まだ何も起こらない冬達の話




「ここに滞在する間、この子の世話を頼むよ」

主人はにこやかにそう言うと、手を引いていた幼い子どもの背中を押した。

「いいかいお嬢さん、この人はシダという。困ったことがあったら彼に言いなさい」

薄汚れた野良猫のような子どもは、主人がお嬢さんと言ったからにはまあ女の子なのかな、と納得する程度にしか肉が付いておらず、長い茶色の髪もボサボサで所々固まって白くなっていた。

「……御大……こいつァどこで拾ったんです」

「紫田、お嬢さんをお風呂に入れてから何かご飯を食べさせてあげてくれ。洋服も新しいものを。彼女は日本に連れて帰るから」

「……まあ……御大が答えたくないならいいですけどね……」

紫田は口に咥えていた煙草を灰皿に押し付けるべきなのか、それともこのまま吸っていていいのか悩んだ。しかし主人がその後特に何も言わずに午後の公務へと向かってしまったので、煙草の火はもう少しだけ生き長らえることとなった。

「スィー、ダァ」

子どもは首を傾げながら何やらそう言った。白人かもしれないが、それにしても肌が青白い。まるでずっと地下にでも閉じ込められていたかのようだ。

「スィー、ダァ?」

ああ、俺を呼んでいるのか。ソファにふんぞり返ったまま、煙草の灰を灰皿に落とす。

「し、だ、さ、ん」

「スィー、ダァ、サン?」

「“see”じゃねえ、しー。“she”の発音だ、わかるか?……チッめんどくせえ、why don't you speak English?」

「アー……ウウン……」

少女は困惑気味に俯いた。主人が日本語で話しかけていたから日本語も分かるのだろうが、英語の方が聞き取りやすいのではと英語に切り替えてもどうにも要領を得ない。

「この一本を吸い終わるまで手前の風呂は待ってろ」

「シー、ダ、サン……」

「…………」

「シーダ、サン」

スーツの裾を握ってしきりに揺さぶられる。紫田が舌打ちをして立ち上がると、子どもは怯えたようにびくりと肩を震わせ、頭を押さえて座り込んだ。

「なんだ、俺がガキを殴るように見えるか?」

「…………」

「どう考えてもそう見えるか。ほら、これ食って大人しく待ってろ」

ポケットから禁煙用のミント飴を取り出し、個包装の袋を破って手に握らせる。御大からかなり前に禁煙を命じられて買ったものの、不味くて一度しか食べていない。

「食え。eat、わかるか?」

「あー、ウン」

ぱくりと飴を口に入れると、少女はようやく静かになって、ソファの下の床へと座った。痩けた頬が飴の分だけ僅かに膨らみ、カラコロと口の中でそれを転がす音だけが聞こえてくる。

紫田はしばらくラッキーストライクの煙がふわりと立ち上って天井に染み込んでいくのを眺めていたが、睡魔に襲われて目を閉じた。


「シーダ……サン?」

ぐうぐうと鼾をかき眠っている男を見て、少女は首を傾げた。

少女を連れてきた老人は優しかった。あの恐ろしい地下室で自分を見張っていた男たちが皆血を流して倒れた時は自分も死ぬのだと思ったが、老人は笑顔で少女を抱き上げてここまで連れてきてくれた。

シダサン、も多分怖い人ではないと思う。体は大きくて髭が生えているところは少し恐ろしいが、口の中がスースーする面白い飴をくれたし、自分のことを殴らなかった。

少女はひもじさで自分の親指を咥えながら、もう片方の手で眠っている紫田を揺さぶった。

「シダサン、candy…」

「ううん……律子ぉ?お前も寝るか……」

寝惚けた紫田は情婦の名を呼ぶと、少女をひょいと持ち上げて胸に抱いた。

「痩せた……?まあ……いいか……」

少女は紫田の胸の上に乗る形で抱きしめられ、動けなくなった。話しかけても押しても引いても、紫田はビクともしない。

もう一つ飴が欲しかっただけなのに。紫田は起きないしお腹は空いたし、少女は困ってしまった。

でも彼の体は硬い地下室の床とは違って温かくて、人肌に初めて包まれた彼女の瞼は徐々に重くなっていき、やがて紫田に体を預けたまま完全に目を閉じた。



2時間後、命じたはずの少女の世話を何一つせずに爆睡する紫田とその胸の上で子猫のように眠っている少女を見た主人は、そのヘーゼル色の瞳を静かに伏せると呆れ果てて大きなため息をついた。



(終)



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