証番号なのだろう。

「……ユナ……」

それはまるで遺言だった。金も手切れ金と言うよりこれでは遺産だ。

嫌な予感がした。カナヤは震える手でユナのスマートフォンに電話をかけた。しかし、着信拒否されているのか電話は繋がらなかった。

ユナの行き先に心当たりは無かった。彼の家族の話をあえて尋ねないようにしてきたことを後悔していた。

「別に悪い人たちじゃないけどニャー」

自分の家族について、ユナは以前そう言っていた。

「ユナはちょっとフツーの人間とは合わなすぎて、家族に馴染めなかったんニャ」

小学六年生にしては悟りすぎだと思ったが、確かにユナは変わり者だったし、人として最低限の倫理観を持ち合わせていなかった。虫の脚を千切って笑う幼い子どもとは訳が違う。もっと根源的に人間らしくない面があった。

情がない訳ではなかったが、猫が好きで心から可愛がるのに、その猫が目の前で死んでしまっても全く気にしないような希薄さを持っていた。

だからこそ全財産をカナヤに全て渡すようなユナの行動の理由がわからなかった。ただ、ユナは死ぬつもりなのではないかという予感だけを抱いていた。

その場に座り込み、ぬいぐるみを胸に抱きしめた。

猫は死期を悟ると人間の前から姿を消すと言う。それは実際には防衛本能であったり静かな場所で回復を試みるためだと聞くが、ユナの行動はまるで死に場所探しだ。

カナヤはスマートフォンを取り出すと、ある人物に電話をかけた。

「……鷺原さぎはらさん?至急調べて欲しいことがある」

「これはこれは九鼓様。至急となると当日中でしょうか?その場合少し色をつけていただくことになりますが」

鷺原は慇懃な口調でそう告げた。がめつい男ではあるが、信頼出来る腕のいい情報屋だ。

「そんなもんはいくらでも払ってやる。相棒の……ユナの居場所が知りたいんだ。なるべく早く頼む」

「承知しました、ユナ様の現在位置ですね。すぐにお調べしますよ。分かり次第折り返しご連絡いたします」

「恩に着る」

カナヤは電話を切って、すぐ側にあったソファに腰掛けた。ユナのぬいぐるみを手に抱いたまま祈るように俯く。

────全部やる。独りで暗く静かな場所を選ばずとも、お前が死んでしまう最後の一秒まで俺は全てを捧げてやる。




和美は梔子市の大学病院にいた。

朝、那由多は目を覚まさなかった。青い顔で全身に汗をかき、苦しげに呻くだけで呼び掛けにも応答がない。

すぐに救急車を呼んで病院に行くとここでは診きれないと言われ、大学病院へと移された。

「脳腫瘍です。原発性なので転移はありませんが、かなり大きくなっています」

若い男性医師の淡路島あわじしまは淡々とそう告げた。和美は泣きながら顔を覆った。

「なんで那由多がこんな目に……」

「手術で何とかなるんですよね?」

和美の背中を摩りながら昭次が尋ねると、医師は表情を曇らせた。

「……那由多さんは運動野────手足の動きに関与する部位にかなり近い場所に腫瘍があります。摘出は可能ですがかなり慎重を要します。重い後遺症が残る可能性も……」

「そんな……!」

「……現在当病院に脳外科医はいません。他病院から来てもらって今日中に手術を行います」

医師は俯き、少し声のトーンを落とした。

「二年前までは脳外科に国内でも名医と名高い先生がいたのですが……急に辞めてしまって、今どこにいるかも分からないのです」

医師の説明を受けた後、和美は病室で青白い顔で眠る那由多の手を握りながら祈った。

────どうか息子を助けて。誰でもいい。この子が助かるなら何だってする。



「ちょっと……!なんですか貴方!」

病室の外から看護師の叫び声が聞こえた。バタバタと走るような音が響く。喧嘩か何かだろうか。

「ユナ!」

突然病室の扉が開いて、大柄な男が駆け込んできた。男性警備員二人が必死で男の腕を掴んでいるが、彼はそれを振り払いながらユナの眠るベッドの前に跪いた。

「ユナ……!おい、一体どうしちまったんだよ!」

「誰か!警察呼んで!」

看護師が叫んだ。男は金髪を後ろに撫で付け、黒いスーツにサングラスという堅気らしくない出で立ちだった。

しかしサングラスの下から滂沱のごとく流れ出しているのが涙であることに気付き、和美は咄嗟に看護師を止めた。

「待って、この人は親戚です!警察は呼ばないで!」

看護師は訝しげな様子だったが、男に病院で騒がないようにと厳重注意だけして去っていった。



男は高そうなスーツが汚れるのも厭わず地面に膝をつけ、和美が座っているのとは反対側のユナの手を握った。

「俺がついていなかったから……こんな……」

男はサングラスを上にずらしては溢れてくる涙をスーツの袖で何度も拭った。

昭次が気まずそうに男をチラチラと見ながら和美に声をかけた。

「……で?彼は本当は那由多の何なんだ?」

「……知らない」

和美は首を横に振った。

「でも多分……那由多に悪いことをする人じゃない……でしょ?」

顔を上げて男を見つめると、彼は強面に鼻水を啜りながらうなずいた。和美は言葉を続けた。

「この子、脳腫瘍らしいの。手術するにも腕のいい先生が居なくて、後遺症が残るかもって」

男は和美の言葉を聞いて、困惑した様子で顎に手を当てた。

「脳腫瘍……?体もきつかっただろうに、なぜ病院に行かなかったんだ」

「分からないわ……私、昔からこの子の考えることが分からないの」

和美は那由多の手を握ったまま俯いた。

「私たちじゃこの子の考えてることを分かってあげられない。十分に理解して愛してあげられなかった。家族なのに、私は母親なのに……」

「……こいつはただのガキでしかない。我儘で横暴で癇癪持ちで、性格の悪くて倫理観の無いガキンチョだ。ただそれだけだ」

男は立ち上がり、乱れていたスーツの裾を直した。その目にはもう涙はなかった。

「だから────お母さんはすげえと思うぜ。こんな我儘なガキを十二年も育てたんだからな」

「……どこに行くの?」

男は病室のドアに手を掛けたまま振り返った。

「有能な脳外科医なら一人アテがある。多分日本に戻ってきてるはずだから、そいつを呼ぶ。……待て、病院の廊下は電話禁止か?」

明らかに粗暴そうなのに見た目にそぐわずまともな感性の男だ。昭次が困惑気味に男を手招きした。

「今私たちしかいないので、ここで電話していいですよ」

「……そうか。すまないな」

男は部屋の隅に屈んで小声で誰かに電話をかけ始めた。

ヤクザというよりサラリーマンのような腰の低いその姿を見て、和美と昭次はきょとんとして顔を見合せた。



男が電話をかけて三十分もしないうちに、今度は金髪の若い男が病室を訪れた。

サングラスの男の明らかにブリーチした髪と違い、若い男の髪は外国人のような自然なホワイトブロンドだった。彼は夫婦に笑顔で挨拶をし、伊妻いづまと名乗った。

「脳腫瘍なんだ。先生、何とかなるか」

「そりゃ何とかするけど、カルテ見ると結構大きいね。淡路島くんも言ってたと思うけど運動野に近いから、少し長い手術になるよ」

その淡路島は、キラキラと羨望の眼差しで伊妻を見つめていた。

「伊妻先生が梔子に戻ってきてくださるなんて……!」

「いやータイミングいいねえ。つい一昨日パートナーと日本に戻ったんだよ」

まさか式挙げて三日後に緊急オペとは思わなかったけど、と伊妻は苦笑した。その左手には銀色の指輪が光っている。

「一刻を争うからもう準備するね。その子意識無いけど声は聞こえてるかもしれないから、手術の前に声掛けてあげて」

伊妻の言葉に和美と昭次は那由多の手を握り直した。

「那由多、手術がんばってね」

「元気になるんだぞ」

和美は男を引っ張ってきて那由多の傍に座らせた。

「あなたも、ほら。何か声をかけてあげて」

「あ……ユナ……俺は、」

男はまた涙を滲ませ、ずびずびと鼻を啜った。

「何でもするから戻ってきてくれ」


那由多の手術は五時間に及んだ。後から淡路島が鼻息荒く説明していたが、あの腫瘍なら五時間でも早い方らしい。

那由多は思ったより早く目を覚まし、「頭が痛い」と険しい顔をした。そして号泣するカナヤを見て更に顔を顰めた。

「なんでカナヤがいるんニャ?」

「馬鹿野郎!馬鹿……本当に馬鹿……うう……ッ」

カナヤの手を振り払う元気は無いのか、呆れ顔で那由多は病室の天井を見上げた。

「おかーさんとおとーさんにメイワク掛けまくりだニャ……」

「そんなの気にすることないわ」

和美は那由多の頬にそっと手を添えた。

「だってあなたは私たちの大切な息子なんだから」

「そうだぞ。気なんて使わずに自分が元気になることを考えなさい」

那由多は困ったように眉を下げた。

「おかーさん、おとーさん、ごめんなさいニャ。那由多、おかーさんとおとーさんが那由多のこと愛そうとしてくれてるのは分かってたニャ。でも那由多はこんなのだから、おかーさんとおとーさんにこれからもいっぱいイゴコチ悪くて嫌な思いさせるニャ」

「そんなこと……」

「カナヤは那由多の……ユナのしもべだから、いっぱい嫌な思いさせてもいいニャ。ユナは退院したらまたコイツと暮らすニャ」

昭次が何か言おうとするのを和美は手で制した。目に涙をいっぱい溜めたまま和美はうなずいた。

「たまには……遊びに来て。その人も一緒にね」

母の言葉に、那由多は肯定も否定もせずに目を細めて微笑んだ。多分退院したらもう二度と那由多には会えないだろうと和美は分かっていた。しかし何も言わず、ただ息子を抱きしめた。



次の日、那由多は病院から忽然と姿を消してしまった。伊妻というあの医師もまた連絡が取れなくなったと淡路島が嘆いていた。

和美は病室の喧騒を遠くに感じながら、自分はもう夜に独りで泣いたりしないんだろうなと苦笑した。



「暇だニャー、お外に出たいニャー」

自宅のベッドの上でユナはぐちぐちと文句を言い続けていた。伊妻は特にそれを意に介さずユナの点滴を取り替えている。

カナヤはベッド脇に座って読んでいた本を閉じた。

「だぁーっもう、ニャーニャーうるせえなあ。まだ外に出れる状態じゃねえって先生も言ってるだろ」

「お外出たいニャー、公園行きたいニャー、滑り台で遊びたいニャー」

退屈故に延々と喋り続けるユナに辟易し、カナヤはため息をついた。

「元気になったらな」

「二週間は安静にね。その後また診に来るけど、公園で走り回れるのはもっと後かな」

伊妻は鎮痛剤をカナヤに手渡し、白衣を脱いだ。

「朝夕の食後にそれ飲ませてあげてね。俺は今日は帰るよ」

「先生、しばらく日本にいるんだよな?」

伊妻は薄手のチェスターコートを羽織りながらうなずいた。

「日本っていうか多分ずっとこの梔子にいるよ。パートナーが長期の海外旅行に疲れ気味だし、日本を離れる原因になった問題もいつの間にか片付いていたから」

「病院には戻らないのか」

「うーん、戻らないかな。もうまともに社会に溶け込む必要が無くなったからね。そうだな……闇医者にでもなろうかな?」

へらへらと笑って伊妻はそう言うと、道具の入ったジュラルミンケースを手に取った。わざわざ医者から闇医者になるというのもおかしな話だが、社会生活の煩わしさについてはカナヤも痛いほど痛感していた。

「そうか。今度都の奴も誘って三人で飲もうぜ」

「エーッ?都ちゃん俺の事嫌ってるもんなあ。まあ考えとくよ」

伊妻を玄関まで見送ってから、カナヤはユナの部屋に戻った。ベッド脇の椅子に座り、神妙な面持ちでユナの顔を見る。

「ひとつだけ聞きたいんだが、お前さんなんで自覚症状が出た時に病院に行かなかった?」

ユナは眉を下げ、恥ずかしそうに笑った。

「実はずーっと前に一人で行ったニャ」

「一人で病院に!?」

カナヤは自分で聞いておいて驚愕し目を見開いた。病院嫌いのユナがまさかいつの間にか一人で受診していたとは。

「病院のセンセに言われたんニャ。頭のシュヨーがうんどーや?ってところに近くて、テキシュツしても手が動かなくなったり目が見えなくなるかもって」

ユナは自らの手を握ったり開いたりした。伊妻のおかげで後遺症は残らなかったが、他の医師なら駄目だったかもしれない。

「爆弾作れないユナに価値なんてないだろー」

「何馬鹿なこと言ってるんだ」

カナヤは呆れ返った。そんな理由で大病を黙っていたなんて、本当にどこまでも子どもだ。

「その時は俺が働いて養ってやる」

「カナヤが?シャチクが嫌でユナのしもべになったくせに」

くすくすとユナが肩を揺らして笑う。

カナヤはまた泣きそうになるのを堪え、ユナの細い体をきつく抱きしめた。

「そうだ。俺はお前の下僕しもべだから、お前が望むならなんでもやってやる。病気だって治せる医者を呼んでやっただろうが。だから勝手に居なくなるんじゃねえぞ」

ユナは返事をしなかった。代わりにカナヤの分厚い胸板に体重を預けて目を閉じた。




一か月後、カナヤは再び喫茶「やましぎ」を訪れていた。以前と同じ長い沈黙がカナヤと奈波の間に流れている。

「……答えは出た?」

奈波はテーブルに頬杖をつき、コーヒーにミルクを注いでいる。カナヤは顔を上げて口を開きかけ、また閉じた。少し逡巡し、意を決して再び口を開く。

「……一緒にはなれない」

「……そっか」

奈波は思ったより動揺しなかった。少し悲しげに瞼を伏せただけで、まるでカナヤが何と言うか分かっているかのようだった。

「……もっと怒っていい」

「なぜ?私は答えを頂戴と言って、あなたは一か月待ってくれと言った。そしてちょうど約束の日時に答えをくれたでしょう」

「君の一か月を無駄にした」

深刻な面持ちでそう告げると、奈波は堪えきれないとでも言う風に噴き出した。

「あなた馬鹿なの?ラブレターの返事を待つ女子高生じゃないんだから、一か月間ずっとソワソワしながらあなたのことだけ考えてたわけじゃないよ」

「……そう、か……」

「私猟銃の資格を取ろうと思ってるの」

唐突に話題が変わり、カナヤは目を丸くした。

奈波はアーモンド型の瞳をきらきらと輝かせた。

「ジビエ料理に興味があって。そう、だから猪を捌くのも練習するつもり。あとヨットも操縦してみたくて……スカイダイビングもまだやったことない。ああ、そういえばあなたは高所恐怖症だったよね」

「つ、つまりどういうことだ」

奈波は満面の笑みでカナヤの手をぎゅっと握った。

「私にはやりたいことがいーっぱいあって、あなたに会うのもそのひとつだったってことよ」

若い頃よりも奈波は強くなっていた。そして何倍も美しかった。カナヤは奈波の手を握り返した。

「……会いに来てくれてありがとう」

「こちらこそ、考えてくれてありがとう。そろそろ行くわ。午後からベリーダンスのレッスンがあるの」

奈波は会計の札を持つと立ち上がった。

「俺が払うよ」

「いいよ、このくらい奢らせて。……そう、ここの喫茶店のプリン、固めですごく美味しいのよ。あなたも今度食べてみるといいわ」

奈波はにこりと笑うと、会計をしてさっさと喫茶店から出ていった。

カナヤは少し思案して、喫茶店のマスターに声をかけた。

「……あのー、プリンって持ち帰りできますかね?二つ欲しいんだけど」

喫茶店の窓の外、初夏の陽射しの中をピカピカのランドセルを背負った小学生たちが跳ねるようにして駆けていった。



(終)



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