花が、燃えている。
りんどうの花が。
どうしさまは笑って、教会に火をつけた。
島の人たちがみんな燃えた。
みんな泣きさけんでいた。
教会のとびらはひらかなかった。
どうしさまだけが笑っていた。すごくうれしそうで、でも笑いながら泣いていた。
ぼくは屋根うらのまどからいっしょうけんめい外に出て、教会の外の固い地面に落ちた。
教会の外がわも、りんどうのかだんがぐるっと教会をかこむように燃えていた。
れうじえんさまがここにいれば、きっとみんなを助けてくれたのに。
ぼくのせいでれうじえんさまはあくまに連れていかれた。
れうじえんさま、ごめんなさい。
十年後 二月七日 かけす書房本社
「柊野先生が顔出ししたら絶対ウケると思うんですよねえ」
十三回目。今日、その台詞を長曾根が吐くのはこの瞬間で十三回目になる。作家である 柊野 哉太 は前の十二回と同じように首を横に振った。
「顔出しはしません。何度も申し上げているが、私には顔や本名を公表できない事情があるのです」
「でもせっかくのビジュアルを活かさないのはもったいないと思うんですよ。きっと女性ファンがたくさんつきますよ」
この膠着状態がもう一時間近く続いている。柊野の露骨にうんざりした顔つきにも関わらず、長曾根は一歩も引く様子がない。今日は頷くまで帰さないぞという気概を感じる。
「『貝殻の街』は顔出し無しでも三十万部!児童書としては異例の大ヒットなんですよ。顔も出せば次作は五十万部も狙えます。その眼帯のことを気にしているのなら、逆にキャラ立ちしていて悪くないかと────」
「アカゲラ出版、青燕文庫、まがもブックス、小雀社」
柊野が突然口にした社名の羅列に長曾根は目を瞬かせた。
「……はい?」
「ウチでも書いてくれ、と打診を受けている出版社です。私は担当の七星くんを気に入っているから御社を選んでいるだけですが────長曾根さんがあまり顔出しに固執するなら今後は他社も検討します」
柊野はそう言うと、溜息をつきながら椅子から立ち上がった。眼帯をしていない右の目がジロリと長曾根を睨みつける。
長曾根は慌てて立ち上がり、柊野の肩を掴んだ。
「わ、わかりました!もう二度と言いません!なのでぜひ今後も我がかけす書房で書いていただけると……」
柊野はにっこりと笑うと、笑顔のまま長曾根の手を振り払った。
「そう言っていただけると助かります。それでは」
────顔出しなんて出来るわけないだろう。
柊野哉太────もとい、菰野乃木佳史は街中を歩きながら今日何度目になるかも分からない溜息をついていた。
菰野乃木は殺人鬼だ。そして色々と事情があり、今は崩壊しているとはいえとある新興宗教団体の御神体扱いなのである。顔を公にするリスクは計り知れない。
ふとデパートのショーウィンドウに映る自分の姿を眺める。菰野乃木には正直人の顔面の善し悪しはよく分からない。恋人の伊妻は菰野乃木の容姿をよく褒めてくれるが、それは彼が菰野乃木を愛しているからだろう。
そもそも自分のように眼帯を着けている人間は一般人から見て奇異なものなのではないのだろうか。特に児童文学を生業にしているのだから、優しげとは到底言い難い自分の姿を晒すことで子どもを怯えさせるような真似はしたくなかった。
菰野乃木は小さな子どもをとても好いている。幼子は純粋に言動が無垢で可愛い。子どもに共通した小さな頭、目が大きく顔のパーツが求心がちな構造も、おそらく種の存続のためだろうが非常に庇護欲を誘う見た目をしている。
菰野乃木にとって小さな子どもは食肉というよりは愛玩用の小動物のような存在だった。成長して可愛くなくなってしまえば躊躇いなく食べるが、小さいうちは罪悪感が芽生えるし可食部位が少ないので自分から殺して食う気はない。
彼は溜息を一つ零すと、ガラス窓に映る自分の姿から顔を背けた。
菰野乃木の自宅は梔子市の南に位置する金垂町にある。駅に近い『鈴木』のマンションとは異なり、ベッドタウンの閑静な場所にある一戸建ての中古物件を数年前に自身の名義で購入した。小さな庭付きで、家自体は別段大きくないが全体的に天井が高いため、毎回屈まずともドアに頭をぶつけなくて済む点が特に気に入っている。
菰野乃木が上着を脱ぎリビングへと入ると、伊妻はスクラブの上に白衣を着たままリビングのソファに寝転がってうたた寝をしていた。菰野乃木は小さく笑って、寝てる間に蹴たくったのか床に丸まって落ちているブランケットを広げ、掛け直してやる。
現在、伊妻は表向きは医者を辞め無職である。ただ、相変わらず医療行為を行って収入は得ている。所謂「闇医者」というやつだ。郊外にある『田中』の一軒家を改造し、現在はそこに医療機器などを置いて依頼があった際に外科手術を行っている。
今日も午前にオペが入っていると言っていたので、家に帰ってきた後に疲れて眠ってしまったのだろう。
伊妻が眠っている間にシャワーを浴びて一通りの準備をした後、食事の支度へと取り掛かった。といっても伊妻の分は作り置きしておいたビーフシチューで、自分の分は昨日殺して血抜きした男の大腿部の生肉である。
「……冬吾、夕飯ができたぞ」
すやすやと眠るその肩を軽く揺する。ううん、と唸り、伊妻は薄らと瞼を開けた。その目に恋人の姿を認め、ふにゃりと笑う。
「あぁ、おかえりぃ。少し仮眠するつもりがすげー寝ちゃってた……今何時?」
「十九時。飯の前にシャワー浴びるか?湯に浸かりたかったら風呂も沸かすから……」
伊妻は菰野乃木の手を取り、自分の方へ引き寄せた。そのまま抱き締められて、菰野乃木は苦笑する。
「なんだ、甘えん坊か?」
「うん……佳史はもう浴びてきたの?少し体が温かいね……」
首筋に伊妻の唇が触れる。かと思うと軽く歯を立てられ、思わず小さく息を詰める。
「おい、先に飯……」
「んー、ちょっとだけ……明日ふたりとも休みだし……」
唇を当てたままきつく吸われ、青白い鎖骨の上に赤く痕が残る。それを見て伊妻は満足気に笑みを深めた。相変わらず独占欲の強い男だ。
「ねー、どうせ準備したんでしょ」
「……した」
菰野乃木はすぐに食事を摂ることを諦め、自分もソファの上に上がると伊妻に体重を掛けて抱きついた。
「あ、」
服の下の素肌に指で触れられ、吐息が零れる。唇同士の触れ合う感触に期待で胸が高鳴るも、伊妻は焦らすように触れるだけのキスを何度も与えてくるだけで、手も背中に添えられたまま動かない。
「冬吾、」
「んー?」
甘やかすように髪の上から項を撫でられ、ひく、と喉が引き攣る。これでは生殺しだ。もっと噛み付いて、血が滲むようなキスをしてほしい。
「何が欲しいか言ってごらん」
「ッ……親父臭いぞ、その言い方は……」
「年齢的にはオヤジだもーん」
くすくすと笑いながら長い指が腰の曲線をなぞる。乱れそうになる呼吸を必死で堪えながら、伊妻の下唇に噛み付いた。
ぷつり、と皮膚繊維が裂ける音と共に伊妻の血の味が口の中に広がる。溢れる血液を舐め取り、薄く開かれた唇を割って口内に侵入するとようやく項に触れたままだった手が首筋に移動した。そのまま両手で首を掴まれ、体勢を入れ替えるようにしてソファに押し倒される。
「ん、ッ……もっと……キスしてほしい……」
「ふふ、ちゃんと言えていい子だねえ」
唇を塞がれたまま首を軽く絞められ、酸欠で視界がかすむ。舌を絡め取られ、甘美な唾液の味に酔う。
しかし、溶け出した意識を現実に引き戻すように、急に玄関のインターホンが鳴った。
「……あー、いいとこだったのにさあ」
伊妻はうんざりした様子で菰野乃木の体を離した。
「俺が出ようか」
「いや、お前は待ってて」
情事の最中の蕩け切った恋人の顔を他人に見られるわけにはいかない。伊妻は立ち上がろうとする菰野乃木を座らせ、自分でインターホンのモニターを覗いた。
「どちら様ですか」
『あっ、夜分に申し訳ありません。私三丁目に住む瀬野と申しますー』
「……それで?」
瀬野と名乗った女は伊妻の冷淡な物言いにも動じず言葉を続けた。
『ちょっと短時間でいいのでお話をさせていただきたいんですが、よろしいでしょうか?』
「すみません、興味無いんで」
『あ、ではパンフレットだけ……郵便受けに入れておきますので』
「いや要らな……え、ちょっと……」
女は伊妻の制止を無視して何かの冊子を郵便受けに押し込むと、足早に去っていった。
「……話したいとか言う割にこっちの話は聞かないなあ」
「そういうものだろう、押し売りというのは」
菰野乃木も苦笑する。伊妻は渋々玄関に出て、郵便受けからパンフレットを回収してきた。
「────『花園の民』……花園?」
表紙に大きくプリントされた言葉を見て、伊妻は顔を顰めた。
「ねえ、これまさか『ルライの園』関係ないよね?」
伊妻は汚いものでも持つようにパンフレットの端を指先で摘んでリビングまで戻った。菰野乃木は伊妻から冊子を受け取り、同じように渋面を作る。
「後継団体の可能性があるな……そういえば元導師の塚本深景はまだ行方知れずだったはずだ」
「あー、ルライの園の女幹部ね」
伊妻は嫌悪感を露わにそう吐き捨てる。直接会ったことはないが、伊妻はずっと塚本が苦手だ。なんとなく彼女の言動について聞いていると菰野乃木への並々ならぬ執着を感じるのだ。
「……ふむ、少し有識者に話を聞いてみるか」
「有識者って……もしかして元教祖の?」
菰野乃木はこくりと頷いた。
「日高さんなら何か知っているかもしれない」
二月八日 かけす書房本社
翌日、菰野乃木は伊妻と共に再びかけす書房の本社を訪れた。今回は長曾根ではなく担当編集の七星が応対してくれた。
「珍しいですね、ご友人を連れてくるの!」
応接室で伊妻と菰野乃木の前に茶を置きながら彼女は微笑んだ。
「友人じゃない」
「エーッ?まあそうだけど」
菰野乃木の淡々とした否定の言葉に伊妻はやけに嬉しそうな顔をした。何だか恋人同士のいちゃつきを見せられているような気分になり、七星は目を瞬かせた。
「……それで柊野先生、今日はどうされました?」
「日高さんはいるかな?少し話したいんだ」
「ああ、日高さんなら第三資料室に書類を探しに行ってます!お呼びしましょうか?」
菰野乃木は伊妻と目配せをして、首を横に振った。
「いや、第三資料室なら場所もわかるから直接伺うよ。ありがとう、七星くん」
第三資料室は地下にある。第一、第二よりも年度が古いものは大体その場所にあり、時代を辿るとかけす書房が創業した昭和初期の資料もあるらしい。
古い出版物なども読めるため、菰野乃木も何度か頼んで資料室の中に入れてもらったことがある。多少黴臭いものの、その不快感を凌駕するほど貴重な絶版本や初版本の宝庫でもあるので、五時間居座って七星に苦言を呈されたのはいい思い出である。
重い金属製の扉を開けると、彼は部屋の一番奥の棚に向かい合って脚立に座り作業をしていた。
「日高さん」
声をかけると、灰色の髪をした老年の男────日高暁はゆっくりと振り向き、菰野乃木の顔を見て相好を崩した。
「これはこれは菰野乃木さん。……おや珍しい、伊妻先生もいらっしゃるとは」
「やめてくださいよ“先生”ってのは。表向きはもう医者じゃないし」
伊妻は悴んだ鼻を指先で擦った。地下室は外のような冷たい風こそないものの、空気がひんやりとしていて肌寒い。
「ふふ、そうでしたね」
「仕事の調子はどうだ?」
「お陰様で。皆さん優しいですし仕事も楽しいです」
暁は菰野乃木の紹介で現在かけす書房の事務員として働いている。数年前に偶然街で再会してから諸事情あり、現在は奇しくも友人のような関係になっている。
「それで、何か私に御用があっていらしたのでしょう?」
「少し話を聞きたいことがある」
菰野乃木の神妙な面持ちに暁は掛けていた老眼鏡を外した。
「……と申しますと、やはり『花園の民』のお話でしょうか?」
暁は脚立から降りると壁に立てかけてあったパイプ椅子をふたつ引っ張ってきて置き、伊妻と菰野乃木に座るように促した。
「私も鉾良から聞いて先日初めて知りました。まだ詳しい情報は分からないのですが、どうやら『花園の民』自体は最近動き始めたばかりの組織のようです」
「やはりルライの後継か?……これが郵便受けに入れられていたパンフレットだ」
暁は菰野乃木から手渡された『花園の民』のパンフレットを受け取ると、老眼鏡をかけ直してぱらぱらと冊子をめくった。
「────ふむ。謳っている内容自体はルライの園と酷似しています。恐らく教義も似たようなものでしょう……しかし、教祖の写真らしきものがありませんね。さすがに『大井出朔也』を広告塔に使うのはやめたのでしょうか」
元『大井出朔也』として思うところがあるのか、暁は少し自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「鉾良に詳しく調べるように頼みましょうか?」
鉾良は現在情報屋の鷺原の下で部下として働いている。無論彼は情報屋としては優秀だが、菰野乃木は首を横に振った。
「いや、あなたと鉾良さんはなるべく関わらない方がいい」
伊妻もそれに同調する。
「そうそう、元ルライの幹部となれば日高さんも鉾良さんも狙われるかもしれないでしょ」
「自分たちの身の安全を優先してくれ」
二人の言葉に暁はばつがわるそうに眉を下げた。
「ありがとうございます。……お二人もどうかお気を付けて。特に菰野乃木さんは……ルライの後継団体だとすると、おそらく貴方の身柄を欲しがるでしょうから」
「『花園の民』の目的が分からない」
かけす書房を出た途端菰野乃木はぽつりとそう呟いた。
「俺の身柄がほしいのならばあんな風にパンフレットで存在を知らせてきたのはなぜなんだ」
「なんか、きな臭いよねえ」
かり、と親指の爪に歯を立てた菰野乃木の右手を掴み、伊妻はその掌を軽く握った。
「佳史、爪噛んじゃだめ」
「悪い、つい癖で……」
「苛立つ気持ちはわかるけど、焦ったら相手の思うツボでしょ」
咎めるというより諭すような口調でそう言うと、伊妻はそのまま菰野乃木の手を引いて歩き出した。
「どこに行くんだ?家はあっちだろ」
「少しデートしよう。気分転換」
ふふ、と微笑む伊妻につられ、菰野乃木もようやく表情を緩めた。
「どこに連れていってくれるんだ」
「さあ、どこだろうね」
ぴったりと伊妻にくっつくと、足並みを揃えて歩く。菰野乃木の方が少し歩幅が狭いからか、伊妻は気を使って少しだけ歩を進める速度を緩めた。
暫く商店街を歩いた先で、伊妻が足を止めたのは可愛らしいパステルカラーの看板の店だった。耳のいい菰野乃木は店内から聞こえてくる複数の鳴き声に気付き、その片目を見開く。
「猫か?」
「そう、猫カフェ。予約無しで入れるみたいだから行ってみない?」
「この年齢の男二人が入るところではないんじゃないか」
躊躇っていた菰野乃木だったが、ちょうど掃除に出てきた女性店員に笑顔で「どうぞ」などと促されたせいでそのまま入店することになった。
「ここは保護猫カフェなんです」
案内してくれた女性店員はそう説明した。
「だからあまり人間好きじゃない子も多くて、近寄ってこないかもしれませんが……」
「構いません。見るだけで幸せです」
「猫お好きなんですね」
若い女性店員は菰野乃木の言葉に嬉しそうにそう返すと、二人を店内の席に案内した。
菰野乃木は動物が好きで、なおかつ動物に好かれやすい。伊妻は長年共に過ごしてそれを知っていた。
彼という存在が人間より動物に近いためにシンパシーが生まれるのか、それとも絶対的に食物連鎖の頂点に君臨するから皆従うのかはわからない。ただ、動物の方から菰野乃木に寄ってくるのでどちらかといえば前者なのかもしれない。
最初に菰野乃木の足に擦り寄ってきたのは耳の欠けた三毛猫だった。店員から「相手から近づいてくるようなら触ってもいい」と言われていたため、そっと手を伸ばしてその頭を撫でる。
うるぁ、と甘えるように鳴いて、猫はころりと寝転がり腹を見せた。その姿につられるようにして片目の潰れた黒猫が近寄ってきて、菰野乃木の膝に飛び乗る。
「待て、こっちが先だったぞ」
菰野乃木は戸惑いながら屈んで右手で三毛猫を撫で、左手で黒猫に触れる。黒猫は菰野乃木の手の甲をざりざりと舌で舐めている。そうしている内に、いつの間にか背後から茶トラの小柄な猫が菰野乃木の肩へとよじ登り始めた。
「あは、大モテじゃん」
伊妻は破顔して、スマートフォンを取り出すとその様子を何枚か写真に撮った。
「……すごいですね。ここまで猫に好かれる人見たことないです」
飲み物を持ってきた女性店員は目を丸くした。
「その黒猫ちゃんなんて男の人嫌いで普段は近寄らないんですよ」
「あー、コイツ動物にすごく好かれるんで」
伊妻は横目で菰野乃木を見つつ、飲み物を受け取る。ワンドリンク必須だったのでホットコーヒーを二杯頼んだが、菰野乃木は飲めないので伊妻が二杯とも飲むことになる。
「んふふ、可愛い」
「お連れ様も猫が好きなんですね」
猫と戯れる恋人の姿に目を細めた伊妻に対し、女性店員は勘違いしたままうんうんと頷いた。
一時間半ほど猫カフェを堪能し、二人で外に出たところで菰野乃木の携帯に電話がかかってきた。相手は担当編集の七星だった。
「もしもし、七星くん?どうした?」
『柊野先生の親族を名乗る方がいらっしゃったのですが、柊野先生はいない、と申し上げるとすぐに帰ってしまって……』
「親族?」
菰野乃木は訝しげに眉を顰めた。菰野乃木の親族は叔父一人だが、彼は今海外にいるはずだった。
『先生より少し若い男性だったのですが……ミヤシロ、とだけ名乗っていました』
ミヤシロ。その名前を聞いた途端脳裏に眩い少年の笑みが過ぎる。
「────雪真だ。夕匕尸島の最後の生き残り……御社雪真……」
は、と菰野乃木は自嘲気味に笑った。
『先生?』
「いや、ありがとう七星くん。またその人物が来たら教えてくれ」
────パンフレットをわざわざ寄越したのも、かけす書房を訪ねたのも恐らくは菰野乃木に自身の存在をアピールするためだ。
菰野乃木は電話を切ると、大きく息を吐いた。
「なるほど、会いに来いということか」
「……行かないよね?」
伊妻は不安げに菰野乃木の手を握った。
菰野乃木はその手をしっかりと握り返し、頷いた。
「行かない。少なくとも、お前を置いては絶対に行かない」
「わかった。……ねえ、暫く一人で家から出ないで。俺もなるべく予定合わせるから」
「お前がそれで満足するなら」
菰野乃木はそう言うと、あやすように伊妻の唇に口付けを落とした。道行く通行人が好奇の目で二人をジロジロと見るが、社会的な身分を捨てた二人にとってそれは些末なことだった。
「……寒いから早く帰ろう」
気分が落ち着いたのか伊妻がそう呟いたので、菰野乃木は微笑んで彼の手を引いた。
二月九日 十八時 金垂町 菰野乃木宅
「お誕生日おめでとう!」
食卓につくなり伊妻はそう言って、背後に隠していた小さな袋を取り出した。
「開けて」
菰野乃木はくすりと笑って、綺麗にラッピングされた不織布の袋を開けた。中には赤いベロア調のリボンと金色の鈴が着いた、小さな首輪が一つ入っている。
「……これは?」
「……この前二人で猫カフェに行ったじゃない?それで……佳史さえよければ新しい家族を迎えてもいいんじゃないかって」
躊躇いがちに告げられた伊妻の言葉に、菰野乃木は思わず勢いよく椅子から立ち上がった。
「────いいのか?」
「うん。お前は執筆で家に篭もることも多いし、ずっと動物を飼いたがってたでしょ。いい機会だから俺からのプレゼントにするよ。今回の件が落ち着いたらもう一度あのカフェに行ってどの子にするか選ぼう」
菰野乃木は手の中の小さな首輪を大切そうに胸に抱いた。
「冬吾、ありがとう。この上なく嬉しい贈り物だ」
「今日は猫ちゃんの首輪しか渡せなくて悪いけど……今お迎えすると猫ちゃんも危険だからね」
伊妻は微笑み、菰野乃木の手を握った。
「ああ。……花園の民の件を早く片付けてしまわなければな」
その時、伊妻のスマートフォンが鳴った。思わず顔を見合せ、伊妻は恐る恐る通話ボタンを押す。
『あ、あの!戸籍が無くても診ていただけるお医者様だと聞いたのですが!』
「落ち着いてください、何があったんですか」
『子どもが大怪我をして……来ていただけませんか!』
伊妻は躊躇いがちに菰野乃木の顔を見た。
「……罠かも」
「でも……本当に子どもの患者がいるのなら行くべきだ」
ガシガシと後ろ頭を掻くと、伊妻は壁にかけてあったコートを手に取った。
「わかった。行ってくる。でも佳史、絶対に誰が訪ねてきても出ないで」
菰野乃木は無言で頷いた。伊妻は医療器具の入ったジュラルミンケースを持ち、足早に家を出た。
伊妻が愛車のテメラリオで指定の場所に向かうと、そこは寂れた廃アパートだった。建物には草木が生い茂り、人の気配もない。
────やっぱまずったかもな……。
車に戻ろうとすると、アパートの隙間から生える茂みががさりと動いた。草木の陰から現れた白い服の男たちが四人、伊妻を囲むように立ち塞がる。
「エーッ?これ俺が殺されるヤツ?」
「我らの大義のためだ。悪く思うな」
背後から大柄な男に羽交い締めされ、正面からはナイフを持った男が突進してくる。伊妻は呆れたように目を閉じると、くるりと体を捻って自身を拘束していた男を盾にした。正面の男のナイフは盾にした大柄な男の背に刺さり、そのまま羽交い締めにしていた腕の力が抜けていく。
伊妻は盾にした男をその場に捨て置き、左から鉄パイプを振り上げ向かってきた男の懐に潜り込むと、袖口に隠していたアイスピックをその顎に突き刺した。男の鼻や口からゴボッと濁った音を立てて血が溢れ出す。そのまま数度アイスピックを突き刺してから力の抜けた男の体を蹴り飛ばすと反対側から銃でこちらを狙う男の眉間に向かって引き抜いたアイスピックを投擲する。
アイスピックは眉間から少し逸れ、男の右眼に突き刺さった。男が右目を抑えて蹲っている間に間合いを詰め、まだ深々と目に刺さっているアイスピックを靴裏で蹴って脳天まで貫通させる。
最初にナイフを持っていた男はまだ生きていたが、一部始終を見てその場に腰を抜かしていた。
伊妻は最後に残った男の前に屈み、微笑む。
「さて、君たちに俺を殺すように指示をしたのは誰?」
男はガタガタと震えながら手を合わせ、涙を流した。
「み、みや、御社様です……俺たちはただ、聖女ルライのお告げだと……」
「『花園の民』の本拠地は?御社はどこかな?」
伊妻が血に濡れたアイスピックをチラつかせると男はヒッと悲鳴を上げ、首をぶんぶんと大きく左右に振った。
「公民館を借りてそこで御社様のお話を聞いていたので本拠地がどこかは知りません…!普段の礼拝もビデオ通話によるリモートで……」
「そっか、ありがとう」
伊妻は笑顔のまま男のこめかみにアイスピックを突き刺し、ゆっくりと引き抜くとその場に得物を放り投げた。
駆け足でテメラリオに戻り、スマートフォンをスピーカーモードにして菰野乃木に電話をかけるが繋がらなかった。もう一度。────再び留守電に切り替わる。
「……クソッ……」
伊妻は車のアクセルを踏みしめて、金垂町にある自宅へと向かった。
時刻は戻り、伊妻が出て行って数分後────菰野乃木は食べ終わった後の食器を洗おうとキッチンに運んでいた。
しかし、自宅の外に気配を感じ、食器をシンクに置くと代わりに包丁立てから牛刀を手に取った。
玄関前に二人、庭に三人、反対側の塀の外に三人、いずれも男。金属の擦れるような音がするので、手には何かしらの得物を持っているだろう。
牛刀を逆手に構えたまま部屋の電気を消す。闇夜は菰野乃木の味方だ。だが、どこか違和感が胸をよぎった。
しばらくの沈黙の後、リビングの窓ガラスが割れたかと思うと爆音と激しい光に包まれて菰野乃木はその場に膝をついた。
────スタングレネードか。
ぐわん、と大きく視界が歪む。五感が鋭い菰野乃木にとっては爆音も強い閃光も大敵だ。
割れたガラスを踏みしめて庭にいた三人の男がリビングに入ってくる。用意良く全員が暗視ゴーグルを着けており、更にその内の一人が手に持っているのは散弾銃だ。
こんなところで撃たれてたまるかと菰野乃木は男が引き金に手をかけるより早く間合いを詰め、彼の喉元に牛刀を突き立てた。
ごぼっ、と音を立て血の泡を吹くと、男はその場に崩れ落ちる。倒れた男の隣にいた男がもたもたとナイフを構えようとしている間に心臓を一突きして、すぐに牛刀を引き抜く。三人目は既に小銃の引き金に手をかけていたが、照準を合わせるより前に菰野乃木はその両手首を切り落とした。
三人目の男が悲鳴を上げながらのたうち回る。菰野乃木は強烈な吐き気に息を詰めた。強い耳鳴りと自身の心臓の脈打つ音だけが脳に響く。誰がつけたのか、いつの間にか部屋の電気が明るくなっていた。
「……佳史」
聞こえた声に振り返ると、白む視界の中に父────菰野乃木燈一の顔が映った。
「……おと……う、さん?」
それは父親にそっくりな顔で微笑んだ。菰野乃木は数秒間呆気にとられて凍りついたように動きを止めた。
菰野乃木は父の顔に気を取られ背後から迫っていた男に気付かなかった。頭を押さえつけられ首筋に何か針のようなものを突き立てられたかと思うと、やがてみるみるうちに全身から力が抜けていく。
菰野乃木は意識を完全に失うその瞬間まで、この場にいるはずのない父の顔を見つめ続けた。
(続く)