二月九日 二十二時 『花園の民』本部
人に似て非なる彼に、恋をしていた。あれは初恋だった。
御社雪真は夕匕尸島を出て十年が経った今でも確かにそう断言できる。
当時はその名前も知らなかった彼の、広く大きな背中。筋肉の隆起した逞しい体つきとは裏腹に、病的さすら感じる青白い肌。襟足の長い赤髪は、血を浴びた獣の毛皮にも似ていた。
抱きつく時に彼から漂ってきた、飴を焦がしたような甘い匂いをよく思い出す。彼を感じたくて様々な香水を手に取ってみたが、この十年間それらしい香りには行き当たらなかった。
シルエットは鮮明に浮かぶのにその手には掴めない、まるで真昼のうたた寝で見た夢のような存在だ。
そう、たった一か月程度しかない彼の思い出を、雪真は記憶の引き出しから取り出しては眺め、涙を流した。そして大切にその戸棚にしまい……また取り出しては眺める。もはや壊れた玩具のようなその繰り返しこそが雪真の生活そのものだった。
れうじえん様────あとから知ったが、彼の人間としての名前は『菰野乃木佳史』というらしい。
コノノギケイシ。口に出して名を呟き、奇妙なむず痒さに下唇を噛む。まるで知らない人物のようだ。雪真が好きだったのは『れうじえん様』であって、『菰野乃木佳史』ではなかった。でも彼は今人間に紛れて生活しているのだから、人間としての名前も必要なのかもしれない。洗面所の鏡に映る自分と目が合う。切れ長の瞳と鼻筋の通った整った顔立ちは彼によく似ている。当然だ、この顔は彼の父親である菰野乃木燈一を模倣して造り替えたのだから。
「……本当に菰野乃木燈一に似せる必要があったの?」
鏡に、ドアに寄りかかる妙齢の女が映る。雪真は馬鹿にするように口端を持ち上げた。
「でも、お陰でれうじえん様は一瞬気を取られたでしょ?それで十分だよ」
「……彼が目を覚ましてしまうわ。早く来なさい」
女────塚本はそう言うと、踵を返して洗面所から出て行った。雪真は白い法衣の裾を翻し、その後に続いた。
広い寝室の中央にある無機質な金属製のベッドに菰野乃木は眠っていた。四肢に鉄の枷を嵌められ、鎖で寝台に固定されている。睡眠薬漬けにした人間の血を投与しているので今はかろうじて眠っているが、目を覚ますのも時間の問題だろう。
青白いその頬に触れる。さらりとして、歳の割に柔らかくハリのある肌。吸血鬼が血を飲んで美貌を保つように、彼は人間の血肉を食すことでその若さを維持しているのかもしれない。
雪真は寝台の縁に腰掛け、彼の左目に着けられた黒い眼帯を外した。傷口を焼いて塞いだのか、左目のあった箇所は焼け爛れ、ケロイドで瞼が潰れてしまっている。雪真は慈しむように菰野乃木の左瞼に口付けを落とした。顔を寄せると甘ったるい彼の体の匂いを強く感じて嬉しくなる。
「そういう触れ方はやめて」
塚本は忌々しげに雪真を睨んだ。
「彼は神聖なのよ。安っぽい情欲なんて向けないで」
「そういう塚本はまだ諦めてないの?」
「……何を?」
怪訝な面持ちで眉を顰める塚本に対し、雪真は嘲笑うようにしてニヤリと歯を見せた。
「その歳でまだれうじえん様の子どもを産めるつもりなのかって聞いてんの」
「……私は二十代のうちに卵子凍結をしてるからきっとできるわ」
気丈な口振りでそう言いつつも、塚本は気まずそうに目を泳がせた。
────愚かな女だ。
雪真は内心そう吐き捨てた。塚本は「菰野乃木の子どもを産む」ことを自身の生きる意味だと思い込んでいる。既に亡き彼女の父の命令に、未だに従順に従っているのだ。
何にせよ、雪真は塚本にその権利を与えるつもりはなかった。『花園の民』が組織として大きくなるためには塚本のカリスマ性や教団への深い造詣が必要だったが、菰野乃木佳史を手に入れるという目標を達成した今、雪真にとって塚本は目障りな恋敵でしかなかった。
雪真は出入口で警備をしていた二人の部下に目配せをして、塚本を指差した。
「この女、四階の倉庫にでも閉じ込めておいて」
「は?」
怪訝な顔をした塚本の両腕を部下達が掴む。彼女は二人を交互に睨みつけた。
「離しなさい。これは命令です」
「塚本はまだ『ルライの園』の導師様気分が抜けないのかな」
雪真はくすくすと笑うと顎で部屋の外を示した。部下二人は頷き、塚本を半ば抱えるようにして外へと連れ出す。
「ちょっと、触らないで!離せッ!このっ……」
「れうじえん様は俺が一人で面倒見るから。じゃあね塚本」
手を振って彼女を見送る。ドアが完全に閉まったことを確認して、雪真は改めて眠っている菰野乃木へと向き直った。
記憶よりも短くさらさらとした赤毛を指で梳く。そして、菰野乃木の頬に手を添えると薄く開いた唇に自身の唇を重ねた。ゆっくりと舌を入れれば、菰野乃木の体がぴくりと震える。
力なく横たわる舌を掬い上げ、ちゅ、と音を立てて柔く吸う。性感は拾っているらしく、彼は喘ぐような吐息を漏らした。長い睫毛が震え、やがて右目が大きく見開かれる。
「ん……うッ……!? んっ……!」
唾液で酩酊して力が入らないのか、菰野乃木は抵抗らしい抵抗もせず弱々しく首を横に振るだけだった。
「佳史?」
雪真は目を細めて、汗の浮かんだ彼の額を撫でる。
「どうしたの?」
「……お前、は……お父さんじゃな……ッ」
言葉を紡ぎかけた唇を再び塞ぐ。逃げようとする舌を絡め取り、甘やかすようにその表面を撫でる。二人分の唾液が混ざり合い、菰野乃木の顎を伝ってぽたりと落ちた。
唇を合わせたまま服の下に手を入れると菰野乃木の体がびくりと跳ねた。
「やめろ……」
「大丈夫、怖くないよ」
菰野乃木は鉄枷を外そうと力を込めて腕を引いた。しかし普段の菰野乃木の力であれば簡単に壊れるはずのそれは、酔いが回っているせいか微動だにしなかった。
「ぐっ……」
藻掻く菰野乃木を見た雪真の口元が愉快そうに吊り上がる。
「唾液で酔っ払っちゃうことはリサーチ済みだったからね。でも本当にちょっとのキスでこんなに弱体化しちゃうんだね」
菰野乃木は眉根を寄せ、苦しげに息を吐いた。
「随分よく調べたんだな……。それで、お前の目的は何だ?御社雪真」
菰野乃木の問いに、雪真は若い頃の父と同じ顔で微笑んでみせた。
「笹倉佳史がどうやって死んだか知ってる?」
「……餓死だ。五十年かけて餓死した」
そう、と頷き雪真は目を細めた。その手が菰野乃木の首筋の傷の上を這う。
「それをね、あなたにもしてもらおうと思って。まずはあなたの四肢を切り落として、どこにも逃げられないようにする。それから五十年、死ぬまでずっと俺のそばにいてもらう……ずーっと二人っきり。すごくいいでしょ?」
「なるほど」
菰野乃木は場違いに冷静な相槌を打ち、目を閉じた。
「だが、仮に四肢を切り落とすことができても五十年間俺を隠しきるのは無理だよ」
「なぜ?伊妻冬吾が助けに来るって?」
雪真は嘲るように鼻で笑うと、菰野乃木の首に添えた指に力を込めた。
「助けに来ないよ。ここは山の中だし、場所は俺と教団の幹部数人しか知らないんだから」
ぐっと指に強く力を込めて絞めると、菰野乃木は目を閉じたまま小さく息を詰める。
「五十年かけて餓死させるんじゃなかったのか?」
「させるさ。これはただの『腹いせ』だよ。当然でしょ? 夕匕尸島のみんなはあなたのせいで死んでるんだ」
雪真の言葉に菰野乃木は少し寂しげに眉を下げた。年老いた導師の優しい笑みを思い出す。
「────俺がどうしようと……結局哉秋さんはいつか同じことをしていただろう」
「でもあそこにあなたが居れば……教会の扉を壊すことだってできたじゃないか!」
菰野乃木はゆっくりと左右に首を振った。
「俺は哉秋さんのやることをきっと止めない」
雪真は息を飲み、菰野乃木の首から手を離した。
「……俺たちが焼け死のうとしていても……止めなかったってこと?」
「ああ。それが哉秋さんの望みなら、俺は手を出さなかっただろう」
「────あなたは……悪魔だ!!」
ヒステリックに叫ぶと、雪真は部屋の隅に立てかけてあった斧を手に取った。
「二度とその手脚で人を殺せないようにしなきゃ」
「……それなら急いだ方がいいぞ、雪真」
菰野乃木は余裕ぶっているのか妙に意地の悪い笑みを浮かべた。
「もう時間がない……ほら、」
菰野乃木のその言葉とほぼ同時に地鳴りがして、床が大きく揺れた。驚いて窓の外を見ると、灰色の煙が高く上がっていた。
「……何、今の……」
「タイムリミットを知らせる音だよ。多分すぐに警察が来るから、お前は逃げた方がいい」
「逃げるもんか。俺は夕匕尸島を見捨てたあなたとは違う」
雪真はきゅっと唇を噛み、斧の柄を両手で握り締めた。
「計画とは違うけど、時間がないなら今ここであなたを殺す。首を切り落とせばさすがに死ぬでしょ?」
「確かに、さすがに死ぬかもしれないな」
菰野乃木は他人事のようにそう言って頷く。そして、少し困惑気味に眉根を寄せて俯いた。
「────なあ、雪真。俺は今初めて反省しているよ」
「……今更何?命乞い?」
「いや……俺は自分を人間らしい人間だとずっと信じていたが……驚くほどお前の怒りや激情に対して心が動かない。確かにこれでは悪魔と言われても仕方がない」
菰野乃木は無感情にそう告げ、真っ黒な右の瞳を細めて微笑んだ。
「今後は人間ではなく殺人鬼を自称するよ」
「今後なんてない。あなたはここで死ぬんだ」
雪真が斧を大きく振り被る。
その瞬間、部屋の扉が大きく開け放たれた。
同日 金垂町 菰野乃木宅
窓ガラスが割れ、踏み荒らされた自宅の惨状に伊妻は呆然としていた。床に転がっているのはおそらく閃光弾だ。五感の鋭い菰野乃木の体質を逆手にとったのならばかなり用意がいい。
夥しい量の血液が床や壁に付着していたが、菰野乃木のものではないだろうという確信があった。スタングレネードで撹乱してまで生け捕りにしたい相手にここまで大量の血を流させるわけがない。
現在最も重要な問題は、菰野乃木の居場所の特定だ。花園の民がどこを本拠地にしているのか、また菰野乃木がその本拠地に居るかどうかは定かではない。
情報屋の鷺原には一応連絡を入れたが、どんなに早くても一日はかかると言われてしまった。奇襲をかけられたせいか菰野乃木は携帯電話を置き去りにしていて、GPSも役に立ちそうにない。
────待てよ、GPSなら……。
伊妻は携帯電話を開き、位置情報の追跡アプリを起動した。
────ビンゴ。さすが佳史、ぬかりないね。
アプリを閉じると、次いで伊妻は爆弾のブローカーであるカナヤに電話をかけた。
「────もしもしカナヤさん?爆弾を一つ用意してほしいんだけど。えーとね、小規模なやつ。壁に穴を開ける程度の……そうそう。あと地味な車があったら貸して」
伊妻の愛車であるテメラリオは目立つので、カナヤが自宅前に乗り付けた黒のハイエースへと乗った。
「いやー、運転までさせてごめんね」
いつもの黒スーツにサングラス姿のカナヤは、伊妻の言葉に対し首を横に振った。
「先生にはいつも世話になってるからな。このくらい手伝うぜ」
「そーだニャー。カナヤがいつも世話になってるからなー」
シートベルトも締めず後部座席に寝転がっていたユナは、そう言って楽しそうに笑い声を上げた。
「何言ってやがる、世話になってんのは主にお前だろうが……」
「ユナくんも来るの?」
伊妻が問うと、ユナはえっへんと胸を張った。
「爆弾の設置はいつもユナの仕事ニャ」
「……じゃあ、爆発の時間指定とかできたりする?」
「楽勝ニャ!」
伊妻は持っていたメモ帳に時間を書き込むと、身を乗り出して後部座席のユナに手渡した。
「これ。この時間に爆破させてほしいんだけど」
「任せろニャー」
「それで、爆破したら俺を待たずにすぐ二人で逃げてくれる?」
伊妻の言葉にカナヤは不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ先生、アンタ帰りはどうするんだい」
伊妻はスマートフォンを操作して誰かにメッセージを送ると、カナヤに向かってにこりと微笑んでみせた。
「帰りは帰りでアテがあるんでね」
やがて車は郊外の山の中へと入っていった。獣道に近い舗装されていない地面のせいで、ひっきりなしにガタガタと車体が揺れる。
「────しかし先生、よく花園の民の本部がどこにあるのかわかったな」
「まあ、……実は猫の首輪のお陰でね」
「猫ちゃんニャ!?」
ユナが目を輝かせて後部座席から起き上がった。
「イヅマのお家は猫ちゃんがいるニャー?」
「まだこれからお迎えする予定で首輪だけ買ってたんだ。それでその首輪に迷子防止のGPSタグを付けてて……佳史は多分それをポケットかどこかに入れていたんだと思う」
「おい、建物が見えたぞ」
カナヤの言葉に前方を向くと、コンクリート壁の無機質な立方体が森の向こう側に現れた。四角い箱を山の中にただ置いただけのような、不気味な建物だ。
「GPSの位置的にここだろうね。……警備とかは特に居なさそうだけど…入口はあそこなのかな」
鉄柵の向こうに金属製の入口が見える。伊妻はスマートフォンと懐中電灯、サバイバルナイフを一本だけ持って車から降りると正面の入口へと向かった。
「……鍵かかってるな。うーん、他に入口……」
鉄柵は乗り越えられたが、さすがにドアは押しても引いても開かなかった。適当な窓を探そうと扉から離れた途端に、勢いよくそのドアが開かれた。
「あなた、伊妻冬吾ね!早く来て!」
ナイフを振りかぶったままの姿勢で伊妻は目を丸くした。現れた女は白い法衣を着ていたが、割れて曲がった眼鏡を掛け、腕からは血を流していた。
「……アンタは何?」
「名前くらいは知ってるでしょ、塚本よ。いいから早く来て、菰野乃木様のところに案内するから」
伊妻はナイフを下ろし、塚本の後に続いた。
「ねえ、なんで怪我してんの?」
「閉じ込められた部屋のドアを体当たりで破った後に外にいた部下二人とパイプ椅子で乱闘したから。これで満足?」
塚本はカツカツと白いエナメルのパンプスを鳴らしながら早足で廊下を進んでいく。彼女は突き当たりのエレベーターのボタンを押し、伊妻と共に中に乗った。
「私が甘かったわ。御社はルライの園の再興なんて望んでない。あの男は菰野乃木様を自分のものにしたかっただけ」
「……それでアンタはどうして俺に手を貸すわけ?」
「多分御社は菰野乃木様を監禁して死ぬまで外に出さないつもりだと想う。────それは私だって望まないから」
「俺と佳史が一緒にいた方がマシってこと?」
「マシだとは思わないけど、……今私が頼れるのあなただけなのよ」
塚本は言いながら懐からグロックを取り出し、グリップを伊妻の方に向けた。
「銃は撃てる?」
「いや、撃ったことない。アンタが使えば?」
「さっき右腕が折れたから無理よ。私の体格では片手で銃は撃てない」
「うーん、俺はナイフを持ってきたからそれでいいよ」
塚本は溜息をついて銃を懐にしまい直した。エレベーターは七階で止まり、扉が開いた。廊下にいた数人の男がこちらを向いた。
「塚本様!?お怪我を……」
「平気よ。御社様はどこ?」
「まだお部屋から出てきておられません」
「そう、あなた達は────」
塚本の言葉を遮るように巨大な爆破音が響き、建物が揺れた。
塚本は目を細めて伊妻を睨む。
「……ちょっと、あなた……?」
「いやあ、別に?……ああ、でも彼らに見に行ってもらった方がいいんじゃない?」
悪びれずにそう言って視線を逸らす伊妻を見て塚本は何か言いたげに口を動かしたが、やがて諦めたのか溜息をついて眼鏡のフレームを指で押し上げた。
「……あなた達二人は一階に降りて何が起きたか様子を見に行って。そっちの三人も一階入口の確認を」
「わかりました」
「すぐ向かいます」
七階の警備に当たっていた男たちを皆追い払うと、塚本は正面にある金属の引き戸を左手で勢いよく開いた。
同日 二十三時 『花園の民』本部
扉を開けた伊妻と塚本の目に入ったのは、今まさに菰野乃木の首に斧を振り下ろそうとする御社雪真の姿だった。伊妻が全力で走っても間に合わないことを悟った塚本は、グロックを取り出して左手で構え、躊躇いなく引き金を引いた。
放たれた弾は雪真の腰を掠め、その奥の壁を貫いた。雪真の体がよろめいた瞬間に伊妻はベッドに駆け寄り、その手から斧を奪う。
「塚本さん、無事!?」
「ええ、左腕もイッたけど何とかね」
塚本は両腕をだらりと投げ出したまま尻餅をついていた。
「手枷の解錠は御社の持ってる鍵でできるわ」
伊妻は腰から血を流して倒れている雪真に近寄ると、ズボンのベルトから数種類の鍵がついたキーケースを抜き取った。
「……伊妻冬吾……」
雪真は額に脂汗を浮かべながら歯軋りをしている。伊妻は冷ややかに雪真を一瞥しただけで、すぐに菰野乃木の拘束されているベッドに駆け寄った。
「佳史!怪我ない?大丈夫?」
「ああ。手間をかけたな」
まず両腕の枷を外し、次いで足首も錠の鍵を開けて解放する。起き上がろうとした菰野乃木は力が入らないのかふらついて伊妻にもたれかかった。
「悪い、目眩がして」
「俺の肩に掴まって起き上がれる?こんな時にお姫様抱っこでもできたらかっこいいんだけど」
「お前はいつでも最高にかっこいいよ」
菰野乃木は苦笑しつつ、伊妻の肩を借りて体を起こした。ゆっくりと立ち上がり、ベッド脇に落ちていた斧を拾ってまだ倒れている雪真の前まで歩いていった。
「────雪真、どっちがいい?」
菰野乃木は無表情でそう言って、手に持っている斧を雪真に見せた。建物の外からはパトカーのサイレンが聞こえてくる。爆破による煙を見て、警察が駆けつけたのだろう。
「今ここで俺に殺されるのと、生きて警察に捕まるのと────どっちがいい?」
雪真は血の滲む傷口を手で押さえながら、菰野乃木の顔とその手にある斧を見比べた。そして目に涙を浮かべたまま口角を上げ、引き攣ったような笑みを浮かべた。
「じゃあ、あなたの手で殺してよ。俺は夕匕尸島のみんなのところに行きたい」
「────そうか」
菰野乃木は右目をそっと伏せると、雪真に向かって斧の切っ先を向けた。
「それなら、殺さない」
「────は?」
菰野乃木は斧を部屋の隅に放り投げると、雪真の頭を掌でがしがしと撫でた。
「頑張れ雪真。出所して俺を殺しに来たら、その時はまた遊んでやる」
「────悪魔だ。あなたは悪魔だ……!」
雪真は腹を押さえたまま蹲り、幼い子どものようにぐずぐずと泣きじゃくり始めた。
警察と救急車が到着するまで、菰野乃木はその細い背中をあやすように撫で続けていた。
「ま〜じで有り得ねえぜ。警察をタクシー代わりに使いやがるとはな」
都は散々悪態をつきながら菰野乃木の自宅へと車を走らせていた。
「だいたい俺はもう梔子署勤務じゃねえんだぞ。理由つけてあそこに行くのがどれだけ大変だったか……」
「感謝してるって、都警視正殿」
「すまないな、都警視正殿」
揶揄うような伊妻と菰野乃木の口調に都は顔を顰める。「……それより、その女はルライの幹部だろ?連れて帰ってどうするつもりだ?」
後部座席の菰野乃木に寄りかかるようにして眠る塚本を一瞥し、都は溜息をつく。助手席の伊妻は同じく塚本の寝顔を見やり、苦笑した。
「まあ、一応『戦友』ってことで……腕の治療でもしてあげようかと思ってね」
「ふうん、丸くなったなあ手前も。……まあ、こっちとしては主犯の御社雪真が逮捕できたからそれで十分だが」
御社雪真を初め花園の民のメンバーはあの建物の地下で人体実験を行っており、薬物漬けで廃人になった信徒、そして放置されている死体が複数見つかった。警察は花園の民のメンバーを一斉検挙し、署に連行した。
菰野乃木は雪真を殺さなかったが、伊妻からしてみればかなり意外な選択だった。それは情が動いたというより、菰野乃木が嫌がらせとして雪真を生かしたように見えたからだ。
「佳史は御社雪真のこと、結構好きなのかと思ってたよ」
「好きだよ────散々苦労して反省して、自分で自分の幸せを勝ち取ってほしいと思っているくらいにはな」
悪戯っぽい口調でそう言って菰野乃木は口元を緩める。
伊妻と都は目を丸くして、互いに顔を見合せた。
「……菰野乃木の奴、性格の悪さがお前に似てきたんじゃねえか」
「……否定はできないね」
四月二日 金垂町 菰野乃木宅
菰野乃木はキーボードを叩く指を止め、ふうっと大きく深呼吸をした。壁にかかった時計は午後二時を指している。
「……休憩するか」
そう呟いた途端に、タイミングを見計らったようにドアをざりざりと引っ掻く音がする。菰野乃木が部屋のドアを開けると三毛猫のウルフがにゃあ、と鳴いた。次いで、ドタバタと階段を駆け上がってくる音がする。
「ごめんなさい佳史さん!止めたんですけど全然言うこと聞かなくて!ウルフ、お仕事の邪魔しないの!」
塚本の腕に抱かれ、ウルフは不服そうにニィニィと鳴く。
「いや、今から丁度休憩しようと思っていたところだ。俺も一階に降りるよ。……深景、珈琲淹れたら飲むか?」
「ぜひいただきます!ほらウルフ、一階に降りるよ〜」
一階では、伊妻がソファに寝転がってぼんやりと天井を見ていた。
「あーだるい、疲れた……なんで俺は無職なのに忙殺されなきゃいけないわけ?」
「闇医者だからじゃないか」
「闇医者だからじゃないの?」
菰野乃木と塚本が同時にそう言うと伊妻は面倒臭そうに顔を顰めた。
「闇医者なら正規の医者より暇だと思ってたのになあ」
「私、看護師免許持ってるから多少なら手伝えるわよ」
塚本はウルフを床にそっと降ろした。待っていましたとばかりにウルフは菰野乃木の脚に擦り寄る。
「……マジで?なんでもっと早く言ってくれなかったの?お前今日から採用だから」
「働きに見合ったお給料をちゃんとちょうだいね」
「居候のくせにやけに偉そうだな……」
伊妻と塚本が軽口を叩き合うのを横目に、菰野乃木はキッチンに立った。キャニスターから珈琲豆を掬い、手挽きのミルへと入れる。豆は伊妻がカナヤにオススメされたという「喫茶やましぎ」のエチオピアモカの深煎りだ。店主の話では深いコクと苦味が楽しめる……らしい。
熱の発生を抑えつつ均等な粒になるように、ゆっくりと一定のリズムでハンドルを回しながら豆を挽く。
菰野乃木は珈琲を飲むことができないが、豆を挽く時の香りは大好きだ。ほろ苦く香ばしい香りを嗅いでいると、人の血肉を前にした時とはまた違う穏やかな気持ちになる。
人を沢山殺しておいて穏やかな気持ちになるなんて間違っている、と雪真なら言うだろう。菰野乃木はその考えを否定するつもりはない。
だが自分は人間ではなく殺人鬼なのだから、人の理とは違う世界で今後も幸せに暮らしていくつもりだ。
春の陽気の降り注ぐリビングで、菰野乃木は一人小さく微笑んだ。
(終)